落語「祇園会」の舞台を行く
   

 

 古今亭志ん生の噺、「祇園会」(ぎおんえ)別名「都見物祇園祭」より


 

 旅立つときには知り合い友達が見送りに来るものです。その別れの時、「可愛い子供がいるんだ」、「安心しろ。面倒見てやるから」、「それに、可愛い嫁がいるんだ」、「安心しろ。面倒見てやるから」、
それは安心できません。

 歩き始めたが相棒が足を引きずるようになって来た。「マメが出来た」、「潰しちゃいな」、「人ごとだと思って・・・」、「大丈夫、新マメが出来る」。「気分転換に、都々逸なんかやりながら行こう、『たまたま逢うのに東が白む 日の出に日延べがしてみたい』。お前もやってみな」、「『壊れたマクラを続飯(そくい)で着けて・・・』」、「聞かないな」、「『効かなきゃ釘でも打つが良い』」。「他にはないか」、「『壊れたマクラを続飯で着けて・・・』」、「今聞いたよ」、「『効いたら釘には及ばない』」。「味があるので『火鉢引き寄せ灰かきならし 主の名を書き目に涙』」、「『火鉢引き寄せ灰かきならし・・・』」、「今やったよ」、「『焼けた天保銭でも出れば良い』」。「『アザの付くほどツネっておくれ それをノロケの種にする』」、「『アザの付くほどツネってみたが 色が黒くて分からない』」、「もっと色っぽいのをやれよ。『膝にもたれて顔内眺め こうも可愛くなるものか』」、「『壁にもたれて箪笥を眺め こうも空っぽになるものか』」。
 「さっさと歩けよ。留めさんは先に行ってるぜ」、「腹減った」、「食べたばっかりだろう」、「あすこに『いちぜんめしありやなきや』と看板があるぜ」、「あれは『一膳飯あり、柳家』だ」。「待たしたな留めさん。あいつが遅いんだ。ここは何処だ」、「粟田口だ」、「京都に入ったな。宿に入る前に湯に入ってこざっぱりしてから宿に入ろう」。
 「湯屋をどこだか聞こう」、歩いている女性に聞いた「それだったら、向かいの八百屋にあります」。「お婆さん、湯はあるかい」、「ユならおます。持ってきます」、「湯を持ってくるって。裸になって待っていよう」、「持ってきました」、「ユズじゃないか。ダメだ他の人に聞こう」、湯では通じず風呂屋だと言うので聞くと、先斗町の先に有って、ようようやく湯に入って宿に着いた。
 明くる日から見物に歩き、夜はご婦人方が「ああしまほ~。こうしまほ~」、と魔法を掛けるので小遣いが無くなってきた。伯父さんの所に無心に行ったが、「お前のことは面倒を見るが、二人は知らないので、面倒は見れない」、とつれない。やむを得ず、二人は江戸に戻ることになった。

 伯父さんに所で京見物していた。祇園祭が始まって、料理屋の二階に席を設け、その見物をさせてもらった。その席に地元の京男がいて、江戸をけなして京の自慢ばかりするようになった。八っつあん我満をしていたが、我慢の限界を超えた。「『犬の糞だらけ』と言うが、伊勢屋稲荷に犬のクソというのが江戸の名物で、犬も良い物ばかり食っているから、イイ糞するんだ」。「酒飲まないか。旨いね」、「灘が近いから酒は旨い。日本一だ」、「江戸だって旨い酒はある」、「京は水が良いな。鴨川の水だから茶も旨い」、「江戸にだって多摩川上水があって、水道がある」、「ドブの水だ」、「鴨川だって、肥だめのケツを洗った水で茶を飲んで喜んでいる」。「あんた、金閣寺を見たか。誰が見ても驚くな」、「金かと思ったら禿げて、ハゲ閣寺だ。寺ばかり多くて抹香臭くていけね~」、「それが良いのだ」。

 「祇園さんの祭りは良いな。鉾が出るな。囃子も上品でイイ。コンコンチキチ、コンチキチ、ヒュリヒューリトッピピ・・・」、「江戸の神田囃子はイイね。テトドンドンチャンチキチ・・・。御輿だってイイ」、「こちらは上品に白装束で肩を揃えて、ヨーサヤチョイサ・・・」、「神田の祭りは威勢が良い。ワッセワッセイ・・・、お前なんかビックリして、座りション便してバカになっちゃう」。

 



ことば

祇園祭(ぎおんまつり);京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く。京都の夏の風物詩で、7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭である。
  祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)の二つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日〜16日・後祭:7月21日〜23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や神輿洗(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。 宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭'の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。 祇園祭は数々の三大祭のひとつに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。
 ウイキペディアより

京都八坂神社(きょうと やさかじんじゃ);京都市東山区祇園町北側625。全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社である。通称として祇園さんとも呼ばれる。7月の祇園祭(祇園会)で知られる。
 京都盆地東部、四条通の東のつき当たりに鎮座する。境内東側にはしだれ桜で有名な円山公園が隣接していることもあって、地元の氏神(産土)としての信仰を集めるとともに観光地としても多くの人が訪れている。 正月三が日の初詣の参拝者数は近年では約100万人と京都府下では伏見稲荷大社に次ぐ2位となっている。また東西南北四方から人の出入りが可能なため、楼門が閉じられることはなく伏見稲荷大社と同じように夜間でも参拝することが出来る。

 八坂神社は、元は感神院という天台宗の寺院で、古くは比叡山延暦寺の天台座主が住職を兼務したという由緒のある寺院でした。この感神院の末社に、「祇園社」という神仏混淆の社があり、ご本尊は牛頭(ごず)天王です。明治維新の廃仏毀釈によって、仏教寺院の感神院は廃寺となり、替わって末社の「祇園社」が、八坂神社と名称を改めて、感神院の施設を引き継ぎました。また祇園社のある地域は「祇園」と呼ばれています。
 牛頭天王はインドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神・疫病神とされ、薬師如来の再来。日本に伝来し、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と習合したと言われます。その霊力は極めて強力で荒魂な神様ですので、逆に丁重にお祀りすればかえって災厄をまぬがれる除疫神として和魂の神格をもちました。日本神話でも知られるように、八岐大蛇(やまたのおろち)=あらゆる災厄を退治し、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)を救い、妻としました。現在、八坂神社は素戔嗚尊、妻の櫛稲田姫、七男一女の王子(八王子)八柱御子神(やはしらのみこがみ))を祀り、除疫神として尊崇されています。

この噺は、「三人旅」の一部で東海道を上っていくものですが、発端の部分は、
 無尽に当たって20両が懐に入った。それを聞いた親父に、宵越しの金は持たないと言うのが江戸っ子だと、叱りつけられた。
 で、上方見物に旅立つことになったが、街道に明るいという源兵衛を誘い3日後に江戸を後にした。
 京都の叔父を頼って都見物にやってきたが、遊びすぎて金欠病に掛かり、連れの二人は早々に江戸に戻り、八っつあんだけが京に残り、祇園祭を見物ですが・・・。

 志ん生は時間の関係で、京と江戸のお国自慢はサラリと演じています。 続きがあって、

 大坂者のとりなしで何とか騒ぎも一段落し、八っつあんが「芸妓を一人買ってみてえ」と言い出した。 しかし、今は祭礼の真っ最中。茶屋に残っている芸妓にはろくなのがおまへんと女将さんは渋い顔だ。 それでも一人いるにはいるが、その女は欲が深く、客の商売に応じて「あれが欲しい、それが欲しい」と無心ばかりするので評判が悪いのだという。 茶屋の女将が渋るのを、「八が、ねだってもとてもやれないような商売を言うことにしよう」と提案したので、それはおもろいとみんな賛成する。 やってきたのは亀吉という芸妓。 鴨川の水で洗いあげ、なかなかいい女だが・・・。案の定、いきなり「お客はん商売は何どす?」ときたから一同呆れた。
 京者が飛脚屋だと言うと、「私の客が名古屋にいるよって、手紙を届けておくれんか」、 もう一人が石屋だと言うと、「父親の七回忌だから、石碑を一本タダでおくれやす」、「江戸はん、あんた商売は何どす」、「聞いて驚くな。オレは死人を焼く商売だ」、「そうどすか。おんぼうはんにご無心がおます」、「おんぼうに無心とは何だ」、「私が死んだら、タダで焼いておくれやす」。
 今度は大坂見物になったが、また八と京者の自慢合戦が始まってしまう。 妙国寺の大蘇鉄を見せられ、 「江戸へ帰んなはったら土産話にしなはれ。これが名代の妙国寺の蘇鉄だす」、「なんだ、オレはまた、わさびかと思った」。

妙国寺の蘇鉄(みょうこくじのそてつ);妙国寺は大阪府堺市堺区にある日蓮宗の本山。
 境内の大蘇鉄は国指定の天然記念物(1924年12月9日指定)。樹齢1100年余と云い、次のような伝説が残っている。 織田信長は、その権力を以って、天正7年(1579年)、この蘇鉄を安土城に移植させた。あるとき、夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は庭先で妙な声を聞き、森成利に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいていた。この怪しげな声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄の切り倒しを命じた。しかし家来が斧で蘇鉄を切りつけたところ、みな血を吐いて倒れ、さしもの信長もたたりを怖れ即座に妙國寺に返還した。しかしもとの場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、枯れかけてきた。哀れに思った住職の日珖が蘇生のための法華経一千部を誦したところ、蘇鉄が「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げた。そこで日珖が早速門前の鍛冶屋に命じて鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇った。寺では御堂を建て、守護神宇賀徳正竜神として祀っている。

続飯(そくい);(ソクイイの約) 飯粒を練って作った糊。そっくい。

粟田口(あわたぐち);京都市東山区北西端の地区。東海道の山科から京都への入口にあたり、古くから街道の要地として発達した。この地には天台座主の門跡寺院である青蓮院があり、また鎌倉時代、刀工粟田口派の人々の住居があった。 刀工粟田口については、落語「粟田口」をご覧下さい。

先斗町(ぽんとちょう);上記粟田口の西南に八坂神社があり、鴨川を渡ったその西側に先斗町があります。
京都市中京区に位置し、鴨川と木屋町通の間にある花街。「町」と付くが地名としての先斗町はない。先斗町通に面した街。
 もともとは鴨川の州で、江戸時代初期の寛文10年(1670)に護岸工事で埋立てられ、新河原町通と呼ばれていた。 繁華街としては茶屋、旅籠などが置かれたのが始まりである。芸妓、娼妓が居住するようになり、何度も取り締りを受けたが、川端二条にあった『二条新地』(にじょうしんち)の出稼ぎ地として認められ、明治初期に独立した。 明治5年(1872)に鴨川をどりが初演され、先斗町は花街としての花を開かせた。

江戸の名物武士鰹大名小路生鰯、茶店紫火消錦絵、火事喧嘩伊勢屋稲荷に犬の糞』、または、
武士鰹大名小路広小路、茶店紫火消錦絵、火事に喧嘩に中っ腹』とも言われました。
落語「二番煎じ」の中で説明しています。

水道(すいどう);江戸の市内には神田上水と多摩川上水が引き込まれ、飲料水として使われていました。
 落語「水屋」に詳しいことが説明されています。

 水道水は右側の本管から枝管を通って左側のマスの中に入り、そこから別れて井戸に入ります。その水を桶で汲み上げます。 東京都水道歴史館

灘の酒(なだのさけ);ただの酒ではありません(笑)。志ん生は灘と言っていますが、灘は兵庫県神戸市です。祇園祭の行われる京都は地元のお酒で伏見の酒が有名です。
 大手では「黄桜」 黄桜株式会社、「月桂冠」 月桂冠株式会社、「松竹梅」 宝酒造株式会社等があります。
 
灘の酒は辛口で男酒と言われ、伏見の酒は柔らかく女酒と言われます。

神田祭り(かんだまつり);東京都千代田区の神田明神で行われる祭礼のこと。山王祭、深川祭と並んで江戸三大祭の一つとされている。京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に日本の三大祭りの一つにも数えられる。なお祭礼の時期は現在は5月の中旬。
 江戸時代の『神田大明神御由緒書』によると、江戸幕府開府以前の慶長5年(1600)に徳川家康が会津征伐において上杉景勝との合戦に臨んだ時や、関ヶ原の合戦においても神田大明神に戦勝の祈祷を命じた。神社では家康の命によって毎日祈祷を行っていたところ、9月15日の祭礼の日に家康が合戦に勝利し天下統一を果たした。そのため家康の特に崇敬するところとなり、社殿、神輿・祭器を寄進し、神田祭は徳川家縁起の祭として以後盛大に執り行われることになったという。
 神田囃子はその時に使われるお囃子。東京の神田祭(5月12~16日)の祭囃子。初めは葛西(かさい)囃子が奉仕していたが、あるとき奉仕にこられなくなったのを契機に、氏子がうろ覚えで始めたのが初発という。大太鼓1、締(しめ)太鼓2、笛1、手平鉦(ひらがね)1による五人囃子であり、「屋台」「昇殿」「鎌倉」「仕丁舞(しちょうめ)」の葛西囃子系の曲のほか、「神田丸」「亀井戸(かめいど)」「麒麟(きりん)」「鞨鼓(かっこ)」の独自の曲をもっている。別に紀州和歌浦からの伝来説もある。



                                                                2016年5月記

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