落語「けんげしゃ茶屋」の舞台を行く 桂米朝の噺、「けんげしゃ茶屋」(けんげしゃじゃや)より
■けんげしや;ゲンを気にする人のことを言ぅ。もぉ既に三十年、四十年前に滅んだよぉな言葉でございまして、落語だけに残ってまんねやなぁ。(広辞苑にも載っていない。米朝のマクラより)。御幣担ぎ。
■げん(験);験を担ぐ(げんをかつぐ)は、ある物事に対して、以前に良い結果が出た行為を繰り返し行うことで吉兆をおしはかること。また、良い前兆であるとか悪い前兆であるとかを気にすること。縁起を気にする事。験担ぎ。
■御茶屋(おちゃや);客に遊興・飲食をさせる店。料理茶屋・引手茶屋など。
■新町(しんまち);大阪市西区新町。寛永年間(1624~1644)の新地で、公許遊郭が置かれ、京の島原、江戸の吉原とともに三大遊廓として知られた。
■粟餅(あわもち);アワの実に粘り気がある糯粟(モチアワ)を蒸してついた餅。
■幾代餅(いくよもち);京都府舞鶴市に「大阪屋幾代餅」という十四代、四百年続く老舗があり、400年ほど前、大阪夏の陣でここ田辺藩主の細川幽斎をたよってかくまわれ武士の姿を隠し商売をはじめたのが初代なのです。その商いが幾代餅といい、どの代の人かが江戸へでて同じように餅屋をはじめたと言い伝えられています。ただちゃんとしたものがないので正確じゃないかもしれませんが現在も大阪屋幾代餅という屋号で同じ商売を続けています。十四代伊藤比奈子さんのコメント。
■つくね;手でこねてまるくする。こねあげてつくる。
■河岸(かし);事をする場所。特に、飲食・遊興する場所にいう。河岸を変える=行き場所を変える。
■ミナミ;島之内・道頓堀・難波・千日前といった地域に広がる繁華街の総称で、これらの地域が大阪市の中心業務地区である船場の南側に位置することや、大半がかつて存在した南区の区域にあたることからミナミと呼ばれている。ミナミに対して北の繁華街をキタと呼ぶ。
■葬礼(そうれい);死者を葬る儀式。葬式。
■白張り(しらはり);白紙で張った、提灯紋などの書いてない提灯。葬式に用いる。
■影灯篭(かげとうろう);回り灯籠。枠を内外二重に作り、内枠に貼った切抜き絵の影が、外枠に貼った紙または布に回りながら映るように仕掛けた灯籠。内枠は、軸の上部に設けた風車が灯火の熱による上昇気流を受けて回転する。夏の夜に、縁先などに吊して楽しむ。走馬灯。舞灯籠。影灯籠。
■戎橋(えびすばし);大阪市中央区の道頓堀川に架かる心斎橋筋・戎橋筋の橋。
■橋筋(はっすじ);御堂筋からひとつ東側の筋。せんば心斎橋筋商店街(順慶町通以北)、心斎橋筋北商店街(長堀通以北)、心斎橋筋商店街(道頓堀以北)と、商店街が過半を占め、南本町通以南はほぼ全線にわたってアーケードが設置されている。北端は中央区北浜三丁目(御堂筋線・京阪電車淀屋橋駅付近)の土佐堀通との交点、南端は道頓堀川(戎橋)を隔てて戎橋筋と接続する。
心斎橋筋、戎橋筋をあわせた通称。
■中筋(なかすじ);南地中筋。道頓堀の二筋南の筋、法善寺を通り東西へ伸びる道筋。
■十二月(じゅうにつき);十二月手毬歌(じゅうにつきてまりうた)。花街での餅搗きの伴奏に囃されたのがはじめという。上方の手鞠唄ですが歌詞はきわどい。
■還暦(かんれき)六十年で再び生れた年の干支に還るからいう。数え年61歳の称。華甲(かこう)。本卦還。
■屠蘇(とそ);魏の名医華佗(カダ)の処方という、年始に飲む薬。山椒・防風・白朮(ビヤクジユツ)・桔梗・蜜柑皮・肉桂皮などを調合し、屠蘇袋に入れて酒・みりんに浸して飲む。1年の邪気を払い、齢を延ばすという。日本では平安時代から行われる。
■火燗(ひかん);徳利を直接に火にあてて酒の燗をすること。
■銅壺(どぉこ);銅などで作った湯わかし器。竈(カマド)の側壁の中に塗り込み、または長火鉢の灰中に埋めるなどして、そばにある火気を利用して、中に入れた水がわくようにしかけたもの。この湯でお燗をする。
■干瓢(かんぴょう);ユウガオの果肉を、細く薄く長くむいて乾した食品。栃木県の名産。海苔巻きの芯にしたり、お稲荷さんなどの袋を閉じるのに使う。
■勘平(かんぴょ~)さんは三十に;仮名手本忠臣蔵七段目、勘平の女房お軽は遊女となっていたが、今日は由良助に呼ばれてこの一力茶屋にいた。そのお軽が父親と勘平が死んだことを聞かされ「勘平殿は三十になるやならずに死ぬるのはさぞ口惜しかろ…」と嘆く。そのもじり。
■天満の天神さん(てんじんさん);大阪天満宮は、大阪市北区天神橋二丁目に鎮座する神社。別名に天満天神・浪華菅廟・中島天満宮といわれる。大阪市民からは「天満の天神さん」と呼ばれ親しまれている。 毎年7月24・25日にかけて行われる天神祭は日本三大祭、大阪三大夏祭りの一つとして知られている。
■木津の大黒さん(だいこくさん);敷津松之宮(大国主神社)(大阪市浪速区敷津西1丁目2番)
正式には「敷津松之宮大国主神社」と呼ばれます。社伝によれば、神功皇后が三韓を平定されて住吉大社に凱旋報告のため、敷津浦を航海されたとき、敷津浜に荒い波がうちよせられるのを見られ、松の木を渚に三本植え、素戔鳴尊をお祀りになり航海の安全を祈られたことから「松之宮」と呼ばれたとあります。1600年以上の歴史を誇る古い神社です。1744年、今宮戎神社が「えびす様」なら「大黒様」が無いと纏まらないということで、今宮戎神社に近い敷津松之宮の中に摂社として「大国主神社」が勧請されています。
大国主神社としての歴史は、比較的新しいものですが、商売繁盛の神として、東は今宮の戎さん、西は木津の大黒さんと親しまれ、江戸期の10日戎では「戎大黒、両社詣でて本参り」と言われていたようです。神功皇后が松の木を植え、荒れる海の安全を祈った「松之宮」と、“木津の大国さん”の「大国主神社」が相殿となっています。
■戎(えべ)っさん;今宮戎神社(大阪市浪速区恵美須西1丁目6-10)。
■生国魂(いくたま)はん;生国魂神社、大阪市天王寺区生玉町にある神社。明応5年(1496)に蓮如によって、のちに石山本願寺となる石山御坊の草庵が神域の一角に結ばれた。石山本願寺は豊臣期の大坂城の詰之丸に存在したとされ、現在の天守閣周辺ということになる。
天正8年(1580)に石山合戦の戦火により焼失。天正11年(1583)には豊臣秀吉による大坂城築城に際して現在地への移転が決定された。秀吉は300石の社領を寄進して社殿を造営し、天正13年(1585)に遷座された。このときに造営された社殿は「生国魂造」と呼ばれ、流造の屋根の正面の屋上に千鳥破風、唐破風さらにその上に千鳥破風と三重に破風を乗せるという独特の建築様式のものである。元和元年(1615)には大坂夏の陣の兵火にかかったが、徳川秀忠によって再建され、これまで通り300石の社領が寄進された。
明治維新期の神仏分離によって神宮寺の法案寺(真言宗)を境外へ分離。明治45年(1912)1月のミナミの大火により焼失し、翌年再建。昭和20年(1945)3月の第1回大阪大空襲により焼失し、4年後に再建されるも昭和25年(1950)9月のジェーン台風により倒壊。社殿喪失が相次いだこともあって、昭和31年(1956)に鉄筋コンクリート造りで再建された。
■太鼓持ち(たいこもち);遊客の機嫌をとり、酒興を助けるのを仕事とする男。幇間。末社。太鼓。
■検番(けんばん);三業組合(料理屋・芸者屋・待合茶屋の三種)の事務所。また、近世、遊里で、芸者の取り次ぎや送迎、玉代の精算などをした所。芸者屋の取締りをする所。
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