落語「本能寺」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「本能寺」(ほんのうじ)より


 

 「本能寺」を扱いました芝居はたくさんございますが、今日は、いま芝居の方では滅多に出ぇしまへん「三日太平記」といぅ芝居です。用意が出来ましたら幕を開けましょう。(米朝手拭いを広げ、引き幕のようにし、手拭いを搾って幕開けです)。

(柝(き=拍子木)が入って下座さんのお囃子と長唄が入ります)幕が開きますといぅと本能寺の「塀外の場」中には信長、つまり小田春永が泊まってるわけです。
 土塀がありまして、そこへ坊(ぼん)さんが二人(ふたぁり)掃除をしてる。 何じゃかんじゃしゃべってます。これはつまり、別に筋に関係ないんですけど、はじめ客席がザワザワしてます。今はお客さんは静かで紳士的ですけど、それを静めるために出て来て何じゃかんじゃ、この坊さん二人が掃除しながらしゃべってるあいだに客席が静まる。ほな入ってしまいまんねん。(指二本で人が歩く模写をします)。静(沈)めるために出て来る明礬(みょ~ばん)みたいな役でございましてな、この坊さんが入ってしまうと道具変わりで、チョンと柝が入ると本能寺の土塀が左右に引かれます。

 「奥書院の場」高二重といぃまして台が組んであるわけですなぁ。前に三段といぅて階段が三つ、そこへ諸侍が八人並んでるところへ森蘭丸兄弟を引き連れて、はじき茶筅の小田春永が出てまいります。八人の割り台詞があって、花道から蟄居申し付けたる武智光秀が登場する。揚げ幕の内から出てまいりましたのが烏帽子、大紋、長袴の武智光秀。
 「光秀か、苦しゅ~ない。近こぉまいれ」、「ははぁ~、いつに変わらぬ麗しき君のご尊顔を拝し、光秀、恐悦に存じまする」、「その方とても、身が堅固なるを嬉しぃと申すか?」、「嬉しゅ~のぉて何としましょ~。かくご勘気を被りてより、水を離るる鱗(うろくず)か、乳房失のぉ幼子同然。ただただ君のご安泰こそ、願わしゅ~存じまする」。
 「犬猫にても、飼いおく主人の恩を知り、じゃれかかっては尾を振るが、あったら武士に尾がのぉて、春永近頃残念なわい」、「たとえこの身は犬猫に劣りたりとも、忠義の一念、たれには劣らん。何卒、中国討手(うって)の軍勢に御加え下さりょ~ならば、ありがとぉ存じまする」、「言ぅな光秀。戦場へ赴くに犬猫引ぃて何にせん。もはや用なき汝なれば、早々に立ち帰れ」、「待ちゃれ我が君、猛きばかりが武士(もののふ)ならず。かの唐(もろこし)、名君といわれたる、劉備(りゅうび)元徳が諌(いさおし)など、君にも学ばせ賜われかし」、「黙ぁ~れ光秀! 今ここで劉備玄徳が諌、汝に習おぉや。ん~ん、言わせておけば従わなきその一言(いちごん)、蘭丸、光秀を打て!、打て、うて、うてッ」。

 「はッ」。森蘭丸、春永の鉄扇を受け取りますと、三段を下へ降りてまいります。 「光秀殿、我が君の、御意(付け木が入り、ピシッ)御意(ピシッ)御意(ピシッ)御意!(ピシッ)。スッと鉄扇を引ぃたさかい「もぉ済んだんかいなぁ」と思て、ふッと光秀が顔を上げたところを、鉄扇で烏帽子をポ~ンと向こぉへ跳ねると、鉄扇の要の方で、「御意で、ござ~る~ッ!」(付け木でピシッ)、懐紙で額を押さえ血が出ているのを認め、「ん~、ん~、ぷはッ!血を見て「プッ」と吹くのが、あれ、型でございましてな。あれはまぁ、誰がやっても「プッ」と吹くんですなぁ。(この場面が「眉間割り」です)
 「いかほどお願い申しても?」、「くどいことじゃ」、「是非に及ばん。時は今、天 (あめ)が下知る、皐月かな」、「何ぁにが、何ぁんとぉ~?」。光秀、差し添えから小柄(こづか)を抜きますと、上手の方に忠孝(ちゅう こぉ)と書いた額がかかってる、それへ手裏剣を打ちますなぁ。「エイッ(ブスッ)」、(戦の太鼓や鉦、ホラ貝が聞こえる)。「はて、にわかに聞こえる早鉦、太鼓。敵か味方か? いずれにせよ蘭丸、物見をいたせ」、「はッ、方々お続き召されぇ~」。みな走り込んでしまいます。(付け木、下座が派手やかに鳴り響く)。

  「物見に及ばん。寄せての軍勢、謀反でござる」、「何ッ! 謀反? して、その 統領はたれ、何人(なんぴと)なるぞ?」、「誰でもない。かく申す武智十兵衛光秀なるわ」、「何と!」、「あぁ、お騒ぎあるな」。三段を上へ駆け上がりますと、春永を下へ(付け木でバシッ)。蹴落として、ツ~ッと衣装を引き抜く。ぶっ返りになります。髪の毛がはじける。
 「御、大将ぉ~、日頃の我が諌め用い賜わず、神社仏閣を破壊なし、悪逆日ごと増長なす小田春永。もはや天命かなわぬところ、潔よぉ御腹(ぱら) 召され。ついでこれにて検分つかまつらん」、「やぁ、飼いおく犬に手を噛まれしか。光秀を追って取れ、ものども」。

    

 「ははぁ~ッ、やッ」、「やッ」、「やッ」、「やッ」・・・、(米朝の身体が上手へ回っていく)。回り舞台が回ったとこでございます(重ねて扇を広げて舞台背景のように回転させる)。

  舞台が回りますと、一面黒の薮畳、真っ黒ですなぁ。手負いになっ た森蘭丸が出てまいります。髪はザンバラ、額からこぉ血を垂らしましてな、肩にこぉ折れた矢ぁやなんかが突き刺さってるといぅいでたちで、これを切り破って出て来る。 「わ、我が君ぃ~さまえぇ~のぉ~」、後ろの方から雑兵(ぞぉひょ~)が一人こぉ、槍突きに出まんねん。舞台は大立回りが始まります。

 客席の一番前へ座って見てた、田舎から出て来たお婆さん。大阪の孫への土産やといぅんで、田圃からイナゴをぎょ~さん集めて来た。まぁ昔はそんなもんでも土産になったんでございますなぁ、ポケモンも何にもない時代やさかい。あのイナゴっちゅうやつは持ち遊びにしたあとで、羽や足むしって付け焼きにして食べたら、ちょっと美味しぃもんでございますがなぁ。
  ぎょ~さんぎょ~さん、何十匹といぅイナゴを取って来て、紙袋(かんぶくろ)の中へ入れて、窒息したらいかんちゅうんで、こぉ爪楊枝で穴開けましてね、袋の口をグ~ッとこぉ結んで、そいつをこぉ手に持って芝居を見てたんですが、だんだん芝居に夢中になってくる。袋の口が緩んできてイナゴがピョイピョイ飛び出して来た。舞台へ上がって来た。役者の方はそんなことは知りまへん、大立ち回りの真っ最中でございます。

  「やぁやぁ、やぁやぁ、やぁやぁ(見得を切って良いところです)。やぁやぁ、やぁやぁ・・・?(目や首筋に)イナゴやないかこれ?」、「やぁッ、おい、イナゴが居てるやないかい。(芝居どころでは有りません)ちょ、ちょっと待った、どぉなってるねん?」、「何でこないぎょ~さん、イナゴが出てきたんやろ?」、
「あぁ、おおかた前のお客が、青田らしぃわい」。  

 


 米朝のマクラより。これがまた面白く、オチの説明もここでしています。

 まぁこの頃は楽しみとか娯楽 とかいぅものは、もぉ数え切れんぐらいぎょ~さんございますわ。昔はもぉ楽しみといぃますと、映画やなんかできますより以前ですなぁ、お芝居か寄席ぐらいなもんでございまして。
  ちょっと可愛らしぃ男の子が生まれたら「えぇ顔してるやないかい、役者にしたらどやねん」なんか言ぅて、オモロイ顔が生まれたら「噺家にしたらどやねん」て、こらもぉ一般常識でございました。
  まぁ~、だいたいせやからね(役者というのは)あんまりこの悪い顔のんがな らんところへもってきて、綺麗ぇに綺麗ぇにいたしますわなぁ。まぁまぁ、 照明が暗かった。電気なんかなかった時代は、この天窓から明かりを取り入れたり、両袖から明かりを入れたりしてやってたですなぁ。今のよぉに結構な劇場ではなかったが、その時分でも桟敷なんて高いでっせ。今でも一万二千円の三千円のといぅ、それに桟敷は高かったんですが、別に安い場所があったんですなぁ。一番安いのが「木戸銭」ちゅうて、こら立ち見する気で、木戸通るだけで席はないんで「追い込み場」ちゅうのんが少しこしらえたぁるけど、そこはすぐ満員になりますわ、ほなあとはもぉ立って見んならん。ただ木戸を通るので「木戸銭」といぅ。まぁ、その「安い木戸銭も払いとぉない」ちゅなやつがおる。で、これはこの「青田」と言ぃまんねん。これ我々の方でね「青田で入ろ」とか「ちょっ と青田きかしてきた」とかなんとか言ぅてね。
  芝居の「青田」といぅのは、相撲でも何でもみな「青田」はシュッと入るんです。今と違ごて、警戒が厳重なよぉで実は割と大らかやったさかいね、サッと隙狙ろて入ったりする。この「青田の客」といぅのんは、ある意味では景気付けのために、あんまり入りが少ない時には入ってもろたりもしたんやそぉでございますが、そんな古い古い時分のお噺でございます。
 キウリと茄子が相撲観に青田をしたと言う話が有ります。 キウリが横の開いているところからシュッと入ってしまった。続いて茄子が入ろうとすると止められてしまった。「今キュウリが入ったじゃないか」、「茄子はダメだ。キウリは酢もみ(相撲観)と言って良いんじゃ」。


ことば

青田(あおた);芝居用語で、マクラで語っているように「ただ見客」のこと。 長らく途絶えていたのを、三代目桂米朝が花柳芳兵衛(林芳男元落語家初代桂小春団治)から伝授してもらって、昭和56年(1981)に復活した。芝居のパロディーではなく、芝居そのものを演じなければならないため、芝居の素養がないと出来ない難しい噺です。当然、江戸落語には無い噺ですが、露の五郎兵衛も同じ噺、同じ内容で演じています。

 噺の途中から歌舞伎の演出をとる東京と違って、上方の芝居噺は、東京と同じやり方のものと、扇子、手拭、見台などの小道具のみで人気狂言のダイジェスト版を舞台そのままに高座で演じるものがあります。「本能寺」は後者の代表的な演目です。 マクラのあと、「では、これから芝居がはじまります」と、演者は手拭いを引き幕として、柝の音とともに開けて行く。ここから芝居がはじまりますという演出である。そのあと演者は歌舞伎役者そのままに台詞、所作、立ち回りなどを演じ、見得のあと、簡単なクスグリをいれてサゲとなる。楽屋では下座はもちろん鳴物、ツケ打ちも待機している。東京では楽屋内に歌舞伎のお囃子が出来る人間がいないためこの様な噺は出来ない。演じる場合は、大人数で東京まで出てきて演じなければなりません。
 江戸時代後期、初代桂文治により始められ明治期の初代桂文我により完成された上方芝居噺であるが、大正から昭和期にかけ、娯楽が芝居から多様化するうち衰退、それに母体となる関西歌舞伎と上方落語の低迷もあって戦後はすっかり廃れていた。 わずかに東京の桂小文治や前述の花柳芳兵衛らが細々と継承していたのを桂米朝、六代目笑福亭松鶴、二代目露の五郎兵衛らの尽力で復活し、現在では「蛸芝居」・「質屋芝居」・「昆布巻芝居」・「そってん芝居」・[瓢箪場」などの上方ものはもちろん、「累(かさね)草紙」などの江戸の芝居噺が移植されて演じられています。

織田信長(おだのぶなが);戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。秀吉・家康を含む三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏をも凌ぐ力をつけ、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑えて戦国乱世の終焉に道筋をつけた。
 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で横死した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で没し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。

 

 信長像と信長自筆の文。東京国立博物館蔵。

本能寺(ほんのうじ);現本能寺は、京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522の京都市役所の前にありますが、本能寺の変の頃は、西洞院蛸薬師(京都市中京区新京極通蛸薬師上る東側町503)付近(石碑あり=中京区蛸薬師通小川通西南角)に広大な寺領があったが、焼失後秀吉により現地に移されました。
右写真:現在の本能寺

 天正10年(1582)、中国地方攻略中の秀吉から救援依頼を受けた信長は、自ら出陣することを決め、側近の者と本能寺に宿泊した。光秀も出陣を命ぜられ、丹波亀山城を出発したが、反転して同年6月本能寺を襲撃し、信長は自害した。当時、織田軍団の武将は各地でそれぞれ交戦中であり、光秀はそのスキを突いたかたち。変を知った秀吉は、高松城を水攻めにしていたが、素早く毛利氏と講和して京都に引き返して、山崎の戦いで光秀を破った。おりしも堺に滞在していた家康は光秀の手を辛くも逃れ、伊賀を経て本国に戻り光秀を討とうとしたが、秀吉に遅れた。このことによって秀吉は信長の後継者としての地位を一歩踏み出した。

 本能寺の変を含めて、信長ははっきり記録に残っているだけでも合計4回本能寺に滞在しました。本能寺滞在の理由は三つあるといわれています。
 (1)信長はつねづね天皇家に近づきたいと考えていたようです。信長の時代に本能寺で一番偉いお坊さんだった日承上人(文亀元年(1501)~天正七年(1579)は天皇の親戚でした。そこで信長は、本能寺に滞在し日承上人に仏教の教えをうけるとともに天皇家とのつながりを築こうと考えていました。この方のつながりで今でも本能寺の一番偉いお坊さんは菊の御紋章をつけられています。
 (2)本能寺の変当時の本能寺は今よりもっと大きく広く、またお寺の周りを高い塀と深い堀で囲い、とても安全なつくりになっていました。信長はそんな立派で安全な本能寺が気に入っていたようです。
 (3)本能寺は早くから種子島や、大阪の堺で布教活動をおこなっていたので種子島にたくさんの信者さんがおりました。その種子島に1543年に鉄砲が伝わります。このことから本能寺に依頼すると鉄砲や火薬を手に入れるのが楽だったようです。信長はそこに本能寺の利用価値を見い出し、境内地の安堵(右:禁制朱印状)を約束する代わりに鉄砲や火薬の交易の手助けを促したようです。それも信長が本能寺に滞在する理由のひとつといわれています。

 「本能寺焼討之図」 明治時代、楊斎延一画。名古屋市所蔵  左から森蘭丸、明智光秀、織田信長。

 明智光秀所用の脇差しとそのこしらえ。重要文化財、相州貞宗(号 石田貞宗)。東京国立博物館蔵。

明礬(みょうばん);(alum) 硫酸アルミニウムとアルカリ金属・アンモニウム・タリウムなどの硫酸塩との複塩の総称。一般には、硫酸アルミニウムの水溶液に硫酸カリウムを加えて結合させたカリウム明礬(化学式KAl(SO4)2・12H2O)を指す。熱すれば結晶水を失い白色無定形の粉末(焼明礬)となる。水溶液は酸性を呈し、収斂(シユウレン)性の味がある。媒染剤・収斂剤・製革・製紙など用途が広い。
 浮世絵を刷るとき、紙に膠(にかわ)と明礬を混ぜたものを塗っておくと色が暴れず綺麗に発色し、にじみのない刷り上がりとなる。また、質の悪い井戸水に明礬を入れて不純物を沈殿させ飲用に使うこともあった。  

藪畳(やぶだたみ);劇場の大道具のひとつ。木の枠に葉竹を隙間なく取り付け笹藪に似せたもの。 

花道(はなみち);歌舞伎劇場で、舞台の延長として客席を縦断して設けた、俳優の出入する道。もと俳優に贈る花を持って行くための道として、両側に竹の埒(ラチ)を結ったものに始まるなど、名の由来については諸説ある。舞台に向かって左方(下手)のを本花道、右方のを仮花道という。

蟄居(ちっきょ);江戸時代、公家・武士に科した刑。出仕・外出を禁じ、一室に謹慎させるもの。特に終身蟄居させることを永蟄居という。

烏帽子(えぼし);(烏の羽のように黒く塗った帽子の意) 元服した男子が略装につける袋形のかぶりもの。奈良時代以来、結髪の一般化につれて広く庶民の間にも用いられた。貴族の間では平常に用い、階級・年齢などによって形と塗り様とを異にした。もと羅や紗で作ったが、後世は紙で作り、漆で塗り固めた。立(タテ)烏帽子・風折烏帽子・侍烏帽子・引立烏帽子などがある。下記錦絵のかぶり物

大紋(だいもん);大形の好みの文様または家紋を5ヵ所に刺繍や型染めなどで表した、平絹や麻布製の直垂(ヒタタレ)。室町時代に始まり、江戸時代には五位の武家(諸大夫)以上の式服と定められ、下に長袴を用いた。袴には、合引と股の左右とに紋をつける。ぬのひたたれ。下記錦絵の服装。

  恵林寺を焼こうとするのを諫めた明智光秀を打ち据える織田信長の錦絵(新撰太閤記) 歌川豊宣画  
 光秀が制止したという状況はフィクションだと言われています。「三日太平記」ではここの状況がベースになっています。そして討ち入りへ。

長袴(ながばかま);裾長く足を包み、なお30cmばかりもひきずる袴。大紋・素袍(スオウ)・長上下(ナガガミシモ)などに用いる。上記錦絵の服装

中国討手(うって)の軍勢;織田信長が上洛を果たし、反対勢力(信長包囲網)の一部を滅ぼし、将軍足利義昭を追放し(室町幕府の滅亡)、天下統一事業をおしすすめていた。毛利氏と信長とは、毛利元就の代においては友好的な関係であったが、その後継の毛利輝元は義昭を庇護し(鞆幕府)、さらに最大の反信長勢力である石山本願寺と同盟し、信長への敵対の態度を強めていった。信長にとって石山本願寺を滅ぼすためにはその背後の毛利氏を屈服させる必要があったため、1578年、家臣の羽柴秀吉を総大将とする中国地方への侵攻戦(中国攻め)を開始した。この戦いに光秀は参加したいと述べた。しかし、光秀は戦いには負けが込んでいた。
 天正10年(1582)に織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中国高松城を攻略した戦い。秀吉は高松城を水攻めによって包囲したことから、高松城の水攻め(水責め)とも呼ばれる。水攻めの最中に主君である織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が起きた。その報を聞いた秀吉はただちに毛利方と和睦を結んで、城主清水宗治の切腹を見届けた後、明智光秀を討つために軍を姫路へ引き返した。

劉備(りゅうび)玄徳;三国の蜀漢の創始者。諡(オクリナ)、昭烈帝。字は玄徳。漢の景帝の皇子中山靖王の劉勝の後裔。関羽・張飛と結び、諸葛亮を参謀とし、呉の孫権と協力して魏の曹操を赤壁に破り、蜀(四川)を平定して漢中王と称。魏の曹丕(ソウヒ)が漢帝を廃するに及び、221年成都で自ら帝位に即き、国を漢と号し、呉・魏と天下を三分して争った。(在位221~223)(161~223)

小姓(こしょう);貴人のそば近く召し使われて種々の雑用を受け持った者。多くは少年で、男色の対象ともなった。森蘭丸・力丸兄弟が信長に仕えていた。

鉄扇(てっせん);骨が鉄製の扇。武士が用いた。

回り舞台(まわりぶたい);劇場の本舞台の床を円形に切って、その円形の部分を床下から轆轤(ロクロ)仕掛などで回転するようにした機構。江戸時代に考案され舞台の転換が早くなる。

 江戸時代の芝居小屋「中村座」復元模型 江戸東京博物館蔵。 右手中央の舞台に回り舞台が見える。

はじき茶筅(はじきちゃせん);茶筅髪(ちゃせんがみ)。男子の髪形の一種。室町末頃に始まる。髪を頭頂で束ね、根元から組み緒などで巻き立て先を巻き残し茶筅の形にしたもの。志村けんのバカ殿様が結っていた髷。

差し添え(さしぞえ);脇差し。下図。東京国立博物館蔵。

 

小柄(こづか);刀の鞘の差裏(さしうら:帯刀する時、体につく側)に紐で縛って差し添え、雑用に用いる小刀(こがたな)。上図の鍔のところに差してあるのが笄(こうがい=頭髪を整える物)で、その裏側に差してあったのが小柄です。東京国立博物館蔵。

ぶっ返り;歌舞伎衣裳の仕掛け。上半身の衣裳がさっと前後に割れて腰から下に垂れ、衣裳変えしたように見せること。  

ポケモン;ポケットモンスターの略:架空の小動物を戦わせるゲームソフト及び関連するメディアミックス作品の総称。ポケットモンスターのうち代表的なものは「ピカチュウ」。



                                                            2016年2月記

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