落語「雨乞い源兵衛」の舞台を行く
   

 

  小佐田定雄作

 桂枝雀の噺、「雨乞い源兵衛」(あまごいげんべい)より


 

 気象庁の運動会が雨で流れた。と言うぐらい天気予報は難しい。

 四十日間も日照りが続き、上の池も何もかも干上がってしまった。庄屋さんは源兵衛の家に向かって橋を渡っているが「水の無い橋を渡るのは間が抜けているな」。
 源兵衛の家に着くと、「雨乞いをしてくれ」と言い出した。「何で、百姓の我が家に来て頼むのですか。それだったら神社に行ってお願いしたら」、「今、龍神さんに行ってきた。禰宜(ねぎ)は雨乞いは知らないけれど、120年前の大日照りの資料を持ち出し、その年は六十日に渡る大日照りだった。そこには仕事大嫌い、遊ぶこと大好きな男がいた。村中から銭を借りて遊んでいたが、日照りで銭が無くなった村民から銭返せと言われたがこの男には全く銭が無かった。雨が降らなければ殺すとまで言われた。雨が降れば良いのならと社にこもって雨乞いをした。また逃げ口上だと言っていたが、3日目の朝、雨が降り出した。その方法は解らない」、「一子相伝と言ってその家だけに伝わった秘法があるはず。この村は古いから、その家に行けば大丈夫」、「そう思って、お前の所に来たんだ。お前から数えて五代前だ。名前も同じ源兵衛だ。それで、雨乞い源兵衛と言った。雨乞いしてくれ」、「何にも聞いていません。親は字も書けなくて方法も伝わっていない。出来ません」、「では、その時貸した100銭返せ。または雨降らせろ。降らせなかったら、村には血の気の多い若いのが大勢いる。どんなことが起こっても知らないぞ」、それだけ言うと庄屋は帰っていった。
 「大変な家に生まれてきた」、とぼやいても始まらない。泣きが入っていたが、天気なんて当てることすら難しいのに、変えることなんて出来ない。

 お天気というのは循環しているので、晴ばっかり続くことは無いのです。源兵衛思案も付かず、やけ酒を飲んで、そこに寝ていますと、ちょうど乾期の切れ目だったらしく、その日の真夜中、車軸を流すような雨が・・・ざぁ~っと降ってきた(枝雀横向きになって舞台を這うように身体中で雨を表現。客席大爆笑)。庄屋がビックリして訪ねてきた、「お前さんはスゴイ人だ」と感激している。「五代前は3日掛かったのが、お前は翌日だ。村中の人間が集まっている。我が家に来い」、と言うので、駕籠に乗せられ庄屋の屋敷に。皆から感謝されて歓待された。源兵衛もすっかり気をよくしたが・・・。
 今度は雨が十日も降りやまなくなってしまった。上の池は溢れ出し、川の堤は切れそうになった。
 また庄屋が源兵衛の家に飛び込んで来て、「五代前の源兵衛は3日雨を降らせて4日目にはカラッと晴れさせた。出来なかったら100銭返せ。上の池には蓋はないぞ。村には血の気の多い若いのが大勢いる。どんなことが起こっても知らないぞ。それに、もし降り止ませたら、可愛い娘のお花と祝言を上げさせ、うちの婿に取る」と、言い残して帰って行った。普通はうれしい話なのだが、そのお花坊とは、今年三十六で未だ嫁の貰い手がない。話が出ると村の若い者は夜逃げをするという。「上の池に放り込まれるのもイヤだし、お花坊はもっとイヤダ。曇りになってどっちも無しにならんかいな」。

 そして、その夜・・・、不意に雨がやんだ。どうやら雨季の切れ目だったらしい。翌朝になってみると、カラッと晴れ渡った。
 庄屋さんはお花を連れて、源兵衛の家に急いでいた。「源兵衛という男に降り止ませたら、可愛いお花を上げると言ったら、降り止ませた。これから婚儀の下打ち合わせだ。お前達も一仕事終わったら家に来い。内祝いだ」。庄屋さんを見送った二人「源兵衛も変わった男だのう。上の池とお花坊をテンビンに掛けてお花坊を取ったぞ。わいだったら上の池に飛び込むぞ。庄屋さんは偉いな、このドサクサに紛れてお花坊を片付けたぞ」。
 「源兵衛!いるか? いないようだな。裏に回ってみよう。家の中はもぬけのカラだ。また逃げられたな」、「私の婿さんどうした?」、「急に顔を出すな。親の私でもビックリする。顔を出すときは出すと言え。この話は最初から無理だった」、「どうしてじゃ」、「天気を自在に操るのは龍神様の御化身か何かだろう。無理があった」、「わしが振られた事には違いはありゃせん」、「振られても仕方が無い。相手は雨乞い源兵衛じゃ」。

 



ことば

禰宜(ねぎ);神社に奉職する神職の総称。古くは神主と祝(はふり)の間に位置したが、現在の職制では宮司・権宮司の下に置かれる。伊勢神宮では、少宮司の次、宮掌の上位。宮司の命を受け祭祀に奉仕し、事務をつかさどった。  

龍神さん(りゅうじん);龍宮に住むと伝えられる龍。水神や海神として各地で祀られている。
竜は、水中か地中に棲むとされることが多い。その啼き声によって雷雲や嵐を呼び、また竜巻となって天空に昇り自在に飛翔すると言われ、また口辺に長髯をたくわえ、角を生やし、喉下には一尺四方の逆鱗があり、顎下に宝珠を持っていると言われる。秋になると淵の中に潜み、春には天に昇るとも言う。
 様々な文化とともに中国から伝来し、元々日本にあった蛇神信仰と融合した。古墳などに見られる四神の青竜が有名だが、他にも水の神として各地で民間信仰の対象となった。九頭竜伝承は特に有名である。灌漑技術が未熟だった時代には、旱魃が続くと、竜神に食べ物や生け贄を捧げたり、高僧が祈りを捧げるといった雨乞いが行われている。
 有名なものでは、神泉苑(二条城南)で弘法大師が祈りを捧げて善女竜王(清瀧権現)を呼び、雨を降らせたという逸話がある。

 

 「九龍図巻」陳容画(南宋)、ボストン美術館蔵 

一子相伝(いっしそうでん);学術・技芸などの奥義をわが子の一人だけに伝えて他にもらさないこと。

雨乞い(あまごい);ひでりの時、降雨を神仏に祈ること。ひでりの時、降雨を神仏に祈る唄を雨乞い唄と言い、民謡として諸国に伝わる。またその時に踊るのが、雨乞い踊。多くは太鼓を打ち、蓑・笠をつけて踊る。
 雨乞小町:天下旱魃の時、小町が平安京の神泉苑で雨乞いの和歌「千早ふる神もみまさば立ちさばき天のとがはの樋口あけたまへ」を詠じ、この歌の徳で大雨がたちどころに降ったという話。ただし雨乞いの和歌は普通「ことはりや日のもとなればてりもせめさりとてはまた天が下とは」として、この方が多く伝わっている。

向島の三囲(みめぐり)神社の句碑;雨乞の碑「夕立や田をみめぐりの神ならば」 其角
 元禄6年(1693)は非常な干ばつで、困り切った小梅村の農民が三囲社頭に集まり、鉦や太鼓を打ち鳴らしていた。ちょうど俳人其角が門人白雲をつれて吉原へ遊びに行く途中、三囲に詣でたところ、雨乞をしているありさまをみて、能因法師などの雨乞の故事にならい「遊(ゆ)ふた地や田を見めぐりの神ならば」と詠んだのがこの句です。早速効果があったと伝えられている。碑は明治6年再建されたもの。



 三囲神社:墨田区向島2-5-17。 其角の詠んだ雨乞いの碑

車軸を流すような雨;車軸とは、車輪と車輪をつないでいる心棒のことです。この車軸を天から落とすような太い雨脚の雨がガンガン降ってくる様子を、「車軸を流す」あるいは「車軸を降らす」、「車軸を下す」と表現します。
バケツをひっくり返したような、土砂降りの雨です。

庄屋(しょうや);いくつかの村を取り仕切っていたのは 大庄屋、村を取り仕切っていたのは庄屋と言われる役職者でした。大庄屋は役職柄、幕府や藩から扶持(給与)が支給され苗字の公称、帯刀を許可されていた者が多くいたようです。庄屋も苗字の公称や帯刀を許可されていた者がいましたが、少数だったようです。畿内西国方面では庄屋、東国方面では名主と呼ぶことが多い。北陸・東北では肝煎(キモイリ)といった。
 江戸時代中期ごろから世襲制よりも、農民たちの選挙、話し合い、支配者側から民政や行財政の実務に精通した有能な人材を大庄屋や庄屋に任命することが一般的になりました。ほとんど形式的で事実上の世襲です。大庄屋、庄屋は数村または村の行政を委任された長なのです。無能だと地域や村の行政を取り仕切る事は出来ないし、支配者側にとっても不利益になる場合が多いし何かと不都合です。行財政の実務に精通し農民たちの支持があり支配者側からも信頼のあつい有能な人材でないと大庄屋や庄屋は務まりません。事実、一揆などが勃発した遠因は大庄屋、庄屋などの行政の無能さがあります。支配者側も、この点に気づき、農民たちに人望があり実務能力のある有力農民を大庄屋、庄屋に任命するようになりました。
<落語「本膳」より>



                                                            2016年3月記

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