落語「野崎詣り」の舞台を行く
   

 

 二代目桂小南の噺、「野崎詣り」(のざきまいり)より


 

 野崎の出囃子で小南登場。
 野崎観音への参拝コースを喜六と清八も同様に、野崎観音へ向かう。徳庵堤(とっかんつつみ)にかかってまいりますと、遅れる喜六が「歩き着かれた」と言うので清八は住道まで舟で行こうと言うが、「舟というモンは、板1枚下は地獄や」と言い張り、嫌いだという。清八は「板1枚上は極楽や」。お百姓さんが普段荷物運搬用の小舟に、祭り時分だけに毛氈を敷いて運行している舟に乗り込む。

 満員になって舟は出ることになった。艫(とも)に座っていた喜六は、船頭に「すまんけど、手助けに艫ォ張ってもらえんか」と頼まれ、「友を張れ」と勘違いして清八を殴る。船頭は「友達殴って船が出るかい。そこの杭持ってきばってくれ、言うたんや」と説明するが、いつまでたっても船が動かない。振り返ってみると、喜六は杭に力一杯しがみついて、うなっている。船頭が「その杭を突いてくれ、ちゅうのがわからんか」とさらに噛み砕いて説明したので、ようやく船が動き出した。「俺の力は凄いな。杭をついたら、土手が動いた」。

 「土手を歩いている連中は金が無いな」、「喜六、お前だって無いだろう」。土手には美しい女性が歩いているので、喜六は大はしゃぎ。うるさいので注意をすると、「黙ってたら口の中に虫が湧くねん」、「丁度ええわい、土手通ってる連中と、喧嘩せえ」、「土手の上から石投げられたら、逃げ場が無い」、「日本三名物の一つで、口喧嘩に勝てば、その年の運がええという、やって見な」。
  「おーい、向こう行く奴ー」、「アホか、みな向こう行くがな。誰なら誰、て言わんかえ」、「あ、そうか。おーい、誰なら誰ー」、「皆、こっち見て笑(わ)ろてるがな。あそこに、女に傘さしかけて歩いてるのおるやろが、あれを相手に取れ。『おーい、そこの女に傘をさしかけてる奴ゥ~。夫婦(めおと)気取りで歩いてけつかるけども、それはお前の嬶(かか)やなかろ。どこぞの稽古屋のお師匠はんをたらしこんで、住道あたりで酒塩(さかしお)で胴がら炒めて、ボーンと蹴倒そうと思てけつかる、ちゅう魂胆やろが、そうは問屋が卸さない」、「それ誰が言うんだ」、「お前が言うんだ。横から教えたるさかい、呼び止めェ」、呼び止めて、ドクズキ始めたが自分の言葉で無いからさんざんの結果。「これはうちの家内じゃ。」、「へえ。それは仲の良いことで・・・」、喧嘩が喜六の敗北となり、次のターゲットに移った。
 頭をかきながら来る男に「頭が掻きたいのでは無いだろう、中の襦袢を見せたいんだろう。見せたいんだったら、脱いで竿の先にくくって振り回して歩け」、それを喜六が言うのだが、相手の男に怒鳴りかえされて声が出なくなった。「襦袢が見せたいなら、お前が見せろ」、「俺は質屋に入れてしまった」、喧嘩の負け続けであった。

 土手の人が逆に、乗船客をからかい始めた。「お~い、どいつもこいつも腹減って歩けないか。栄養失調!や~い」、「俺は今朝出てくるとき、ちゃんと『おかゆ』食べてきたぞ」、「飯だ、飯」。「そこの背の小さい子供!今日は幼稚園休みか~」、「俺は大人だぞ」、「小っちゃいの。あまり乗り出して落っこちるな。メダカに食われるぞ」、「大きい大きいと威張るな」、「『江戸は浅草の観音さん、お身丈は1寸8分でも18間四面のお堂に入ってござる。大きな仁王さんは門番じゃ。山椒は小粒でも、ヒリヒリ辛い』と言うてやれ」、「おーい、ドサクサの・・・」、「浅草や」、「浅草の観音さんは、お身丈は18間でも1寸8分のお堂の主じゃ」、「あべこべだ」、「あべこべじゃ。仁王さんは大きくても門番じゃ。気の毒だ。山椒はピリピリと辛いぞ」、「あいつ何言ってんだ?日本語はしっかりしゃべれ。山椒はピリピリ辛い?『小粒』が落ちたぞ」、「どこに・・・」、「頭下げたらアカン」。
 ワ~ワ~言いながらお詣りをします。野崎詣りです。

 



ことば

野崎(のざき);慈眼寺( じげんじ)は、大阪府大東市野崎二丁目7にある寺院。山号は福聚山(ふくじゅさん)。宗派は曹洞宗。本尊は十一面観世音菩薩。本尊にちなみ、野崎観音(のざきかんのん)の通称で知られる。別名居眠り観音と言われ、目に御利益が有り、寝たがりの人には観音様がまとめて寝てくれるという。右写真。
 元和2年(1616)に青厳によって再興され、天和2年(1682)に「野崎詣り」が始まる。元禄・宝永年間(1688年 - 1710年)までに、同行事が盛んになるにつれて、門前が繁栄するようになった。

野崎詣り(のざきまいり)江戸時代より続く法要で5月1~8日、正しくは無縁経法要といい、有縁無縁のすべてのものに感謝のお経をささげる行事。期間中JR野崎駅より、お寺までの参道に露店が並び、さまざまなイベントもあって全国各地からの参詣者で賑わいます。かつての「野崎詣り」は大坂から船で参詣する風景が見られ、人形浄瑠璃や落語等のフィクション作品の舞台となっている。また、徳庵(とっかん)堤の上を歩いて行った。
 かつて西側一帯には付近の川(大和川付け替え以降は寝屋川および支流の谷田川)につながる大きな池・深野池があり、大坂側のターミナルである天満橋の八軒家浜から深野池(大阪城の堀の北側)にかけて「野崎詣り」の参拝客向けの屋形船が行き来していた。船の搭乗客の間では、陸路を歩く参拝者と罵り合う風習があったといい、競り勝てば一年の幸を得られる、と信じられたと伝わっている。
右図:大坂ことば事典 牧村史陽編 四世斎藤貞信画より「野崎詣り」

出囃子・野崎(でばやし・のざき);出囃子に野崎を使っている落語家さんは、八代目桂文楽・初代桂小文治、九代目桂文治などがいました。フルバージョンでお聞かせします。YouTubeより

出囃子;落語における出囃子は、落語家が高座に上がる際にかかる音楽であり、寄席囃子のひとつ。元は上方落語のみで出囃子を用いたが、東京でも大正期に睦会が取り入れるようになった。それまでは片シャギリのみであった。 演奏に使用されるのは主に三味線、太鼓、笛、当り鉦など。演奏する人のことを「下座」、「お囃子」と言ったりする。東京、上方とも、三味線は専門の下座演奏家(「三味線方」という。全員女性)が、笛と太鼓は前座の落語家(「鳴り物方」という)が演奏する。
 落語家ごとに使われる曲目が決まっている。通は曲を聴いただけで、どの落語家が出てくるかを知る。たとえば「野崎」の出囃子がかかると、東京では「黒門町(八代目文楽)だ」、大阪では「春團治や」と期待する。

お染久松は、歌舞伎や浄瑠璃で有名な恋人同士。「野崎村」はお染久松ものの義太夫(歌舞伎にも移植された)『新版歌祭文』の中の一場。歌舞伎では下手の花道を駕籠に乗った久松が、上手の仮花道を舟に乗ったお染と母親が、それぞれ引っ込んで幕となる。この両花道を使った引っ込みの時に使われる下座音楽を落語の出囃子になったのが「野崎」。浄瑠璃の太棹(ふとざお)の連れ弾き、“野崎”が出囃子になっている。 

野崎小唄(のざきこうた);野崎観音に参拝に向かう情景を東海林太郎が歌ってヒットした野崎小唄です。
 作詞:今中楓渓 作曲:大村能章 歌唱:東海林太郎 制作:滝野細道
(一) 野崎参りは 屋形船でまいろ どこを向いても 菜の花ざかり 粋な日傘にゃ 蝶々もとまる 呼んで見ようか 土手の人
(二) 野崎参りは 屋形船でまいろ お染久松 涙の恋に 残る紅梅 久作(きゅうさく)屋敷 今も降らすか 春の雨
(三) 野崎参りは 屋形船でまいろ 音にきこえた 観音ござる お願かけよか うたりょか滝に 滝は白絹 法(のり)の水

徳庵堤(とっかんつつみ);地図上では「とくあん」、地元の人は「とっくぁん」と発音。大阪市鶴見区徳庵2、東西に走る寝屋川にかかる徳庵橋あたりが徳庵浜、その下流の直線的な堤が徳庵堤。

住道(すみのどう);大阪府大東市住道。「すみのどう」の地名は教会を意味する「角堂」からの由来。住道周辺は戦国時代には河内キリシタンの活動拠点となり、スペインやポルトガルからの宣教師が訪れ、教会を建立した。上記徳庵堤から東に寝屋川を上ってくると北に直角に川が曲がる。その地が住道。学研都市線の住道駅が有る(次の駅が野崎)。約4.5km舟で上った。ここから野崎観音まで直線で約2.5km有り、参拝者は歩きます。

(とも);船尾。

日本三名物;と小南は言っていますが「日本の三詣り」とも。1.京都は祇園さんの「おけら詣り」、2.四国は讃岐の国、金毘羅さんの「鞘(さや)橋の行き違い」そして、3.この「野崎参り」。この三詣りだけは、何ぼ口で喧嘩しても手ぇひとつ出さんちゅう、口だけの喧嘩や、口喧嘩や。その年の口喧嘩に勝ったらその年の運がえぇ、運定めの口喧嘩やれっちゅうねん。と静八は言っています。

祇園さん;祇園・八坂神社(旧称、祇園社):京都市東山区祇園。876年、疾病の流行を鎮めるため円如が播磨から牛頭(ごず)天王を勧請しこの地にまつったのに始まると伝える。全国の八坂神社・祇園社の総本社。  
おけら詣り;(おけら)祭:白朮祭(おけらさい)とは、京都市東山区にある八坂神社において元日1月1日午前5時から行われる一年の安泰を祈る神事。古くは「祇園削掛神事(ぎおんけずりかけのしんじ)」と称した。 白朮はオケラ (植物)のことで、その根を燃やしたことから呼ばれる。その火を、境内3か所の「をけら灯籠」の火から竹でできた火縄(吉兆縄)にうけて帰り、無病息災を願って神棚のロウソクの火をつけたり、雑煮を炊く火種とする。これを「をけら詣り」と言う。火の付いた火縄をぐるぐる回す光景がニュース等で報じられるが、藁(わら)では直ぐに燃え尽きてしまうので火縄は竹から作られている。ぐるぐる回さなくても意外と消えない。また、公共交通機関には燃えた状態では乗れない。
 八坂神社が「祇園社」と呼ばれていた江戸時代には、大晦日の暗闇の中でお参りの人々が悪口を言い合う神事が行われていたという。 削掛(けずりかけ)神事、またの名を「悪口(あくたれ)祭」といいました。が今では誰もそんな事をする参拝人は居ません。

 江戸時代から行われていた「祇園削掛」 拾遺都名所図会より部分。

金毘羅(こんぴら);本来は十二神将のうちの宮毘羅(くびら)のことであるが、関西で金毘羅さんというと、香川県琴平町の琴平山にある金刀比羅宮のことを指す。大物主神・崇徳天皇をまつる。航海や漁業の守護神として崇敬され、各地に多くの分社がある。また、雷神・水神・農耕神・留守神としても信仰された。金毘羅様。金毘羅宮。旧称、金毘羅大権現。江戸の金毘羅さんは落語「みそ豆」に詳しい。
鞘橋(さやばし)は車が通れないので移築され、今では祭礼の御輿が通るときだけに使われています。ですから、悪口言いながら渡ることも無くなりました。右写真。

酒塩(さかしお);煮物の調味のために、酒を加えること。また、その酒。

胴がら炒めて;酔わせて

蹴倒そう(けたおそう);わが物にしよう。

浅草の観音さん;お身丈は1寸8分(約5.45cm)でも18間(約32.7m)四面のお堂に入ってござる。
 観音様は秘仏ですから誰も見た者は居ません。俗説に1寸8分の金無垢のお像だと言いますが、本尊とそっくりに作られた前立ち観音は2~30cmの木像です。

 正月の浅草寺。

小粒(こつぶ);一分金=1/4両。オチで喜六が「どこに・・・」と舟底を探すのは言葉の小粒でなく、金の小粒と思ったのです。現在の貨幣価値で約2万円。喜六がムキになるのも分かります。
右写真:元文一分金。江戸東京博物館蔵。約原寸大



                                                            2016年1月記

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