落語「本能寺」の舞台を行く 桂米朝の噺、「本能寺」(ほんのうじ)より
米朝のマクラより。これがまた面白く、オチの説明もここでしています。
まぁこの頃は楽しみとか娯楽 とかいぅものは、もぉ数え切れんぐらいぎょ~さんございますわ。昔はもぉ楽しみといぃますと、映画やなんかできますより以前ですなぁ、お芝居か寄席ぐらいなもんでございまして。
■青田(あおた);芝居用語で、マクラで語っているように「ただ見客」のこと。
長らく途絶えていたのを、三代目桂米朝が花柳芳兵衛(林芳男元落語家初代桂小春団治)から伝授してもらって、昭和56年(1981)に復活した。芝居のパロディーではなく、芝居そのものを演じなければならないため、芝居の素養がないと出来ない難しい噺です。当然、江戸落語には無い噺ですが、露の五郎兵衛も同じ噺、同じ内容で演じています。
噺の途中から歌舞伎の演出をとる東京と違って、上方の芝居噺は、東京と同じやり方のものと、扇子、手拭、見台などの小道具のみで人気狂言のダイジェスト版を舞台そのままに高座で演じるものがあります。「本能寺」は後者の代表的な演目です。
マクラのあと、「では、これから芝居がはじまります」と、演者は手拭いを引き幕として、柝の音とともに開けて行く。ここから芝居がはじまりますという演出である。そのあと演者は歌舞伎役者そのままに台詞、所作、立ち回りなどを演じ、見得のあと、簡単なクスグリをいれてサゲとなる。楽屋では下座はもちろん鳴物、ツケ打ちも待機している。東京では楽屋内に歌舞伎のお囃子が出来る人間がいないためこの様な噺は出来ない。演じる場合は、大人数で東京まで出てきて演じなければなりません。
■織田信長(おだのぶなが);戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。秀吉・家康を含む三英傑の一人。
尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏をも凌ぐ力をつけ、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑えて戦国乱世の終焉に道筋をつけた。
信長像と信長自筆の文。東京国立博物館蔵。
■本能寺(ほんのうじ);現本能寺は、京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522の京都市役所の前にありますが、本能寺の変の頃は、西洞院蛸薬師(京都市中京区新京極通蛸薬師上る東側町503)付近(石碑あり=中京区蛸薬師通小川通西南角)に広大な寺領があったが、焼失後秀吉により現地に移されました。
天正10年(1582)、中国地方攻略中の秀吉から救援依頼を受けた信長は、自ら出陣することを決め、側近の者と本能寺に宿泊した。光秀も出陣を命ぜられ、丹波亀山城を出発したが、反転して同年6月本能寺を襲撃し、信長は自害した。当時、織田軍団の武将は各地でそれぞれ交戦中であり、光秀はそのスキを突いたかたち。変を知った秀吉は、高松城を水攻めにしていたが、素早く毛利氏と講和して京都に引き返して、山崎の戦いで光秀を破った。おりしも堺に滞在していた家康は光秀の手を辛くも逃れ、伊賀を経て本国に戻り光秀を討とうとしたが、秀吉に遅れた。このことによって秀吉は信長の後継者としての地位を一歩踏み出した。
本能寺の変を含めて、信長ははっきり記録に残っているだけでも合計4回本能寺に滞在しました。本能寺滞在の理由は三つあるといわれています。
「本能寺焼討之図」 明治時代、楊斎延一画。名古屋市所蔵 左から森蘭丸、明智光秀、織田信長。
明智光秀所用の脇差しとそのこしらえ。重要文化財、相州貞宗(号 石田貞宗)。東京国立博物館蔵。
■明礬(みょうばん);(alum)
硫酸アルミニウムとアルカリ金属・アンモニウム・タリウムなどの硫酸塩との複塩の総称。一般には、硫酸アルミニウムの水溶液に硫酸カリウムを加えて結合させたカリウム明礬(化学式KAl(SO4)2・12H2O)を指す。熱すれば結晶水を失い白色無定形の粉末(焼明礬)となる。水溶液は酸性を呈し、収斂(シユウレン)性の味がある。媒染剤・収斂剤・製革・製紙など用途が広い。
■藪畳(やぶだたみ);劇場の大道具のひとつ。木の枠に葉竹を隙間なく取り付け笹藪に似せたもの。
■花道(はなみち);歌舞伎劇場で、舞台の延長として客席を縦断して設けた、俳優の出入する道。もと俳優に贈る花を持って行くための道として、両側に竹の埒(ラチ)を結ったものに始まるなど、名の由来については諸説ある。舞台に向かって左方(下手)のを本花道、右方のを仮花道という。
■蟄居(ちっきょ);江戸時代、公家・武士に科した刑。出仕・外出を禁じ、一室に謹慎させるもの。特に終身蟄居させることを永蟄居という。
■烏帽子(えぼし);(烏の羽のように黒く塗った帽子の意)
元服した男子が略装につける袋形のかぶりもの。奈良時代以来、結髪の一般化につれて広く庶民の間にも用いられた。貴族の間では平常に用い、階級・年齢などによって形と塗り様とを異にした。もと羅や紗で作ったが、後世は紙で作り、漆で塗り固めた。立(タテ)烏帽子・風折烏帽子・侍烏帽子・引立烏帽子などがある。下記錦絵のかぶり物
■大紋(だいもん);大形の好みの文様または家紋を5ヵ所に刺繍や型染めなどで表した、平絹や麻布製の直垂(ヒタタレ)。室町時代に始まり、江戸時代には五位の武家(諸大夫)以上の式服と定められ、下に長袴を用いた。袴には、合引と股の左右とに紋をつける。ぬのひたたれ。下記錦絵の服装。
恵林寺を焼こうとするのを諫めた明智光秀を打ち据える織田信長の錦絵(新撰太閤記) 歌川豊宣画
■長袴(ながばかま);裾長く足を包み、なお30cmばかりもひきずる袴。大紋・素袍(スオウ)・長上下(ナガガミシモ)などに用いる。上記錦絵の服装
■中国討手(うって)の軍勢;織田信長が上洛を果たし、反対勢力(信長包囲網)の一部を滅ぼし、将軍足利義昭を追放し(室町幕府の滅亡)、天下統一事業をおしすすめていた。毛利氏と信長とは、毛利元就の代においては友好的な関係であったが、その後継の毛利輝元は義昭を庇護し(鞆幕府)、さらに最大の反信長勢力である石山本願寺と同盟し、信長への敵対の態度を強めていった。信長にとって石山本願寺を滅ぼすためにはその背後の毛利氏を屈服させる必要があったため、1578年、家臣の羽柴秀吉を総大将とする中国地方への侵攻戦(中国攻め)を開始した。この戦いに光秀は参加したいと述べた。しかし、光秀は戦いには負けが込んでいた。
■劉備(りゅうび)玄徳;三国の蜀漢の創始者。諡(オクリナ)、昭烈帝。字は玄徳。漢の景帝の皇子中山靖王の劉勝の後裔。関羽・張飛と結び、諸葛亮を参謀とし、呉の孫権と協力して魏の曹操を赤壁に破り、蜀(四川)を平定して漢中王と称。魏の曹丕(ソウヒ)が漢帝を廃するに及び、221年成都で自ら帝位に即き、国を漢と号し、呉・魏と天下を三分して争った。(在位221~223)(161~223)
■小姓(こしょう);貴人のそば近く召し使われて種々の雑用を受け持った者。多くは少年で、男色の対象ともなった。森蘭丸・力丸兄弟が信長に仕えていた。
■鉄扇(てっせん);骨が鉄製の扇。武士が用いた。
■回り舞台(まわりぶたい);劇場の本舞台の床を円形に切って、その円形の部分を床下から轆轤(ロクロ)仕掛などで回転するようにした機構。江戸時代に考案され舞台の転換が早くなる。
江戸時代の芝居小屋「中村座」復元模型 江戸東京博物館蔵。 右手中央の舞台に回り舞台が見える。
■はじき茶筅(はじきちゃせん);茶筅髪(ちゃせんがみ)。男子の髪形の一種。室町末頃に始まる。髪を頭頂で束ね、根元から組み緒などで巻き立て先を巻き残し茶筅の形にしたもの。志村けんのバカ殿様が結っていた髷。
■差し添え(さしぞえ);脇差し。下図。東京国立博物館蔵。
■小柄(こづか);刀の鞘の差裏(さしうら:帯刀する時、体につく側)に紐で縛って差し添え、雑用に用いる小刀(こがたな)。上図の鍔のところに差してあるのが笄(こうがい=頭髪を整える物)で、その裏側に差してあったのが小柄です。東京国立博物館蔵。
■ぶっ返り;歌舞伎衣裳の仕掛け。上半身の衣裳がさっと前後に割れて腰から下に垂れ、衣裳変えしたように見せること。
■ポケモン;ポケットモンスターの略:架空の小動物を戦わせるゲームソフト及び関連するメディアミックス作品の総称。ポケットモンスターのうち代表的なものは「ピカチュウ」。
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