落語「質屋蔵」の舞台を行く 桂歌丸の噺、「質屋蔵」(しちやぐら)より
■オチ;菅原道真(天神さま)は藤原時平の讒訴(ざんそ=悪意の告げ口)によって大宰府へ左遷されてしまう。サゲはその故事と質流れをかけたもの。
■質屋(しちや);歌丸もマクラで言っていますが、私営と公営があります。私営は月の利息が9分(9%)ですが、公営の質屋さんは月の利息が3分(3%)です。利用者からすると利息の安い公営の質屋さんに通います。質草を払い出されないときは月の利息を払っておかないと流れ(質物の所有権が移転)てしまいますので、利息だけでも払っておきます。これを利上げと言います。
質屋営業とは、何らかの物品を質(質草、担保)に取り、流質期限までに弁済を受けないときは当該質物をもってその弁済に充てる条件で金銭を貸し付ける(融資)事業を行う事業者あるいは店舗を指す。物品を質草にして金銭を借り入れることを質入(しちいれ)という。俗称として一六銀行(1+6=7=質)ともいう。
■質屋の蔵;構造は厳重で、規則で決まっているものに、質蔵の扉は、盗難防止に優れ、頑強。防火・耐火性能に優れる。空調が整備されている。警報機の設置。ネズミ返しの設置。扉は鉄製扉など盗難防止に有効な設備、及び堅牢な施錠設備を設けなければいけません。扉の厚さは15cm以上必要です。
蔵の入口です。深川江戸資料館1/1の建物です。
■質草(しちぐさ);現在は不動産以外の宝飾品や貴金属(ジュエリー)、いわゆる「有名ブランド品」(バッグ、腕時計など)のほかに、ゴルフ会員権、電話加入権、有価証券、金貨、金地金 などが当てられることが多い。質屋は質草の価値を判断して、金銭を貸し付ける。
■質流れ;最短流質期限は3ヶ月であり、利子の支払いにより質契約を更新できる。質置主(借主)は、流質期限前は、いつでも元利金を弁済して、その質物を受け戻すことができる。一方、もし流質期限までに元利金の弁済がなされない場合は、質屋はその質物の所有権を取得し(質流れという)、これを処分できる。
■戸前(とまえ);蔵の出入り口の扉。(上の写真)
■出入りの熊五郎;大店では「何でも屋」としてトビの頭を贔屓にしていた。火事になれば、目塗りに飛んで行ったし、大掃除、井戸替え、事件、事故の時にも駆けつけた。大きなイベントが有れば真っ先に駆けつけて、先頭に立って手伝った。
■芋羊羹(いもようかん);サツマイモを蒸して熱いうちに砂糖を練り混ぜ、四角形の型に押し詰め、冷やし固めるのが、一般的な製法。サツマイモを蒸す代わりに茹でたり、砂糖の他に少量の塩や寒天などを添加することもある。練羊羹などに比べて遥かに短い消費期限など通常の羊羹と異なる点が多い。
■片口(かたくち);注水に便利なように、口縁部の一方に、鳥のくちばし状の注ぎ口を付けた椀・杯・鉢形の容器。
■燗冷まし(かんざまし);燗をした日本酒が冷めたもの。一般に不味とされるが、「燗冷まし」で美味しいお酒は間違いなく美味しく、逆に言うと、本当に美味しいお酒は「燗冷まし」でも美味しいものです。
■コモ被り(こもかぶり);酒樽又は酒のことをいふ。酒樽は菰をかぶせてあるからいつたもの。運搬中の酒樽の荷扱いをやりやすくするためや、樽の保護に、樽をこもで包みなわをかけたのがはじまりで、のちに装飾がほどこされるようになった。4斗(約72リットル)入りの酒樽。
現在では祝い事で用いる。
■彫り物(ほりもの);入れ墨(刺青、タトゥー:TATOO)のこと。針などで肌に色素を定着させる行為を墨を入れる以外に彫ると表現することからきたもの。また、入れ墨は江戸時代の刑罰として入れた否定的なニュアンスであるのに対し、彫り物は芸術的な意味合いや痛みに耐えたといった肯定的ニュアンスで用いられることが多い。ただし、現代の若者がするファッションとしてのTATOOに対して彫り物と言うことは少ない。
■丑三つ時(うしみつどき);深夜2時前後の時間。化け物や幽霊が活躍する時間。
■菅原 道眞(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。
昌泰2年(899)、右大臣に昇進し右大将を兼任。翌年、三善清行は道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。昌泰4年(901)、従二位に叙せられたが、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪(さんだつ=下位の者が上位のものを押しのけて、座に着こうとする事)を謀ったと密告され、罪を得て大宰員外帥に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。長男高視を初め、子供4人も流刑に処された(昌泰の変)。この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて道真がそれに巻き込まれたとする説まで諸説ある。道真は延喜3年(903)、大宰府で薨去し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む大宰府の屋敷へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。
松崎天神縁起絵巻 第二 第2~4紙 『道真、邸の紅梅に別れを惜しむ』 防府天満宮蔵
菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。まず道真の政敵藤原時平が延喜9年(909)に39歳の若さで病死すると、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923)薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925)卒去)が次々に病死。さらには延長8年(930)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た。
『北野天神縁起』 西暦1219年 北野天満宮所蔵
その上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。延喜23年4月20日(923年5月13日)、従二位大宰権帥から右大臣に復し、正二位を贈ったのを初めとし、その70年後の正暦4年(993)には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣(こうした名誉回復の背景には道真を讒言した時平が早逝した上にその子孫が振るわず、宇多天皇の側近で道真にも好意的だった時平の弟・忠平の子孫が藤原氏の嫡流となったことも関係しているとされる)。
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