落語「親子茶屋」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「親子茶屋」(おやこじゃや)より


 

 若旦那・作二郎に茶屋遊びが激しいと一言説教をしようと旦那は部屋に呼んだ。

 「おはようさん」、「何時だと思っているんだ。朝にする挨拶だ」、「いつもは昼を食べた後ですが、今日は食べる前ですから。出来たら早く初めて早く終わらそう・・・」。「何といぅ言ぃ草じゃ、こなたは何か、わたしの小言を待ってなさんのか?毎日このよぉなこと言ぃたいものか言ぃとないもんか」、「こっちかておんなじだんねん」、「それをこなたが言わしなさる」、「いえ、あんたがおっしゃるんで・・・」。
 「もぉ、小言は一切言ぅまい。ひと言だけ聞きたいことがある。こなたが毎日金を持って通い詰めているあの芸者とかいぅ女ごと、たった一人のこの親と、どっちが大事か? それを聞かしとぉくれ」、「堪忍しとくなはれお父っつぁん、親が大事か女ごが大事かて、そんなことあんた、頭から秤(はかり)にも天秤にも・・・」、「こなたやとてやっぱり親が大事じゃろ」、「いぃえ~、女ごが」、「ほぉ~っ、 こら面白い。そのわけを聞こ」。

 「あんたなぁ、芸者とか仲居とかいぅたら、頭から客を騙して金を取る、悪る~い女ごやと決めてなさる、せやさかいに話が間違いまんねん。よろしまっか、あの人らもな、普通の家の普通の娘はん。まぁ、事情があってあぁいぅ商売してはりまっけどな、人情にも何ぁ~んにも変わりおまへん。こないだかてな、わたいの馴染みのこれ(小指)に言ぅてやったんだ、『わしが毎日金持って遊びに来るさかいに、お前ら若旦那とかスポポンとか言ぅてくれるけど、あしたの日にでも勘当になったら、お前ら鼻も引っかけてくれよまいがな』、ポ~ンとカマシテやった。そしたらな、わたいの顔ジ~ッと見てたかと思うと、目ぇから涙をポロポロ~ッとこぼしてな、『もぉし若旦那・・・あんたが何不自由なしに遊びにお越しになりまっさかい、わたしがどのよぉに思ておりましてもお見せすることができまへん。願わんことでござりますけども、勘当結構です。若旦那の一人ぐらい引き取ってご覧にいれます』。そない言ぅたかてお前、若い男が芸者屋におったら仕事にならん、『かましまへんがな。それで商売に差し支えんねんやったら、わたいもぉ商売やめてしまいます。少々の蓄えもあるし、着物や道具売ったかて、一年や二年何ひとつ不自由はおかけいたせしまへん』。そない言ぅたかてお前、売るもんは売る、使うもん使こたら、あとどないすんねん?『かましまへんがな、大阪ば~っかり日が照んねやおまへん。東京へでも行て、一旗揚げよやおまへんか』。言ぅたところで旅費がないがな、『かましまへん、あんたがちょっと置き手拭もん、わたいが三味線一丁持って街道筋 ♪ツツンテツトン ♪チチチンチン ♪えぇ~』」、「親不孝な声を出すんじゃ、みっともない」、「陽気浮気で旅をしたかて東京ぐらい行けますわ。東京行てどないしょ?『よろしぃ、一時わたしのからだ、葭町(よしちょ~)か柳橋へ沈めとくれやす、その金を元手にあんたに商売していただきま。二年三年経つうちに商売の方も道が付いてくるし、またわたしの年季も明けるし、したら改めて夫婦共稼ぎ、一生懸命働いて生涯仲よぉ暮らそやおまへんか』。どぉです・・・、こぉいぅ可愛らしぃこと言ぅてくれまんねん」。
 「そこへきたらお父っつぁん、あんただっせ。そらまぁ今は金ぎょ~さん持ったはりますわなぁ。不時の災難といぅもの分かりまへんがな、そぉでっしゃろ。夜中に寝てるわ、火事やそら逃げ。 寝間着一枚で飛んで出る。家も商売の品も丸焼け、乞食同様の身の上。えぇがな東京へでも出て一旗揚げよやないか。と言ぅたところでお父っつぁん、旅費がおまへんがな。『かめへんがな、お前がちょっと置き手拭もん、わしが三味線一丁持って♪ツツンテツトン』これ、あんた弾けますか? もし? 弾けんやろあんた。ツツンテツトンはおろか、火の番の太鼓でさえよぉ打たんド不器用(ぶっきょ)なお方や、あきらめて、あんた背中へ負ぉたげますわ。わいが街道筋、人さんの軒下へ立って、『大阪の焼け出されもんでおます。もうろくした年寄りをかかえて難渋しとります』、言ぅて歩いたら、慈善家の多い世の中、五厘や一銭の貰いだめをしてでも東京へ行けるとしなはれ。よろしぃか、東京へ行て、『お父っつぁんどないしまひょ? えぇがな、わしのからだ葭町か柳橋・・・』、それ買いますか? 買えしまへんで。葭町や柳橋はおろか高津の黒焼屋へ持って行っても断られるわなぁ。そんな三文の値打ちもない老いぼれ親父と、水も垂れるよぉな綺麗な芸者と、頭からハカリにも天秤にも・・・」。
 「やかましわい! 何といぅことを言ぃくさった。よぉ人さんが買ぉてくださりゃこそ、買い手があったらわしを売り飛ばされてしまうわぃ・・・。お前のような恐ろしい奴は片時と家に置いとくわけにはいかん。 とっとと出て行け!」、「出ていかいでかい!」。
 「若旦那、何ちゅうことを・・・、旦さんお腹立ちはごもっともでおます」、「番頭どんか、聞ぃとくなはったか。あろぉことか、親を高津の黒焼屋に・・・」、「 どぉぞこの番頭に免じまして・・・。先ほどお寺さんから使いがまいりまして、島之内の万福寺さんでお座が勤まりますそぉで、こぉいぅ時の気晴らしと申しますとまことにもったいのぉございますが、ご気分直しにありがたい説教でも聞ぃておいでになりましたら?」、「こーゆう時はありがたいお説教を聞くのが一番」と言うことで、治まって家を出ます。
 こぉ言ぅておりますと親旦那、えらい堅いお人に聞こえますが、裏を返しますといぅと若旦那よりも二、三枚上の年季が入った極道。表へ出るなり数珠を丸めて袂の奥へポ~ンと放り込んでしまうと、南へ南へ。万福寺さんを後目(しりめ)に殺してミナミヘ出てまいります。戎橋(えびすばし)の北詰をひょいと東に曲がりますと、宗右衛門町・・・、いつに変わらぬ陽ぉ気なこと。

 (三味線が入って街の賑わいを感じさす)「なぁ、この里に入ると浮き浮きしてくるな。在るとも無いとも分からん地獄とか極楽とかいぅのを願うより、これがこの世の何よりの極楽じゃ・・・。いやぁ、若いもんが来たがるのも無理はない。しかし、わしが使う、せがれが使うではうちの身代もたまったもんじゃないでェ。いっそ、あいつが死んでしもぉたらえぇねやが、達者なやつで、風邪ひとつ引ぃたことない。たった一人のせがれを見送ろと思たら、大抵のこちゃないわい」。
 「はい、ごめんを」、「まぁ、旦さん、おこしやす」。「いつもの部屋空いてるかな?」、「まぁ、鈍なことで、ちょっと使ことりますの。表の間ぁで・・・」、「年寄りの隠れ遊びじゃ、表の間はな、外通る人に顔見られるでどんならんで。ほな、空いたらすぐに替えとくれや」、「心得ております。どぉぞお二階へ」。
 トントント~ンと二階へ上がります。仲居さんの酌でちびりちびり飲んでますところへ、ピチピチした綺麗どころがそれへさしてド~ンと繰り込んでまいります。
 「旦さんおおきに、旦さんおおきに、おおきに、おおきに・・・」、「おぉ、皆来たか。さぁ、こっち来いこっち来い」、「旦さん、おおきに」、「なんじゃ可愛ぃ子供が入って来た。え? 何? 邦松の妹てか、七つ・・・、こんな時分から修行しなさる。それでこそえぇ芸妓衆ができるんじゃ。さぁ、こっち来いこっち来い。また今日は綺麗なべべを着てるなぁ」、「あのぉ、姉ちゃんの染め直し」。「何が欲しぃ? 最中か、それともお饅か?」、「甘いもん嫌い。あのぉ、欲しい物はダイヤモンドの指輪」。
 「盃、大きぃやつで一杯ぐっと注いでもらおか」。(旨そうに飲む)。「久し振りに遠道(とぉみち)を歩いたで、えぇ具合に酔いが回ってきた。何じゃい、もぉ調子を合わしてるやないか、えらい勉強(サービス)やなぁ、いつものやつやろかな。そぉそぉ、狐つり」、「姉ちゃん、狐つりて何?」、「扇子で目隠しして『つろよ、つろよ』言ぅて鬼ごとの真似するのん。『いやや』、いうても商売やないかいな。いぃえ~な、このお客さんいつ来はってもこれば~っかり。階段のねきまで引っ張って行って、後ろからボ~ンと突いたったらえぇねやわ」、「そんなことしたら姐ちゃん、ころこんで腰抜かすわ」、「腰抜かしたら、もぉ二度と来いでえぇがな・・・」。客のいない所では、皆客の悪口言ってるもんです。
 「さぁ、扇子をこっちかしとくれ。えぇか、しっかり括っとぉくれや、お~っと、それぐらいでよかろぉ」、「ほな、旦さんよろしおまっか、みな支度えぇか、ほな旦さんいきまっせ・・・」。
(三味線が入って陽気に派手やかに踊ります)
 ♪やっつく、やっつく、やっつくな  ♪釣ろよ、釣ろよ、信太(しのだ)の森の、狐どんを釣ろよ、
 ♪やっつく、やっつく、やっつくな ♪釣ろよ、釣ろよ、信太の森の、旦那を釣ろよ、
 ♪やっつく、やっつく、やっつくな ♪「もっとこっちへおいなはれ」
 ♪「そっちへ行ったら落とされる」。
「まぁ~姐ちゃん、旦さん皆知ってはんねんわ」。

 「ホンマにうちの親父ほど、朝から晩まで顔見たら意見ば~っかりしてけつかんねん。しかしまぁ、番頭騙して出て来たけど、いま時分ぼやいてやろなぁ。今日ばっかりは外へ出よまい思てんのに、勝手に尻が浮いてきやがんねん。しかしまぁ、ここミナミへ来たら親の意見も何もかもすっ飛んでしまうで、相変わらずいつ来ても賑やかやなぁ。
 ほぉ~、珍しぃ遊びやってるなぁ~、『狐つり』か。あれが客らしぃなぁ。頭の禿げ具合からいくと、うちの親父とあんまり変わらんで~。あの歳でこんな粋(すい)な遊びすんねや。こんな人の爪の垢でも煎じて飲みやがったらえぇねん。ん、待てよ~、この店は来たことあるがな。そぉや、田中といっぺん来たことあるなぁ。よし、入ってみたろ」。
 「あのぉ、女将居てるか」、「んまぁ~若旦那、どないしてはりましてん」、「そらそぉと、えらい二階派手やなぁ」、「へぇ、いつ来てくれはっても、隠れ遊びだと言って、名前も所も教えてくれないのです。あないして派手に遊んでくれはりまんのん」。「でやろな、一座をさしてもらうわけにいかんやろか」、「そらあきまへんがな。いま言ぅた通り、隠れ遊びで顔見られるのんさえ嫌がったはります」、「さぁそこやがな、それはな頼みよぉがあるねん。まぁ今日の勘定何ぼ使こたはるか知らんけど、せやなぁ~、みなと言ぅたら失礼(ひつれぇ)なさかいなぁ~、でやろ、半分だけ持たしてもらういぅことで話にならんやろかなぁ? 」、「ちょっと待っとくなはれ。いぃえ~な、あぁして派手ぇに遊んだはりまっけどな、勘定高いとこある人でっさかい、その話したら何とか・・・。チョット待って下さい」。
 「あのもし、お二階の~、も~し、お二階の!」、「かなんなぁ、えぇ具合に油が乗ってきたとこじゃのに、何? どっかの若旦那が来て、わしと一座? 何を言ぅのじゃ、いつも言ぅてるやろ、年寄りの隠れ遊び、それも言ぅた? そしたら今日の勘定、みなと言ぅたら失礼、半分だけか・・・。そらまぁ、みな持ってもろても失礼なことはないけどな。ほな、そこはお前に任しとくさかい・・・」、「けど旦さん、いま上がって来て挨拶したらお座が白けまっさかい、若旦那、子狐にして二階へ上げまっさかい、あとで目隠しを取ってご対面といぅことで」、「ほぉ、なるほど。それも面白かろ、お前に任しとくさかいにあんじょ~やってくれ」。
 「もし、若旦那」、「どやった?」、「いぃえ~、はじめ何やかんや堅いこと言ぅてはりましてん。ところがさぁ、いまの会計の話したら『みな持ってもぉても失礼なことはない』と・・・」、「ほぉ、そこらうちの親父によぉ似てるわ。わたしが子狐? えらいオモロいなぁ。よっしゃ分かった、扇子こっちかして・・・、しっかり括ってくれ」、「ほな若旦那、よろしおまっか・・・。もぉし、お二階の~。よろしおますか? 子狐上げまっせ、ひぃふの・・・」。(三味線派手に響く)
 ♪釣ろよ、釣ろよ、信太の森の、子狐どんを釣ろよ  ♪やっつく、やっつく、やっつくな、
 ♪釣ろよ、釣ろよ、信太の森の、狐ドンを釣ろよ  ♪やっつく、やっつく、やっつくな、
 やっつく、やっつく、やっつくな  (だんだん早くなる)♪やっつく、やっつく、やっつくな、
 やっつく、やっつく、やっつくな  ♪やっつく、やっつく・・・、 ゴホ、ゴホ、ゼエ、ゼエ・・・
「ちょ、ちょと待っとぉくれ、歳は取りともないなぁ。息切れしてどんならんで。はいはい、どこのお方か存じませんがこんな年寄りの隠れ遊びが気に入って、一座をしてやろぉ、ありがたいことで。さぁ、どぉぞこれをご縁に・・・」。両者扇子を取って顔を合わせると、
「これ。せがれやないか!」、「あんた、お父っつぁん」、「せがれか・・・、必ず、博打はならんぞ」。
(三道楽のうち「呑む」と「買う」を見られたため、説教の種として「打つ」が最後に残っていた。いつ如何なる処でも、小言を言いたい旦那であった)。  

 



ことば

狐釣り(きつねつり);「目ん無い千鳥」とも呼ばれ、落語の『百年目』、『天神山』、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』のうち「七段目」、落語「七段目」にも登場する。『釣ろよ釣ろよ』は狂言の『釣針』、歌舞伎の『釣女』にも登場する。
 右写真:米朝の息子米團治の親子茶屋から

 狐釣りは、落語「天神山」をご覧になり、参考にして下さい。

 下図、罠を仕掛けて狐になった人を釣る酒席の遊び。「釣ろな、釣ろな、狐を釣ろな、こんこんちきちき、こんちきな」とはやされ、半開きの扇を頭の上に乗せた狐(中央の客)が踊りながら罠の獲物を狙う。
 酒は静かに飲むべし、と言うのは近代の考え方で、江戸では華やかに楽しむものと決まっていた。職業が世襲で交友関係が狭く、いつも似たような顔ぶれで飲むと、馬鹿になって遊びながらでないと時間は潰せない。

 

 上図:「狐釣」 栄之画 『見立て忠臣蔵七段目・狐釣』

三道楽(さんどうらく);飲む(酒を飲む)・打つ(博打を打つ)・買う(芸者・遊女を買う)を持って男の三道楽と言います。落語家の「三遊亭」はここから出ています。噺の若旦那は茶屋で遊んで、飲む・買うを楽しんでいたので、大旦那はグッと詰まって、最後の一つ「打つ」はダメだと言ったのです。
 そこいくと、女性の好きな物は、芝居・蒟蒻・芋・蛸・南京。

葭町(よしちょう);江戸葭町は元吉原が有ったところ。元和3年(1617)3月幕府の許可が下りて葺屋町(ふきやちょう)に2丁四方の地面を下付された。葭(あし)が生えていたので葭原と言っていたのを縁起を担いで吉原とした。その後明暦3年(1657)に、幕府の命により今の日本堤に移転します。それを新吉原と言い、後年、新が取れて吉原と言われます。元吉原が有ったのは40年間です。

柳橋(やなぎばし);柳橋の架橋されたのが、元禄10年(1697)に南町奉行所から許可され翌年完成しました。それまでは渡船でした。花柳界の柳橋(街)は、江戸中期から存在したが、明治維新後新橋とともに花街として大いに栄えた。
 葭町と柳橋は身を沈める話で合いますが、葭町(元吉原)と柳橋を同一時代に論じるのは間違っています。明治に入って、元吉原はなかったんですから・・・。出来れば吉原と柳橋、または新橋にしていただきたかった。

 花柳界の柳橋「街」です。今でも料亭として営業をしている「傳丸」。

高津の黒焼屋(くろやきや);動植物を黒く蒸し焼きにしたもの。薬用にしたりする。大阪では高津神社の西にあった「高津の黒焼屋」が有名。
 この高津の黒焼き屋は、高津神社(大阪市中央区高津1丁目1番)の西坂をおりたところに戦前まで大阪名物の黒焼き屋がニ軒あった。惚れ薬「イモリの黒焼き」「願かけのへび」など奇妙な薬を売っていた。「黒焼きの作り方」は、土器で作られた釜の中に、素材である食品を入れて、蒸すように焼きあげてゆきます。
「狐の黒焼き」の伝承では、脳梗塞後の体調不良、五十肩、尿もれに良いと伝えられている。

島之内の万福寺(まんぷくじ);大阪市天王寺区下寺町一丁目3番。天王寺区の生玉町から下寺町界隈は歴史ある寺社が多く点在することから、寺町と呼ばれています。松屋町筋(大通り)沿いに建つ万福寺は、文禄3年(1594)、前田利家の弟の前田次郎兵衛利信と僧開導によって開創され、阿弥陀如来を本尊として祀ります。文久3年(1863)~慶応3年(1867)、新撰組の大坂駐屯地とされ、大坂相撲力士との乱闘、町奉行与力内山彦次郎暗殺などの事件はその間に起こりました。当時、本堂裏にあった納屋は牢として使われ、慶応元年(1865)、漢詩人・藤井藍田を拷問の上、絶命させた場所です。その他、多くの志士が牢内に捕らえられていたといいます。現在、境内には四季の風情が楽しめる美しい庭園が広がり、芭蕉句碑がたたずみます。

戎橋(えびすばし);ミナミの中心街にある道頓堀川に架かる橋。北に渡って右(東)に曲がると宗右衛門町です。渡る手前のグリコの大ネオン看板があります。右写真。

宗右衛門町(そえもんちょう);島之内の南端、道頓堀川の北岸に飲食店が建ち並ぶ東西約350m、南北約130mの地域である。北隣の東心斎橋とともに歓楽街となっており、ミナミと通称されることも多い。日本橋、難波にも程近い位置にある。 道頓堀川に架かる橋として、戎橋が町の南西角に、日本橋が町の南東角にそれぞれ位置している。また町内の道頓堀川には相合橋も架かっていて、対岸の道頓堀とを結んでいる。
昭和33年3月までは花街として発展していた。

 通称「ミナミ」は、江戸時代から道頓堀の劇場街とともに発展した。南地(ミナミ)には細かく分けて、五つの花街(宗右衛門町・九郎右衛門町・櫓町・阪町・難波新地)があり、それらを総称して「南地五花街」と呼んだ。明治以降は新町や堀江に代わって大阪最大の花街となり、最盛期には芸妓と娼妓を合わせて3000人以上在籍していた。いまはなき「南地大和屋」(2003年、閉店)で有名。現在、住居表示に関する法律により古くからの町名が消滅し、残っているのは宗右衛門町のみである。
 明治4年(1871)に南地の花街は正式に遊廓として公認される。芝居小屋など芸能に携わる業種が居住していたため南地は芸所として知られ「芦辺踊」が上演され、芸妓数が最盛期には1000人以上いたといわれる。娼妓もその次に多かった。

茶屋(ちゃや);江戸の茶屋は遊廓に上がるためのステップとしての機能を有していた引手茶屋。大阪(大坂)では茶屋そのものが遊廓を兼ねていたものが多く有った。
 大阪における花街の歴史は京都の嶋原に模して作られた新町から始まる。商業の町として発展してきた大阪(当時は「大坂」と呼ばれた)には随時して非公認の花街が神社仏閣、芝居小屋の付近で誕生した。現在、北新地、南地の繁華街は江戸時代からの生き残りである。非公認の遊女のいた妓楼は「泊茶屋(とまりちゃや)」と呼ばれた。天保の改革などで複数の花街が整備され、明治に入って数箇所の花街を統廃合して松島遊廓が誕生し、大正に難波新地の火災により飛田遊廓が開設され、今里、住吉などの芸妓のみの花街が誕生していった。



                                                            2016年3月記

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