落語「悋気の独楽」の舞台を行く
   

 

 春風亭小朝の噺、「悋気の独楽」(りんきのこま)


 

 旦那は上野鈴本の寄席を聞きに行くと出掛けた。

 おかみさんはヤキモチ焼きで、旦那が寄席には行かず、女の所に行くであろうと、小僧の定吉を尾行に付けた。途中で旦那に見付かり、帰れと言っていたが気が付くと、もう女の家に着いてしまっていた。

 やむを得ず定吉をお妾さんに合わせ、手持ちが無かったのでお妾さんに小遣いを作らせ渡した。これで買収成功。おまんじゅうをもらって、そこに有った独楽(こま)を見つけて所望すると「これは辻占の独楽と言って、旦那の独楽を回し、私の独楽と奥様の独楽を回すと、どちらかにぶつかる。ぶつかった方にお泊まりになる。よかったら奥にも有るのでお持ちなさい」。

 定吉はお土産をもらって喜んで、引き揚げてきた。

 戸を叩いても誰も出てきてくれない。「だんなのお帰り」と大声で叫んで騙し、開けてもらったが、奥でおかみさんがお待ちだという。
 怖い顔をして待っていた。
 店を出たが、旦那の足が速くて見失ってしまった。と言いつくろったが、もらった小遣いを落としおかみさんに見付かってしまった。「お前がウソを付くだろうと思って、その後からお清を付けさせたのを知らなかっただろう」。驚いた定吉。全てを白状したら「クヤシイね。そうだったのかい」、「!?」、「お清はウソだよ」、「あら、みんなしゃべってしまった」。
 「ところで、旦那はお泊まりなるのかい、それともお帰りになるのかい」、「それでしたら、良い物があるんです。この独楽なんです。辻占の独楽と言って昔、花柳界で流行ったんです。この黒い独楽は旦那の独楽、赤いのがお妾さん、地味な色の独楽がおかみさんのです。三つ回して旦那の独楽がお妾さんの独楽に着くとお泊まりで、おかみさんの独楽に着くとお帰りになるんです」。
 「わかった、回してご覧」、「おかみさんの望み通りにならなくても知りませんよ。三つ回しましたよ。おかみさんの独楽が旦那に近づいた、旦那が逃げる、おかみさんが追いかける、旦那が逃げる。コッツン、今晩はお泊まりです」。「クヤシイね。もういっぺんやってごらん」、「はい、分かりましたよ。旦那さんおかみさんが怒っていますから今度はお願いしますよ。おかみさんの独楽は旦那の独楽のソバに置きますよ。おかみさんが寄っていった、旦那が逃げる、おかみさんが追う、旦那が逃げる逃げる・・・、コッツン、お泊まりです」、「定吉。いっぺん独楽を調べてごらん」、「あッ!イケマセンよ。肝心の心棒が狂っています」。

 



ことば

独楽(こま);子供の玩具。円い木製の胴に心棒(軸)を貫き、これを中心として回転させるもの。種類が多い。多く、正月の遊びの具とする。下記に写真二列も広辞苑による。  

 

 相川ごま・新潟   無精ごま・沖縄石垣島  江戸ごま・東京  神代ゴマ・宮崎   雷ゴマ・宮崎

麦わらごま・兵庫     鳴りごま・宮崎    大山ごま・神奈川    皿ずぐり(皿ごま)・青森

無精ごま;普通は軸を持たず、円筒形の胴体の下が逆円錐に削られた姿で、立てておいて、簡単な鞭のようなもので胴体を叩いて回転させる。別名を無精ごまとも言う。叩かないと動かないとの意である。

雷ごま、鳴りごま;胴が内部に空洞を持ち、胴の側面に穴が開いていれば、独楽を回転させたときに音が出るようにすることができる。ビンの口を吹くのと同じである。

逆立ちゴマでは、回転するにつれて独楽の回転軸がずれ、次第に底面が上を向き、最後には軸先端を下にして回り始める。回転が止まると再び底を下に向けて安定する。

広井政明氏の制作江戸ごま。ユーモアに溢れたアイデアが独楽に生かされている。

大山独楽

 神奈川県の大山は独楽の名産地。大山の山道の土産物屋には種々の独楽が並んでいます。

 

お妾さん
 関西では「お手掛さん」、関東では「お目掛さん」、どちらも同じ事ですが、手を掛けるのと目を掛けるのでは、ちょっとニアンスが違います。どちらがイイのでしょうか。
 また、「二号さん」、関西では「こなからさん」という呼称があった。こなからさんとは、半と書いて「なから」と読みます。その半分「こなから」で、一升の半分の半分、つまり二合半、二号はんです。

 桂庵というシステムがあって、色々な奉公先を世話していた。
桂庵;(けいあん=口入屋=私設職業紹介所) 当時の求人には、武家の下級武士や下働き、商家、職人の下働きと男女の差も無く、多くの求人があった。また季節労働者として農閑期を利用して信濃方面からの出稼ぎを”椋鳥(ムクドリ)”と称した。通常の就職先はコネや紹介があって初めて成り立ったが、それらの無い者は口入屋で寝泊まりして求人先を待った。そのため口入屋のことを人宿(ひとやど)と呼んだ。口入屋では奉公人の身元保証人になって斡旋し、その代償として最初の給金の1割程度、主人と奉公人の両方から受け取った。期間も1年、半年、月、日雇いなど、いろいろあった。
 女性求職者で武家への求職が特に人気があった。町方の娘は武家に入って給金をもらうのは当然として、それより行儀見習いを習得し、良縁を期待して親たちが特に勧めた。このため武家側が強気になって、三味線、小唄、踊りなどの歌舞音曲が出来る娘を優先した。そのため親たちはこぞって7~8歳になると娘を手習いに出した。その結果江戸の街には遊芸を教える師匠が沢山出来た。良縁願望→武家奉公希望者増大→歌舞音曲師匠の増大→江戸の邦楽の発展に大いに寄与した。

 出稼ぎや、奉公、武家への求職は当然であったが、その他にも大名行列の行列要員、妾等の求人もあった。


 囲い者は妾のことで、囲い者にも上・中・下があった。
 まず、中級の囲い者の住居は、表通りからはいった新道の仕舞屋である。
 玄関は格子戸で、竹の簾を半分巻き上げている。格子戸の内側には数種の盆栽が置かれていた。
 部屋の壁には掛け軸が一幅掛けられ、その横に二丁の三味線がつるされていて、ひとつは袋にはいっているが、もうひとつはむき出しだった。
 長火鉢では鉄瓶が白い湯気をあげている。
 寝間には枕元近くに鏡台を置き、化粧道具や髪飾りが並んでいた。
 住んでいるのは囲い者のほかに、婆やと下女、それに雌猫で、女ばかりの暮らしである。そこに、時々、旦那がやってくる。

 上級の囲い者の住まいともなると、敷地は黒板塀で囲われていて、門はいつも閉ざされている。
 庭には竹が数本植えられ、苔むした石が配されていた。松の木の下には石灯籠が置かれ、茶室もある。
 女中や下女など奉公人の数も多い。
 しばしば道具屋が出入りし、時には馴染みの幇間が話をしに来る。
 年老いた旦那は妾宅に来ても、囲い者に河東節を歌わせたり、春本をながめたりしているだけで、房事はほとんどない。いわば、若い女を飼い殺しにしているようなものである。
 こうした妾宅では、旦那の一カ月の出費は二十五両にもなった。
 
 下級の囲い者では、別宅に住まわせることなどできないため、旦那が女の家に通ってくる。
 二階建ての家で、囲い者は二階に住み、両親は階下に住んでいた。
 旦那は二階で、囲い者との房事を楽しむわけである。

 さらにランクが下がった囲い者に、安囲いがあった。
 男が五人くらいで、共同でひとりの女を囲うのである。五人の割り勘だから、安くついた。
 五人の男はスケジュールを立て、鉢合わせしないように女のもとに通う。
 (寺門静軒著『江戸繁昌記』より)

 当時、妾(囲い者)は女の職業で、妾奉公と呼んだ。 口入屋が斡旋し、きちんと契約書も取り交わす。
 料金は二カ月契約で、高い場合は五両、安い場合で二両くらいだった。
 もちろん、口入屋が手数料を取るので、女の手元にはいる金額は五両や二両ではない。
(永井義男の「江戸の醜聞愚行」・第267話 囲い者の上中下より)

 もう一つ囲い者の話、
 明和・安永(1764~81)のころ、江戸で小便組という一種の詐欺が流行した。
 若くて美貌の女が、妾奉公を望んでいる。たまたま、妾を囲いたいと願っていた大店の主人などは、女をひと目見るや、その容色に迷い、高額の前金を出して、契約を結ぶ。
 別宅を借り受け、同衾を始める。ところが、女には思いがけない悪癖があった。なんと、毎晩、寝小便をするのだ。旦那も、これには閉口する。
 「これは、あたくしの病でございます。しないようにしようとしているのですが、どうしても治りません」。
 妾がさめざめと泣きながら謝ると、旦那としても叱ったり、責めたりもできなかった。病気とあれば、仕方がない。
 けっきょく、旦那は暇を出す。旦那の側からの契約破棄だし、同情もあるため、前金で渡した金を返せとはいいにくい。数年契約だったはずが、ほんの半月や、数日で終わってしまい、金は戻らない。旦那としては大損である。暇を出された女は素知らぬ顔をして、別な奉公口をさがす。
 もちろん、先方から暇を出させるよう、わざと寝小便をしていたのだ。
 この詐欺は小便組と呼ばれて評判になり、あちこちで真似をする女が続出した。引っかかる男も、あとを絶たなかった。
 
 ある旦那が妾を囲ったところ、寝小便の癖がある。「ははん、例の小便組だったか」と、自分がだまされたことを知った。それにしても、このまま暇を出して、みすみす金を失うのは悔しい。そこで、旦那はひそかに医者に相談し、一計を案じた。旦那が妾に言った。
「おまえの病気が不憫でならぬ。どうにかして治してやりたい。きょうは、名医をお呼びした」
 やおら、医者が登場する。
「寝小便を治すツボがありましてな。そこに灸をすえれば、いっぺんに治りますぞ」
 妾は思いがけない展開に内心狼狽したが、いまさら逃げも隠れもできない。やむなく、灸の療治を受けることになった。医者は妾の下腹部をあらわにし、そこに、モグサを鶏卵の大きさほど盛りあげ、火をつけた。
 火がじわじわと下におりていく。まさに、炎熱地獄である。妾もその苦悶に耐えられず、
「熱い、熱い、これでは焼け死んでしまいます。勘弁してください」
と、許しを乞い、その日から、寝小便はピタリとやんだ。
 この対応策がぱっと広まり、あちこちで、旦那は妾が寝小便をすると下腹部に巨大な灸をすえるようになった。
 以来、さしもの猖獗(しょうけつ=わるいものの勢いの盛んなこと。)を極めた小便組もピタリと終息した。
 (小宮山楓軒著『楓軒偶記』より) 著者の小宮山楓軒は水戸藩士で、儒学者。

 江戸時代、妾奉公ということばがあったくらいで、妾はあくまで奉公だった。女の職業のひとつといってもよかった。将軍や大名、大身の旗本などの側室とは根本的に違う。彼らは、家を絶やさないように、男の子をもうけるのが主目的で、奥様に子供が出来ても生存率の低い時代スペアーは必要であった。
 さて、相応に金もあり、妾を囲いたいと思う大店の主人などは、口入屋に頼んで妾を紹介してもらった。口入屋は、いわば人材斡旋業である。口入屋が介在するだけに、きちんと年季と給金をきめ、証文を取り交わした。
 世話焼き婆さんが個人的に妾を紹介することもあったが、その場合でもきちんと証文を取り交わし、婆さんはちゃんと手数料を取った。
 契約がまとまると、小粋な別宅を借りて妾を住まわせ、旦那はそこにかよった。小便組は、こういう契約を逆手に取っていたわけである。

 現代、別宅に住まわせ、生活費などを負担してやる女性をなんと呼ぶのだろうか。さすがに「妾」は古い。一時、「二号さん」、という呼称がはやったが、これも古くなったようだ。結局、「愛人」でしょうか。
 ところで、現在、愛人ときちんと契約書を取り交わす男はいないであろう。そうすると、江戸時代の妾奉公のほうがはるかに合理的で、人権も保障されていたことになりはすまいか。
(第32話 小便組を退治より)
 永井義男の「江戸の醜聞愚行」より http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai4/nagai00.html



 

                                                           2014年12月記

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