落語「けんげしゃ茶屋」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「けんげしゃ茶屋」(けんげしゃじゃや)より


 

 「けんげしや」と言うのは滅んだよぉな言葉でございまして、ゲンを気にする人のことを言う、そぉいぅ人のことを「御幣担ぎ」と言ぃます。

 「村上の旦さんやおまへんかいな?」、「おぉ、こら又兵衛さん、えらいとこで会ぉたなぁ」、「大晦日。また旦那、この大晦日やといぅのに、どちらへお出かけで?」、「別にどこへ行くというわけでもないんじゃが、家に居てるとうちのやつが、もぉバタバタバタバタと春の支度をしたり『旦さん、こんな日ぃに奥に座っててもらうと困ります、どぉぞお店へ』ちゅうさかい店へ出た。ほな番頭がまた、これみんな集めて帳面ひっくり返して一年中の総決算、忙しそぉにしてるわいな。そこへ座ってると『旦さん、もぉこんな日ぃに居ててもらうとややこしぃてどもなりまへん、どぉぞ奥へお入りを』と、こない言ぅねん。居るところがないようなって、まぁ外へ出て来たんじゃが。さて大晦日ちゅうのは、どっこへも行くところの無いもんじゃなぁ、どこ行たかて邪魔になるだけやろ。まさか大晦日に茶屋遊びもでけず、しょがないもんやさかい、こんな寒空にブラブラ歩いてる」。
 「わたしも家に居られしまへんね。いや、これは借金取りが来るさかいに、外ブラブラ歩いてる、えらい違いや。旦さんぐらいのお顔になったら、大晦日であろぉが盆であろぉがお茶屋嫌がらしまへんで。新町のいつものあのお店へでもお出かけになったらどぉでおますか」、「ちょっと新町に行けんよぉになってしもぉてなぁ。この前ちょっと、悪洒落が過ぎた。いや、いつものよぉに大門のところまで行くと幾代餅があるじゃろ、人がたかってるわいな。見てると、粟餅(あわもち)を手で丸めてな、餡子(あんこ)の上を転がしとぉる。転がすにつれて美味しそぉな餡ころ餅が出来上がるやないかいな。フッと思い付いてな、あの粟餅を餡を付けずに、黄色いままなるべくこの不細工につくねさしたやつを竹の皮へ包まして、それを懐へ入れてあの店に行た」。

 「例によって、芸者から太鼓持ちから仲居からワァワァやってる。わしがわざと浮かん顔して、盃にも手を出さずにこぉやってると『旦さん、どぉあそばしました?』ちゅうさかい『ちょっとお腹の具合が悪い』『そらいけまへんな、お薬持って来まひょか、なんやったらお医者はんでも』。『いやいや、わしゃもぉ自分の腹痛分かってる、医者もお薬も要らん。わしの腹痛はもぉ、出すもんさえ出してしもたらスッとすんねん』『ほな、お手水場へご案内を』『いや、もぉ手水場へ行くのん邪魔臭い。ここでやってしまうさかい、ちょっとオマル持て来てくれ』ちゅうて。『お座敷へそんなもんが出せますかいな』『出せんのならまぁえぇわ、もぉちょっと間、こないしてよ』ちゅうて、こぉみんなの隙狙ろぉてな、粟餅を一つつまみ出して、足の間へこぉ落としといたったんや。それから『あぁ気分が直った、さぁ呑みなおそか』と、盃を取り上げたら『旦さんお腹の具合は』『最前も言ぅたとぉり、わしゃ出すもんさへ出してしもたらスッとすんねやさかい』『へぇ~?』て、ケッタイな顔しとぉる。『もぉじかにやってしもた』ちゅうて、立ち上がったら足元に転がってるやろがな。皆ビックリしよったで」、「そらビックリしますわ」、「『まぁ、旦さん。何ちゅうことなさる! これッ、ちょっと早いこと雑巾持って来い、灰持って来い』ちゅうて、大騒ぎするさかい『皆、そぉバタバタせぇでもえぇがな、わしの体から出たもんじゃ、わしが自分で始末付けたる』ちゅうて、つまんで食てしもたった。えらいことなったで・・・」、「そら、なりまっしゃろ」。
 「気の弱い芸妓なんか、反吐(へど)ついてるやつがある。太鼓持ちの一八めが飛び出して来て『旦さん、何ていぅことをなさる。ここをどこやと思てなはんねん、新町のど真ん中でっせ。ご人定(じんてい)に関わりますッ』ちゅうて、あんまりギャ~ギャ~言ぅさかい、お前も芸人なら、わしがそんなことするよぉなもんかどぉか、頭働かせちゅうんや。出して見せたったんや『こっちの趣向を見破ってやで『旦さんのお体から出たもんなら、わたしがちょ~だいいたします』言ぅて、つまんで食べる真似でもしてみぃ、お前のデボチンへ百円札一枚ベタ~ッと貼り付けたとこや』『旦さん、それを先ちょっと言ぅといてもらいましたら』『先へ言ぅたら洒落にも趣向にもならんじゃないか』と、果ては大笑いになった。
 呑んでるうちに、今度はホンマに手水へ行きとなったんや。ス~ッと立ちかけてると一八が『旦さんどちらへ』『ちょっとお手水へ』『もぉそんなとこ行かんと、ここでやってしまいなはれ』『アホなこと言ぅな』ちゅうて廊下へ出たら、あいつが付いて来よんねん。『もぉ百円とは言ぃまへん五十円で結構です、二十五円に負けときます、十二円五十銭まで値引きする』てなこと言ぅて、便所の入口まで付いて来るもんやさかい、わしもつい悪戯気(いたずらげ)が起こって。今度はホンマモンを一つコロッと落としたってん。『ありがたいッ!』ちゅうて、それをつまみ上げてここまで持ってきた時の顔といぅものは・・・、絵ぇにも筆にも書けなんだなぁ~」。
 「はぁ~ッ、旦さんならでけん芸当でおますわ」、「それが新町中ゅ~の評判になってしもて、わしが道歩いてると『あッ、糞(ばば)の旦さんが来はった』、『あれが有名なババの旦那やがな』、恥ずかしぃやら、面目ないやら、もぉ新町通れんことになってしもて、この頃河岸(かし)を変えてミナミの方へ行てんのじゃがな」。

 「年甲斐ものぉて面目ない話じゃが、また一人可愛ぃのんがでけてなぁ、店一軒持たしたぁんねや。国鶴ちゅうてな、若い子じゃ、面白いといぅのはここのうちがな、本人はもとより両親まで揃いも揃ろぉて、けんげしゃじゃ。気にする気にする『カラス鳴きがえぇとか悪いとか、箸がこけたんがどぉやとか』いぅてんねん。チョイチョイとゲンの悪いことを言ぅてやるとな、クチャクチャッと顔に稲妻走らしよる。それがオモロイさかい、それを肴に呑んでる。明日また、元日の書き入れやでな、なんか一つ考えよと思てんのじゃが、又兵衛さん、明日あんた体空いてないかい?」、「お手伝さしてもらいますがな」、「十人ほど手回らんか」、「そらまぁこれ次第で人寄らんことはおまへん。そら少々高こついてもかまわんのじゃがな、その連中にひとつその葬礼(そぉれん)の色を着せてもらいたい。白装束、麻の裃(かみしも)な、麻の上下を着せて、手に位牌やとか香炉やとか白張り(しらはり)や影灯篭を持たして葬礼の行列をひと組作ってもらうねん。それで昼頃、国鶴の店『鶴の家』に来てもらいたい」、「確かに承知をいたしました」。えらい約束がでけまして、この旦那、これからうちへ帰ります。

  一夜明けますと新玉の春でございます。家で年始を祝いますとこの旦那、供も連れずに一人でポイッと外へ出る。南へ南へ、戎橋をヒョイと渡ります。橋筋中筋を左へ曲がりますと、色街の春といぅものは格別でございまして、羽根や手まりで何とも言えず陽ぉ気なこってございます。(お囃子が入って賑やかに)。十二月(じゅうにつき)の唄が聞こえます。色街の情景が浮かび上がります。
 「はい、ごめんを」、「まぁまぁどぉぞどぉぞ・・・、これは、明けましておめでとぉさんでございます」。国鶴も「はい、ただいま」、返事がして二階からスッと降りてまいりました。国鶴姐さん、まぁ艶々と島田結ぃ上げまして、別染めの春着。ピタッと座りますとミナミの一流の芸者の貫禄ですなぁ。「いやぁ~ッ、艶やかあでやか。はぁ~ッ、大阪中の春がここへ集まったといぅよぉなもんじゃなぁ。二階へもぉ上げてもろぉてえぇかいな」、「まだろくにお飾りもでけてませんけど、どぉぞお二階へ・・・」。
 「とんでもない。良く飾り付けられている」、「お父っつぁん還暦になりますので、寂田(さびた)の先生がお祝いの句ぅを詠んでくれました。お父っつぁんの名前が詠み込みになってましてな、【のどかなる、はやしにかかる、まつえもん】とした、お祝いの句を祝ぉてくれはりました」、「【のどがなる、はや、しにかかる、まつえもん】」と詠んで家族を嫌がらせている。「三つ組みの盃とは、こら何や・・・」、「お屠蘇でんがな」、「土葬か?」、「土葬やあれしまへん」、「冷たい薬酒はいいから、燗酒、熱燗の方がえぇがな。かといっても慌てて火燗したんやろ」、「銅壺(どぉこ)のお湯でお燗しました」、「ほた、湯燗やなぁ」。
 「お重にもお手を付けて・・・」、「フタはずしても煮しめがじかに見えんよぉに、上に青海苔が一枚被せてあるやなんて・・・。煮しめが、草葉の陰から顔出して」、「次々言えまんなぁホンマ」、「これは?」、「黒豆だっしゃないか」、「あぁ、苦労豆や・・・、これは」、「数の子だす」、「貧乏人の子だくさんちゅうやっちゃ。これは」、「干瓢(かんぴょう)」、「勘平(かんぴょ~)さんは三十に、なるやならずで・・・。これは」、「昆布巻き(こんまき)でんがな」、「棺巻き」、「棺巻きて何でんねん」、「棺桶をこぉ布(きれ)で巻くやろ。中から死人(しにん)が顔を出してる」、「ニシンでんがな」。
 お仲間の芸子が来たいと言っている。そろったら初詣に連れて行って欲しいとおねだり。「天満の天神さんへ」、「菅原道真公なぁ・・・、あの人は無実の罪を着て太宰府へ流されて、独り寂しゅ~死なはった」、「そや、木津の大黒さんへ」、「大黒さんは大きに黒ぉ(苦労)すると書くなぁ」、「戎(えべ)っさんにするわ」、「こらめでたい。戎っさんは耳が遠ぉて、目が近い」、「生国魂(いくたま)はんに」、「松屋町(まっちゃまち)筋を真~っ直ぐ、(死んだら)迷わずただ一筋」、「嫌やどこへも行けへんッ」。
 そこに芸者仲間が集まってきた。陰気な座敷もちぃ~と陽気になりかけましたところへ、きのう約束をいたしました又兵衛さん、葬礼の行列をひと組従えてやってまいりました。

 大騒動でございますなぁ。下の方ではお母さん「まぁなんと春早々、嫌な言葉ばっかり聞かんならん。あの旦那、あの癖さえ無かったら、あんなえぇ人はまたとないんやけど。悪いクセ持ったはるわい・・・」ちゅうんで、春早々情けないちゅうんで、涙こぼして泣いてます。

 表を通りかかりましたのがミナミの幇間で、茂八といぅ太鼓持ち。ヒョッと見たら、鶴の家の前に止まってますわ、行列がひと組。
  「なんやあら、葬礼(そぉれん)の行列が付いてるやないか、誰が死んだんや、お母ん泣いてるがな。誰が死んだんやろ、国鶴さんが死んだら今時分、検番大騒ぎのはずやし、お父っつぁんの松右衛門さんには夕(ゆん)べ風呂で会ぉたんや。まぁ、夕べ風呂で会ぉたら今日死ねんちゅうことはないけどなぁ。とにかく放っとけんわ・・・、ごめんを」、「あぁ、茂八っつぁんか」、「明けましておめでとぉございます、と申し上げたいんでやすけど、えらいこったしてんやなぁ。ちょっとも知りまへなんだんや。 私が来たからにはどぉぞご安心あそばせ、これからすぐに弟子連中を駆り集めましてな、帳場から何からなにまで・・・」、「あんたまでが何を言ぃなはる」、「違うて、そら間違ごぉて当り前やこれ、今日は一月の一日でっせ。表に葬礼の行列が付いて、あんたが泣いてんねや。間違わん方が不思議やがな。えぇ、はぁ、『村上の旦那』。ははは、あのお方ならこれぐらいのことやりますわいな。新町のあれやった人。私に任しとくなはれ、手の平返したよぉにしてご覧に入れます」。付け込むのは幇間の習い、トントントンと上がってまいります。
 「へいッ、え~村上の旦さん、明けましておめでとぉございます、茂八でございます。旧年中はまたいろいろとお世話になりました、暮れには私はじめ、弟子どもにいたりますまでがお手厚いことしていただきまして、ありがとぉございました。国鶴姐さん、旧年中はありがとぉございます、暮れにはまたありがとぉございました、どぉぞ本年も相変わりませずよろしゅお頼の申します。こちらの旦さん、私な、ミナミの幇間で茂八と申します。もぉ村上の旦さんには始終ご贔屓にあずかっとります、ひとつ以後お見知りおかれまして、どぉぞご贔屓によろしゅお頼の申します。おめでとぉございます。皆さん方おめでとぉさん。おめでとぉさん。いやッ、おめでとぉ、ございま~す」。
 「茂ッ!。誰がお前を知らしたんや、幇間といぅ者は偉いもんじゃなぁ、客が知らしもせん座敷、勝手に上がって来て『めでたい、めでたい』と、何がめでたい。わしゃ常々言ぅてるじゃろ『一夜明けたら、遠ぉいところへ行かねばならん体じゃ』と。今日は国鶴と悲しぃ別れの盃をしに来てますのや、そ~いう悲しい席とも知らんと、お前のように向こ先の見えん太鼓持ちはな、も~これから贔屓にせん。帰れッ!」。
 「しもた、しくじった」と思いましたさかい「ごめんを・・・」。ダ~ッと、段梯子を飛んで降りますと、どっから手回しましたか、こいつも白い死装束を身に着けまして、額に三角のキレを当てごぉて、首からは頭陀袋を掛けて、手ぇに白木の位牌を一つ持ってまた上がって来た。 「どぉも村上の旦さん、先ほどは失礼(ひつれぇ)をいたしました。私もな、春早々旦那のよぉなえぇお客さまをしくじるよぉでは、もぉ太鼓持ちはあかんと思いまして。本日から改名をいたしました。へぇ茂八め「死に恥」と改めましてございます『頓死魂の憂い』にまいりました。これは心ばかりの『位牌』でございます」、「ほ~ッ、ヒネは後からはじけるてなぁ。茂八改め死に恥か。年玉のお礼を頓死魂の憂い。心ばかりの祝いを位牌か。こんな小ぃちゃい位牌出してオモロイなぁ・・・。いや、でけた。んッ、気に入った。今まで通り贔屓にしてやるぞ」。「それではご機嫌が直りましたか?『あ~ぁ、めでたいッ』」ちゅうて、またしくじりよった。

 


 
ことば

けんげしや;ゲンを気にする人のことを言ぅ。もぉ既に三十年、四十年前に滅んだよぉな言葉でございまして、落語だけに残ってまんねやなぁ。(広辞苑にも載っていない。米朝のマクラより)。御幣担ぎ。

げん(験);験を担ぐ(げんをかつぐ)は、ある物事に対して、以前に良い結果が出た行為を繰り返し行うことで吉兆をおしはかること。また、良い前兆であるとか悪い前兆であるとかを気にすること。縁起を気にする事。験担ぎ。
 本来は「縁起をかつぐ」で、「エンギ」が反転し「ギエン」音韻変化した「ゲン」とする説が有力とされる。

御茶屋(おちゃや);客に遊興・飲食をさせる店。料理茶屋・引手茶屋など。

新町(しんまち);大阪市西区新町。寛永年間(1624~1644)の新地で、公許遊郭が置かれ、京の島原、江戸の吉原とともに三大遊廓として知られた。
 豊臣秀吉の大坂城建築によって城下町となった大坂では、江戸時代の初期にかけて諸所に遊女屋が散在していた。 1616年、木村又次郎という浪人が幕府に遊郭の設置を願い出、江戸の吉原遊廓開業後の1627年、それまで沼地だった下難波村に新しく町割りをして散在していた遊女屋を集約、遊廓が設置された。 新しく拓かれた地域の総称であった新町が遊廓の名称となり、城下の西に位置することからニシや西廓とも呼ばれた。 その後徐々に発展し17世紀後半には新京橋町・新堀町・瓢箪町・佐渡島町・吉原町の五曲輪(くるわ)を中心として構成されるようになり、五曲輪年寄が遊郭を支配下においた。 廓は溝渠で囲まれ、さらに外側は東に西横堀川、北に立売堀川、南に長堀川と堀川がめぐらされており、出入りができる場所は西大門と東大門に限定されていた。当初は西大門だけだったが、船場からの便宜をはかって、1657年に東大門ができ、1672年に新町橋が架橋された。他に非常門が五つ設置されたが普段は閉鎖されていた。

粟餅(あわもち);アワの実に粘り気がある糯粟(モチアワ)を蒸してついた餅。
 現在でも各地で粟餅は作られているが、食生活の変化により粟の生産が減少するにつれて粟の入手が困難になり、生産される粟も高級化を目指した品質のよいものとなっていった。そのため粟の価格が上昇し、粟餅の生産は減少し、粟餅も米の餅に比べ一般的なものではなくなっていった。いっぽうで、近年の健康志向の高まりにより雑穀全般が見直され、とくに農村部において村おこしの一環として粟餅や黍餅(きびもち)が地元農産物の加工品として作られ販売されるようになり、切り餅の形でスーパーマーケットや農産物直売所、道の駅などに並ぶようになった。和菓子としては、とくに京都の北野天満宮門前にある澤屋の粟餅や、伊勢市にある赤福で8月に作られる八朔粟餅などが著名である。
 上写真:京都の北野天満宮門前にある澤屋の粟餅

幾代餅(いくよもち);京都府舞鶴市に「大阪屋幾代餅」という十四代、四百年続く老舗があり、400年ほど前、大阪夏の陣でここ田辺藩主の細川幽斎をたよってかくまわれ武士の姿を隠し商売をはじめたのが初代なのです。その商いが幾代餅といい、どの代の人かが江戸へでて同じように餅屋をはじめたと言い伝えられています。ただちゃんとしたものがないので正確じゃないかもしれませんが現在も大阪屋幾代餅という屋号で同じ商売を続けています。十四代伊藤比奈子さんのコメント。
江戸の幾代餅は二軒有って、落語「紺屋高尾」に説明が有ります。

つくね;手でこねてまるくする。こねあげてつくる。

河岸(かし);事をする場所。特に、飲食・遊興する場所にいう。河岸を変える=行き場所を変える。

ミナミ島之内・道頓堀・難波・千日前といった地域に広がる繁華街の総称で、これらの地域が大阪市の中心業務地区である船場の南側に位置することや、大半がかつて存在した南区の区域にあたることからミナミと呼ばれている。ミナミに対して北の繁華街をキタと呼ぶ。

葬礼(そうれい);死者を葬る儀式。葬式。

白張り(しらはり);白紙で張った、提灯紋などの書いてない提灯。葬式に用いる。
 右写真:白張り提灯

影灯篭(かげとうろう);回り灯籠。枠を内外二重に作り、内枠に貼った切抜き絵の影が、外枠に貼った紙または布に回りながら映るように仕掛けた灯籠。内枠は、軸の上部に設けた風車が灯火の熱による上昇気流を受けて回転する。夏の夜に、縁先などに吊して楽しむ。走馬灯。舞灯籠。影灯籠。

戎橋(えびすばし);大阪市中央区の道頓堀川に架かる心斎橋筋・戎橋筋の橋。
 大阪ミナミの繁華街の中心に位置する。北詰は心斎橋筋の南端で心斎橋筋商店街が長堀通まで、南詰は戎橋筋の北端で戎橋筋商店街が難波駅前まで伸び、人通りが多い。とりわけ南西袂にあるグリコサインは有名で観光スポットにもなっており、1日平均20万人(休日は35万人)が戎橋を通行している。 長らく大正14年(1925)竣工の鉄骨鉄筋コンクリート製アーチ橋が架かっていたが、平成19年(2007)に現在の橋に架け替えられた。河岸のとんぼりリバーウォークへ降りるスロープが設置され、橋下には御影石と青銅を用いた先代橋の三連窓壁高欄が取り入れられている。また、観光客などが立ち止まることを考慮して橋上は円形の広場になっている。

■橋筋はっすじ);御堂筋からひとつ東側の筋。せんば心斎橋筋商店街(順慶町通以北)、心斎橋筋北商店街(長堀通以北)、心斎橋筋商店街(道頓堀以北)と、商店街が過半を占め、南本町通以南はほぼ全線にわたってアーケードが設置されている。北端は中央区北浜三丁目(御堂筋線・京阪電車淀屋橋駅付近)の土佐堀通との交点、南端は道頓堀川(戎橋)を隔てて戎橋筋と接続する。 心斎橋筋、戎橋筋をあわせた通称。

中筋(なかすじ);南地中筋。道頓堀の二筋南の筋、法善寺を通り東西へ伸びる道筋。

十二月(じゅうにつき);十二月手毬歌(じゅうにつきてまりうた)。花街での餅搗きの伴奏に囃されたのがはじめという。上方の手鞠唄ですが歌詞はきわどい。
  ♪とんとんとん、先づ初春の暦開けば、心地よいぞや、みな姫初め、一つ正月、年を重ねて、弱いお客は、
  つい門口で、お礼申すや、新造禿(かむろ)は、例の土器(かわらけ)とりどり、薺(なずな)七草、囃(はや)
  し立つれば、心いきいき、ついお恵比須と、じっと手に手を、七五三(しめ)の内とて、奥も二階も、羽根や
  手鞠で、拍子揃へて、音もどんどと、突いて貰へば、骨正月や、堪へかねつ、いく二月(きさらぎ)の、洩
  (も)れて流るる、水も薪の、能恥づかしや、麻耶(まや)も祭りか、初午さうに、抱いて涅槃(ねはん)の、
  雲に隠るる、屏風の内で、床(とこ)の彼岸か、聞くも聖霊(しょうらい)、ああよい弥生(やよい)と、指で悪
  じやれ、憎とふつつり、桃の節句や、汐干というて、痴話の火燵(こたつ)で、足で貝踏みや、衆道好きとて、
  高野御影供(みえく)や、さて水揚げの、疼き卯月も、後にや広々、釈迦も御誕生、息も当麻(たえま)の、
  床の練供養、突くや夜明けの、鐘の響きに、権現祭り、濡れてしつぽり、五月雨(さみだれ)月には、道鏡
  増さりの、幟(のぼり)棹立て、兜ずゐきの、巻くや粽(ちまき)の、節句御田の、紋日木桂枝(きけいし)、
  長命薬、行くをやらじと、とめて堪(こた)ゆりや、つい林鐘に、愛染の、涼み祇園の鉾々饅頭、子供時分
  は、よい夏神楽、過ぎた印か、いかい提灯(ちょうちん)、疲労(地黄)卵で、精を付けては、みなお祓ひや、
  浮気なかばに、付ける玉章(たまずさ)(文月)、折りに触れての、七夕客も、盆の間は、踊りかこつけ、娼
  (よね)や仲居を、口説き取るのが、音頭床とよ、白き太股、通を失ふ萩月、さても頼もし、血気ざかりの、
  伯母姪げつや、ぐつと月見りや、十六夜(いざよい)気味と、またとりかかる、二度目の彼岸、これぞ成仏
  得脱の、いとし可愛の、声も菊月、茶臼(ちゃう)でするのが、豆の月とて、皆かたはじめに、祭り仕舞へ
  ば、二折(ふたおり)三折りの、延(のべ)を切らして、神無し月よ、亥子(いのこ)餅とて、大人も子供も、
  命講(みよご)のあたりを、五夜も十夜も、ついて貰へば、ほんに誓文、強いお方ぢや、もそつと霜月、泡
  を吹矢の、鞴(ふいご)祭りか、せいお火焚(ほたき)や、大師講して、すすめられつつ、また師走(しはす)
  れの、こともおろかや、よい事始め、陽気浮気の、箒客とて、中や南も掃いてまはるや、煤取り、後にや
  草臥(くたび)れ、ほんの餅(あも)搗き、早や節分の、穢(けが)れ不浄の厄を払うて、豆の数々、ちよと
  三百六十四(よ)、ついた一ィニゥ三ィ四ォ。

還暦(かんれき)六十年で再び生れた年の干支に還るからいう。数え年61歳の称。華甲(かこう)。本卦還。

屠蘇(とそ);魏の名医華佗(カダ)の処方という、年始に飲む薬。山椒・防風・白朮(ビヤクジユツ)・桔梗・蜜柑皮・肉桂皮などを調合し、屠蘇袋に入れて酒・みりんに浸して飲む。1年の邪気を払い、齢を延ばすという。日本では平安時代から行われる。

火燗(ひかん);徳利を直接に火にあてて酒の燗をすること。

銅壺(どぉこ);銅などで作った湯わかし器。竈(カマド)の側壁の中に塗り込み、または長火鉢の灰中に埋めるなどして、そばにある火気を利用して、中に入れた水がわくようにしかけたもの。この湯でお燗をする。
 また、業務代などで直接熱源の上に置いて、燗のための湯を沸かす物も有る。

干瓢(かんぴょう);ユウガオの果肉を、細く薄く長くむいて乾した食品。栃木県の名産。海苔巻きの芯にしたり、お稲荷さんなどの袋を閉じるのに使う。
 右写真:東海道五十三次「水口」部分 広重画

勘平(かんぴょ~)さんは三十に;仮名手本忠臣蔵七段目、勘平の女房お軽は遊女となっていたが、今日は由良助に呼ばれてこの一力茶屋にいた。そのお軽が父親と勘平が死んだことを聞かされ「勘平殿は三十になるやならずに死ぬるのはさぞ口惜しかろ…」と嘆く。そのもじり。
落語「七段目」に詳しく説明。

天満の天神さん(てんじんさん);大阪天満宮は、大阪市北区天神橋二丁目に鎮座する神社。別名に天満天神・浪華菅廟・中島天満宮といわれる。大阪市民からは「天満の天神さん」と呼ばれ親しまれている。 毎年7月24・25日にかけて行われる天神祭は日本三大祭、大阪三大夏祭りの一つとして知られている。
 901年に菅原道真が、藤原時平により九州大宰府へ配転(左遷)させられた際、同地にあった大将軍社に参詣した。903年に菅原道真が没した後、天神信仰が始まる。
落語「質屋蔵」に菅原道真の話が有ります。
 天神さんの北隣に出来た寄席で、天満天神繁昌亭(てんまてんじんはんじょうてい)は、大阪市北区天神橋二丁目にある。上方落語唯一の寄席で、落語を中心に、漫才、俗曲などの色物芸の興行が連日執り行われている。通称「繁昌亭」。

木津の大黒さん(だいこくさん);敷津松之宮(大国主神社)(大阪市浪速区敷津西1丁目2番) 正式には「敷津松之宮大国主神社」と呼ばれます。社伝によれば、神功皇后が三韓を平定されて住吉大社に凱旋報告のため、敷津浦を航海されたとき、敷津浜に荒い波がうちよせられるのを見られ、松の木を渚に三本植え、素戔鳴尊をお祀りになり航海の安全を祈られたことから「松之宮」と呼ばれたとあります。1600年以上の歴史を誇る古い神社です。1744年、今宮戎神社が「えびす様」なら「大黒様」が無いと纏まらないということで、今宮戎神社に近い敷津松之宮の中に摂社として「大国主神社」が勧請されています。 大国主神社としての歴史は、比較的新しいものですが、商売繁盛の神として、東は今宮の戎さん、西は木津の大黒さんと親しまれ、江戸期の10日戎では「戎大黒、両社詣でて本参り」と言われていたようです。神功皇后が松の木を植え、荒れる海の安全を祈った「松之宮」と、“木津の大国さん”の「大国主神社」が相殿となっています。

(えべ)っさん;今宮戎神社(大阪市浪速区恵美須西1丁目6-10)。
大阪の商売の神様として有名な神社。聖徳太子が四天王寺を建立したときに同地西方の鎮護として祀ったのが始めと伝えられ、天照皇大神・事代主命・外三神を祭神としています。1月9-11日の三日間の「十日戎」には約100万人の参詣者が訪れます。そう広くないこの境内に3日間で100万人というのは想像を絶する混雑ぶり。
毎年選ばれる十日戎の福娘は全国的に有名で藤原紀香さんも今宮戎の福娘でした。この福娘に採用されるといい縁談にめぐまれたり、いい仕事につけたりするという評判を呼び、毎年相当数の応募があり、競争率80倍以上の難関なのです。

生国魂(いくたま)はん生国魂神社、大阪市天王寺区生玉町にある神社。明応5年(1496)に蓮如によって、のちに石山本願寺となる石山御坊の草庵が神域の一角に結ばれた。石山本願寺は豊臣期の大坂城の詰之丸に存在したとされ、現在の天守閣周辺ということになる。 天正8年(1580)に石山合戦の戦火により焼失。天正11年(1583)には豊臣秀吉による大坂城築城に際して現在地への移転が決定された。秀吉は300石の社領を寄進して社殿を造営し、天正13年(1585)に遷座された。このときに造営された社殿は「生国魂造」と呼ばれ、流造の屋根の正面の屋上に千鳥破風、唐破風さらにその上に千鳥破風と三重に破風を乗せるという独特の建築様式のものである。元和元年(1615)には大坂夏の陣の兵火にかかったが、徳川秀忠によって再建され、これまで通り300石の社領が寄進された。 明治維新期の神仏分離によって神宮寺の法案寺(真言宗)を境外へ分離。明治45年(1912)1月のミナミの大火により焼失し、翌年再建。昭和20年(1945)3月の第1回大阪大空襲により焼失し、4年後に再建されるも昭和25年(1950)9月のジェーン台風により倒壊。社殿喪失が相次いだこともあって、昭和31年(1956)に鉄筋コンクリート造りで再建された。

太鼓持ち(たいこもち);遊客の機嫌をとり、酒興を助けるのを仕事とする男。幇間。末社。太鼓。

検番(けんばん);三業組合(料理屋・芸者屋・待合茶屋の三種)の事務所。また、近世、遊里で、芸者の取り次ぎや送迎、玉代の精算などをした所。芸者屋の取締りをする所。



                                                            2016年5月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system