落語「質屋蔵」の舞台を行く
   

 

 桂歌丸の噺、「質屋蔵」(しちやぐら)より


 

 質屋の番頭さんが旦那に呼び出された。三番蔵に夜な夜な化け物が出ると町で噂が出ているので、その真偽を確かめてもらいたいと言われた。が、番頭さん、大の恐がりやで化け物と聞いただけで、辞めると言い出した。
 旦那の思うところ、質草に気が残っているので、それが夜な夜な出てくるのであろうから、蔵に入って確認して欲しいと言う。質草は例えば、長屋のかみさんが帯が欲しくても亭主は買ってくれないので、おかず代や酒代を倹約し、残りを竹づっぽの中に入れてわずかながらでもヘソクリをした中からやっと買っている。その帯を、わずかながらの金の工面が出来ずに、あの三番蔵に入っていると思う。請け出せないか、運悪く流してしまったら、質屋に恨みが向く。その気が三番蔵で渦巻いていると思う。
 番頭一人で蔵に入れないので、普段背中の彫り物の自慢をしている出入りの熊五郎と二人で入ることにし、定吉に迎えに行かせることにした。定吉、開口一番「蔵のことですか?」 どうやら立ち聞きをしていた様子。旦那は普段からおしゃべりな定吉にきつく口止めをして、熊さんに早く来るように使いに出した。

 小言ばかり言われているので、ここで少しは憂さ晴らしをすることにした。
 「熊さんこんにちは、旦那が早く来いと言っています」、「後で行くよ」、「早く来ないと店しくじるよ」。支度をして二人で出がけた。「怒っているのか?」、「カンカンになって怒っているよ」、「何を怒っているんだ」、「言うなと言われている」、「足元見ているな。お前の好きなもの買ってあげるから・・・」、「芋羊羹が欲しい」、「有ったらな」、「後ろにあるよ。小さいので無く一番大きな方3本。普段世話になっている岩どんに一本、あたいが1本、残りの1本は皆で食べるんだ」、「お前は他人の懐で義理しなくて良いんだよ。話は何だ」、「長屋のおかみさんが帯買ったんだって、おかず何とかしたんだって、それからお酒も何とかしたんだって、それから竹づっぽに入れて・・・、それでお終い。早く来てね。さようなら」、「あ~~、タダ芋羊羹取られてしまった」。

 熊さんは定吉の言った「酒」・「おかず」というキーワードに何か引っかかるものがあったらしく、先に謝ってしまおうと心に決めた。遅く来た熊五郎を叱ろうと思ったが、熊さんが先に謝りだした。
 「旦那、酒のことでございましょ。決して悪気が有ってやったことではないんです。先日旦那の所で法事があって台所に回ったら片口に酒がなみなみと入っている。お清さんに聞いたら燗冷ましだから、使い道が無い。勿体ないと思って貰ってきたが、バカに美味い。2日ばかりしたら、蔵を片づけるからと呼ばれて行ってみたらコモ被りが3樽ある。贅沢だなと思ったが、古くなったら味も落ちるので、落ちないうちにと大八車を持ってきて一樽持って帰った。決して悪気があってやったことではないんです」、「熊さんかい、アレ持って行ってしまったのは。未だ探しているよ」、「酒のことでは無いんですか。では沢庵のことですな」。
 「これも、決して悪気が有ってやったことではないんです。まあまァ、聞いて下さい。こないだ、お勝手でお清さんがどうもこの辺が片付かないとぼやいているので、私がすっかり片付けてあげた。すると、お礼に今夜のおかずにでもと沢庵を3本、荒縄で絡げて渡してくれた。持って帰って食べてみると、これが普段のよりバカうま。こういう美味い沢庵なら他におかずはいらないと、3日ばかりで平らげてしまった。 また食べたいなと思っていると、物置を片づけるからと呼ばれ、入ってみると沢庵の樽がズ~ッと並んでいる。その中から13樽を大八車に乗せて帰ってきた。旦那、決して悪気が有ってやったことではないんです。ご勘弁の程を・・・」、「あの樽も熊さんかい。未だ探している最中ですよ」。
 「熊さん、今日来てもらったのは沢庵の事では無いんだ」、「では、味噌のことですか」、「熊さん、いろいろあるんだね。他でやったら手が後ろに回りますよ」、「他ではやらない。旦那の所だけと決めている」。

 話はそんな事では無いし、話の前に聞いておきたいことがあると、「熊さん、強いんだってね」、「強い? ・・・自分で言うのも何ですが、自慢じゃ無いが右腕には昇り龍、左腕には下り龍・・・」、彫り物自慢を始める熊さん。 そこで、「早速、三番蔵に化け物が出ると言うので、その真偽を確認して欲しいんだが・・・」。すると、途端に熊さんの態度ががらっと変わってしまった。そう、熊さんも化け物は苦手だったのだ。「家に帰って、出直す」と言っても、「そっれきり仮病をつかって出て来ないから、今日は帰さない。熊さん一人じゃ無い、連れがいるんだ」、聞いた途端元気になったが、弱い番頭さんと聞いてガッカリ。
 そのまま帰ることも出来ず夜の十二時時分。いきなり蔵へ入るのも気味悪かろうからと蔵の手前にある離れで番をしろと言う旦那。お清さんがこさえてくれた夜食の膳を熊さんが持ち、手燭の明かりを番頭が持ってこわごわ移動した。
 気付けに飲もうという熊さんだが、番頭は酒が飲めない。やむなく一人、側にあった大きな湯飲みで飲んだが、恐怖で酒の味がさっぱり分からない。「番頭さん、飲めないんだったら、膳の上のものどんどん片付けちゃったほうがいいよ。この世の食いおさめになるかも・・・」、「何でそんな事言うの」。
 番頭は熊さんにお願いがあるという、何だと訊くと、びっくりして腰を抜かしちゃうといけないから化け物が出てもいっぺんに、「出たッ!」と言わずに、「でェ~」と伸ばして、番頭が逃げ切った頃に「たァ~」、「そんな事言えるか」。

  草木も眠る丑三つ時、三番蔵の戸前が光ったかと思うと、ドカ~ン!という大きな物音。
 「出た!」、途端に二人とも腰を抜かしてしまった。責任があるので蔵まで這って行き、戸前を開けると、中で繰り広げられていたのは、 「かたや~、大紋、大紋~。こなた~、黒龍、黒龍~。見合って、見合って・・・」なんと、帯と羽織が相撲をとっているではないか。実はこの二品の持ち主はある相撲取り。やはり旦那の言うとおり質草の気が化け物になったのだ。
 その光景をしばらく無言で見つめていた熊五郎、「番頭さん、あれを御覧なさい」 指差すほうを見ると、棚の一幅の掛け軸が下がったかと思うと、中の菅原道真公が抜け出てきて 「そちがこの家の番頭か?」、「へへェ~」、「藤原方に参り、利上げをせえと伝えてくれ。麿もどうやら、また流されそうだ」。

 



ことば

オチ;菅原道真(天神さま)は藤原時平の讒訴(ざんそ=悪意の告げ口)によって大宰府へ左遷されてしまう。サゲはその故事と質流れをかけたもの。  

質屋(しちや);歌丸もマクラで言っていますが、私営と公営があります。私営は月の利息が9分(9%)ですが、公営の質屋さんは月の利息が3分(3%)です。利用者からすると利息の安い公営の質屋さんに通います。質草を払い出されないときは月の利息を払っておかないと流れ(質物の所有権が移転)てしまいますので、利息だけでも払っておきます。これを利上げと言います。

 質屋営業とは、何らかの物品を質(質草、担保)に取り、流質期限までに弁済を受けないときは当該質物をもってその弁済に充てる条件で金銭を貸し付ける(融資)事業を行う事業者あるいは店舗を指す。物品を質草にして金銭を借り入れることを質入(しちいれ)という。俗称として一六銀行(1+6=7=質)ともいう。
 始まりは鎌倉時代といわれ、1960年代頃まで庶民金融の主力であった。しかし、1970年代頃から、無担保・無保証人で一般市民に融資を行う「団地金融」(消費者金融、サラ金の前身)が起こり始め、廃業する質屋が多くなった。 日本の現在の質屋の業態は、貸付事業よりも、流通価値を有する宝飾品や貴金属、いわゆる「有名ブランド品」などの買取や仕入れ、販売などが主になっている。 変わった使い方としては、金銭を借りずに金利相当分だけ払って、古美術品などの外部の倉庫代わりに利用されることもある。

質屋の蔵;構造は厳重で、規則で決まっているものに、質蔵の扉は、盗難防止に優れ、頑強。防火・耐火性能に優れる。空調が整備されている。警報機の設置。ネズミ返しの設置。扉は鉄製扉など盗難防止に有効な設備、及び堅牢な施錠設備を設けなければいけません。扉の厚さは15cm以上必要です。

 蔵の入口です。深川江戸資料館1/1の建物です。

質草(しちぐさ);現在は不動産以外の宝飾品や貴金属(ジュエリー)、いわゆる「有名ブランド品」(バッグ、腕時計など)のほかに、ゴルフ会員権、電話加入権、有価証券、金貨、金地金 などが当てられることが多い。質屋は質草の価値を判断して、金銭を貸し付ける。
 落語の世界では、日用品の釜や衣料品、仕事道具などを預けています。

質流れ;最短流質期限は3ヶ月であり、利子の支払いにより質契約を更新できる。質置主(借主)は、流質期限前は、いつでも元利金を弁済して、その質物を受け戻すことができる。一方、もし流質期限までに元利金の弁済がなされない場合は、質屋はその質物の所有権を取得し(質流れという)、これを処分できる。

戸前(とまえ);蔵の出入り口の扉。(上の写真)

出入りの熊五郎;大店では「何でも屋」としてトビの頭を贔屓にしていた。火事になれば、目塗りに飛んで行ったし、大掃除、井戸替え、事件、事故の時にも駆けつけた。大きなイベントが有れば真っ先に駆けつけて、先頭に立って手伝った。

芋羊羹(いもようかん);サツマイモを蒸して熱いうちに砂糖を練り混ぜ、四角形の型に押し詰め、冷やし固めるのが、一般的な製法。サツマイモを蒸す代わりに茹でたり、砂糖の他に少量の塩や寒天などを添加することもある。練羊羹などに比べて遥かに短い消費期限など通常の羊羹と異なる点が多い。
 明治30年代前半、浅草寿町(現在の東京都台東区寿)で芋と炭を卸売業とする問屋を営んでいた小林和助は、当時高価で庶民の口に入らなかった煉羊羹の代わりに身近にあったさつまいもで羊羹を作ろうと石川定吉(現在の千葉県船橋市出身)との共同開発により、芋羊羹を完成させ、その後和助は、定吉のもとで和菓子の作り方を学ぶと共に和菓子職人としての修行を積み、和助は船橋市出身の定吉の「舟」と自分の名「和助」の一文字をとり、明治35年(1902)浅草一丁目に「舟和」を創業した。その後定吉は家族と共に足利町(現在の栃木県足利市)に移り住み、「舟定」は足利に移転した。 現在では芋羊羹は日本全国に広まっており、埼玉県川越市などのサツマイモ産地の名産品としても親しまれている。

片口(かたくち);注水に便利なように、口縁部の一方に、鳥のくちばし状の注ぎ口を付けた椀・杯・鉢形の容器。
 奈良時代には用いられていたことが知られ、いずれも椀形を器体としている。伝世品は酒器として用いられた近世の木製朱漆塗の片口がほとんどであるが、取っ手をつけた形の片口は、室町時代の《酒飯論絵詞》にも寺院の台所用具として描かれており、そのころには陶製の片口にかわり、木製漆塗の片口がすでに流行していたことを示唆している。

燗冷まし(かんざまし);燗をした日本酒が冷めたもの。一般に不味とされるが、「燗冷まし」で美味しいお酒は間違いなく美味しく、逆に言うと、本当に美味しいお酒は「燗冷まし」でも美味しいものです。

コモ被り(こもかぶり);酒樽又は酒のことをいふ。酒樽は菰をかぶせてあるからいつたもの。運搬中の酒樽の荷扱いをやりやすくするためや、樽の保護に、樽をこもで包みなわをかけたのがはじまりで、のちに装飾がほどこされるようになった。4斗(約72リットル)入りの酒樽。 現在では祝い事で用いる。

 

彫り物(ほりもの);入れ墨(刺青、タトゥー:TATOO)のこと。針などで肌に色素を定着させる行為を墨を入れる以外に彫ると表現することからきたもの。また、入れ墨は江戸時代の刑罰として入れた否定的なニュアンスであるのに対し、彫り物は芸術的な意味合いや痛みに耐えたといった肯定的ニュアンスで用いられることが多い。ただし、現代の若者がするファッションとしてのTATOOに対して彫り物と言うことは少ない。

丑三つ時(うしみつどき);深夜2時前後の時間。化け物や幽霊が活躍する時間。

菅原 道眞(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。

 昌泰2年(899)、右大臣に昇進し右大将を兼任。翌年、三善清行は道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。昌泰4年(901)、従二位に叙せられたが、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪(さんだつ=下位の者が上位のものを押しのけて、座に着こうとする事)を謀ったと密告され、罪を得て大宰員外帥に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。長男高視を初め、子供4人も流刑に処された(昌泰の変)。この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて道真がそれに巻き込まれたとする説まで諸説ある。道真は延喜3年(903)、大宰府で薨去し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む大宰府の屋敷へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。

松崎天神縁起絵巻 第二 第2~4紙 『道真、邸の紅梅に別れを惜しむ』 防府天満宮蔵

 菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。まず道真の政敵藤原時平が延喜9年(909)に39歳の若さで病死すると、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923)薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925)卒去)が次々に病死。さらには延長8年(930)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た。

 『北野天神縁起』 西暦1219年 北野天満宮所蔵

 その上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。延喜23年4月20日(923年5月13日)、従二位大宰権帥から右大臣に復し、正二位を贈ったのを初めとし、その70年後の正暦4年(993)には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣(こうした名誉回復の背景には道真を讒言した時平が早逝した上にその子孫が振るわず、宇多天皇の側近で道真にも好意的だった時平の弟・忠平の子孫が藤原氏の嫡流となったことも関係しているとされる)。
 清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになった。雷が鳴ると「クワバラ、クワバラ」と唱えながら逃げるのは、雷が落ちない道真の住まいが桑原だったという。ここは桑原だから落ちないでねと言う呪文です。



                                                            2015年12月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system