落語「浮世根問」の舞台を行く
   

 

 五代目柳家小さんの噺、「浮世根問」(うきよねどい)より


 

  お子さんは親に「なんで?なんで?・・・」と聞くもので、そうやって成長していくものです。しかし大人が根掘り葉掘り聞いて、相手が詰まるのをおもしろがって見ているというのがあります。

 八っつあんが隠居を訪ねてきた。「こんにちは・・・。御前はまだですか」、「これからなんだ」、「では失礼をして上がらして貰います」、「普通だったら、時分時だからと帰るものだが・・・」、「三度に一度はこちらでいただくことにしていますから・・・」。「それより、何か話題は無いのかぃ」、「隠居さんは本を読みますが、何か良いことでもありますか」、「世の中が明るくなる」、「電気がいらなくなる?」、「八っつあんの知らないようなことでも、分かるようになる」、「では教えてください」。
 「友達が集まったとき、冬の寒いときはボロでも着れば良いが、夏の暑い時は裸で出歩くことが出来ない。どうしたら良いか聞いたら、『お天道様に』掛け合えばイイと言うが、そのお天道様はどこに居ると言ったら、みんなが笑っていた」。「当たり前だよ。昔面白い話が有って『お天道様に会いたいと言って、山の向こうに沈んだら、そこに居るだろうと、山にあがったら、日が暮れて、向の山まで登ってひたすら歩いたら、後ろの方からお日様が上がってきた。その男は、「しまった行き過ぎた」』と言った。その男とお前は同じだ。何か解んないことが有ったら聞いてごらんよ」。

 「表の伊勢屋さんで婚礼があるのですが、あの婚礼って言う物をよく『嫁入り』と言うじゃないですか? あれは何でです?『女入り』とか『娘入り』とか言えば良いじゃ無いですか」、「それで良いんだ。男に目が二つ、女に目が二つ。それが一緒になるから『四目入り』だ。これは目の子勘定だ」、「丹下左膳や森の石松が結婚したら『三目入り』だ。按摩さんだったら『二目入り』で、両者が按摩だったら『泣き寝入り』。ヤツメウナギが婚礼すると『十六目入り』だ」、「そんな事は言わない」。
 「では、『奥さん』はどうして、その呼び方になった?」、「奥の方でお産をするから『奥産』だ」、「つまんない事聞いちゃったな。じゃ二階でお産したら『二階産』で、ビルの5階でお産すれば『五階産』、はばかりでお産をしたら『厠(こうや)産』。『五階産』(ご開山)で『高野産』(高野山)で弘法大師・・・」、「ウルサいよ」。
 「家の奴は奥さんではなく、かかぁと言うのは?」、「あれは家から出て家へ納まるから「家々」と書いて『かか』だ」、「納まらないのだって居るだろ~。戻ってきて、また行って、また戻ってきて行くのは『家家家かぁ』だな」、「それじゃ~、カラスだ」。

 「婚礼の席に行くといろんなものが飾ってあるが、爺さんとお婆さんがホウキと熊手を持っているのは・・・」、「蓬莱の島台だな。『お前百までわしゃ九十九まで共に白髪の生えるまで』、夫婦仲良く添い遂げると言うものだな」。「鶴とか亀も飾ってありますよ」、「『鶴は千年亀は万年の齢を保つ』、これも長生きな動物だ。そのように言われているな」、「隣の金坊が縁日で亀を買ってきたら、翌日死んじゃった」、「それが丁度、万年目に当たる」。「何で飾るのかね」、「鶴は夫婦仲が良い、子供を大事にする。亀は辛抱強い。夫婦もそうでなくてはいけない」。
 「松や竹等が飾ってありますね」、「あれは松竹梅と言いなさい。梅の実は女の気性を現したものだな。梅の実も沢山なる、子供も沢山産んで、夫を好い(スイ)て、心変わりはありません。『しわの寄るまであの梅の実は味も変わらずスイのまま』という都々逸がある」、「梅干し婆さんというのはここから始まったんだな」。「で、竹は?」、「竹は男の気性だな。『竹ならば割って見せたい私の心 先に届かぬ不幸せ』なんていう都々逸がある。」、「松は?」、「『松の双葉はあやかりものよ 枯れて落ちても夫婦連れ』という都々逸がある」、「都々逸ばっかりだな」、「夫婦は枯れて落ちる事はないが、貧乏しても、大変なときも決して別れない、と言う事だ」。

 「鶴亀というのも、やはり死ぬんでしょうね」、「生ある物は死ぬな。ああいうのは『死ぬ』とは言わない。魚類が『上がる』、鳥類が『落ちる』だ。人間でも身分によって差があり、例えばお釈迦様の場合は『涅槃(ねはん)』、偉い坊さんは『入寂(にゅうじゃく)、入滅(にゅうめつ)』、高貴な方が『御崩御(ごほうぎょ)、御他界(ごたかい)』で、その下が『御逝去、御死去』だ」、「あっしが死んだら、御逝去だね」、「お前が死んだら、『ごねた、くたばった』、だ」。
 「鶴亀が上がったり、落ちたりしたらどうなりますかね」、「お前は鶴亀が先年万年後を聞いてどうするんだ」、「食事が出るまで頑張ろうと思っています」、「やな野郎だな。鶴亀は気立てが良いから極楽にでも行くかな」、「ところで、極楽は何処に有るんです」、「十万億土だ、西方弥陀の浄土だ」、「西の果てのはるか遠く・・・ってどこです?」、「西の方だな」、「高円寺から荻窪?」、「ずっと西の方だ」、八っつあんのペースになった「西というと?」、「大変だ」、「大変だと?」、「うん・・・心配するな。有るから」、「心配はしていませんが・・・」、「うん・・・、もうお前お帰り」。「膳の出るまで頑張りますから」、「お前みたいに根掘り葉掘り聞く奴は極楽に行けないな。地獄の方だ」、「地獄ね・・・。その地獄は何処に有るんですか」、「ちゃんと有るよ」、「何処に?」、「極楽の隣にある」、「じゃ~、極楽は何処に?」、「地獄の隣だ」、「じゃ~、地獄は?」。

 「・・・ウルサいな。根掘り葉掘り聞くから困る。岩田の旦那がこぼしていた。『お前に50銭取られたと怒っていた』」、「あれは取ったんじゃない、貰ったんですよ。岩田の隠居も本をよく読むから聞いた。宇宙はどんな物なんです、と尋ねたら『夜空を見てみろ、星が出ているあれが宇宙だ』。と言うから、飛行機でブーンと飛んだらどこへ行くでしょう?と聞いた。『行けども行けども宇宙だ』と言うので、なおもブーンと飛んだら何処に行きますか、と聞いたら、『行けども行けども宇宙だ』と言うのを、30分やっていたら顔が青くなってきて『その先は朦々(もうもう)だ』と言うから、そんな牛の鳴き声みてえな所は驚かねえ。そこんところをブーンと飛んだら?それを40分やっていたら、『そこから先は飛行機がくっついて飛べない』。そんな蠅取り紙のような所は驚かねえ。そこんところをブーンと飛んだらと言ったら、ついに降参、五十銭くれた。取ったんじゃない、貰ったんだ。おまえさんも、地獄と極楽が答えられなかったら五十銭出すかい?」、「そんなもの出してたまるか」、「じゃ~、地獄は何処に有る」。

 「極楽を見せるからこちらに来な。ここに座わんなさい」、「ここは仏壇じゃないですか」、「ここが極楽だ」、「極楽は蓮の花があり、木魚や鐘の音楽が鳴るでしょ」、「こしらえ物だけれど、蓮の花が上がって、線香の煙が紫の雲だ。音楽は鉦も有れば木琴もある」、「じゃ~、死ねばみんなここに来て仏になるんですか」、「そう。みんなここに来て仏になれる」、「じゃ~、鶴亀も死ねば仏様になるんですか?」、「いや、鶴亀は仏にはなれない」、「じゃ~、何になるんですか?」、
「ご覧なさい、この通り蝋燭立になっている」。

 



ことば

鶴亀の燭台;真宗大谷派・真宗仏光寺派では鶴亀蝋燭立てという文字通り鶴と亀が描かれた蝋燭立てを使用します。
 鶴亀と花瓶と香炉の三つの道具が、三具足といわれ座敷飾りの基本となり、それを真宗において仏具として取り入れるようになりました。天文五年(1536)の「註画箋」に鶴亀の図がのっているところから、室町時代にはすでに使用されていたと思われます。大永八年(1528)の日宗寺蔵の日蓮上人画像の中にも画かれており、日蓮宗でもかつては用いられていたと考えられます。なお、現在の床の間の飾りに香炉と生け花が残っているのは三具足の名残です。 真宗大谷派の鶴亀は真鍮製ですが、東西分派直前は両派とも真鍮製であったようですが、江戸初期に西は鈷銅(仏具に使われる銅)になったようです。

 右写真:浅草・東本願寺にある仏壇の見本より。ここに有りますね、鶴亀の蝋燭立て。

 鶴亀の燭台は鶴は千年、亀は万年という事だけでは無く、鶴の脚は長いまま、亀の脚は短いまま。 それが個性と言うもので、足すことも引くこともしない。

根問い(ねどい);根元まで掘り下げて問いただすこと。どこまでも問うこと。根問い葉問い。根掘り葉掘り問うこと。

嫁入り(よめいり);娘が嫁となって夫の家へ入ること。また、その儀式。決して、目の子勘定では有りません。

奥さん(おくさん);「おくさま」より軽い尊敬語。他人の妻の尊敬語。奥方。奥でお産をするから・・・、ではありません。

丹下左膳(たんげさぜん);林不忘(はやしふぼう)の新聞連載小説、およびその作品内の主人公である架空の剣士の名前。またこれを原作とする映画の題名。
 丹下左膳が登場したのは、昭和2年(1927)10月から翌年5月に『毎日新聞』に連載された「新版大岡政談・鈴川源十郎の巻」であった。当初は関の孫六の名刀を巡る争奪戦に加わった一登場人物に過ぎなかった。しかし、隻眼(せきがん)隻腕の異様な姿の侍という設定と、小田富弥の描いた挿絵(続編は志村立美画)の魅力によって人気は急上昇した。 この人気にあやかろうと、映画会社3社が競ってこれを映画化した。主人公を演じた俳優は、団徳麿、嵐寛寿郎(当時は嵐長三郎)、大河内傳次郎の3人だった。それぞれ独自の魅力を発揮してヒットし続編が作られた。原作者の林不忘は、映画の成功により続編を発表することに決めた。今度はタイトルも「丹下左膳」として丹下左膳が主人公であることを明確にした。
 右写真:大河内傳次郎の丹下左膳。

森の石松(もりのいしまつ);(生年月日不明 - 1860年7月18日(万延元年6月1日))は、清水次郎長の子分として幕末期に活躍したとされる侠客。出身地は三州半原村(後の愛知県新城市富岡)とも遠州森町村(後の静岡県周智郡森町)とも伝えられるが定かでない。森の石松の「森」とは森町村のことである。半原村説では、半原村で生まれたのち、父親に付いて移り住んだ森町村で育ったという。 なお、現在語り継がれている石松は、清水次郎長の養子になった天田五郎の聞き書きによって出版された『東海遊侠伝』に因るところが大きく、そこに書かれて有名になった隻眼のイメージは、同じく清水一家の子分で隻眼の豚松と混同していた。または豚松のことを石松だと思って書かれたとも言われており、石松の人物像はおろか、その存在すら信憑性が疑われている。しかし、「遠州っ子」(1980年、ひくまの出版・刊)の森の石松にまつわる記事には、出所後の晩年を興業主として相撲や芝居などの開催を仕切っていた清水次郎長と会った事のあるという人が、次郎長が森の石松の事を聞かれて涙したと語っていた事などの記述があるため、森の石松が実在の人物なのか、それとも空想上の人物なのか、ますます判らなくなっている。

高野山(こうやさん);和歌山県北東部にある、1千m前後の山に囲まれた真言宗の霊地。弘仁7年(816)空海が自らの入定地として下賜を受け、のち真言宗の総本山金剛峯寺(コンゴウブジ)を創建。金剛峯寺の俗称。

弘法大師(こうぼうだいし);空海の生前の行いを尊び死後に贈られる称号。右写真:空海。
 空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお)。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。
 落語「大師の杵」に空海の年表があります。

ことわざ・慣用句
・弘法も筆の誤り
:空海は嵯峨天皇からの勅命を得、大内裏應天門の額を書くことになったが、「應」の一番上の点を書き忘れ、まだれをがんだれにしてしまった。空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き直したといわれている。このことわざには、現在、「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」という意味だけが残っているが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味も含まれている。
 右図:落語「無精床」より。
・弘法筆を選ばず:文字を書くのが上手な人間は、筆の良し悪しを問わないということ。ただし、性霊集には、「よい筆を使うことができなかったので、うまく書けなかった」、という、全く逆の意味の言及がある。「弘法筆を選ぶ」として、逆の意味のことわざとして用いられることもある。
・護摩の灰:弘法大師が焚いた護摩の灰と称する灰を、ご利益があるといって売りつける、旅の詐欺師をいう。後に転じて旅人の懐を狙う盗人全般を指すようになった。
生麦大豆二升五合(なまむぎだいずにしょうごんごう):空海の御宝号「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」が転訛したもので面白い話が有ります。
 昔あるところに病気を治し、災厄を予知できる老婆がいた。この老婆が唱える呪文は「生麦大豆二升五合」であった。 それを聞いて、全く意味を成さないと笑った若い坊さんはこう言った。 それは空海の「南無大師遍照金剛」であると。 これを知った老婆はそれ以降、力を完全に失ってしまった。

蓬莱の島台(ほうらいのしまだい);俗謡に「おまえ百までわしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで」と謡うものがあり、これも『高砂』の尉・姥に結びつけて考えられている。俗説として、「百」は「掃く」、すなわち姥の箒を意味し、「九十九まで」は尉の「熊手」を表すのだという。
右写真:落語「髙砂や」から孫引き。

極楽(ごくらく);阿弥陀仏の居所である浄土。西方十万億土を経た所にあり、全く苦患(クゲン)のない安楽な世界で、阿弥陀仏が常に説法している。念仏行者は死後ここに生れるという。極楽浄土・安養浄土・西方浄土・安楽世界・浄土など、多くの異称がある。

地獄(じごく); 六道の一。現世に悪業(アクゴウ)をなした者がその報いとして死後に苦果を受ける所。贍部洲(センブシユウ)の地下にあり、閻魔が主宰し、鬼類が罪人を呵責するという。八大地獄・八寒地獄など、多くの種類がある。

高円寺から荻窪(こうえんじ おぎくぼ);JR中央線の東京から西に有る町。杉並区高円寺北及び南。杉並区荻窪。西方十万億土のジョーク。

飛行機でブーンと飛んだら宇宙だ;宇宙=地球を含む、地球の外側の空間。飛行機でブーンと行けるのは空気があるところまでで、その外側には行けない。飛行機は大気中の酸素を取り入れ燃料を燃やして飛ぶので酸素がなかったら宇宙に行けない。行くには酸素も積んだロケットでしか行けない。



                                                            2016年5月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system