落語「四段目」の舞台を行く
   

 

 古今亭志ん朝の噺、「四段目」(よだんめ。別名・蔵丁稚)より


 

 江戸時代には大層歌舞伎が持て囃されたようです。芝居の魅力はなんと言ってもその華やかさでしょうね。で、娯楽の一番人気であった。当時は娯楽があまりなく大人から子供までが熱中した。
 小僧さんも使いの合間に一幕見してきて楽しんだ。

 「番頭さん。ただいま帰りました」、「定吉、遅すぎるじゃないか。旦那がカンカンになって怒っているよ。早く奥に行きな」、「お昼を食べていないので、腹ぺこなんです。食べてからお小言聞きます」、「早く行きな」。
 「お前は何処に行ってきたんだ」、「お手紙届けに、築地の万屋さんに行ってきました」、「1時間あれば行って帰ってこれる。後の時間はどうした。遊んでいたんだろう」、「遊んでいません」、「芝居を見ていたな」、「芝居は大嫌いです。男のくせに化粧塗って、芝居見たら卒倒して死ぬかも知れません」。
 「そうだ、頼みたいことがある。明後日、店の者全員で芝居見物に行くのだが、嫌いならお前が留守番してくれないか。芝居を勧めてくれた源兵衛さんによると、今の出し物は素晴らしく、とりわけ五段目の山崎街道の猪は前足を大阪の中村鴈治郎、後ろ足の方をこちらの尾上菊五郎がやって評判だそうだ。定吉何を笑っているのだ」、「そんな名優はやらなくて、猪は一人で演るもので下っ端の役者の役です」、「お前は芝居を知らないだろう。観てきた源兵衛さんが言ってるんだ」、「間違いですよ。私も観てきたんですから・・・」。
 「どうぞご勘弁を・・・」、「勘弁ならない」、「謀る謀ると思う期にかえってヤカンに謀られた」、「猪が一人で演るぐらい知っているわ。今日は勘弁できないから蔵に入れる」、「蔵はやです。どうしてもでしたら、食事をさせてください」、嫌がる定吉を無理矢理引っ張って行って、蔵の中に放り込んだ。

 「スイマセン。勘弁してくださ~い。二度とお芝居観に行きませ~ん」、大声で怒鳴っても、どこからも、誰からも、返事はなかった。腹が空き過ぎていたが芝居の舞台を思いだしていた。今観てきた四段目を一人で始めた・・・・
 上使の口上を判官見届け、紋服を脱ぐと、下は真っ白な装束で切腹の用意が出来ている。判官後ろへ下がる。畳二枚を運び込み裏返しに敷くと白布がその上に敷かれ、四隅にシキビを立てて、用意が出来ると判官さんがピタッと座る。上手から大星力弥が三宝の上に九寸五分を乗せて静々と判官の前に置く。判官の見下ろす目、今生の別れだと見上げる目、良いところだ。
 (太棹が)デ~ン、デ~ン、初めに肩衣を取り、前の細いところを十文字にして膝の下に敷く。それから肌脱ぎになる。デ~ン、デ~ン。襦袢一枚になって、それを纏める。三宝の上の九寸五分を懐紙でクルクルと巻いて、先を一寸五分ほど出しておいて、デ~ン、左手に持っている間は口がきけるが、右に持ち直すと何も言えなくなるのが御定法だと言うな。デ~ン、デ~ン、『力弥、力弥』、『はは~』、『由良之助は・・・』、『未だ参上つかまりませぬ』、デ~ン・・・、デ~ン、二度目には少しせっついて、『力弥、力弥、由良之助は・・・』、力弥だっていたたまれないから、花道の所に行って揚げ幕の方を見て(おとつあん、早く来ないかナ~と思いつつ)『未だ参上』、ツツツ・・・と戻ってきて『つかまりません』 、『今生で対面せで無念だと申せ。御検使お見届け下され』。右手の九寸五分を左脇腹に刺すと、それが切っ掛けで、花道の揚げ幕がサッと開くとツツツ・・・と由良之助が出て来て、花道の七三に平伏する。検使が『聞き及ぶ国家老とはその方か。苦しゅうないこれへよれ。近う、近う』、『ははぁ~』、と見ると殿様腹を切っている。遅かったと思っても取り乱してはいけないと、ユックリと懐に手を突っ込んで腹帯を締め直し、立ち上がると、チョボの三味線が、ツ~ンと受けてくれる。左足からツ-、ツ~ン、ツ、ツ~ン、ツ、ツツ・・・『御前!』、『由良之助か』、『ははぁ~』、『待ちかねた~ぁ』。

 「旦那~、勘弁してくださいよ~。お腹が空いちゃったんです。番頭さ~ん、お清ど~ん。勘弁してくださいよ。困っちゃったな・・・。本当に怒らしちゃった。寝ちゃえば良いが腹が空いて寝られない。そうだ、今お芝居をしていたら忘れていたな。蔵の中だから、色々な品がある」。
 蔵の中から一反風呂敷を広げ、その中央に座る。肩衣を着けて、三宝はお膳で我慢、九寸五分は脇差しで、懐紙がないから手拭いで、「御検使、お見届け下され」。夢中で御座います。
 これを物干しに上がりましたお清どんが、定吉は何をしているだろうと、薄暗い蔵の中を覗きますと、定吉が刃物を振り回して「う~~ん」とやってますから落っこちるように下に来まして、「旦那さん、落ち着いてください」、「落ち着くのはお前さんだ」。「蔵の中で定吉ドンが刀を振り回してお腹を・・・」、「切腹しようとしている?誰か止めなさい。腹が空いたと言っていたから、死のうとしたんだ。御膳を持って行きなさい。茶碗でなくおひつごと持って行きなさい」。おひつを横抱きにして旦那さんバタバタバタと蔵に走って行った。戸を開けると、「御膳(御前)」、「蔵の内(内蔵助=由良助)でか」、「はは~」、「待ちかねた~ぁ」。
 

 



ことば

忠臣蔵(ちゅうしんぐら);江戸城松の廊下で吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭は切腹、浅野家はお取り潰しとなり、その家臣大石内蔵助たちは吉良を主君内匠頭の仇とし、最後は四十七人で本所の吉良邸に討入り吉良を討ち、内匠頭の墓所泉岳寺へと引き揚げる。この元禄14年から15年(1701 - 1702)にかけて起った赤穂事件、いわゆる「忠臣蔵」の物語は、演劇をはじめとして音曲、文芸、絵画、さらには映画やテレビドラマなど、さまざまな分野の創作物に取り上げられている。
 『仮名手本忠臣蔵』は全十一段の構成となっている義太夫浄瑠璃です。

 

 「四段目判官切腹の段」 落合芳幾画 江戸東京博物館蔵
左手前から大星由良之助、その左・大星力弥、奥・斧九太夫、中央・塩谷判官、石堂右馬之丞山名次郎左衛門

四段目概略
 この四段目は異名を「通さん場」ともいう。その名の通り、この段のみ上演開始以後は客席への出入りを禁じ、遅刻してきても途中入場は許されない。出方からの弁当なども入れない。塩冶判官切腹という厳粛な場面があるためである。成句「遅かりし由良之助」のもとになった大星由良助はここで初めて登場する。
(花籠の段)「御上使のお出で」という声がするので、かほよ御前をはじめとして人々は座を改め、上使を迎える。
歌舞伎では「花献上」とも呼ばれるこの場面は通常省略される。
(判官切腹の段)足利館から石堂右馬之丞、薬師寺次郎左衛門が上使として来訪した。情け深い石堂に比べ、師直とは親しい間柄の薬師寺は意地が悪い。一間より判官が出てきて上使に応対する。判官は切腹、その領地も没収との上意を申し渡される。これには同席していたかほよ御前はもとより、家中の者たちも驚き顔を見合わせるが、判官はかねてより覚悟していたのかその言葉に動ずる気色も無く、「委細承知仕る」と述べた。そして着ているものを脱ぐと、その下からは白の着付けに水裃の死装束があらわれる。判官はこの場で切腹するつもりだったのである。だがせめて家老の大星由良助が国許から戻るまでは、ほかの家臣たちにも目通りすまい…と待つが、なかなか現れない。
 判官は力弥に尋ねた。「力弥、力弥、由良助は」「いまだ参上仕りませぬ」「…エエ存命に対面せで残念、残り多やな。是非に及ばぬこれまで」と、遂に刀を腹に突き立て、近くにいたかほよがそのさまを正視できず目に涙して念仏を唱える。そのとき大星由良助が国許より駆けつけ、後に続いて一家中の武士たちが駆け入った。「ヤレ由良助待ち兼ねたわやい」「ハア御存生の御尊顔を拝し、身にとって何ほどか」「オオ我も満足…定めて仔細聞いたであろ。エエ無念、口惜しいわやい」…と判官は刀を引き回し、薄れゆく意識の中で最後の力を振り絞り、「この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らさせよ」とのどをかき切って事切れた。由良助はその刀を主君の形見として押し頂き、無念の涙をはらはらと流すのだった。だがこれで判官の、余の仇を討てとの命が伝わったのである。
 石堂は由良助に慰めの言葉をかけ、薬師寺とともに奥へ入った。上使の目を憚っていたかほよ御前はそれを見て、とうとうこらえきれず「武士の身ほど悲しい物のあるべきか」と判官のなきがらに抱きつき、前後不覚に泣き崩れるのだった。判官の遺骸は塩冶家菩提所の光明寺へと埋葬するため、駕籠に乗せられるとかほよも嘆きつつそれに付き添い館を出て、光明寺へと急ぐ。
(評定の段)そのあと、一家中で今後のことについての会議をする。由良助は家老斧九太夫と金の分配のことで対立し、九太夫はせがれの定九郎とともに立ち去る。ここで由良助は、残った原郷右衛門、千崎弥五郎ら家臣たちに主君の命を伝え、仇討のためにしばらく時節を待つように話す。やがて明け渡しの時が来る。由良助たちは「先祖代々、我々も代々、昼夜詰めたる館のうち」も、もう今日で見納めかと名残惜しげに館を出る。
(城明け渡しの段)表門の前では屋敷明け渡しに反対する力弥ら若侍たちが険悪な雰囲気で立ち騒いでいる。そこへ出てきた由良助は判官が切腹に使った刀を見せ、師直に返報しこの刀でその首をかき切ろうと説得するので、人々は「げにもっとも」とその言葉に従う。だが屋敷の内には薬師寺が、「師直公の罰があたり、さてよいざま」というとどっと笑い声が起こる。その悔しさに屋敷内へと駆け込もうとする諸士を由良助はとどめ、「先君の御憤り晴らさんと思ふ所存はないか」というので皆は無念の思いを抱きつつも、この場を立ち去るのであった。

四段目;落語「淀五郎」。そしてこの噺「四段目」
五段目;落語「中村仲蔵」。仲蔵、斧定九郎を新解釈する
六段目;落語「片袖」。
七段目;落語「七段目」。

上方と江戸噺の細部の違い;落語には、その粗筋は同じでも、細部の展開が古今東西によって異なるものが多い。本作で旦那が定吉を引っ掛けるくだりもこれにあたる。
 五段目の「『山崎街道』に出てくる猪の前脚が團十郎・後脚が海老蔵」とやったのは、本作を東京に移植した三代目桂米朝その人で、これは関東では成田屋が「隋市」(= 随一の市川)の宗家である荒事が中心の江戸歌舞伎を前提にしたものに他ならない。 一方、和事の発祥地として成長した上方歌舞伎を知る関西の者には、團十郎・海老蔵という荒事の組み合わせが浮いてしまい基本的に馴染まない。そこで関西ではこのくだりが次のようになる。 「今度の『忠臣藏』はな、五段目が評判や。とくに猪がええ。前脚が中村鴈治郎で後脚が片岡仁左衛門。こんな猪は二度と見られん」 途端に定吉は笑い出して、 「五段目の猪いうたら、大部屋の役者が、それも一人でやりまんねんで。前脚が成駒屋、後脚が松嶋屋やなんて、そなアホな」 「そら、芝居が嫌いと言う者が、なんで屋号で返すんや」 「何言うてなはんねん。わたし実際この目で見てきましたがな。」 「そうら!言いよったな!」 「ああ!しもた・・・」 と、ここですでに語るに落ちてしまう。
 この他にも、「中村歌右衛門の師直の評判がいいそうだ」と旦那がカマをかけ、引っかかった定吉が「女形の歌右衛門が敵役の師直なんかやりませんよ!」と答えて語るに落ちるという現代的な演出もある。現代的、というのは、中村歌右衛門が女形に転じたのは明治後期の五代目歌右衛門以後のことで、それ以前の歌右衛門はいずれも立役だったため。しかもその五代目自身は立役もこなす役者で、実際に師直をやったこともある。娯楽が限られていた明治から戦前昭和の人はそんな事情もよく承知していたので、うっかり「女形の歌右衛門」などというと誰が知ったかぶりをしているのか分からなくなってしまう。そこで一昔前の噺家がこのようにすることはまずなかったのである。
<ウイキペディアより>

一幕見(ひとまくみ);芝居を一幕だけ見ること。歌舞伎座などでは一幕見の客専用の座席を設ける。まくみ。

築地(つきじ);中央区築地。江東区豊洲に移転が決まっている、東京中央卸売市場が有ります。また、築地本願寺があります。

五段目の山崎街道(5だんめ やまざきかいどう);右図:「五段目」北尾政美画。
 家老・斧九太夫の息子の定九郎、親に勘当されて今では山賊である。「さっきから呼ぶ声が、きさまの耳へは入らぬか…こなたの懐に金なら四五十両のかさ、縞の財布に有るのを、とっくりと見付けて来たのじゃ。貸してくだされ」と、定九郎は老人の懐から無理やり財布を引き出す。それを抵抗する老人に「聞きわけのない。むごい料理するがいやさに、手ぬるう言えば付け上がる。サアその金をここへまき出せ」。老人が自分の娘の婿(早野勘平)のために要る金、お助けなされて下さりませと必死に頼むのも取り合うことなく、定九郎はむごたらしく老人を殺した。そしてその財布を奪い、中身が五十両あるのを確かめて「かたじけなし」と財布の紐を首に掛け、老人の死骸を谷底に蹴り落とした。
  だがそのうしろより、逸散に来る手負いの猪。定九郎はあやうくぶつかりそうになるのをよけ、猪を見送る。その瞬間、定九郎の体を二つ玉の弾丸が貫く。悲鳴を上げる暇もなく、定九郎はその場に倒れ絶命した。 定九郎が倒れている場所に、猪を狙って鉄砲を撃った勘平がやってくる。猪を射止めたと思う勘平は闇の中を、猪と思しきものに近づきそれに触った。猪ではない。「ヤアヤアこりゃ人じゃ南無三宝」と慌てるが、まだ息があるかもと定九郎の体を抱え起こすと、さきほど定九郎が老人(義理の父)より奪った財布が手に触れた。掴んでみれば五十両。自分が求める金が手に入った。「天の与えと押し戴き、猪より先へ逸散に、飛ぶがごとくに急ぎける」。

猪は前足を大阪の中村鴈治郎(なかむらがんじろう);上記の山崎街道に出てくるイノシシで、下っ端の役者の役です。馬の足ではないので二人でやることはありません。
 鴈治郎は、初代 中村 鴈治郎(しょだい なかむら がんじろう、安政7年3月6日(1860年3月27日) - 1935年(昭和10年)2月1日)で明治から昭和の初め頃まで一世を風靡した上方歌舞伎の大看板。屋号は成駒屋。定紋はイ菱。俳名に扇若・亀鶴、雅号に玩辞楼、浄瑠璃名に吉田玉太郎。本名は林 玉太郎(はやし たまたろう)。
右写真:『碁盤太平記』の大星由良助役の鴈治郎。

後ろ足の方をこちらの尾上菊五郎(おのえきくごろう);六代目 尾上 菊五郎(ろくだいめ おのえ きくごろう、1885年(明治18年)8月26日 - 1949年(昭和24年)7月10日)は大正・昭和時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に三朝がある。本名は寺島 幸三(てらしま こうぞう)。 初代中村吉右衛門とともに、いわゆる「菊吉時代」の全盛期を築いた。歌舞伎界で単に「六代目」と言うと、通常はこの六代目尾上菊五郎のことを指す。『仮名手本忠臣蔵』では早野勘平・高師直・お軽を演じた。

五代目 尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう、天保15年6月4日(1844年7月18日) - 1903年(明治36年)2月18日)は明治時代に活躍した歌舞伎役者。本名は寺島 清(てらしま きよし)。 尾上菊五郎としての屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に梅幸。 市村羽左衛門としての屋号は菊屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に家橘。 九代目市川團十郎、初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」の黄金時代を築いた。

上手(かみて);客席から見て舞台右手を言う。左側を下手(しもて)という。

シキビ(樒);シキミ。シキミ科の常緑小高木。山地に自生し、また墓地などに植える。高さ約3メートル。葉は平滑。春、葉の付け根に黄白色の花を開く。花弁は細く多数。全体に香気があり、仏前に供え、また葉と樹皮を乾かした粉末で抹香や線香を作り、材は器具用。果実は猛毒で、「悪しき実」が名の由来という。

九寸五分(くすんごぶ);30cm弱の刀。刀の長さによっていう 短刀。切腹するときに使う最善な大きさの刀。
切腹の時、懐紙で刃物を丸めて、先端を一寸五分(4~5cm)出す。実際には腹の中まで届かないが、介錯人がいて即座に首をはねる。

 国宝「相州貞宗」 東京・文化庁蔵 貞宗は正宗の弟子で正宗の作風を伝えています。

肩衣(かたぎぬ);室町時代の末から武家が素襖(スオウ)の代用として用いた服。背の中央と両身頃胸部とに家紋をつけた素襖の、袖をなくしたもの。肩から背にかけて小袖の上に着る。下は袴を用いる。
右写真:信長が着けているのが、肩衣。
 裃(かみしも) は、江戸時代の武士の礼装。同じ染色の肩衣と袴とを小袖の上に着るもの。麻上下を正式とする。

花道の揚げ幕(はなみちのあげまく);花道の突き当たりの小部屋、鳥屋(とや)の入り口にかかっている鳥屋揚幕(とやあげまく)。多くの場合、黒や紺の布に劇場のシンボルマークが白く染め抜かれています。揚幕は金輪(かなわ)を使って吊られています。そのために勢いよく開け閉めをすると「チャリン」という独特の音がします。俳優が出るときに「チャリン」という音がすると観客は、揚幕に注目します。

花道の七三(はなみちの しちさん);花道の舞台とは反対側の端には役者が入退場する為の鳥屋(とや)という部屋があり、その入り口には部屋の中を隠す為の揚幕(あげまく)という幕がかかっている。また本舞台と揚幕を3:7に分ける場所(実際にはここよりも舞台によった場所)を舞台寄りの七三、7:3に分ける場所を揚幕寄りの七三といい、花道上の演技は多くの場合このいずれかの場所(特に前者)で行われる。舞台寄りの七三にはセリがあり、すっぽんと呼ばれている。すっぽんは妖怪や幽霊などを演じる役者が登場したり退場したりする場合に使われる。花道は通常下手にしかないが、演目によっては演出の都合上、上手側にも花道を仮設する場合がありこれを仮花道(かりはなみち)という。 なお歴史的には七三といえば揚幕寄りの七三の事であったが、大正の頃から混同が起こり「七三」という言葉が舞台寄りの七三の事も表すようになった。混同された理由としては、揚幕寄りの七三が二階席から見づらい為に演技の位置が舞台よりの七三に移った事、また、無知なジャーナリストが誤用した可能性などが挙げられている。また「鳥屋」という言葉は上方のものであり、江戸ではこの部屋も揚幕と呼ばれた。
 歌舞伎では、花道を通って出たり引っ込んだりする場面は、演技の大きな見せ場となります。引っ込む時の演技で代表的なものが、勧進帳の六方(ろっぽう)です。花道を通る役は、七三で一度立ち止まり、何らかのしぐさや見得(みえ)をすることがあります。舞台より客席に近い花道を使った演技は歌舞伎独特のもので、観客に強い印象を与えることができます。

  

写真:客席側から見た花道の突き当たりの揚げ幕。 右:花道。 千代田区・国立劇場

チョボの三味線(ちょぼの しゃみせん);チョボ=歌舞伎義太夫とも。文楽(人形浄瑠璃)の太夫の三味線と区別して竹本と呼び、文楽から竹本に転向した者は再び文楽には戻れぬという鉄則が現在も守られている。このため、かつては文楽より下位に置かれ、〈チョボ〉と呼ばれて蔑視された。その後、義太夫狂言は歌舞伎の重要な柱であり、これを支える竹本の存在が重視されて、人間国宝の指定を受ける者も出た。
 人形浄瑠璃では全てを義太夫が語りますが、歌舞伎ではセリフは俳優が言うわけですから義太夫節の床本にチョボ紙という色紙を貼り付け役者のセリフと義太夫の語り部分を分けたようです。このチョボ紙で分けられた部分を語ることから歌舞伎義太夫をチョボということになったようです。歌舞伎の世界で人形浄瑠璃から移った義太夫狂言が人気を博するようになると、人形浄瑠璃は痛手を受けるわけで、その対策として歌舞伎に出演した太夫・三味線を除名処分にしたり、人形浄瑠璃の太夫・三味線を本業、歌舞伎の太夫・三味線を「チョボ」と差別して呼んだりしたのです。現在では差別用語としての「チョボ」は死語になりつつあり、「竹本」が歌舞伎義太夫の呼称となっております。

太棹(ふとざお);長唄・端唄・小唄などの細棹や、常磐津・清元・新内・地唄棹などの中棹と異なり、歌舞伎義太夫には棹の太い太棹といわれる三味線を使用します。棹だけでなく胴も大きく絃も太く、同じ太棹でよく間違われる津軽三味線とは撥(ばち)や駒の素材・形状も違い音色も大きく異なります。その音色は低く、強く、太い音を出すのが特徴です。

一反風呂敷(いったんふろしき);簡単に言うと2m角の大きな風呂敷です。
 着物の生地の巾がだいたい1尺(約38cm)、反物の長さが約11~12mあります。この約12mを2mづつに切ると約38cm巾の生地が6枚出来ます。これをつなぐと生地巾が約2mで長さが約2mの布が出来ます。丁度一反(の反物)から約2m角の風呂敷ができます。これが一反風呂敷です。
 火災が多かった江戸において、布団の下に敷き、火事などの災害発生時に寝具の上に家財道具を放り投げ、一切合財をそのまま風呂敷に包んで逃げるために使われていたといいます。

御膳(ごぜん);ぜん・飯・食事を敬っていう語。 また、「御前」は、高貴な人の前。おんまえ。「おまへ」とも。 高貴な人を尊敬していう語。



                                                            2016年4月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system