落語「宇治の柴船」の舞台を行く
   

 

 二代目桂小南の噺、「宇治の柴船」(うじのしばぶね)より


 

 大坂は横堀の材木問屋の若旦那が病で寝たきり。医者の見立てでは、何か思い詰めていることがあるから、それを取り除くことが先決という診断。子供の時からの友達で、筏師の熊五郎にその原因を聞き出して欲しいと旦那が頼んだ。聞き出したら十両くれるという。がぜんヤル気が上がる熊五郎。

 弱々しい若旦那の寝床に伺った。10両の他、若旦那もこの病が分かったら、珊瑚の根付けが付いたタバコ入れやるという。小指を立てて探りを入れると、赤い顔して布団に潜り込む若旦那。割って話を聞き出すと、相手は難波新地の玄人さんでなく、お得意さんのお嬢さん、稽古帰りの娘さん、稽古事のお師匠さんでもない。無理矢理、尼さん、お乳母さん・・・等当てはめるがことごとく違った。
 この春、桜を見に行った帰り、骨董屋の店先に下がっていた掛け軸の美人画で、頭は姉さん被りで、眉毛を落とし、口元黒く、赤いタスキをはすかいに掛け、風呂敷包みを持って裾をからげて、立っている様は生きているようであった。「熊、その女に惚れた」、「絵の中の女性に惚れてどうするんですか」、「昔、小西来山と言う人は白い人形を焼いて愛でたというじゃないか」、「そんなメソメソしていたら治りません。どこぞに療養に行きましょう。そう、京都の宇治は如何です。日本中から人が集まりますから、その女を見つけましょう」。
 旦那に話したら、頭っから賛成してくれて、30両持たされ宇治の菊屋の二階へ。

 10日も経つと薄紙を剥がすように良くなってきた。昼下がり、一天にわかにかき曇り雷混じりの大振りの雨になったが、1時間もするとカラリと晴れた。回りの山々が浮き立ち虹が出て綺麗なこと。
 若旦那半纏を羽織って二階の窓から見下ろしていると、二十才位の姉さん被りをして眉毛を落とし、口元黒く、赤いタスキをはすかいに掛け、風呂敷包みを持って雨上がりですから裾をからげて、「お頼みします。京都の伏見まで帰りたいのですが・・・」、「船頭が居ませんので・・・、この増水ですから・・・、宇治橋の際まで行けば、帰り船が有るかも知れません」。これを見ていた若旦那、半纏を脱いで手拭いで頬被り、裏に繋いであった小さな舟を漕ぎ出して宇治橋まで来た。

 「姉さん、京都までの帰り船です。乗ってくれませんか」、「お願いします。助かりました。京都まで歩くかと思いました」、「出しますよ」。2~3丁程下りますと、岸辺の柳の枝に縄を繋いだ。「船頭さん、夕暮れも迫っています。早く出して下さい」、「姉さん、実はお願いがございます。私は大坂の者で絵に恋を致しまして出養生、姉さんはその絵に生き写しでございます。私の思いを叶えて下さい」、「アホらしい。私にはれっきとした亭主があります」、聞けばこそ、若旦那帯を掴んで引き寄せ、夕陽に照らされ赤くなった顔。上流からは大きな材木が岸にぶつかりながら流れてくる。怖さが増して姉さんは柳に捕まったが、若旦那後ろから襟を掴んで引き寄せた。枝も折れて舫い(もやい)も解けて、舟は宇治川の急流へ。木の葉のように揺れる舟の中、竿も流され、波に吞まれ舟が傾いた。ザブ~ン。若旦那急流に飲まれた。
 「若旦那、若旦那、どうしました。汗かいて・・・」、「夢か。大坂へ帰る。わしが悪かった。病気はもう治った」、「え~ェ、夢の中でその女に会いましたか」、「あ~ァ、恐かった。悪夢やな~」、「いいや、その女に会えて病気が治った。イイ~、夢ですがな」。

 



ことば

二代目桂小南(かつら こなん);(1920年1月2日 - 1996年5月4日)は、東京で上方落語を演じた落語家。本名は谷田 金次郎(たにた きんじろう)。享年77(満76歳没)。
 小学校を修了1年後の昭和9年(1934)に京都市内の呉服問屋に移った。呉服問屋では、すぐに東京日本橋に移された。 問屋に5年勤めた後、昭和14年(1939)、三代目三遊亭金馬の内弟子となり、山遊亭金太郎を名乗る。入門当初は金馬が東宝専属であったため、寄席の定席には出られず、主に東宝名人会で前座を務めていた。太平洋戦争中は召集を受け、昭和20年(1945)に復員した。1951年、定席の高座に出るために金馬の口利きで二代目桂小文治の身内となる。昭和33年(1958)9月、八代目桂文楽の好意で二代目桂小南を襲名して真打となった。落語芸術協会所属。出囃子は『野崎』。
 丹波なまりが抜けず伸び悩んでいたところ、師匠の三代目金馬より上方噺に転向するように言われ、それまで習得した江戸噺を封印した。以降、大阪の「富貴」「戎橋(えびすばし)松竹」などといった寄席に出かけては、ヘタリ(囃子方)を勤めるかたわら、上方の若手(三代目桂米朝、三代目桂春團治、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝ら)に混じって、古老落語家から上方噺を教わった。
 独特な口調は「小南落語」とも呼ばれた。芸に厳しく、終生「稽古の鬼」と称された。昭和44年(1969)には文化庁芸術祭大賞を受賞しており、昭和43年(1968)と昭和56年(1981)には文化庁芸術祭の奨励賞、平成元年(1989)には芸術選奨文部大臣賞を受賞した。1990年、紫綬褒章受章。

横堀(よこぼり);江戸では木場、大坂では横堀が材木の問屋が集まった木場でした。江戸期の大坂市街において、西横堀川の東岸は材木の集積地として賑わい、西横堀二十四浜と呼ばれた。開削者は大坂北組惣年寄を務めた材木商の永瀬七郎右衛門で、当初は七郎右衛門堀川とも呼ばれた。西国橋 - 京町橋間には七郎右衛門町の町名が明治5年(1872)まで存在した。

筏師(いかだし);江戸では川並(かわなみ)、大坂では川仲仕といって、堀に浮かんだ材木を手かぎ一本で、操っています。小南は鳶仲仕(とびなかし)と言っていますが、どちらが正しいのでしょうか。

 東京・江東区木場でおこなれた川並保存会の演技。

十両(10りょう);10両と言えば首が飛ぶ金額。現在の金に換算して80~100万円ですが、当時の年収に直して2~3年分です。熊さんが報酬として受け取る金額で喜ぶのは当たり前。経費は別途30両が出ています。

珊瑚の根付けが付いたタバコ入;根付けとは帯に挟んで携帯する物を提げるストッパーです。その根付けは高価な珊瑚で出来ていて煙草入れが付いています。
 上写真は珊瑚の代わりに煙管がその役をしています。煙草と塩の博物館蔵。

宇治川(うじがわ);瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて琵琶湖から流れ出る唯一の河川で大阪湾に流れ込む。滋賀県、京都府及び大阪府を流れる淀川水系の本流で一級河川。流路延長75.1km、流域面積8,240km²。大津市南郷で瀬田川から宇治川となり、木津川、桂川と合流し淀川となるまでの部分をいう。現在の河川法では宇治川という名称は存在せず、淀川中流部の通称。夏場に行われる鵜飼いは有名。

宇治の柴船(うじのしばぶね);田原郷(綴喜郡宇治田原町)から柴薪を竹の輪で束ねたまま、宇治川支流の田原川に放流して、宇治川に下し、天ヶ瀬付近、当時甘樫浜と呼ばれた所で小舟に乗った人が拾い上げて竹の輪を抜き、縄で縛り直して舟に積んで下流方面に運搬した。(「米朝ばなし」桂米朝著・講談社文庫より)。

宇治の菊屋(うじのきくや);1818年、頼山陽の命名により多くの文人達に愛された宇治を代表する、料理旅館『菊屋萬碧楼』。2006年より、菊屋の建物を利用して「中村藤吉平等院店」として料理を提供中。

宇治橋(うじばし);大化2年(646)に初めて架けられたという伝承のある、京都府宇治市の宇治川に架かる橋。「瀬田の唐橋」と「山崎橋」と共に、日本三古橋の一つに数えられる。
 宇治橋は古今和歌集や紫式部の源氏物語に登場する。 また、能の「鉄輪」で登場する橋姫伝説でも有名。 橋の東詰には、狂言の「通圓」もモデルとなった通圓茶屋がある。また、この茶屋は、小説「宮本武蔵」に登場することでも有名。

瀬田の唐橋:東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡る、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。
 壬申の乱(671年)では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となった。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ。御霊神社の主祭神は大友皇子である(『日本書紀』 天武天皇 上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上の初見である。

 近江八景の内 瀬田夕照・唐橋 広重画

山崎橋:かつて山城国山崎–橋本間(現在の京都府乙訓郡大山崎町–八幡市橋本間)で淀川に架かっていた橋。行基が神亀2年(725)に架けたと伝えられる。 たびたびの洪水で流され、嘉祥3年(850)にも架橋の記録はあるものの、11世紀にはいったん廃絶。豊臣政権下で一時復活された。その後失われてからは現在に至るまで再建されていない。

小西来山(こにし らいざん);(1654年(承応3年) - 1716年11月16日(享保元年10月3日))は江戸時代の俳人。通称、伊右衛門。来山は1654年に大阪に生まれ芭蕉より10歳若い。西鶴、鬼貫などと親しんだ浪花の俳人。浪華(大坂)の南今宮村に住しており、白い土人形を作り愛でた。酒を好み、物事にこだわらない人物だったという。大晦日、門人より雑煮の具を送られたが、その日のうちに酒の肴にしてしまい、一句。 「我が春は宵にしまふてのけにけり」

姉さん被り(あねさんかぶり);女の手ぬぐいのかぶり方。広げた手ぬぐいの中央を額にあて、左右から後ろに回し、端を折り返して頭上にのせる。ねえさんかぶり。髪形が壊れないようにふわりと被る。
右うちわ絵:昔の姉さん被り、今の塵除け。後ろから持ってきた端を上から前に廻して、額の下から差し込んでいると思われる。国芳画。
 もう一つの被り方は、手拭いの中央を額に当てて、片端を首の後ろで結わく。今はこのかぶり方が主流です。大掃除の時や茶摘み娘がかぶる。

若旦那が舟に乗るときのほおかぶりは右図。

2~3丁(2~3ちょう);一丁(町)=109m。2~3町=218~327m、ざっと2~300m。間もない距離。

眉毛を落とし、口元黒く;結婚している婦人は眉毛(まゆげ)を剃り落とし、歯にはお歯黒を塗っていました。口元は黒く感じられます。
 そんな女に恋をしたって成就するわけがありません。隣の芝は綺麗なのですから。



                                                            2016年2月記

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