落語「鹿政談」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「鹿政談」(しかせいだん)


 

 奈良、三条横町(よこまち)の豆腐屋の六兵衛さん。今朝も暗いうちから起きまして、臼を挽きまして、絞った絞りかす、キラズの桶を表へ出して、二番目の臼をゴ~ロ ゴ~ロと挽ぃてると、ドサッと音がした。ヒョッと見たら、キラズの桶ひっくり返して犬がムシャムシャ食べてる。朝っぱらから商売もんを食われるのはゲンが悪い「シイッ! コラッ!」と追ぉたが動かんので、傍らにあった薪(まき)をつかんで投げつけると、ドサッと倒れたっきりジッとして動かん。
 「え?あんなことぐらいで・・・」と出て見ますといぅと、これが犬ではなかった、鹿でございます。ビックリして介抱したが息が止まってる。「嬶(かか)、嬶、えらいことした」、「何がいな?」、「鹿を殺してしもたがな」、「何やてあんた、奈良に住んでて鹿を殺すやなんて・・・」、「犬じゃと思たんや、鹿とは思わなんだじゃが、息が止まってる。どぉしょ~?」。律義な夫婦で、寝てる人の家の前へ持って行く、てなことはよぉしまへんなぁ。二人揃ろぉてオドオドしながら、「どぉしょ~、どぉしょ~」と言ぅてるうちに、朝の早い奈良の町、一軒二軒と起き出した。「豆腐屋の表で鹿が死んでる」、町中大騒ぎになります。

   町役人、町役連中、今で言ぅと町内会長とかそんな人が寄って来て、「これ、どないしょ~なぁ? ぎょ~さんもぉ見てしもたがな。いまさら誤魔化せん。可哀想だがしょ~がないなぁ」、目代(もくだい)屋敷へ言ぅて行きますと、役人が来て、縄を打たれて六兵衛さん引っ立てられます。そこで目代屋敷の方では鹿の守役塚原出雲といぅのと、興福寺の伴僧良念、二名が連署をいたしまして、お恐れながらとこれを奈良の町奉行所へ届けました。その時のお奉行さん曲淵甲斐守(まがりぶちかいのかみ)といぃまして、のちにこれが名奉行と言われた人。さっそくお白州が開かれます。

 白州は奉行が直々に調べるところ、鹿殺しは奈良では大罪でございます。正面に奉行、与力連中が側(そば)に居ります。一段下がったところに同心が二人恐ぁい顔して座ってます。原告の塚原出雲と僧良念は一段下がって縁側のところに座らされてる。砂利の上のゴマメムシロといぅ目ぇの粗いムシロへ六兵衛座らされる。後ろの方には町役連中がズラッと並んどぉります。
 「豆腐屋六兵衛、面(おもて)を上げぇ。その方、何歳に相なるな?」、「四十二でございます」、「そちゃ生まれはどこだ?」、「私は奈良三条横町で・・・」、「あぁ待て、三条横町はその方が住まいをいたすところ。奉行、生まれ在所を聞ぃておる。落ち着いて答えねばならんゾ。生まれは何処であるか?」、「わたしは奈良三条横町で・・・」、「控え!。お白州へ出れば上のご威光に押されて、うろたえた返答をなす者がある。落ち着かねばならん。そちゃ奈良の生まれではあるまい。生まれ在所を真っ直ぐに申し上げィ」、「お情けのこもりましたお言葉、涙が出るほど嬉しゅ~ございますが、私は嘘をよぉつかん性分で、爺々の代から三代、三条横町で豆腐屋を営んどります六兵衛に相違ございません」、「三代にわたる奈良住まいとあれば、鹿を殺せばどのよぉなことになるか存知おろぉ。その方、いかなる意趣遺恨をもって鹿を殺したか、真っ直ぐに申し述べョ」。
 「相手が鹿のこって、意趣も遺恨もあるはずがございません。今朝もいつもとおんなじよぉに暗いうちから起きて、豆、挽ぃとりましたらドサッと音がした。ヒョッと見たらキラズの桶ひっくり返して、犬がムシャムシャ食べとります。まだ商いせん先に、商売もん食われんのはゲンが悪い。『シイッ!』と追ぉたが動かんので、そばにあった割木つかんで投げつけますとドサッと倒れてジッとしております。『あんなことぐらいで・・・』と思いながら出てみますといぅと・・・、犬にはあらでこれ鹿、南無三宝、薬はなきかと懐中を・・・」、「控え、それは忠臣蔵六段目である」、「いろいろと介抱いたしましたが息吹き返しまへん。鹿殺したらどないなるかはよぉ存知とぉります。私は覚悟しとりますが、あとに残りました女房や子どもには、ご憐愍(れんみん)の沙汰願わしゅ~存じます」。
 「神妙なる申しじょ~である。鹿の死骸をこれへ持て。薦(こも)を跳ねェ」、「ハッ」。
 「ム・・・、奉行これより見るところ、なるほど毛並みは鹿に良く似ておるが、しかし、これは犬ではないか?一人(いちにん)の鑑定にては心もとない・・・。おぉ、そちゃどぉ見る?」、「はッ、手前もこぉ見ましたるところ、これは毛並みの鹿に良く似た犬かと存じます」、「ほぉ、そちもそぉ見るか・・・。その方はどぉ見るな?」、「おッ、手前もこぉ見ましたるところ、これは鹿に良く似てはおりますが・・・、犬かと心得ます」、「おぉ、そちもそぉ見たか。町役連中はどぉ見るな?」、「もぉ私ら、どっちゃでもえぇこってございますのんで・・・」、「そのよぉな胡乱(うろん)なことを申さず、とくと見定めて返答いたせ。どうじゃ」、「次右衛門さん、こら犬や」、「犬やがな、犬やがな。三次郎はん、こら犬や」、「犬や犬や、最前ワンワンと鳴いたがな」、「嘘つけお前、死んだもんが鳴くかい」、「それが、あまりのありがたさに嬉し泣きをしましたよぉなこってございます。犬に相違ございません」。
 「んッ、町役連中も犬と見たか。奉行も犬と見た。与力どもも犬と見た。いやなに、塚原出雲、その方もお役目大事と心得たればこそ、すみやかに届け出でたるものであろぉゆえ、粗忽(そこつ)の儀は咎(とが)め立てはいたさんが、これは毛並みの鹿に良く似た犬である。犬を殺したる者に咎はない。書類は取り下げてよろしかろぉ」。

 「恐れながら塚原出雲、申し上げます。手前、長年鹿の守役を務めてまいりました。いかに毛並みが似たればとて、犬と鹿を取り違えるよぉなことはございません。今一度、とくとお改め願わしゅ~存じます」、「しかし、鹿にしては肝心の角が無いではないか?」、「これはお奉行様のお言葉とも心得ません。総じて鹿と申すものは、春、若葉を食し、その精の強気に当たるものか角を落とします。これを鹿の落とし角、こぼれ角などと申して俳諧の手提灯、言葉歌語(このはかご)なんぞにも載っております。角の落ちたる跡をば、袋角または鹿茸(ろくじょ~)などと称え・・・」、
 「黙れッ!奈良の奉行を務むる身が、鹿の落とし角、袋角を存知おらぬと思いおるか。俳諧の講釈聞きとぉない。これをその方あくまでも鹿と言ぃ張るならば、尋ねんければならぬことがある。鹿には年々、上より三千石の餌料が下しおかれおる。しかるに、その餌料の内を金子に替え、奈良の町人どもに高利をもって貸し付け、役人の権柄(けんぺぇ)にて厳しく取り立つるゆえ、難渋いたしおる者あまたあること、奉行の耳にも入りおるぞ。三百頭内外の鹿に、三千石の餌料ならば、鹿の腹は満ち満ちておらんければ相ならん。それを碌様(ろくざま)餌も与えぬまま、鹿はひもじさに耐えかね町中をうろつき回り、畜生の悲しさとて、豆腐屋においてキラズなんぞを盗み食ろぉに相違あるまい。いかに神鹿と言えども賊類である。打ち殺しても苦しゅ~ないと奉行心得る・・・。その方、これをあくまで鹿と言ぃ張るならば、犬か鹿かはさて置き、餌料横領の方より吟味いたそぉか、どぉじゃ! これは犬か鹿か? 返答いたせッ!」。
 「おぉ、その儀につきましては・・・、いや、平にひらに・・・、そのぉ~早い話が・・・」、「何を申しておる。その方とてお役目大事と心得たればこそ、すみやかに届け出でたるものであろぉゆえ、奉行において粗忽の儀は咎め立てはいたさんと申しておる。今一度、性根を据えて犬か鹿かの返答いたせ・・・、これは犬か?」、「はッ・・・」、「鹿か?」、「はッ・・・」、「犬か鹿か?」、「犬・・、鹿・蝶~かと」、「何を申しておる?」、「恐れ入りましてござります。全く手前の粗忽より、毛並みの鹿に似ましたる犬を、鹿と取り違えてお届け申したに相違ございません。粗忽のゆえ、平に、お許し願わしゅ~存じます」、「しからば、これは犬であるな」、「犬に相違ございません」。
 「が・・・、良く見れば鹿のよぉなところもあるなぁ」、「はッあ?」、「額に二か所、角の落ちたるよぉな跡がある。あれは何じゃ? こりゃ、よく承れ。鹿と申すものは総じて、春、若葉を食し、その精の強きに当たるものか角を落す。これを鹿の落し角、落ちたる跡をば鹿茸などと申すが、それでも犬か? あの跡は何じゃ?」、「あれは、腫物(しゅもつ)が、出来物が二つ並んで出た跡かと心得ます」、「ん、よくぞ申した。しからばいよいよ犬であるな」、「犬に相違ございません」。
 「犬を殺したる者に咎はない。書類は取り下げてよろしかろぉ。裁きはこれまで。一同の者、立ちませ・・・」。
 「六兵衛、待て。その方は豆腐屋じゃなぁ、キラズ、にやるぞ」、「はい、マメで帰ります」。

 


 

マクラの噺;このマクラの部分が半分以上占めていて、噺を膨らませています。
 昔から三都の名物を読んだ歌なんといぅのがありまして、自慢をしたらしぃ。三都といぅのは江戸と京都と大阪でございますが、江戸はやっぱり侍の町で、それらしぃもんが並んどりますなぁ「武士、鰹、大名小路、生鰯、茶店、紫、火消、錦絵」と言ぅてね、これが江戸の名物やっちゅうんですなぁ、紫ちゅうのはやっぱり江戸の色らしぃ。京都へまいりますといぅと「水、壬生菜、女、羽二重、御簾屋針、寺に、織屋に、人形、焼物」といぅ、これが京都の名物で、みすや針といぅのは今でもございますが、三条の縫い針の針なんですなぁ。大阪へ行きますといぅと「橋に船、お城、芝居に、米相場、総嫁(そぉか)、揚屋に、石屋、植木屋」といぅ。米相場はこれはもぉ、日本国中の米の値段を堂島で決めてたっちゅうんで。もぉひと足のばして奈良へ行きますといぅと、こらやっぱり代表選手は大仏さんでございます「大仏に、鹿の巻筆、霰(あられ)酒、春日灯篭、町の早起き」といぅて、大仏さまは五丈三尺五寸てなこと言ぅたんですな、とにかく金(かな)仏さまでは世界一、手のひらの上でおどりが踊れると言ぅんですなぁ。
  見るものにして尊ばずとは、うまいこと言ぅたもんで、ずっと昔のことですが、あの大仏さんの目玉が、腹の中へ落ち込んだことがあったそぉです。近々東大寺で法要があるといぅのに、大仏さんの目が片一方、ブランとこぉなってしもた。「こらえらいこっちゃ」ちゅうんで坊(ぼん)さん寄って相談したんですけど、足場組むだけでも一日ではとても難しぃ、修理してる間ぁがない「どぉしょ~、どぉしょ~」と言ぅてると、子どもを一人連れた職人風の男がやって来て、これを十両で請け負うと言ぅ。どぉやって直す?「十両くれたら直す」、「足場は?」、「足場なんか要らん」、「何日ぐらいかかる?」、「そんなもん、一刻(いっとき)もかからん」といぅので十両の金を渡すと、先に鉤金(かぎがね)の付いた綱を取り出しまして、こいつをピュ~ッと振り回してたかと思うと見当付けてツ~ッとやると、これが目の縁へグッと引っ掛かった。傍らの柱に結び付けて子どもに「行け」と言ぅと、こいつがその綱にぶら下がりましてスルスルスルスルッと目のとこまで行く。体内へ入ります。あの体内には創建以来か何か知らんけど、足場があるんやそぉで、そこへ身を乗せますと鉤金なんか要らんとポ~ンとほってしもて、垂れ下がってる目玉をグッと押し込んで、腰に差してた金槌でカンカンカンカ~ンッ・・・。 目玉の修理はでけたけど、子供は中へ閉じ込められてしもた。「おい、えらいことなったで。あの子はどぉなるんかいなぁ?」みんなが心配してると、こいつが鼻の穴から出て来たそぉで、賢いやっちゃなぁちゅうて、それから賢い人のことを『目から鼻へ抜ける』といぅ言葉がでけた。といぅ・・・。

  あの大仏さんの次に奈良で目に付くのは鹿でございますなぁ。昔から『鹿の数と灯篭の数を数えた者は長者になる』と、こぉ言ぅんですが、未だに長者になったちゅう話も、数えたちゅう話も聞きませんが、そら鹿ちゅうやつは勘定しにくいですわなぁ、みなおんなじよぉな顔してるしね、動き回んねさかい「確(しか)とは分からん」ちゅうことになってます。 ほな灯篭は動かへんさかい勘定ができそぉに思うんですが、興福寺から春日大社へかけて、まぁいたるところに灯篭があります。見上げるよぉな大きぃやつから、こんな小さな可愛(かい)らしぃものもある「あッ、こんなとこにもあった、あすこにも」なんて言ぅてるうちに、新規に奉納されたりするさかい「とぉろぉ分からなんだ」いぅのが結論になってる。
  あの鹿が、神鹿(しんろく)と称(とな)えまして春日さんのお遣いと言ぅんですねぇ、昔の神さんや仏さんはお遣いとかお遣わしといぅのがございました。お稲荷さんと狐とか、弁天さんと蛇とかいろいろとございます。春日さんといぅ神さんは伝説によりますと太古の昔、常陸の国から鹿に乗って大和へやって来た。といぅ言ぃ伝えがあるんやそぉで、明治維新になりまして神仏が分離するまで、神仏習合といぅて春日大社と興福寺はおんなじもんやったんですなぁ、坊さんも神主っさんもイケイケなってた。

 その時分、徳川幕府から一万三千石といぅ禄(ろく)が出とぉりまして、そのうち三千石といぅのは鹿の餌料でございます。餌代が三千石、残り一万石で興福寺と春日さんの賄いをやってた、鹿は偉いもんでございます。目代(もくだい)屋敷といぅところに鹿奉行といぅのが居りまして、三千石を預かって鹿の管理をしておりました。さぁ、こいつを殺したりしたらえらいことになりますなぁ、石子詰(いしこづめ)といぅ、あれは平安朝時分の古ぅい話やそぉですが、三作といぅ子どもが手習をしてたんですなぁ。その時分は紙は高価なもんでございますので、清書に使う白紙を一枚大事に取っといて、真っ黒になった上、何回も何回もお習字をしてたところが、鹿が来てこの取っておいた白紙を食べてしまいました。その頃の紙は羊やのぉても鹿でも食べまんねやなぁ。三作が怒って「何をする」と文鎮を掴んで投げ付けると、当たり所が悪ぅて鹿が死んでしまいました。そこで、鹿の死骸と生きてる三作の体をグルグル巻きにして、十三尺掘った穴んなかへこいつを落とし込んで、上から石やら土やらで生き埋めにしてしもぉたといぅ。まぁ残酷な話ですがホントか嘘か知りませんが、奈良公園の辺りをウロウロしてますと「十三鐘」と書いた棒杭が目に入ることがあるかと思いますが、あすこに「三作の墓」といぅのが今でも残っとります。せやさかい、昔は大事にしたんですなぁ、鹿殺したちゅなことになるとえらいことになる。

  とにかく、朝起きて表に鹿が死んでたりしたら「こらえらいことや、どぉしょ~? 隣まだ寝てるわ、隣へ持って行け隣りへ」、隣りの家が今度「あッ、鹿が死んでる・・・、向かいまだ寝てる、向かいへ持って行け」、ウカウカ朝寝してたら、どんな目に遭うや分からん。ほで『春日灯篭、町の早起き』と言ぅて、町の早起きが名物になったといぅぐらいで。放してある鹿は皆大事にした。噺家と鹿は大事にした。
  まぁそぉいぅ朝の早い奈良でも取り分けて早い商売が豆腐屋さん。今のよぉに冷蔵庫があるわけやなし、防腐剤があるわけやなし、朝ご飯に間に合わさないかんといぅので、午前2時ぐらいにはもぉ十分仕事をしてないけませんわなぁ。で、こぉ朝早よぉ起きて豆を挽きます。豆乳を絞ってこしらえますなぁ。これを苦汁(にがり)といぅもので固めたらお豆腐にする。絞りかすはオカラですわ。オカラのことを関東の方では「卯の花」と言ぃまして、関西では昔 「キラズ」と言ぅた。卯の花は分かりますわ、白ぉてパラパラとなって卯の花みたいやけど、キラズが分からん「何でキラズと言ぃまんねん?」と聞ぃたら「豆腐は切って食べる、オカラは切れへんさかい切らずや」何でそんな苦労して言ぃ換えんならんかいぅと、カラといぅ言葉はゲンの悪い言葉でしてね、ことに我々のよぉな興行ものの世界で客席が空てな、こんな困ったことはないんで、これを言ぃ換えるんですな、キラズと。
  むかし楽屋で「オカラ買ぉてこい」てなこと言ぅたら張り倒されたもんで、「なんちゅうゲンの悪いことぬかすねん。キラズを買ぉてきて、オオイリにせぇ」あれ、炒りつけるよぉにして炊くもんでっさかいな「キラズで大炒りにせぇ」芸人ちゅうもんはしょ~もないことで喜んでた、空と大入りえらい違いやさかい。
  最前からチンチキ鳴ってるチャンチキの鉦(かね)、あれ元来は伏せ鉦なんですが、楽器に使う場合は裏側を摺り鳴らしますので、あれ「摺鉦」と言ぅんです。こらもぉ楽屋の言葉でスルといぅのはゲンが悪い「すってしもた」とか。で、あれを我々「当たり鉦」とこぉ言ぃます。当たるといぅ言葉は縁起がよろしぃわなぁ、「興行が当たった、大当たりをした」なんか言ぅんですなぁ。摺るを当たるに言ぃ換えます。すり鉢のことを当たり鉢と言ぅ、「よく当たりまして」とか、料理番組で言ぅたりするんですなぁ。硯箱のことを当たり箱と言ぅたりする、これも当たる。スルメのことをアタリメと言ぃますが、スリッパのことをアタリッパ言ぅたやつがありました。まぁ、何でも言ぃ換えりゃえぇっちゅうもんでもない。

  不思議に忌み言葉は逆にいたします。浪速の葦(あし)といぅ植物がある、水際に生えてます。葦(あし)は「悪し」悪いといぅ意味になるので、あれを「葦(よし)」と言ぃ換えますなぁ。bad(バット=ダメ) が good(グッド=イイ) になるわけです。よしず張りの葦、葦葦(よしあし)は一緒でございます。 江戸の吉原、むかし花魁(おいらん)が威張ってたところ。あら一面に葦が生えてて葦原やったんですが、あぁいぅ客寄せ場所に「あしはら」はいかんといぅので「吉原(きつげん)」良い文字を当てまして吉原になったと。梨といぅ果物がある。無いといぅのはゲンが悪いさかい、あれは昔「有りの実」なんか言ぅてね、無いが有るに換わるんですなぁ。

 ここから本題に入っていきます。(前記の概略をご覧下さい)

 

ことば

三都と奈良の名物人によって若干ニアンスが変わりますが、米朝さんが言うところの名物は、
江戸:「武士、鰹、大名小路、生鰯、茶店、紫、火消、錦絵」。続けて、「火事、喧嘩。伊勢屋、稲荷に犬のくそ」。
京都:「水、壬生菜、女、羽二重、御簾屋針、寺に、織屋に、人形、焼物」。
大阪:「橋に船、お城、芝居に、米相場、総嫁(そぉか)、揚屋に、石屋、植木屋」。
奈良「大仏に、鹿の巻筆、霰(あられ)酒、春日灯篭、町の早起き」。

詳細は落語「二番煎じ」で解説しています。

奈良の鹿;和銅13年(710)年藤原不比等が氏神として春日大社を創建する際に鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)から勧請した神が白鹿に乗って春日山に入ったという言い伝えから、神の使いとして大切に保護されてきました。
しかし、鹿島神宮の鹿は戦後全滅して、春日大社から逆にもらい受けています。

御簾屋針(みすや針);米朝は「みっしゃ針」と発音しています。福井御簾屋針で、中京区三条通河原町西入る。慶安5年(1651)、後西院天皇より御簾屋針の称号を賜わり商標とする。
 のれん分けして、京都御簾屋針本舗・三栖屋忠兵衛として創業。ほかにも「本家本みすや針」などがあり、現在、京都以外でも作られ「みすや針」の名称は商標ではなく普通名詞となっている。

総嫁(そうか);江戸時代、京坂地方で夜、街頭に立って客を引いた下級の娼婦。辻君(つじぎみ)。江戸でいう夜鷹。

揚屋(あげや);江戸時代、太夫・格子など上級の遊女を呼んで遊ぶ家。江戸の名物には吉原や揚屋、惣嫁は出てきませんが、大坂では名物の比重が高かったのでしょうか。

巻筆(まきふで);芯を立てて紙で巻き、その周囲に獣毛を植えて穂を作った筆。明治初期まで和様書道で使われた。

霰(あられ)酒;焼酎に浸して乾燥させたあられ餅を味醂に加え、密封して熟成させた酒。奈良県の特産。

五丈三尺五寸;約16.2m。実際の奈良の大仏は諸説あるが像高約14.85m。

奈良の早起きは落語家のギャグ;で、鹿が原因だけではありません。昔は太陽が上がったら起きて、沈んだら燃料が高価ですから寝るだけです。奈良に名物として残ったのは太陽と一緒に生活していたんでしょうナ。(米朝の談話より)

神仏習合(しんぶつ しゅうごう);日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神がまつられたり、神社に神宮寺(別当寺)が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(すいじゃく)説が流行し、両部神道などが成立した。神仏混淆。
本地垂迹説:日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済のために姿を変えて迹(アト)を垂れたものだとする神仏同体説。平安時代に始まり、明治初期の神仏分離により衰えた。

神仏分離令(しんぶつ ぶんりれい);明治元年(1868)3月、明治政府によって出された、古代以来の神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(きしゃく)運動が起こった。神仏判然令。

イケイケ;相殺。勘定が差し引きなしになる。「行き行き」であろう。また、隣家との境に何の設備もなく互いに行き来できる場合にもいう。

(ろく);官に仕える者に支給される手当。俸禄。

(こく);体積の単位。米穀などを量るのに用いる。1石は10斗、約180リットル。かつて、大名・武士の知行高を表すのにも用いた。米相場の変動はあるが、米一石=金一両。 鹿の餌料=三千石は三千両に相当し、1両=8万円とすると、現在の価値換算で約2億4000万円。 全額餌料としたら鹿は肥満鹿になって豚に角を突けたようになってしまいます。

興福寺(こうふくじ);奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
 右写真:興福寺五重塔と東金堂(共に国宝)。
 鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は守護を置くことができなかった。よって大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って織田豊臣政権に屈し、文禄4年(1595)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1000余石とされた。
 無数の火災に遭っているが、その都度再建されてきた。「鹿政談」では悪役、そのせいで(?)、神仏分離では大打撃を受け寺域を失った。1998年に世界遺産に登録された。

春日大社(かすがたいしゃ);奈良市春日野町160。春日大社は神護景雲2年(768)、平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建された神社です。 春日山原始林に続く御蓋山の西麓に鎮座する藤原氏の氏神を祀っています。神が白鹿に乗って 奈良の地においでになって以来、鹿は神の使いとされています。 平成10年(1998)、古都奈良の文化財として春日大社と春日山原始林が世界遺産として登録されました。興福寺との一心同体で隣同士にあったが、神仏分離で別の道を歩くことになった。右写真。

目代屋敷(もくだいやしき);室町時代以降、目付(めつけ)のこと。国の地方管理事務所(国司代理が詰めている) 。江戸幕府も手出しが出来なく、興福寺の僧が国司代理として詰めていた。

石子詰(いしこづめ);罪人を生きながら穴の中に入れ、さらに多くの小石を入れて埋め殺す厳刑。中世、私刑(リンチ)として各地で行われたらしい。修験道で行い、また奈良春日神社の鹿を殺した者がこの刑に処せられたのも有名。いしこづみ。

三作塚(さんさくづか);春日大社一の鳥居の西、三条通南側にある興福寺の支院「菩提院大御堂」の東側に石子詰の刑にされた三作供養塔が建つ。三作の死を悲しんだ母が植えたモミジの木があり、花札鹿とモミジのとり合わせはここから出たという。なお、三作は興福寺の修行僧(当時十三歳)という説も残る。

■三作石子詰の話; ある日、興福寺の小僧さん達が大勢この堂で習字の勉強をしていた処、一匹の鹿が庭へ入り、小僧さん達の書いた紙をくわえたところ、その小僧の一人三作が習字中に使用していたけさん、(文鎮)を鹿に向かって投げました。ところが、この一投の文鎮は鹿の急所に命中し、鹿はその場にて倒死しました。当時、春日大社の鹿は神鹿とされ、「鹿を殺した者には、石詰の刑に処す」との掟があった為、鹿を殺した三作小僧は、子供と云えども許されることなく、三作小僧の年、13歳にちなんだ一丈三尺の井戸を掘り、三作と死んだ鹿を抱かせて、井戸のうちに入れ、石と瓦で生き埋めになりました。三作は早くに父親に死別し、母一人子一人のあいだがら、この日より母「おみよ」さんは、三作の霊をとむらう為、明けの七つ(午前4時)暮れの六つ(午後6時)に鐘をついて供養に努めましたところ、49日目にお墓の上に、観音様がお立ちになられました。
右写真:十三鐘。
 その観音様は、現在大御堂内に、稚児観世音として安置されています。子を思う母の一念、せめて私が生きている間は、線香の一本も供えることが出来るが、私がこの世を去れば三作は鹿殺しの罪人として誰一人香華を供えて下さる方はないと思い、おみよさんは紅葉の木を植えました。当世いづこの地へいっても鹿に紅葉の絵がありますのも、石子詰の悲しくも美しい親子愛が、この地より発せられたものであります。
 又、奈良の早起きは昔から有名で、自分の家の所で鹿が死んでおれば、前述のようなことになるので競争したといわれています。今でも早起きの習慣が残っています。同境内地の石亀がありますのは、三作の生前は余りにも短命で可愛そうであった。次に生まれる時には、亀のように長生きできるように、との願いにより、その上に五重の供養搭を建てられたものであります。南側の大木はいちょうとけやきの実生ですが、母親が三作を抱きかかえている様であるといわれています。何時の世にも、親の思う心は一つ、こうして三作石子詰の話が、今もこのお寺に伝わっているのです。
(境内の説明文より)

 また、次のような話も残っています。興福寺略年代記によれば天文20年(1551)10月2日に10歳位の童女が鹿に石を投げて当たり所が悪く、打ち殺した為、引き回しの上斬首された事実が記載されており、「三作石子詰め」等の民話のように陰惨な話が今日まで伝わっている。

キラズおから。東京では卯の花。豆腐は切って調理するがオカラは切らずに調理する(出典:屠竜工随筆)。
スルメをアタリメというのと同じ発想。空(カラ)は良くないというゲン担ぎ。

・卯の花:直接には関係ないが綺麗な花なので。右写真:その花。
 ユキノシタ科の落葉低木。各地の山野に自生。高さ1~2m。樹皮は淡褐色・鱗片状。幹が中空なための名。初夏、鐘状の白色五弁花をつけ、球形の 果(サクカ)を結ぶ。生垣などに植える。材は極めて固く木釘に用い、枝葉の煎汁は黄疸(オウダン)にきくという。広くはマルバウツギ・ヒメウツギなどの総称。ウノハナ。ウツギ。広辞苑

(げん);縁起。前兆。ゲンがえぇ、ゲンが悪いなど、兆しの意味に用いられる。現在は験の字を当てるが、縁起(えんぎ)の倒語ギエンをゲンと約めたもの。

奈良三条通り(ならさんじょうどおり);JR奈良駅から興福寺、猿沢の池を経て春日大社へ東西に延びる通り。
三条横町;JR奈良駅前の東側。興福寺より駅前に近い。こんなに離れた街中にまで出没していたんですね。と、この話を信じると・・・。演者によってこの地名も違ってきます。

(かか);もとは幼児語、父(とと)、母(かか)。近世、庶民社会で、自分の妻または他家の主婦を親しんで、あるいはぞんざいに呼ぶ称。かかあ。

伴僧(ばんそう);法会・葬儀・修法などのとき、導師に付き従う僧。

奈良奉行(ならぶぎょう); 興福寺・東大寺など南都の大寺院の監視とその門前町(ならまち・奈良きたまち)の支配のため設置。定員1名。役高1000石で、役料700俵を支給された。配下は与力7騎、同心30人。
奈良奉行所跡は,監獄を経て、明治41年(1908)奈良女子高等師範学校となる。現・国立・奈良女子大学(奈良市北魚屋東町)の敷地内に置かれていた。

曲淵甲斐守(まがりぶちかいのかみ);米朝のいう奈良町奉行で、名は景漸(かげつぐ)八代将軍吉宗の治下、明和6年(1769)、大阪町奉行を経て江戸北町奉行に就任、天明7年(1787)辞任。奈良町奉行職は務めていない。

 円生は奉行を、名奉行との誉れが高い根岸肥前守としています。根岸鎮衛(やすもり)は、「耳囊(耳袋)」の作者としても有名な才人であり、こんなお裁きをしても全く違和感がないが、けれど違っています。

 圓馬、圓歌は、松野河内守で演じています。

溝口 信勝(みぞぐち のぶかつ、元和8年(1622) - 元禄4年6月22日(1691年7月17日));江戸時代の旗本で、この話の主人公と思われる実在の奉行。 寛永16年(1639)6月1日に徳川家光に初目見えをする。寛永20年(1643)6月16日に書院番士となり、越後国蒲原郡の2,000石を賜わる。寛文2年(1662)9月15日に使役(使番)となる。同年の小諸城引き渡し、寛文5年(1665)の仙台藩監察(藩主亀千代幼少による)、寛文7年(1667)の東海道・飛騨・信濃等の諸国巡見使、寛文8年(1668)の山形城引き渡しなど、しばしば各種の監察・使者の役目を勤めた。
  寛文10年(1670)2月28日に奈良奉行に転じ-天和元年(1681)10月22日まで奈良奉行を務めた。大和国平群郡のうちにおいて500石の地を加増される。寛文11年(1671)6月28日、春日社の遷宮にあたり、神鹿の横行に町人が困却している旨を興福寺に申し入れ、角の伸びている内は鹿を網の中に囲い入れることとし、翌年からは毎年角切りが行われるようになった。また延宝6年(1678
)には鹿殺しの犯人を処刑しようとした興福寺に対してその引き渡しを拒否し、以後奉行所で裁くことが例となった。これらの事蹟は中世以来の興福寺の奈良支配を幕府側に移行した実績として評価されている。

吟味与力(ぎんみよりき);刑事事件取調べ役。調書を作ったのち例繰(れいくり)方が過去の判例を当たり、相当の刑罰を付記して奉行に送る。

目安方(めやすかた);吟味方からの調書を元に、原告・被告の取調べを行う(公聴)。

割木(わりき);薪(たきぎ)を小割りにしたもの。まき。

三宝(さんぼう);仏と、仏の教えである法と、その教えをひろめる僧。仏・法・僧。三宝絵。

それは忠臣蔵六段目;早野勘平切腹の段「・・・山越す猪に出合い、二つ玉にて撃ち留め、駆け寄って探り見れば、猪にはあらで旅人、南無三宝誤ったり。薬はなきかと懐中を探し見れば・・・」 。
 勘平が猪と見誤って、与市兵衛を殺した定九郎を殺してしまい、自分は義父与一兵衛を殺したものと思いこんで申し訳に切腹をするときの述懐のセリフです。これはもう歌舞伎の好きな人ならそらんじていたようなセリフです。
 しかし、奉行を溝口信勝にすると、忠臣蔵はもっと後に発表されたものですから、時代考証が合いません。落語のシャレとして聞いていれば、誠に面白いシャレです。

憐愍(れんみん);憐憫:あわれむこと。なさけをかけること。同情。

胡乱(うろん);不確実であること。あやふやなこと。疑わしく怪しいこと。胡散(うさん)。

粗忽(そこつ);軽はずみなこと。注意や思慮がゆきとどかないこと。

俳諧手提灯(はいかいてじょうちん);俳諧手提灯、二冊、延享二年(1745)刊、俳諧用語の手引書。

袋角(ふくろずの);鹿の若角で、夏に生えかわったばかりの、皮をかぶり瘤のようになっているもの。

鹿茸(ろくじょう);鹿の袋角。陰干しにして強壮剤とする。

権柄(けんぺい);権力をもって人を威圧すること。

犬、鹿・蝶~;花札の役の一種。猪・鹿・蝶が描かれた、萩・紅葉・牡丹の10点札3枚をそろえる。

まめ;忠実(まめ)と当てる。まじめによく働くこと。よく気がついて面倒がらずにてきぱきと動くこと。身体の丈夫なこと。達者。

■鹿の被害;奈良市史 通史二巻によると、
 奈良の鹿は、7、8月に角が延び、8月の末から9月にかけて鹿の発情期となる。角を土砂の中に入れて鋭くして町中を徘徊し、道行きの人を追う。夜中になると、鹿は小路に入りこみ町人に近よる。そのため町人たちは歩行に灯火をかかげないと歩けない。近年2~3人から4~5のものが、鹿の角に突かれて怪我をしている。また油や蝋燭の費用もかさんで困る。町人たちは迷惑をしている。(江戸時代始め『橋本家文書』「角伐濫觴」)

 こういう状況だったのです。まさに鹿は勝手放題だったのです。
 それで翌年寛文11年(1671)、神鹿の角伐りを興福寺に申し入れました。これに対し興福寺は、「神鹿のことを神様はどのように思われるだろうか」という返事で数日が過ぎました。そして妥協案が成立して興福寺に対し「鹿角の落ちるまでは垣を御結わせ、それへ入れておくべし」と命じました。そして垣のうちに入れられ興福寺は餌を与えました。
 ところが、垣の中に入った牡鹿は角で突き合って多くの鹿が死にました。これを見て興福寺側も角を伐ることを承諾したので、翌年8月から大湯屋付近(現在も春日大社一の鳥居の北西にある)に鹿を集めさせ、役人の出張のもと最初の角伐りが行われました。 ところで次の段階として鹿を殺害した場合の処刑が大きな問題です。同じく溝口奉行の時にその機会はやってきました。

奈良奉行の力;『江戸時代人づくり風土記 29巻 奈良県』によると
 延宝6年(1678)内侍原町(現奈良市)の長四郎が神鹿を殺害した犯人であるとして「五師(学問僧である学侶の代表者で5人からなり、興福寺の寺務を預かる役職) のうち福園院などが奉行所へ参り、どうしても犯人を死刑にしたいと訴えました」が、これを取り上げることを拒否しています。
 この後、鹿殺害犯を寺側に引き渡すことはなくなり、奉行所の手で裁くことになり、長い間の興福寺による宗教政治が終わったのです。しかし江戸幕府成立からでも68年、1573年織田信長が室町幕府を倒してから近世権力である織田・豊臣政権そして江戸幕府と105年。長い間、興福寺が神鹿殺害だと問答無用で年齢を問わず処刑していた訳ですからどうなっているのでしょう。

 このことはこの4年後の1682年に大坂で出版された井原西鶴作の『好色一代男』に、 「そのころは卯月十二日、十三鐘のむかしをきくに哀れ・・・」  4月12日。十三鐘は、奈良興福寺の東南にある法相宗の菩提院にある鐘で、明け七つ(午前4時ごろ)と暮れ六つ(午後6時ごろ)に時の鐘をついたので、俗に7+6で十三鐘といった。また俗伝により、十三歳の少年が誤って春日大社の鹿を殺した罪により、この寺中で石子詰めの刑に処せられたので、菩提を弔うために鋳た鐘という。今でも興福寺の南側に石子詰め観音がある。 「今も鹿ころせし人は其科を赦さず、大がきをまわすとかや。」 大垣というのは興福寺の築地塀のことです。大垣の周りを引き回した後処刑したとの意味です。 「人のおそるるをわきまえて、山は山、野又さらに町にかけりて、おのがさまざま妻なるるも笑しくてなお秋の半主おもひやられる」。鹿のほうでも人が恐れるのを知っていて、野山だけでなくさらに町の中まで駆け回って、めいめい雌に挑んでいるのもおかしく、この調子ではさかりのつく秋になったら思いやられる。

■その後の鹿に対する処置(奈良市史 通史三巻より) 宝永2年(1705)8月19日の時は与力3人、同心4人、町代2人のほか人足15人が出て角伐り鹿は55頭だった。天保9年(1838)8月7日一同は奉行所に午前8時に出行、この時刻までには鹿をとじこめている町の年寄、月行事が届け出ており、8時過ぎに出発した。この日は東向北町で3頭、東向中町で1頭、橋本町で7頭、中清水町で6頭の角を伐り奉行所に戻った。その上で用人当番の方に報告書を提出して一同は解散した。伐り取った角は例年通り、町から出た手伝いの人たちに与えられた。なお、費用は各町へ割り当てられていた。

その後の奉行所の姿勢;溝口信勝が奈良奉行に就任して以後は興福寺側の宗教的特権を認めなくなり、1678年に長四郎という鹿殺しの犯人に対する興福寺の処刑請願を奉行所が拒否して興福寺の支配は終わりを告げる事となる。以後は鹿殺しについても幕府側が裁くようになり、根岸鎮衛が生まれた1737年以降もこの状況に変わりは無く、1822年に食肉売買目的の常習犯が三名捕われたが長期の入牢だけで処刑はされていない。従ってこの物語にあるような過失犯でも奉行所が処刑したというのは創作であり事実では無い。(江戸時代人づくり風土記 29巻 奈良県より引用)



                                                            2015年2月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system