落語「野崎詣り」の舞台を行く 二代目桂小南の噺、「野崎詣り」(のざきまいり)より
■野崎(のざき);慈眼寺( じげんじ)は、大阪府大東市野崎二丁目7にある寺院。山号は福聚山(ふくじゅさん)。宗派は曹洞宗。本尊は十一面観世音菩薩。本尊にちなみ、野崎観音(のざきかんのん)の通称で知られる。別名居眠り観音と言われ、目に御利益が有り、寝たがりの人には観音様がまとめて寝てくれるという。右写真。
■野崎詣り(のざきまいり)江戸時代より続く法要で5月1~8日、正しくは無縁経法要といい、有縁無縁のすべてのものに感謝のお経をささげる行事。期間中JR野崎駅より、お寺までの参道に露店が並び、さまざまなイベントもあって全国各地からの参詣者で賑わいます。かつての「野崎詣り」は大坂から船で参詣する風景が見られ、人形浄瑠璃や落語等のフィクション作品の舞台となっている。また、徳庵(とっかん)堤の上を歩いて行った。
■出囃子・野崎(でばやし・のざき);出囃子に野崎を使っている落語家さんは、八代目桂文楽・初代桂小文治、九代目桂文治などがいました。
・出囃子;落語における出囃子は、落語家が高座に上がる際にかかる音楽であり、寄席囃子のひとつ。元は上方落語のみで出囃子を用いたが、東京でも大正期に睦会が取り入れるようになった。それまでは片シャギリのみであった。
演奏に使用されるのは主に三味線、太鼓、笛、当り鉦など。演奏する人のことを「下座」、「お囃子」と言ったりする。東京、上方とも、三味線は専門の下座演奏家(「三味線方」という。全員女性)が、笛と太鼓は前座の落語家(「鳴り物方」という)が演奏する。
・お染久松は、歌舞伎や浄瑠璃で有名な恋人同士。「野崎村」はお染久松ものの義太夫(歌舞伎にも移植された)『新版歌祭文』の中の一場。歌舞伎では下手の花道を駕籠に乗った久松が、上手の仮花道を舟に乗ったお染と母親が、それぞれ引っ込んで幕となる。この両花道を使った引っ込みの時に使われる下座音楽を落語の出囃子になったのが「野崎」。浄瑠璃の太棹(ふとざお)の連れ弾き、“野崎”が出囃子になっている。
■野崎小唄(のざきこうた);野崎観音に参拝に向かう情景を東海林太郎が歌ってヒットした野崎小唄です。
■徳庵堤(とっかんつつみ);地図上では「とくあん」、地元の人は「とっくぁん」と発音。大阪市鶴見区徳庵2、東西に走る寝屋川にかかる徳庵橋あたりが徳庵浜、その下流の直線的な堤が徳庵堤。
■住道(すみのどう);大阪府大東市住道。「すみのどう」の地名は教会を意味する「角堂」からの由来。住道周辺は戦国時代には河内キリシタンの活動拠点となり、スペインやポルトガルからの宣教師が訪れ、教会を建立した。上記徳庵堤から東に寝屋川を上ってくると北に直角に川が曲がる。その地が住道。学研都市線の住道駅が有る(次の駅が野崎)。約4.5km舟で上った。ここから野崎観音まで直線で約2.5km有り、参拝者は歩きます。
■艫(とも);船尾。
■日本三名物;と小南は言っていますが「日本の三詣り」とも。1.京都は祇園さんの「おけら詣り」、2.四国は讃岐の国、金毘羅さんの「鞘(さや)橋の行き違い」そして、3.この「野崎参り」。この三詣りだけは、何ぼ口で喧嘩しても手ぇひとつ出さんちゅう、口だけの喧嘩や、口喧嘩や。その年の口喧嘩に勝ったらその年の運がえぇ、運定めの口喧嘩やれっちゅうねん。と静八は言っています。
・祇園さん;祇園・八坂神社(旧称、祇園社):京都市東山区祇園。876年、疾病の流行を鎮めるため円如が播磨から牛頭(ごず)天王を勧請しこの地にまつったのに始まると伝える。全国の八坂神社・祇園社の総本社。
江戸時代から行われていた「祇園削掛」 拾遺都名所図会より部分。
・金毘羅(こんぴら);本来は十二神将のうちの宮毘羅(くびら)のことであるが、関西で金毘羅さんというと、香川県琴平町の琴平山にある金刀比羅宮のことを指す。大物主神・崇徳天皇をまつる。航海や漁業の守護神として崇敬され、各地に多くの分社がある。また、雷神・水神・農耕神・留守神としても信仰された。金毘羅様。金毘羅宮。旧称、金毘羅大権現。江戸の金毘羅さんは落語「みそ豆」に詳しい。
■酒塩(さかしお);煮物の調味のために、酒を加えること。また、その酒。
■胴がら炒めて;酔わせて
■蹴倒そう(けたおそう);わが物にしよう。
■浅草の観音さん;お身丈は1寸8分(約5.45cm)でも18間(約32.7m)四面のお堂に入ってござる。
正月の浅草寺。
■小粒(こつぶ);一分金=1/4両。オチで喜六が「どこに・・・」と舟底を探すのは言葉の小粒でなく、金の小粒と思ったのです。現在の貨幣価値で約2万円。喜六がムキになるのも分かります。
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