落語「二十四孝」の舞台を行く
   

 

 古今亭志ん朝の噺、「二十四孝」(にじゅうしこう)


 

 大家が呼んでいる。36軒長家があるがお前の所だけだぞウルサいのは。3日とあげず喧嘩している。
 「今朝も暴れたんだって」、「その理由は魚金がアジを13匹置いて行った。風呂から帰るとその魚がない。カカアと婆に聞いたら『知らないよ』と言うので外に出ると、屋根の上で隣の猫があぐらをかいてアジを食べていた。隣の家に大声で文句を言うと『止めてくれ』と言う。でも、13匹もいっぺんに持って行けない、13回も盗みに来ている。それを見ているお前らがいけないと、殴った。そしたら婆が出てきて嫁を打つぐらいだったら、私を打てと言うので」、「まさか殴りはしないだろう」、「だから蹴飛ばした」。
 「婆と先程から言っているが・・・」、「古からいるんだ。亡くなった親爺のカミさんなんだ」、「それだったら、お前のおっ母さんじゃないか」、「そーいうことになりますか」、「そんな分からないやつには長屋を貸しておけない。店(たな)空けろッ」、「そんな無理なことを」、と高飛車に出たが、「これでも若いころには自身番に勤めて、乱暴者は扱い慣れているんだ」、「それでは、謝って置いてもらおうかな」と降参。
 「ぜんてェ、てめえは、親父が食う道は教えても人間の道を教えねえから、こんなベラボウができあがっちまったんだ。『孝行のしたい時には親はなし』ぐらいのことは知ってそうなもんだ。昔は青ざし五貫文といって、親孝行すると、ごほうびがいただけたもんだ」、「親孝行をすると、儲かるんですか」。

 そこで大家さん、昔、唐国に二十四孝というものがあって、と、故事を引いて講釈を始めた。

 例えば、秦の王祥(おうしょう)は、義理の母親が寒中に鯉(こい)が食べたいと言ったが、貧乏暮らしで買う金がない。そこで氷の張った裏の沼に出かけ、着物を脱いで氷の上に突っ伏したところ、体の温かみで氷が溶け、穴があいて鯉が二、三匹跳ねだした。
 「間抜けじゃねえか。氷が溶けたら、そいつの方が沼に落っこちて往生(=王祥)だ」、

「てめえのような親不孝ものなら命を落としたろうが、王祥は親孝行。その威徳を天が感じて落っこちなかった」。

 もう一つ、「孟宗(もうそう)という方も親孝行で、寒中におっかさんが筍(たけのこ)を食べたいとおっしゃった」、「唐国の婆あってものは食い意地が張ってるね。めんどう見きれねえから踏み殺せ」、
「何を言ってるんだ」。
 孟宗、鍬を担いで裏山へ。冬でも雪が積もっていて、筍などない。一人の親へ孝行ができないと泣いていると、足元の雪が盛り上がり、地面からぬっと筍が二本でた。その威徳を天が感じて筍が生えた。

 また、呉孟(ごもう)という人は、若年なのに父親が蚊に食われないように、自分の体に酒を塗って蚊を引きつけようとしたが、その孝心にまた天が感じ、まったく蚊が寄りつかなかった。
「俺だったら、二階の壁に酒を吹きかけるね。家中の蚊が二階に上がるよ、そしたらハシゴを外しちゃうね」。

 大家の言うことが通じたか、
 感心した親不孝男、さっそくまねしようと家に帰ったが、母親は鯉は嫌いだし、筍は歯がなくてかめないというので、それなら一つ蚊でやっつけようと、酒を買った。
 ところが、体に塗るのはもったいねえとグビリグビリやってしまい、とうとう酔いつぶれてしまった。

 朝起きると蚊の食った跡がないので、喜んで「親孝行の徳だ。婆さん見ねえ。天が感ずった」、
「当たり前さ。あたしが夜っぴて(一晩中)扇いでいたんだ」。

 



 ある人が、イヌを二匹飼っていた。一匹は猟犬として訓練し、一匹は家の番をするように仕込
んだ。男は猟を終えて家に帰ってくると、いつも番犬の方に獲物をたくさん与えた。猟犬は、憤
懣やるかたなく、番犬を咎めだてた。
「お前は、猟の手伝いもしないくせに、俺の獲物を貪り食う」
 すると、番犬はこう答えた。
「私を非難するのはお門違いですよ。文句を言うならご主人様に言って下さいな。だって、ご主
人様は、私に働くことを教えずに、他人のあがりで暮らすように躾たのですからね」。
 
  親の躾が悪かった場合、子供に責任はない。 イソップ

 

ことば
二十四孝』(にじゅうしこう);中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた書物である。元代郭居敬が編纂した。儒教の考えを重んじた歴代中国王朝は、孝行を特に重要な徳目とした。ここに紹介された中には、四字熟語や、関連する物品の名前として一般化した物もある。日本にも伝来し、仏閣等の建築物に人物図などが描かれている。また、御伽草子や寺子屋の教材にも採られている。孝行譚自体は数多く、ここに採られたものだけが賞されたわけではない。

・王祥(おうしょう)は母を亡くした。父は後妻をもらい、王祥は継母からひどい扱いを受けたが恨みに思わず、継母にも大変孝行をした。実母が健在の折、冬の極寒の際に魚が食べたいと言い、王祥は河に行った。しかし、河は氷に覆われ魚はどこにも見えなかった。悲しみのあまり、衣服を脱ぎ氷の上に伏していると、氷が少し融けて魚が2匹出て来た。早速獲って帰って母に与えた。この孝行のためか、王祥が伏した所には毎年、人が伏せた形の氷が出るという。右図。王祥(歌川国芳『二十四孝童子鑑』)

・老莱子(ろうらいし)は、両親に仕えた人である。老莱子が70歳になっても、身体に派手な着物を着て、子供の格好になって遊び、子供のように愚かな振る舞いをし、また親のために食事を運ぶ時もわざと転んで子供が泣くように泣いた。これは、老莱子が70歳の年寄りになって若く美しくないところを見せると、息子もこんな歳になったのかと親が悲しむのを避け、また親自身が年寄りになったと悲しまないように、こんな振る舞いをしたのである。

・黄香(こうこう)は母を亡くし、残された父によく仕えた。夏の暑い時には枕や椅子を団扇で扇いで冷やし、冬の寒い時には布団が冷たいのを心配し、自分の身体で暖めた。これを知った安陵の太守劉讙(又は劉護)は、高札を立てて黄香の孝行を褒め称えた。

孟宗(もうそう)は、幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていた。病気になった母は、あれやこれやと食べ物を欲しがった。ある冬に筍が食べたいと言った。孟宗は竹林に行ったが、冬に筍があるはずもない。孟宗は涙ながらに天に祈りながら雪を掘っていた。すると、あっと言う間に雪が融け、土の中から筍が沢山出て来た。孟宗は大変喜び、筍を採って帰り、熱い汁物を作って母に与えると、たちまち病も癒えて天寿を全うした。これも深い孝行の思いが天に通じたのであろう。
右図;孟宗(歌川国芳『二十四孝童子鑑』)

・呉猛(ごもう)は8歳であったが、家は貧しく、蚊帳を買う金もなかった。呉猛は考え、自分の着物を親に着せ、自分は裸になって蚊に刺された。それを毎日続けると、蚊も呉猛だけを刺し、親を刺すことはなくなったと言う。

・郭巨(かくきょ)の家は貧しかったが、母と妻を養っていた。妻に子供が産まれ、3歳になった。郭巨の母は孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えていた。郭巨が妻に言うには「我が家は貧しく母の食事さえも足りないのに、孫に分けていてはとても無理だ。夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。ここはこの子を埋めて母を養おう」と。妻は悲嘆に暮れたが、夫の命には従う他なく、3歳の子を連れて埋めに行く。郭巨が涙を流しながら地面を少し掘ると、黄金の釜(黄金の塊)が出て、その釜に文字が書いてあった。「孝行な郭巨に天からこれを与える。他人は盗ってはいけない」と。郭巨と妻は黄金の釜を頂き喜び、子供と一緒に家に帰って、さらに母に孝行を尽くした。
ウイキペディアより

 乱暴者が言う「唐国の婆あってものは食い意地が張ってるね」。と言っていますが、福沢諭吉も学問のすすめで同じ事を言っています。

 『古来和漢にて孝行を勧めたる話は甚だ多く、廿四孝を始として、その外の著述書もかぞうるにいとまあらず。然るにこの書を見れば、十に八、九は人間に出来難き事を勧るか、又は愚にして笑うべき事を説くか、甚しきは理にそむきたる事を誉めて孝行とするものあり。寒中に裸体にて氷の上に臥し、その徳を待たんとするも人間に出来ざることなり。夏の夜に自分の身に酒をそそぎて蚊に喰われ、親に近づく蚊を防ぐより、その酒の代を以て紙帳(しちよう)を買うこそ智者ならずや。父母を養うべき働もなく、途方に暮れて罪もなき子を生きながら穴に埋めんとするその心は、鬼とも云うべし蛇とも云うべし。天理人情を害するの極度と云うべし。最前は不孝に三ありとて、子を生まざるをさえ大不孝と云いながら、今こゝには既に生れたる子を穴に埋めて後を絶たんとせり。いずれを以て孝行とするか、前後不都合なる妄説ならずや。この孝行の説も、親子の名をただし、上下の分をあきらかにせんとして、無理に子を責るものならん』。

 

店空け(たなあけ);長屋の住まいを明け渡すこと。大家(差配)は地主(家持ち)から全面的に管理を委託されている。大家の一存で借家人の選定から退去まで出来た。噺にもあるように店請証文が入っているので反論のしようが無い。長屋の住人に無理難題を言うのでは無く、裁判沙汰になれば加勢をし、役所からの書類受け付けや家族が増えれば祝い、人別帳管理の帳面に付けて奉行所に提出したりする。旅に出るには大家の一筆が必要で、行政的な作業は大家が代行した。その為、店子は大家に頭が上がらず「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」と言われた。その大家が「店空けろ」と言ったら平身低頭許しを請うか、泣きながら出て行くしかなかった。そのぐらい大家は力があった。

孝行糖(こうこうとう); 落語「孝行糖」の演目。親孝行で奉行所から表彰された主人公の飴売りの売り声は、二十四孝のエピソードにちなんだものです。

ベラボウ;人をののしりあざける時に言う語。ばか。たわけ。あほう。べらぼうめ。

青ざし五貫文(あおざしごかんもん);五貫文とは江戸中期以後1両と交換出来る銭の価値。1000文=1貫文。銭は中央に穴が空いていたので、”さし”で通して1貫文としていた。さしは麦わらで作られ、新しいものは青ざしと言われたが、金銭の価値には変わらない。

自身番(じしんばん);江戸時代、江戸市中警戒のために各町内に設けた番所。地主ら自身が、後には家主たちが交替でここに詰め、町内の出来事を処理した。自身番の使用した小屋は自身番屋・番屋などと呼ばれた。
右写真;「自身番」消防博物館蔵。 町内の入口に町の資力で建てられた。ここで行政の事務や、火消し、夜警の見回り、捕縛した者の取り調べなどをした。暮れの夜警で、猪鍋を熱燗で突くのは御法度です(落語「二番煎じ
)。木戸番とは全く違うものです。



                                                            2014年12月記

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