落語「蛙茶番」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円生の噺、「蛙茶番」(かわずちゃばん)より


 

 御店(おたな)で慰安のために芝居をやることになった。ところが、伊勢屋の若旦那がドタキャンをして顔を見せない。『天竺徳兵衛韓噺』の「忍術譲り場」、芝居大好き人間のはずだったが、くじ引きにしたら、ガマの役が当たったのが原因らしい。やむを得ず代役を、芝居大好き人間の小僧の定吉に頼んだ。役を聞いて、縫いぐるみで誰だか分からないが、それでもヤダとの返事。仕方が無いので特別に小遣いを弾んで納得させた。

 舞台番の半次(半公)がまだ来ない。半次が来ないことには幕が開かない。定吉に迎えに行くように頼んだが、半公は怒って、「役をやらせてもらえると思ったら舞台番だったので面白くない。さらに店の旦那に『いつか化物芝居の座頭をやるなら頼む』とまで言われた」と、行かないと駄々をこねている。
 定吉は、番頭に報告すると、もう一度行ってこいと言われ、「半公が岡惚れしているタバコ屋の娘・みぃ坊の名を使って半次を釣れ」、「半公はみぃちゃんと言っただけで、ヨダレを垂らすんだ。でもタビ屋の看板なんだ」、「それって何だ」、「片っぽだけ出来ている」。「道でみぃちゃんに会ったので、半さんのことを言ったら、顔を赤くして『白粉塗りたくった素人役者なんかより、半ちゃんの粋な舞台番を観たいわ、と言って駆け出して行ったよ』、と半公に吹き込め」と作戦を立てられた。

 「半さん、また来たぜ」、「何回来ても行かないよ」。番頭さんが言ったみぃちゃんの話をすると、半公乗ってきてグズグズになって、行くと約束をした。
 それにはフンドシをこれではいけないので、祭りの時締めた緋縮緬を締めたいが、質屋に置いてある。お釜を置いて請け出してくる。
 見栄坊なヤツでして、真っ直ぐ御店に行けば良かったのですが、湯屋に飛び込んで、「舞台番やるんでこのフンドシ見てくれよ。物は良いだろ。町内広しといえどもこれだけの物を持っているのはいないだろう。目方があって、くわえて引っ張るとチャリチャリと音がして、縮むんだ。おやじ、油っ紙はねぇかな。フンドシを包んで、頭に結わいつけて湯に入(へ)えるんだ」、「それじゃ川越しだ。御心配なら番台で預かりますよ」、「後ろの神棚にでも上げといて・・・」。
 半公が湯に入って一生懸命洗っていると、定吉が探しに探して、駆け込んできて、早く店の舞台に来るように「早く来ないと、みぃちゃんが帰っちまうョ」と、再度急がす。慌てた半公、身体もきちんと拭かず、番台に預けたフンドシを忘れて表に駆け出した。

 途中、出入り先の頭(カシラ)に出会った半公は、舞台番だから表は地味に中を派手にしたんだと、着物のスソをまくり、「見せてあげようか。良く見てくれよ」、「分かったよ。しまいなよ」、「見てくんな。立派な物だろう。町内広しと言えどもこれだけの物を持っているのはいないだろ。それに目方がある。くわえて引っ張ってみてくれ」、「誰がくわえるものか」、「後で見に来て下さいよ」。前をまくったまま駆け出して行った。

 「遅くなりました」、と言うことで幕が開いた。稽古が積んでいるから、舞台は順調に進んで観客は芝居に釘付け。半公は、みぃちゃんを捜したがどこにも居ない。舞台番に視線が集まるように「ショショショイ、ショイ!子供は騒いじゃイケネ~。イッシ!」、「役者は良いが、舞台番一人が騒いでいるョ」、「その舞台番をごらんよ」、「笑っていないで・・・。見ろと言ったっ・・・。えぇ、本物かい」、「本物みたいですね」、「野郎、アレが見せたくて、さっきから騒いでいるんだな。褒めてやりましょう。ヨォ!、半次、御趣向、日本一。大道具」。褒められたものですから、前に出てくる。その内客席がクスクス、ゲラゲラと湧き出した。何処がイイのか素人芝居ですから分からない。
 おいおい芝居も進んで、いよいよ忍術譲り場。太鼓で大ドロが鳴り響き、ガマの登場になるはずが、ガマ役の定吉が舞台袖から舞台へ向かおうとしない。「定吉、カエルが早く出なくてはダメだよ」、
「出られません。あすこで青大将が狙ってます」。

 



ことば

天竺徳兵衛(てんじゅくとくべえ);ここに登場する芝居は、正式な外題を「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえぃ・いこくばなし)」といい、現在も市川猿之助のレパートリーになっています。寛永10年(1633)、貿易商角倉与市の船子頭、高松徳兵衛の書記として天竺(インド)に渡り、『天竺聞書』を残した天竺徳兵衛を主人公にした作品が多く生まれた。四代目鶴屋南北(1755~1829)の『天竺徳兵衛韓噺』はその集大成、文化元年(1804)7月、河原崎座で初演された。

 【天竺徳兵衛韓噺】 歌舞伎脚本。時代物。五幕。四世鶴屋南北(つるやなんぼく)作。文化元年(1804)7月、江戸・河原崎(かわらさき)座で初世尾上松助(おのえまつすけ=松緑)が初演。寛永年間(1624~44)天竺(インド)へ渡り、天竺徳兵衛といわれた船頭の巷説(こうせつ)「天竺徳兵衛物語」を脚色したもので、近松半二(はんじ)作の浄瑠璃『天竺徳兵衛郷鏡(さとのすがたみ)』を下敷きにした作。天竺帰りの船頭徳兵衛が自分の素姓を吉岡宗観(そうかん)実は大明(だいみん)の臣木曽官の子と知り、父の遺志を継いで日本転覆の野望を抱き、ガマの妖術を使って神出鬼没、将軍の命をねらうが、巳(み)の年月そろった人の生き血の効験によって術を破られる。原作には徳兵衛に殺された乳母五百機(いおはた)の亡霊が現れる怪奇な場もあり、松助が二役で勤め評判になったが、その後、三世尾上菊五郎の再三の上演ごとに脚本も改訂され、五世・六世の菊五郎に継承されて尾上家の芸となり、普通『音菊(おとにきく)天竺徳兵衛』の外題で「宗観館」「同水門」「滝川館」の二幕三場が上演されている。草双紙趣味豊かな舞台で、「水門」でガマから引き抜いた徳兵衛の引込み、「滝川館」で本水を使い、越後座頭に化けた徳兵衛が偽上使になって登場する早替りなどが見もの。[松井俊諭]
 日本大百科全書(ニッポニカ)より 

右図:『市村座三階之圖』(歌川国貞画)より四代目鶴屋南北。

 この「天竺徳兵衛」さんは、慶長17年(1612)- 没年不詳)は、江戸時代前期の商人、探検家。 人物。播磨国加古郡高砂町(現在の兵庫県高砂市)に生まれる。父親は塩商人だったという。 寛永3年(1626年)、15歳の時に京都の角倉与市の船頭「前橋清兵衛」さんの書役として朱印船貿易に関わり、ベトナム、シャム(現在のタイ)などに渡航し、さらにヤン・ヨーステン(東京の八重洲の地名の由来となった元船員。落語「熊の皮」で取り上げています)さんとともに天竺(インド)へ渡り、ガンジス川の源流にまで至ったという記録が残っておりますことから「天竺徳兵衛」と呼ばれるようになった。徳兵衛さんの帰国後、江戸幕府が鎖国政策をしいた後に、徳兵衛さんは自身の見聞録「天竺渡海物語」を作成し、長崎奉行に提出した。鎖国時に海外の情報は物珍しかったため世人の関心を引いたんですが、どうも嘘くさい話が混じっていたようで、内容には信憑性を欠くものが多いとされています。 で、九十数才で死去した後に徳兵衛さんは何故か伝説化し、江戸時代中期以降の近松半二の浄瑠璃「天竺徳兵衛郷鏡」や、四代目鶴屋南北の歌舞伎「天竺徳兵衛韓噺」で主人公となり、妖術使いなどの役回しで人気を博した。この徳兵衛さんまるで落語「弥次郎」の主人公みたいです。

    

  上図:天竺徳兵衛、17世紀の肖像画。中:歌川国芳によって描かれた徳兵衛。 右:同じく国芳によって描かれた歌舞伎の登場人物としての徳兵衛。多くの絵で大蝦蟇が描かれて、まるで児雷也みたいな風体です。

 43編からなる長編の合巻作品の主人公、児雷也はもともと肥後国で栄えた豪族の子孫である尾形周馬弘行(おがた しゅうま ひろゆき)で、信濃国で育つ。その後、雷獣を退治するなどしてその勇力の頭角を現わす。その後、蝦蟇をあやつる妖術を身につけ、児雷也を名乗り、各地で活躍する。のちにはナメクジをあやつる術をつかう綱手(つなで)や、蛇を自在にあやつる宿敵大蛇丸も登場し、カエル・ヘビ・ナメクジの三すくみの展開を繰り広げる。児雷也と綱手たちは一時、大蛇丸に敗れるも戦闘を続ける。 

  

左;「天竺徳兵衛韓噺」合本より。 右:「児雷也」より、ガマに乗る児雷也。

芸談;三代目三遊亭金馬は、大正末期、関東大震災後、神田立花亭主で独演会をやった際に、『蛙茶番』を口演し、当時春風亭小柳といった三代目桂三木助を客席に入れておき、忍法ゆずり場で、いよいよ徳兵衛が九字をきった所で、三木助が客席のなかから「蛙がでないじゃないか」というと、高座の金馬がこれをうけて、「出ないはずで、舞台番の股倉から青大将がのぞいております」とオチをつけたという。当時としては、まことに思いきった派手な演出で、この噺の陽気なムードとも、金馬のあくまでも明るい芸風ともよくマッチしたアイデアとも言えよう。(興津要)
 サゲにいたる展開で戦時中は禁演落語として自粛対象となった。その為、明治のころ、これを口演した円朝のライバル・ 初代談洲楼燕枝を始め、 戦前にはかなりの落語家が警察署に呼ばれ、油をしぼられたといいます。
 三遊亭圓生は、あたしは半次ッて男をハネ上がりのおっちょこちょいに聞こえるように演ってェますが、昔は、ハネ上がりだとかハネッ返りという言葉をよく使いまして、何か人のおだてに乗って「おうゥッ」てんで、馬鹿げたことでも「おめえならやれるから、やってみねえ」てんで、すぐに煽動に乗るような人物にしてますよ。

舞台番(ぶたいばん);江戸時代の劇場従業員のひとつ。明治中期まで存続した。舞台下手の角ござの上に座し、場内整理に当ったもの。
 半次が言うには、おめぇは知るめぇがよぉ、舞台番てぇなぁ舞台の端っこに半畳ってぇ四角い畳敷いてその上にクルッとケツを捲くってこうやって座ってやるんだよ。そこで見えるのがホラ、フンドシだ。場内がざわついたときに制止したり、場内整理するのが舞台番だぁ。貴方が主役ではありません。

 明治に入ってからも「舞台番」を置いた。舞台の左側に半畳敷きの上に座っています。江戸東京博物館蔵。
 

 「江戸期の中村座」 江戸東京博物館蔵。 実物大の再現建物。ここで演じられる芝居を仲間内で再現したかったのでしょう。

素人芝居(しろうとしばい);役もめは必ず有るものです。小僧の定吉ですら、ガマの役はヤダと言っています。伊勢屋の若旦那だったらもっとイヤでしょうね。
 六代目三遊亭圓生のマクラから、仮名手本忠臣蔵の五段目、通称「鉄砲渡しの場」をやろうとして配役を話し合うと、人気の早野勘平役に集中してしまう。もめにもめて、らちが明かないので、頭取役は志願者全員に勘平役を振ってしまった。幕が開くと鉄砲担いだ勘平が30人ばかり。驚いた客が「あれは何です」、「ああ、さしずめカンペイ式(観兵式)でしょう」。
 また、落語家は12月は閑なものですから、よくお芝居をしたものです。役決めの時に必ず、その役では・・・とは言わないが、方便を付けて出来ないと言います。どうしてもバランスが悪くなってしまいますが、お遊びですから、人気の役を回すと二つ返事で「やらさせていただきます」と答えが返ってきます。超有名な落語家さんなんですがね~。みんな伊勢屋の若旦那なんです。

茶番(ちゃばん);ばからしい、底の見えすいたふるまい。茶番劇。

緋縮緬(ひ じりめん);緋色のちりめん。江戸っ子は、「ひ」が発音できなくて、「しじりめん」と訛っています。縮緬は絹織物のひとつ。経糸(タテイト)に撚のない生糸、緯糸(ヨコイト)に強撚糊つけの生糸を用いて平織に製織した後に、ソーダをまぜた石鹸液で数時間煮沸することによって緯の撚が戻ろうとして布面に細かく皺をたたせたもの。口にくわえて引っ張り、放すとチリチリといって縮みます。

油っ紙(あぶらっかみ);油紙(ユシとも)。 桐油(トウユ)または荏油(エノアブラ)をひいたコウゾ製の和紙。防水を目的とする荷造り用または医療用。桐油紙。

青大将が狙ってる;ヘビ(青大将)はカエルを食用としているので、ヘビの前に出たら食べられてしまうと定吉は心配したのでしょう。青大将は半公の股ぐらの間にいます。



                                                            2016年2月記

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