落語「つるつる」の舞台を行く
   

 

 八代目桂文楽の噺、「つるつる」より


 

 「太鼓持ちあげての末の太鼓持ち」と言われます。太鼓持ちは吉原を一番としていました。吉原の幇間・一八は、湯から上がってきたが、同じ置屋の芸者お梅はまだであった。もう寝るからと小僧にお酒と肴を用意させた、その時にお梅が湯から戻ってきた。声を掛けたが、黙って通り過ぎて部屋に入ってしまた。
 四年半越しの岡ぼれだが、なかなか相手にしてくれない。お梅の部屋に入って、懇願した。「ままになるなら、三日でいいから食事に付き合ってくれ、三日がダメなら二日、いや一日、三時間、二時間、三十分、十五分、十分・五分・三分・一分・無し・・・。それじゃ困る」、「一八さん、本気なの?色恋だったらダメだけど、本当に世話してくれるんだったら良いわよ。でも、自惚れたらダメよ、他の太鼓持ちなら大勢居るし、顔だって大したことないが親切で、私が病気したとき、夜通し付きっきりで世話してくれた。おっ母さんに孝行が出来るヮ」、「一緒になったら大事にしますし、親切にもします」、「分かったけれど、一つ気にいらないことがあるの」、「それは・・・」、「お前さんは酒が入るとズボラだからダメよ。今夜二時に自分の部屋で待っているから・・・、もし約束を五分でも遅れたら、ズボラが始まったと思って、諦めるから。あなたも無い縁とあきらめてほしい」、「二時ですね」、「誰かに見付かるといけないから、あっちに行ってらっしゃい」、「嬉しいね。当たって砕けろだ」。

 喜んでいると、贔屓にしてもらっている大事なお客、樋ィさんに出合った。吉原は飽きたので、今日は柳橋の一流処でワッと騒ごうと誘いに来た。今夜は大事な約束がある上、この旦那、酒が入ると約束を守らないし、芸人をいじめるので、一八は困った。今夜だけは勘弁してくれと頼むが、「てめえも立派な幇間になったもんだ」と、早速嫌味を言って聞いてくれない。事情を説明すると「小梅だと。あのぐらいの芸者はないな、三味線は達者だし、喉は光ってて、踊りがいけて、親孝行で客扱いが良くて女っぷりがイイ、しとやかで芸者の中の芸者だ」、「内緒ですよ。その小梅が、私の女房になるんです」、「いい話だから許すが、12時まで付き合え」、「シラフなら約束守ってくれるのですが、酔ってくると・・・」、「いい芸人になったな。客を断っても(大きな声で)小梅の所に行くんだな」、「それを言ったらいけません。貴方が憎いよ、オデキの上から針で突くようなことを・・・。行きますよ」。

 お供して柳橋へ。落ち着かない一八、「今何時ですか?」、「来たばっかりダ。お前時計を持っているじゃないか」、「これは紐の先に天保銭が付いているだけです」、そこに芸者連中が繰り込んできた。「お前のもの買おう。おまえの頭を半分20円で買うから片方坊主になれの、十円で目ん玉に指を突っ込ませろの、下がって五円で生爪をはがさせろ」、「痛い芸が好きですね」、「一回一円でポカリと殴るだけでどうだ」、「請け合いましょう。ポカポカポカで3円、で何処を殴るんですか」、「最初に目と鼻の間だ」、「それは一回で参っちゃいます。50銭で肩を・・・」、「そんなのダメだ。このコップで酒飲んだら1円だ」、芸者に目一杯に注がれてしまった。次の一杯もこぼれるほどに。一息ついていると、気が付けば目一杯に。そのうち、酔ってしまって二階から転げ落ちてしまった。「落ちたんじゃないの。飛び降りたの。旦那に死んじゃったから香典多く奮発してと言ってね」、ようやく逃げ出した。

 帰って「やれ、間に合った」と安心したのも束の間。お梅の部屋に行くには、廊下からだと廓内の色恋にうるさい師匠の枕元を通らなければならない。そこで一八、帯から、腹巻と、着物を全部継ぎ足して、足りない分はフンドシも入れて縄をこしらえ、天井の明かり取りの窓から下に降りればいいと思ったが、「目が回るね。目隠ししてつるつると下りればいいんだ」と準備万端。
 ところが酔いが回って寝込んでしまった。目が覚めて、慌ててつるつるっと降りると、とうに朝のお膳が出ている。一八、おひつのそばに素裸でユラユラ。「一八さんどうしたの」、「え、え?おはようございます」、「この野郎、何だそのなりは、寝ぼけやがってッ」、「へへ、井戸替えの夢を見ました」。

 



ことば

幇間(ほうかん);別名「太鼓持ち(たいこもち)」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」とも呼ばれた。歴史は古く豊臣秀吉の御伽衆を務めたと言われる曽呂利新左衛門という非常に機知に富んだ武士を祖とすると伝えられている。秀吉の機嫌が悪そうな時は、「太閤、いかがで、太閤、いかがで」と、太閤を持ち上げて機嫌取りをしていたため、機嫌取りが上手な人を「太閤持ち」から「太鼓持ち」となったと言われている。ただし曽呂利新左衛門は実在する人物かどうかも含めて謎が多い人物なので、単なる伝承である可能性も高い。
 鳴り物である太鼓を叩いて踊ることからそう呼ばれるようになったとする説などがある。 また、太鼓持ちは俗称で、幇間が正式名称である。「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす意味。この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味となる。宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びの助っ人役が、幇間すなわち太鼓持ちである、ともされる。
 専業の幇間は元禄の頃(1688年 - 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦(1751年 - 1764年)の頃とされる。江戸時代では吉原の幇間を一流としていたと伝えられる。 現在では東京に数名(その中に、芸名・桜川 七太郎という若い女性が1名いる)しかおらず絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が失伝されつつある。古典落語では江戸・上方を問わず多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。台東区浅草にある浅草寺の本坊伝法院には1963年に建立された幇間塚がある。
 幇間の第一人者としては悠玄亭玉介(ゆうげんてい たますけ)が挙げられる。男性の職業として「らしくない仕事」の代名詞とされた時代もあった。正式な「たいこ」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。通常は5~6年の修業を勤め、お礼奉公を1年で、正式な幇間となる。師匠は芸者置屋などを経営していることが多いが、芸者との恋愛は厳禁である。 もっとも、披露も終わり、一人前の幇間と認められれば、芸者と所帯を持つことも許された。
 芸者と同じように、芸者置屋(プロダクション)に所属している。服装は、見栄の商売であるから、着流しの絹の柔らか物に、真夏でも羽織を着て、白足袋に雪駄、扇子をぱちぱち鳴らしながら、旦那に取り巻いた。 一方、正式な師匠に付かず、放蕩の果てに、見よう見まねの素人芸で、身過ぎ世過ぎを行っていた者を「野だいこ」という。 落語の中で野だいこは、「鰻の幇間」、「野ざらし」、「居残り佐平次」等に出てくる。これは正式な芸人ではないが、「師匠」と呼ばれることも多かった。 幇間は芸人の中でも、とりわけ難しい職業で、「バカをメッキした利口」でないと、務まらないといわれる。 噺家が舞台を「高座」と云うのに対して、幇間はお座敷を「修羅場」と云うほどである。
 落語「明烏」より
 「太鼓持ちあげての末の太鼓持ち」 江戸川柳、遊びすぎて幇間を上げて粋だと言われていたが、気が付いたら自分がその幇間になっていた。 

樋ィさん(ひィさん);文楽は江戸訛りで「しィさん」と言っています。八代目桂文楽の自伝『あばらかべっそん』によると、この噺や「愛宕山」に登場する旦那は、れっきとした実在の人物でした。樋ィさんの本名は樋口由恵といい、甲府出身の県会議員の伜で、運送業で財をなした人。文楽と知り合ったのは関東大震災の直後。若いころから道楽をし尽くした粋人で、文楽の芸に惚れこみ、文楽が座敷に来ないと大暴れして芸者をひっぱたくほどわがままな反面、取り巻きの幇間や芸者、芸人には、思いやりの深い人でもあったとか。この噺、「つるつる」の一八を始め、文楽の噺に出てくる幇間などは、すべて当時樋口氏が贔屓にしていた連中がモデルで、この噺の中のいじめ方、からみ方も実際そのままだったようです。

柳橋の花柳界(やなぎばしのかりゅうかい);安永年間(1772-81)に船宿を中心にして興りました。実際の中心は現在の両国付近で、天保末年に改革でつぶされた新橋の芸者を加えた結果、最盛期を迎えました。明治初年には、芸者600人を数えたといいますが、 盛り場の格としては、深川(辰巳)よりワンランク下とみなされました。
落語「不幸者」、「一つ穴」に詳しい。

 写真:緑色の「柳橋」。神田川はその向で隅田川に合流します。橋の左側が柳橋(町)。左前のオレンジ色のビルが「亀清楼」、略して亀清。船宿が土手にへばり付いています。最近の船は大型の屋形船だけで、猪牙舟や手こぎ船はありません。

井戸替え(いどがえ);江戸の井戸は玉川上水や神田上水を市中に引き入れ、その水が地下の樋を伝って井戸に貯められました。決して掘り抜き井戸ではありません。夏季に疫病防ぎのために、長屋総出で井戸底をさらい、清掃します。井戸屋が請け負うこともあり、いずれにしてもふんどし一丁で縄を伝って井戸底に下り、一日がかりの作業でした。
 毎年、7月7日が井戸さらいの日でした。大名屋敷から裏長屋まで、それぞれに行っていた。「井戸替え」「井戸さらい」などとも呼んだ。この日、長屋の住人は、井戸の化粧側をはずして、大桶に縄をつけて車で井戸の水をすくい上げる。7割ほどの水をすくうと、井戸屋の職人が縄を伝い「つるつる」と井戸の底に下りて、井戸の周りを洗ったり底に落ちているさまざまなものを拾い上げる。その上で井戸水を全部くみ上げて、作業は終わる。長屋の住人たちは、化粧側をつけ直し、板戸のふたをしてお神酒と塩を供える。井戸屋の伝う縄は水に濡れていたので、「するする」ではなく「つるつる」という音がしたのだとか。その時、目が回らないように目隠しして、紐にぶら下がったという。

 「井戸替え師」三谷一馬画・江戸職人図聚より 『井戸替えは深さを横に見せるなり』

禁演落語五十三話;戦時中の昭和16年(1941)10月30日、時局柄にふさわしくないと見なされて、浅草寿町(現台東区寿)にある長瀧山本法寺境内のはなし塚に葬られて自粛対象となった、廓噺や間男の噺などを中心とした53演目のこと。戦後の昭和21年9月30日、「禁演落語復活祭」によって解除。建立60年目の2001年には落語芸術協会による同塚の法要が行われ、2002年からははなし塚まつりも毎年開催されている。
 演目は「五人回し」 「品川心中」 「三枚起請」 「突き落とし」 「ひねりや」 「辰巳の辻占」 「子別れ」 「居残り佐平次」 「木乃伊取り」 「磯の鮑」 「文違い」 「お茶汲み」 「よかちょろ」 「廓大学」 「搗屋無間」 「坊主の遊び」 「あわもち」 明烏 白銅(五銭の遊び)
二階ぞめき」 「紺屋高尾」 「錦の袈裟」 「お見立て」 「付き馬(早桶屋)」 「山崎屋」「三人片輪」 「とんちき」 「三助の遊び」 「万歳の遊び」 「六尺棒」 「首ったけ」 「目ぐすり」 「親子茶屋」 「宮戸川」  「悋気の独楽」 「権助提灯」 「一つ穴」 「星野屋」 「三人息子(片棒)」 「紙入れ」 「つづら間男」 「庖丁」 「不動坊」  「つるつる」 「引越しの夢」 「にせ金」 「氏子中」 「白木屋」 「せんきの虫」 「蛙茶番」 「駒長」 「おはらい(大神宮)」 「後生うなぎ」。

八厘(8りん);天保銭は1銭に通用していたが、間もなく八厘に貨幣価値が下落した。ここから、足りないものとか、愚かなものを天保銭とか八厘と言った。
 新政府は銅貨の不足を補うため、旧来の寛永通寶、文久通寶ならびに天保通寶 等を代用貨として使うこととした。明治4年12月に銅銭貨、5年9月に鉄銭貨(鐚銭貨を含む)の引き換え価格を定めた。
右写真:明治に8厘と定められた天保通宝表裏

明かり取りの格子;広い家では昼でも部屋が暗いので、天井や窓の近くに三尺(約90cm)四方の穴を開け、そこに取り外し可能な格子をはめ、光を調節した。
 長屋でも、へっつい(かまど)の上に明かり取りと排煙のために引き窓を開けていた。

  
写真:「長屋の天窓」 深川江戸資料館蔵。    格子の付いた明かり取り

おひつ(御櫃);めしびつ。おはち。炊きあがったご飯を移し入れておく容器のこと。ごはんを美味しくするおひつ。昔、お米は釜で炊きおひつに移していました。炊飯器の登場でその必要はなくなりましたが、長く保温するとご飯が固くなり味が落ちてしまいます。美味しくご飯を保存するおひつに再び注目されています。
右写真;おひつ



                                                            2016年1月記

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