落語「土橋漫才」の舞台を行く
   

 

 桂小南の噺、「土橋漫才」(どばしまんざい)より


 

 大阪は船場の大店播磨屋では、若旦那にどんな忠告をしても聞き入れないので、奥の離れに軟禁した。目を離すと遊びに出掛けるので、丁稚の定吉が割り木片手に見張っています。
 若旦那は定吉を部屋に呼んで、銘菓と20銭銀貨を上げて買収工作に出たが、定吉もそれぐらいではなびかない。藪入りの時、他の丁稚達と違って土産物を沢山持たせてやるからと・・・。奥の布団には中に詰め物して寝ているようにしてある。

 若旦那が裏から出掛けたことはつゆ知らず。旦那は風邪気味で寝ているので、代わりに番頭が葬式に参列しようと、ハサミ箱を持たせて定吉をお供に連れ出すのに、亀吉と交代させて、葬礼差しを腰に差して出掛ける。阿倍野の墓までお付き合い。亀吉では心許ないと帰すが、定吉の様子がおかしい。「今頃若旦那はいませんよ。亀吉どんが20銭貰って、部屋から出していると思います」、「定吉、頭が良いから考えてくれ、出来たら何でもご馳走するよ。今頃若旦那はどこに行っていると思う」、「北の住吉に集まって、今頃難波の八方亭で芸者太鼓持ちを集めて騒いでいます」、「確かめに行く」、「間違いありません」。「それでは、先に帰って、『番頭さんは用事があって他に回る』と報告しておきなさい」、「ご馳走は?」、「それは後でだ」。

 その頃若旦那は定吉が言うように遊んでいた。店の仲居さんは「来ていない」と言うが、偽名を使ったら「少々お待ち下さい・・・」、太鼓持ちが降りてきて引っ張り上げられた。「お前、番頭じゃないか」、「隣の部屋でお話が・・・」、「言いたいのは分かる。一杯飲め」、「旦那さんや定吉を騙して、ここに来ている。お話を・・・」、「じゃかましい。番頭なんて、丁稚のなれの果てじゃないか。お前らが何人来ようが、蚊ほども感じないんだ」。
 若旦那と番頭がもみ合う内に、番頭さん二階から転がり落ちてしまった。痛さをこらえて「若旦那を早く返して下さい。あんな風ではないのだが・・・」。「ゲンが悪いから店を変えよう。これからいつものキタに行くぞ」、大勢の芸者太鼓持ちをゾロゾロ引き連れて、やって来ましたのが土橋。

 橋のたもとから飛び出した男。頬被りをして、尻ぱしょり、長いのを腰に差して、「追剥じゃー!」、ビックリした芸者幇間は命からがら若旦那を放り出して逃げて行った。「身包み脱ぎます。お金だったら少しはあります。お助け下さい」、「そんな物欲しくはない。茶屋遊びを止めてくれ」、「変わった泥棒さんだ」、手ぬぐいを取ると番頭だった。「若旦那、『追い剥ぎだ』と言って出る泥棒が何処に有りますか。それに、芸者太鼓持ちが貴方を助けずに先に逃げてしまいました。普段下にも置かない対応が、ご覧なさい、自分のことだけで精一杯です」、「そうか。心を入れ替えて・・・と言うがそうはいかない。オイ、番頭、よ~く聞けよ。芸人達が逃げたのは、芸を売るためで命を守るために連れて歩いているのじゃ無い。そこまでの義理は無いのじゃ。大阪中を踏み歩いた雪駄で、こうじゃ」、番頭をそれで殴りつけた。 「殴るのはかまいませんが、私の顔に傷が付いたら、播磨屋の番頭は喧嘩してきたのかと陰口つかれ、店の信用に傷が付きます。お!若旦那、血が・・・」、「何じゃその面は、これでも食らえ。・・・オッ・オイ、俺を切る気か。刀の柄に手を掛けたな」、「滅相もありません」、「切るなら切れ」、「葬式の帰りで刀は持っていますが・・・。ダメです」、刀の取り合いになって鞘走った刀が若旦那を傷つけてしまった。「人殺しぃ~」、「性根が腐ってしまったんですね。アンタだけ殺しはしません。私も後を追います」、若旦那にトドメを刺して、番頭さんも・・・。「うう~ん」。

 若旦那は自分の絶叫で目を覚ました。見れば自分がいるのは播磨屋の離れ座敷で、そばには定吉がキョトンとした表情で座っている。今のは夢か?・・・。安心した若旦那は、急に番頭のことが気になって定吉に呼んでくるように命じた。定吉が帳場へ降りてくると、なんと番頭も帳面に筆を突き立てて真っ黒にして唸っている。定吉に揺り起こされ、若旦那が自分を呼んでいると聞かされた番頭は、大急ぎで離れ座敷へ飛んでいった。
 若旦那と番頭は、顔を合わせると、今まで自分が見ていた恐い夢の話をし出した。二人同時に、全く同じ夢を見ていたのだと気づいて慄然とする。 なんとか若旦那に固くなってもらいたい・・・、番頭の一念がこんな奇跡を生んだのか。自分の愚かさをやっと悟った若旦那はこれからは商売に励むと番頭に誓った。
 「もしあれが夢じゃなかったら、今頃、番頭は主殺しの重罪で磔の死刑やったなぁ・・・。私が殺されるのはしょうが無いが、こんな出来た番頭さんを犯罪人にするのは・・・」。若旦那の述懐に、なぜかそばにいた定吉が泣き出した。「今のは夢や」とあわてて弁解する若旦那に、定吉はそんなことで泣いているのではないと答えた。「重罪で死刑だったら、お父っつぁんは可哀相で…」、「お前のお父っつぁんって何や?」、「番頭さんが重罪(十罪)なら、お父っつぁんは萬歳(万罪)なんです」。

 



ことば

■クライマックスの若旦那殺しは、上方歌舞伎の名作である『夏祭』の見事なパロディとなっています。 忠義な番頭は歌舞伎の主人公・団七に、傲慢な若旦那は主人公の義父である義平次に準えられており、殺人のシーンは歌舞伎同様のダンマリ*で演じられる。
 *ダンマリ:歌舞伎の舞台で、真っ暗な中、相手を捜しながら武闘を繰り広げること。

夏祭浪花鑑(なつまつり なにわ かがみ);人形浄瑠璃および歌舞伎狂言の題名。延享2年7月(1745年8月)に大坂竹本座で初演。作者は初代並木千柳・三好松洛・初代竹田小出雲。初演後間もなく歌舞伎化され、人気演目となった。 全九段。通し狂言としての通称は『夏祭』。ただし今日では三段目「住吉鳥居前」(通称: 鳥居前)・六段目「釣船三婦内」(通称: 三婦内)・七段目「長町裏」(通称: 泥場)がよく上演されるので、これらが通称として用いられることが多い。

 団七は、幼いとき浮浪児だったのを三河屋義平次に拾われ、今ではその娘のお梶と所帯を持って一子をもうけ、泉州堺で棒手振り(行商)の魚屋となっている。元来義侠心が強く、名も団七九郎兵衛と名乗り老侠客釣船三婦らとつきあっている。
 夏祭り・七段目、堺筋の東側にある長町裏。義平次に追いついた団七は、駕籠に乗せられた琴浦を返すよう懇願する。金に目がくらんでいる義平次は耳をかさず、さんざん団七に悪態をつく。「おれはお前の愛想尽かしを待っていたのじゃ」と反省の色もない。団七はとっさに石を懐に入れ、「親父どん、友達ちゅうのはええもんでんなあ。わしが入牢中に頼母子講で三十両集めてくれましてな。今、ここにござりますねん」と嘘を言う。義平次は金を貰えると聞いて態度を一変させ駕籠を返すが、「アニよ、その金は?」「さあ、その金は…」「その金は?」「…その金、ここにはござりませぬわい」と金子に見せかけた石を出す。怒った義平次は団七を打ち据え、「ようもようも、この仏のような親をだましくさったなあ」とついには団七の雪駄で額を打ち傷を負わせる。「ああ痛タ…おやっさん~、何ぼ何でもこないにドクショウに打たいでもええやろが」とぼやきながら団七は額に手を当て、血がついていてびっくり。「こりゃこれ男の生き面を…」と憤る団七「打った、はたいた、打ったがどうした、なんとした」とにらみ付ける義平次。思わず刀に手をかける団七。「何じゃい、何じゃい、われはわしを切りさらすのか」「あ、いやおやっさん、さようなことができまっかいな…」舅といえば親も同然。我慢に団七は我慢を重ねる。義平次は図に乗り、「これよく聞け、舅は親じゃぞよ、親を切ればな、一寸切れば一尺の竹鋸で引き回し、三寸切れば三尺高い木の空で、逆磔じゃぞよ、さあ切れ、これで切れ」と刀をつかんで挑発する。「おやっさん、やめとくんなはれ、危ないがな」「さあ、殺せ、殺しさらせ」と言い合ううち、ついには刀を取り合う揉みあいとなる。 刀の鞘が走って団七は義平次の肩先を斬ってしまう。「うわあ、切りやがった、親ごろし~」「親父どん、何いうんじゃい、ええ加減にだだけさんすな」と義平次の口を押さえたときに、団七は血糊に気づきもはやこれまでと、だんじり囃子の聞こえる中、義平次を惨殺する。屍骸を池に捨て、井戸水で身体を洗った後「悪い人でも舅は親、親父どん、堪忍してくだんせ」とだんじりの群集にまぎれて去っていく。

落語の若旦那、と言えばまじめな働き者…というのはごく少数で、大抵は『飲む打つ買う』の三道楽に血道を上げる極道者ばかり。 この話でもご多分にもれず、番頭を突き落としたのに「厄介払いができた」とドンチャン騒ぎを始めるような非情な若旦那に天誅が下ってしまう。 ちなみに、冒頭で若旦那が定吉にあげると言うお金の単位から、この話の舞台が明治時代であることが推測される。 帯刀が禁じられた時代で起こった刀による殺人劇を、番頭が葬式に出席する為に『葬礼差し』を持っていたことにすることで見事にクリアしている。昔、葬礼、葬式の、お弔いに立つのに、葬礼差しといって、短い刀を差したんです。飾りもんですけれども、しかし、ここに出て来る刀は、本身で、良く切れる刀だった。また、武士以外でも持てたのは、道中差しと言って旅の時は許された。
<ウイキペディアより>

大和(やまと);国名に使用される「やまと」とは、元々は「倭(やまと)、大倭(おおやまと/やまと)」等と表記して奈良盆地東縁の一地域を指す地名であった(狭義のヤマト)。その後、「大倭・大養徳・大和(やまと)」として現在の奈良県部分を領域とする令制国を指すようになり、さらには「日本(やまと)」として日本全体を指す名称にも使用された。

大和の丁稚;大阪商人は我慢強い大和地方出身者を丁稚に迎えた。大和では正月に俄(にわか)漫才で大阪に出て来ます。定吉のお父っつぁんも漫才師だったのです。そこに行くと大阪出身者は根性が無く、叱ると直ぐに泣いて家に帰ってしまいます。『大阪のど根性』はどこに行ったのでしょうね。

 ■万歳楽(まんざいらく);新年に家々を回り祝言を述べ、舞を見せる門付芸能。風折り烏帽子(えぼし)に大紋の直垂(ひたたれ)姿の太夫が、大黒頭巾にたっつけ袴の才蔵の鼓に合わせて演ずる。江戸時代に千秋(せんず)万歳より興り、三河万歳・大和万歳・尾張万歳・秋田万歳などがある。大阪へは主に大和から門付けでめでたい言葉を囃しにきた。
 右絵:三河万歳。歌川豊国の「万歳歳三」
 雅楽のひとつで、唐楽に属する平調の曲。舞は六人または四人。唐時代において、賢王が国を治めるときに鳳凰という鳥が飛来して「賢王万歳」とさえずったと伝えられるところから、鳥の声を音楽とし、飛ぶ姿を舞に作ったといわれる。 めでたい文の舞として、武の舞の「太平楽」とともに即位礼その他の賀宴に用いる。左図。
 それが進化して、寄席などの舞台で演じられるようになる、二人が掛合いで滑稽な話をかわす演芸。また、その芸人。関西で大正中期、万歳が舞台で演じられたことから始まり、昭和初年掛合い話が中心となる。

難波土橋(どばし);1732(享保17)年の大飢饉の際、救済事業のために米蔵(難波御蔵=現在のなんばパークス西北角(難波中交差点)。南海難波駅隣)を建て、道頓堀から御蔵まで入堀川(新川)が掘られた。その入堀川にかかっていた土橋。架かっていたのはちょうど高島屋の西北角(難波西口交差点)あたりになる。入堀川は現在埋め立てられて、上部に高速道路が走っています。

二十銭銀貨(20せんぎんか);明治3・4年製造。右写真20銭銀貨裏表。
 直径:24mm、5.00g。二年間製造されて、モデルチェンジされ一回り小さくなり、明治38年まで製造された。

ミナミの遊所;南地五花街:宗右衛門町、九郎右衛門町、櫓町、阪町、難波新地を総していう。

新町(しんまち);現在の大阪市西区新町1 - 2丁目に存在した遊廓。豊臣秀吉の大坂城建築によって城下町となった大坂では、江戸時代の初期にかけて諸所に遊女屋が散在していた。 1616年、木村又次郎が幕府に遊郭の設置を願い出、江戸の吉原遊廓開業後の1627年、それまで沼地だった下難波村に新しく町割りをして散在していた遊女屋を集約、遊廓が設置された。 新しく拓かれた地域の総称であった新町が遊廓の名称となり、城下の西に位置することからニシや西廓とも呼ばれた。その後徐々に発展し17世紀後半には新京橋町・新堀町・瓢箪町・佐渡島町・吉原町の五曲輪(くるわ)を中心として構成されるようになり、五曲輪年寄が遊郭を支配下においた。 廓は溝渠で囲まれ、さらに外側は東に西横堀川、北に立売堀川、南に長堀川と堀川がめぐらされており、出入りができる場所は西大門と東大門に限定されていた。当初は西大門だけだったが、船場からの便宜をはかって、1657年に東大門ができ、1672年に新町橋が架橋された。他に非常門が5つ設置されたが普段は閉鎖されていた。江戸の吉原、京の島原と並んで三大遊郭のひとつとされ、元禄年間には夕霧太夫をはじめ800名を超える遊女(太夫など)がいたことが確認されています。

Tasogare Kinnosuke氏作図 2012

ハサミ箱武家が公用で外出する際、供の者にかつがせる物品箱。長方形の箱の両側に環がついていて、それにかつぎ棒を通したもの。右写真:箱根大名行列。左の切手、左側がハサミ箱を持った人物。

鞘走る(さやばしる);刀身が自然に鞘から抜け出る。



                                                            2016年4月記

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