落語「松曳き」の舞台を行く
   

  

 立川談志の噺、「松曳き」(まつひき)


 

 三太夫が梅雨が明けたとお殿様に話しかけた。庭の松が秋口になると月を隠すので、枝を切ることは出来ないが、灯籠の脇に曳けと命じた。「松は気難しい木で、また、先代のお手植えで大事にしていた松ですから、枯らしたら大変です」、「でも、先代は亡くなっているから・・・」、「では、屋敷に入っている植木屋に聞いてきます。餅屋は餅屋といいますから・・・」。



 「餅屋は餅屋か。空腹になったな。食事に致せ」、「先程召し上がったばっかりです。何もしないからです。論語などをお読みになったら。それがダメなら、武芸百般と言って道場で稽古などを・・・」。

 殿は厠から出ていつもの金也がいないのに気付いた。「金也はどうした」、「殿の勘気に触れて謹慎中です。金也が申すに、『厠から出てきた殿が手水も手拭いもお受けにならなず、プイと行って仕舞われた』、何か粗相があったのか心配して、謹慎しております」、「・・・思いだした。心配するな。あの時は屁だけだ」。
 「国表から手紙が参っております。読み上げます。『前文、御免下されたく候、この度国表において、殿姉上様御死去なされ、この段お知らせ申し上げ候。委細は後便でお知らせ申し候』。お姉上様がお亡くなりになられたそうです」、「良い姉上だったがのう・・・。用意万端そなたに任せる。良いな」、「屋敷に立ち返り用意万端整えてまいります。では、御免」。

 「大変だ~~。分かっておるな」、「いえ」、「手紙だ。手紙を探せ。まて待て、わしが持っておった。読むぞ、『前文、御免下されたく候、この度国表において、殿姉上様御死去なされ、この段お知らせ申し上げ候。委細は後便でお知らせ申し候。三太夫殿』。これは、わしに来た手紙だ。さ~ぁ、大変だ。どうしよう。殿の姉上様では無く、私の姉上様だ。死んでお詫びしよう。切腹だ~」、「チョットお待ちなさいょ。殿とは小さい頃からの馴染みでしょ。事情を話して説明すれば、許してもらえるかも知れませんよ」、「そうであった。城に参る、馬を引け」。

 「殿!」、「支度万端整ったか?」、「私が粗忽で、私に来た手紙を、殿に来た手紙と思い読んだところ、『姉が亡くなり』は殿の姉上では無く、身共の姉上で御座いました。粗忽の段お許し下さい」、「何?姉上は身共では無く、その方の姉か。うつけ者、粗忽者、言語道断である」、「手打ちなど、如何様にも・・・」、「手打ち?刀が汚れるは。切腹せい」、「屋敷に立ち戻り、腹をかっ切って果てます。長らくお世話になりました」、「バカヤロウ!死ね! ・・・待てマテ、死ぬには及ばぬ。よく考えたら、与に姉上はおらなかった」。

 



ことば

立川談志のイリュージョン落語「松曳き」

  談志は、『人生成り行き -談志一代記-』で「弱い人間の業を落語は肯定してくれてるんじゃないか」との言葉の後に続けて、最近は次第に「イリュージョンこそが人間の業の最たるものかもしれません。そこを描くことが落語の基本、もっと言や、芸術の基本だと思うようになった」と言い、そのことを次のように説明しています。

 「でも、落語が捉えるのは〈業の肯定〉だけではないんです。人間が本来持っている〈イリュージョン〉というものに気がついたんです。つまりフロイトの謂う『エス』ですよね、言葉で説明できない、形をとらない、ワケのわからないものが人間の奥底にあって、これを表に出すと社会が成り立たないから、〈常識〉というフィクションを拵えてどうにか過ごしている。落語が人間を描くものである以上、そういう人間の不完全さまで踏み込んで演じるべきではないか、と思うようになった。ただ、不完全さを芸として出す、というのは実に難しいんですが……。」

 また『最後の落語論』には、「現実には〝かけ離れている〟もの同士をイリュージョンでつないでいく。そのつなぎ方におもしろさを感じる了見が、第三者と ぴったり合ったときの嬉しさ。〝何が可笑しいのか〟と聞かれても、具体的には説明ができない。けど可笑しい」とあります。

 談志師匠のお弟子さんである立川志らく師匠もその著書『立川流鎖国論』で、「それまで談志は『落語は人間の業の肯定』だと言っていた。それが六十代のなかばごろから『落語はイリュージョンである』と言いだした。/落語における会話は、なんだかよくわからないが強烈におもしろいもの。それは非日常であり、まるでイリュージョンだ、と言ったのだ」と書き、「無精床」という噺で、現実の日常世界でお客さんと床屋さんとが交わすであろう会話なんかクソッ喰らえのはちゃめちゃイリュージョン会話を展開させています。

http://plaza.rakuten.co.jp/yamamomo02/diary/201112030000/ 「ポンコツ山のタヌキの便り」より

イリュージョン;錯覚や幻想、幻視という意味で、最近は手品のことをこう呼ぶこともある。美術の世界では、平面上に三次元的奥行きを感じるということが、本来、物理的にはあり得ないことなので、それは一種の錯覚であることから、そうした絵画的効果のことを指してイリュージョンという。但し、現実空間の再現を放棄した抽象絵画に関しては、画面に、人の手が入った痕跡が示すすべての効果そのものを指す場合が多い。

辞書からの解説でなく、談志の弟子・志らくが次のように語っています。
 断言する。(人情話で)泣かせるのが落語の目的ではない。(同じように、笑わせるのも落語の目的ではない)この芸能でしか表現できない世界を客に体感させてこそ、落語なのだ。我々が表現すべきなのは、非日常、非常識の空間である。談志はそれを「イリュージョン」という言葉に集約した。
 笑わせる芸能は落語以外にもある。泣かせる芸能はさらに多い。しかし、非常識を体現している芸能は落語しか無い。例えば、親孝行を覚えたって無駄「二十四孝」、女にもてるため欠伸(あくび)を習う「欠伸指南」、吉原でタダで遊んでいしまおう「付き馬」、「居残り佐平次」。立川志らく著「落語進化論」より。

(まつ);マツ属の天然分布は赤道直下のインドネシアから、北はロシアやカナダの北極圏に至り、ほぼ北半球に限られるといってよい。これは針葉樹としては最も広い範囲に当たる。温度の適性が広いことが一因としてあげられており、亜熱帯や熱帯に分布する種でも摂氏-10度程度の低温・組織の凍結には堪えて生存するという。現在では植栽の結果南半球でも見られ、オーストラリアやニュージーランド、アフリカ諸国で大規模に植栽されているラジアータマツ (P. radiata) が特に有名。 化石の研究によれば、マツ属は比較的古い時代に登場したとされ、現生種の多様性は進化してきた年月の長さによるものとされている。
 厳しい環境下でも生育できるようにマツ属は自身の根に菌類の菌糸を侵入させた、特別な根である菌根を形成する。マツは菌類を通じて土壌中の栄養分や水分の吸収を助けてもらっており、逆に菌類に対しては光合成によって得られた同化産物を分け与えているという共生関係にある。菌類と共に移植するのは大変なのでしょう。マツと共生して菌根を形成する菌類は多数知られている。「キノコ」として我々が利用できる種も多く、わが国ではマツタケ(松茸)、ショウロ(松露)、アミタケなどが特に有名。



 「名月や 畳の上に 松の影」   宝井其角

餅屋は餅屋(もちやはもちや);餅は餅屋。餅は餅屋のついたものが一番美味であることから。餅は餅屋とは、何事においても、それぞれの専門家にまかせるのが一番良いということのたとえ。また、上手とは言え素人では専門家にかなわないということのたとえ。

論語(ろんご);孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物。『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教における「四書」の1つに数えられる。別名、「倫語(りんご)」、「円珠経」とも言う。これは、六朝時代の学者、皇侃(おうがん)の著作『論語義疏』によると、漢代の鄭玄(じょうげん)という学者が論語を以て世務を経綸することが出来る書物だと言った所から、「倫語」という語が出現し、又その説く所は円転極まりないこと車輪の如しというので、「輪語」というと注釈し、「円珠経」については鏡を引用して、鏡はいくら大きくても一面しか照らし出さないが、珠(玉)は一寸四方の小さいものでも上下四方を照らすものであり、諸家の学説は鏡の如きもので一面しか照らさないが、論語は正に円通極まりないものである、という所から「円珠経」と言うと説かれている。
 16世紀には、中国大陸で布教活動を行っていたイエズス会の宣教師により「孟子」や「大学」などの関連典籍と共にフランス語へ翻訳され、フランス本国に伝えられ、結果フランス貴族の間で、シノワズリと呼ばれる空前の中国ブームが巻き起こった。同時に思想界においても、儒教の易姓革命はヴォルテール、モンテスキュー、ケネーといった思想家らに大影響を与え、啓蒙思想の発展に寄与した。古代日本には、応神天皇の代に百済の王仁と言う人物によって伝えられたとされ、律令時代の官吏必読の書となった。

(かわや);便所。トイレの別名。

武芸百般(ぶげいひゃっぱん);武芸十八般という。18種目の武芸。日本と中国、または時代によって異なるが、日本で普通には、弓術・馬術・槍術・剣術・水泳術・抜刀術・短刀術・十手術・手裏剣術・含針術・薙刀術・砲術・捕手術・柔術・棒術・鎖鎌術・錑(もじり)術・隠形(シノビ)術をいう。
 ・含針術(ふくみばりじゅつ):口の中に針を含ませて、敵の目潰し等に使われる技術。 現実の武術としては総合武術であれば目潰しの中の1技法として口伝である場合もあるが、現在、実技としては秘伝の技として伝承されているか、失伝していると思われる。実際には直接針を口に含むのでは無理があるので針を入れた道具を口に含むようである。
 
 ・もじり術(-じゅつ):もじりと呼ばれる捕具を使った捕縛術である。 もじりとは長柄の先に多くの鉄叉を上下につけた道具で、江戸時代に罪人を捕える武器として用いられた。 上図「もじり」。明治大学・刑法博物館所蔵
 ・隠形(シノビ)敵の情報を調査したり、後方を攪乱(かくらん)したりする術。変装・潜行・速歩などを利用し、巧みに敵方に入りこむ。甲賀(こうが)流・伊賀(いが)流などがある。隠形術(おんぎょうじゅつ)。忍びの術。

国表(くにおもて);(出身地である)自分の領国。くにもと。

手打ちと切腹;手打ちも切腹も結果的に死ぬことで同じですが、その意味合いは違います。手打ちは犯罪者に対し処刑することで、罪人です。一方、切腹は武士だけに許される、名誉の死で、血縁者に累が及ばない。武士であれば、切腹してはてるのが普通です。 


                                              2016年3月記

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