落語「宇治の柴船」の舞台を行く 二代目桂小南の噺、「宇治の柴船」(うじのしばぶね)より
■二代目桂小南(かつら こなん);(1920年1月2日 - 1996年5月4日)は、東京で上方落語を演じた落語家。本名は谷田 金次郎(たにた きんじろう)。享年77(満76歳没)。
■横堀(よこぼり);江戸では木場、大坂では横堀が材木の問屋が集まった木場でした。江戸期の大坂市街において、西横堀川の東岸は材木の集積地として賑わい、西横堀二十四浜と呼ばれた。開削者は大坂北組惣年寄を務めた材木商の永瀬七郎右衛門で、当初は七郎右衛門堀川とも呼ばれた。西国橋 - 京町橋間には七郎右衛門町の町名が明治5年(1872)まで存在した。
■筏師(いかだし);江戸では川並(かわなみ)、大坂では川仲仕といって、堀に浮かんだ材木を手かぎ一本で、操っています。小南は鳶仲仕(とびなかし)と言っていますが、どちらが正しいのでしょうか。
東京・江東区木場でおこなれた川並保存会の演技。
■十両(10りょう);10両と言えば首が飛ぶ金額。現在の金に換算して80~100万円ですが、当時の年収に直して2~3年分です。熊さんが報酬として受け取る金額で喜ぶのは当たり前。経費は別途30両が出ています。
■珊瑚の根付けが付いたタバコ入;根付けとは帯に挟んで携帯する物を提げるストッパーです。その根付けは高価な珊瑚で出来ていて煙草入れが付いています。
■宇治川(うじがわ);瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて琵琶湖から流れ出る唯一の河川で大阪湾に流れ込む。滋賀県、京都府及び大阪府を流れる淀川水系の本流で一級河川。流路延長75.1km、流域面積8,240km²。大津市南郷で瀬田川から宇治川となり、木津川、桂川と合流し淀川となるまでの部分をいう。現在の河川法では宇治川という名称は存在せず、淀川中流部の通称。夏場に行われる鵜飼いは有名。
■宇治の柴船(うじのしばぶね);田原郷(綴喜郡宇治田原町)から柴薪を竹の輪で束ねたまま、宇治川支流の田原川に放流して、宇治川に下し、天ヶ瀬付近、当時甘樫浜と呼ばれた所で小舟に乗った人が拾い上げて竹の輪を抜き、縄で縛り直して舟に積んで下流方面に運搬した。(「米朝ばなし」桂米朝著・講談社文庫より)。
■宇治の菊屋(うじのきくや);1818年、頼山陽の命名により多くの文人達に愛された宇治を代表する、料理旅館『菊屋萬碧楼』。2006年より、菊屋の建物を利用して「中村藤吉平等院店」として料理を提供中。
■宇治橋(うじばし);大化2年(646)に初めて架けられたという伝承のある、京都府宇治市の宇治川に架かる橋。「瀬田の唐橋」と「山崎橋」と共に、日本三古橋の一つに数えられる。
近江八景の内 瀬田夕照・唐橋 広重画
■小西来山(こにし らいざん);(1654年(承応3年) - 1716年11月16日(享保元年10月3日))は江戸時代の俳人。通称、伊右衛門。来山は1654年に大阪に生まれ芭蕉より10歳若い。西鶴、鬼貫などと親しんだ浪花の俳人。浪華(大坂)の南今宮村に住しており、白い土人形を作り愛でた。酒を好み、物事にこだわらない人物だったという。大晦日、門人より雑煮の具を送られたが、その日のうちに酒の肴にしてしまい、一句。
「我が春は宵にしまふてのけにけり」
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■姉さん被り(あねさんかぶり);女の手ぬぐいのかぶり方。広げた手ぬぐいの中央を額にあて、左右から後ろに回し、端を折り返して頭上にのせる。ねえさんかぶり。髪形が壊れないようにふわりと被る。
若旦那が舟に乗るときのほおかぶりは右図。
■2~3丁(2~3ちょう);一丁(町)=109m。2~3町=218~327m、ざっと2~300m。間もない距離。
■眉毛を落とし、口元黒く;結婚している婦人は眉毛(まゆげ)を剃り落とし、歯にはお歯黒を塗っていました。口元は黒く感じられます。
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