落語「引越の夢」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円生の噺、「引越の夢」(ひっこしのゆめ)別名「口入屋」より


 

 古い川柳に、『もう一度十七、八で這い習い』
 これは、十七、八にもなってなんだって這うんだろうと思ったら、これは男性が女性のところへひそかに這って行く・・・、これをその、夜這いと申します。これはまァ、前々に交渉をしておかなければいけないわけで、「今夜、行くが、いいかい」、「じゃぁ、いらっしゃいよ」、という、ちゃんと約束の上で行くんなら何事もないわけです。ところが、中には乱暴な奴は無警告でいきなり敵地にのりこむのがいる。で、そこで政治交渉をするんですが、まァたまにはまとまる事もあるんでしょうが、十中八九・・・、だし抜けじゃァこりゃァ「うん」、とは言わない。いろいろ、政治交渉をしてみたが遂に不調というわけで談判破裂、国交断絶というやつでね。へへ・・・、しかしせっかく、敵地までのり込んでいるんだから武力をもって相手を征服しようとする、これに応じて向こうもまた、武力をもって反抗するというわけで・・・。「我が方に多大なる損害をこうむり、遂に退却のやむなきに至る」、という。
 『無名圓つける夜這いは不首尾なり』
 ”無名圓”という傷の薬が昔、あったんでしょう。これを着けるようでは、首尾はよくなかったわけです。
 『よっぽどの傷を夜這いは秘し隠し』
 「どうなすったんです? あァた・・・、大変な怪我ですね。どうしたの」、「え?・・・つまらないことで」、「と言ったって、ひどい怪我ですよ」、「いえなに、こんなものァ、いいんです・・・」。これはあんまり説明が出来ないことです。
 
 昔はこの大店(おおだな)といいまして、大きいところは若い人が大勢いました。
 こう言う所に勤める女中は大変です。ツンツンしていれば「イヤな女だね」と後で悪さをされても困るので、チョットは優しいことも言います。男は「俺に気があるんじゃ無いか」と変に思い、後で間違いを起こす。
 大店の女中は大変で、まぁ、一人や二人ならなんとか需要に叶えられるでしょうが、何十人という団体で申し込まれた日にゃァこれァもう、応じられない。この時は「お暇をいただきます」ッてんで、みんな帰っちゃう。
 そのうちに、海に千年、山に千年、里に千年、三千年の劫(コウ)をつんで今度夕立が降ったら天上しようかなんという、なかなかどうも腹のしっかりした女で・・・。上辺だけは柔和ですから、店の者たちはとにかく、我れ先陣というわけで、台所へ忍び込んで談判とくる。

 「(小声で)お清どん、お清どん」、「あッ。あら、ビックリした。何ですの」、「(あわてて制し)大きな声をしちゃいけない」、「なんかご用ですの」、「(正面から切り込まれて言葉につまり)うん・・・ゥゥ、ご用はご用なんだけどもね。お前さんに実はね、相談があって来たんだ。来年の三月になると年期(ネン)があけるんだ。お父ッつァんの方からお金を出してくれて、旦那から暖簾をわけていただき店の一軒も持って、それから小僧の一人くらいおいて、女中もおきますよ。で、お前と夫婦になって、暮らしたいとおもう。ダメだと言われたら、出刃包丁もありゃ、菜ッ切包丁もあるから・・・どうする」、「まあ、いやですわ、そんな恐いことを言って。いやッてことはありませんよ。家には兄さんがいるから、どっかへお嫁にいかなきゃァならないんですから、まァそうして、あなたがあたしを女房に持ってくださるというんなら本当に願ったり叶ったりよ」、「 願ったり叶ったり?ヘヘヘ、俺は滑ったり転んだりてな事になるんだがね。じゃ、いいてェのかい?手付けという事があるがね。今夜、お前さんのところにこっそり行くが、いいかい?」、「じゃ、くるの? 本当に?」、「本当だよ。大行きですよ、うん。大行き(大雪)だるまは、目は炭団(タドン)で堅炭てェくらいだ。きっと行くよ」、「(色っぽく)いやね、そんな洒落なんぞを言って、じゃ待ってるわよ」、なんてんで、背中をひとつ、ぽーんと叩かれる。まず、この女は俺の方へ札がおちたというわけで、店へ来て何食わぬ顔をして、ヘヘヘ。しめた、なんてんでね、喜んで煙草を吹かしてあごを撫ぜている。で、ほかの若い者が行って引っ張ると、これも請け合う。店の者三十八人残らず請け合う。煙草を出してヘヘヘ「ありがて~」。
 そんなに皆を請け合ってどうするかと言えば、そこはもうちゃんと心得たもので・・・。台所の上に中二階のようなものがあってここへ女中が寝るわけなんですが、昔は猿梯子といいまして、軽い梯子でずうッと上へ引き上げられる。これがなきゃ、上がってくる事は出来ないからというんで、もう女中さんの方は安心してぐっすり寝込んでしまう。ところが、若い者はもう今夜、すきを見て行こうというんですから蒲団へ入るやいなや、総がかりでイビキをかきましてね・・・、空鼾(ソライビキ)という。これがどうも騒々しいのなんの。

 もうひとッきり寝たから大丈夫だろうッてんで、一人這い出すと、あとからぞろぞろッとくっついて出てくるんで、まるで牛の子をひっぱって出るよう。一晩のうちに十五、六度(タビ)出たり入ったり、出たり、入ったり。
 こんな具合ですから、翌朝、店へずらッと並ぶてェとどうも、こっくりこっくり、居眠りの競争というわけで・・・。

 今日は坊ちゃんのお祝いだというので、店の者にもお酒が出まして、旦那は一、二杯召し上がり、気を利かして奥の方に引っ込む。さァ、鬼がいなくなったというわけで飲むわ飲むわ。そのうち酔っ払ってくると、乱痴気騒ぎになる。そのうちにあっちへ倒れ、こっちへぶっ倒れ、魚河岸にまぐろがついたようで、ごろごろそこいらにみんな寝ちまったというわけで・・・。
 酔っているうちはそうでもないが、あの酔い醒めぎわに、隙間から、すうーッと入ってくる風というものは冷たいもので・・・。
 源さんが先ず目を覚ました。「あァいけねえ、うっかり寝込んじゃった。今夜は。いつの間に寝たんだかわからねえ。みんな寝てやがる。ありがたいね、へへへ、このみんな寝ているなかで、あたし一人だけ目がさめるてェのは出雲の神の引き合わせてェやつだね。約束だけして行かないのもなんだから怒ってやがったね。『どうしたの? 約束だけして来ないんじゃないの』、『来ないたって、駄目なんだよ。行こうと思ってもみんなが邪魔をするんだ』、『ううん、そんな嘘ばかりついて、お前さん、眠いんで寝込んじまってるんだろ? 本当にお前さんは実がないよ。今夜こないときかないよッ』 なんて言いやがって・・・俺の背中をどーんッと叩きやがったがね、叩き方が違うね。やっぱり惚れてるんだ。
 (台所へ這って来て、困ったように舌打ちして)あっ、これァいけねえな、この台所の障子がガタガタ音がするんだからなァ。油でもひいときゃよかったが、下司の知恵と猫の睾丸(キンタマ)は後から出るなんてェことをいうが、どうにもしょうがねえな・・・。(両手で障子を開け)これァいけねえ。え~と、(両手で前をさぐりながら)何しろ真っ暗だからなァ・・・、なんだ、台所だって何かあったら困ンじゃないかなァ。明かりの一つくらいつけとくがいいんだな。え~と・・・、あ、ここだ。ここんところ、あれ?(不審そうに)はて、おかしいな。たしかここに梯子があるわけなんだがなァ・・・、あッ、そうだ、わかった。あの子守りの奴だよ、俺がなんか話をしてたら傍へきて 『イーだ』 なんて、そ言ってやがって・・・、ちぇッ、いまいましいな本当に・・・、梯子ォいたずらして引いちまいやがったんだ。残念ですねえ、どうも。今夜行かなきゃ、なかなか行かれないんだからなァ。宝の山へ入りながら手をむなしく帰るなんてェのはどうも、くやしいねえ。どうしてこう(額を押さえ)あッ、あ痛ッ、おう痛え。真っ暗だからやけに頭ァぶつけちゃったい、どうも。ねずみ入らずじゃねえか。この家も間抜けだよ、こんな半端なとこィねずみ入らずを吊っとくから頭をぶっつけ・・・と、不平(コゴト)はいうようなものの事によると、そうだ、このねずみ入らずをなんとかして、二階へあがれないことはないな。ねずみ入らずの吊ってあるこの・・・腕木へこう、手をかけて(上手高目へ左手をかけ)、手をこっちをのばすと蔵の折れ釘へ・・・、おッ、いい塩梅だ。つかまれらァ、え? それでぐゥーッと、体を宙にうかして、蔵の腰巻へ足が届く・・・、二階のそとから上がれるだろう。えへッ、やってみよう」。
 よせばいいのに、久しい以前(アト)に吊ったねずみ入らずで木が腐って釘が少しゆるんでいた。
そこへもってきて、奴さんが重いときているからたまりませんで。両手をかけて、ぐゥッとぶら下がろうとする途端に、みりみりッ・・・。「おッと・・・(あわてて両手を左肩の上でねずみ入らずっを支えている態で) あァ、大変だ。落ッこってきやがったこらァ・・・、いい塩梅に担いじゃったけれども・・・、あらら、なにかころがってきやがった。
 いやッ~、ああ~ゥゥ、衿元から何かこらァ、ポタポタポタポタ・・・、なんだいこらァ、(ねずみ入らずを支えたまま右手で首にさわり、それを舐めて)、あッ・・・、醤油注ぎがひっくり返(ケエ)った、こァら、いけねえ。だんだん醤油が流れてくるよ。あァいけねえ。へその脇の、おできへしみてたまらねえや」。

 佐兵衛も目を覚まして大あくび、「いけねえ。おどり踊れッてェから、かっぽれ七、八つ踊ったのは覚えているけど、あとはわからなくなってぶっ倒れて寝ちゃった。こんなとこに寝ていて風邪ェ引いちゃつまらねえ。早く寝よう・・・。みんなよく寝てやがる。
 ありがたいねえ~、えへへへ、みんな寝てェる中で、一人だけ俺が目が覚めるというのは出雲の神の引き合わせてェやつだ。やっぱり縁があるんだな。(女の声で)『お前さん、約束だけしてこない。本当にひどい人よ。今夜こないときかなわないよゥ』 ッてやン、俺の頬っぺた、きゅうーッとつねりやがった。やっぱり惚れてるんだね、痛くないように加減をしてつねりやがった。ありがてえ、どうも。ほらッ、この台所障子が音がするってんで、ちゃァんと開けといてくれる、やつは利口だね。へへへ、こういう細かいところまで気がつくんだからな。なにしろ真っ暗で・・・(前をさぐる)(源さんがねずみ入らずを担いだまま、暗いのをすかして見ている)。おかしいね、ここに梯子があるはずだが・・・、あァ、だれかいたずらしやがったんだ。畜生。梯子がなきゃ、二階へ上がれないとおもってやんだなァ。ようし、そうなればまた、裏をかくてェやつだ。俺ァ昼間、見当をつけておいた。この辺にねずみ入らずが・・・(両手でさぐり)、あ、ありました。このねずみ入らずへ手をかけて、蔵の折れ釘ィ・・・」。
 同じような事を考える。片っ方が落っこって担いでいる。そんなことは知らないから、向こう側へまわってねずみ入らずへ手をかけて、ぐッと引っ張る途端に、ミシミシぃ・・・。あわてて両手を、今度は右肩の上でねずみ入らずを支えた。

 「ああッ、あァ、おどろいた。(大きな息をついて) なんだ、ちょいと引っ張ったのに落っこってきやがる・・・あァ、下へ落っことしたらえらい事ンなったんだけど、いい塩梅に担いじゃっていい事した。あぁ、おどろいた」、「と、と、とい。押しちゃいけねえ、押しちゃいけねえ」、「おい、だれかいるのかいそっちに、だれだい、おい。源兵衛どんかい」、「佐兵衛どんかい? へへへ、どうもお早う」、「ねずみ入らず、担いじゃったからさ、なんとかしておくれよ」、「あたしゃ、先ィ担いでンだよ。お前の方はなんにもころがってこないだろう?あたしの方は醤油注ぎがひっくり返っちゃって、衿元からずうーっと醤油が流れて、へその脇のおできへしみてビリビリ、たまらねえんだ。ちょいとこれ、舐めてくれ」、「冗談言っちゃいけない。ど、どうするんだよ。え?」、「どうするったって、いつまで担いじゃいられませんよ。だ、駄目だよ。今落っことしたらお前、大っきな音が出ちまってみんな起きてくる。しょうがないからこのままそうッと担いで、ね? あしたの朝、権助でも起きたらたのんで吊ってもらおうじゃないか」、「夜の明けるまでかついでんのかい、これを。ゥゥ~~おどろいた。なんだか知らねえが重たいもんだね、これッ」、「重いッったって俺ァ、さっきから担いでるんでもう肩ァめり込みそうになってるんだ。どうにも重いよ。(たまらず少し大きな声で)ああ、重い、重い」。
 重い、重いってんで、だんだん声が大きくなる。これを聞いて、小僧が目をさましたんで、店の者でも起こしァよかったんですが・・・、旦那を起こした。

 「旦那さん。大変でございます。泥棒が入ったんです」、「寝呆けるな」、「いえ、寝呆けたんじゃないんです。今、厠に行こうと思って台所のわきを通ろうとしたら・・・、二人組で『重たい、重たい』ッてそう言ってるんで、何かミシミシいって担ぎだしてんです。千代どんを起こしましょうか」、「千代どんを起こしてどうする」、「暖簾棒ふりまわして威(エ)張ってましたよ。剣術はたいへんこのごろうまくなったなんて言ってましたから、千代どんを起こしまして、泥棒ひっぱたいてふン縛っちゃいましょう」、「馬鹿なこといいなさい。台所へ入るくらいだ。そんなものは木っ端盗人だ。家から縄つきを出すこともいけませんから・・・あァ、あたしが行って見てやるからいい」。旦那のほうでは泥棒を逃そうという料簡で、むかしのぼんぼりへ、蝋燭をつけました、「お前は先へ出るんじゃないよ。怪我でもするといけない。あとの方からついてきな」。
 「(担いだ状態で、遠くを見て)おいおい、灯りがくるよ。佐兵衛さん」、「(これも遠くを見て)いけねえッ。灯りが・・・、旦那だ。(すっかり狼狽して)旦那だよ、これァ弱ったねえ・・・、これは・・・」。
 旦那はぼんぼりをかかげて見て、「なんだ、これは一人じゃないね。あッ、まァ~なんだ、源兵衛に佐兵衛、なんのザマだ、それは」、「うへェッ~、(仕方なく、鼾を)くゥーッ」、「(佐吉も同じく)ゴーッ」、「馬鹿野郎。そんなものを担いで鼾をかいてやがる。何やっているんだ」、「(ぐッと詰って)う~~ッ。へへへ、(泣き声で)引越しの夢を見たんでございます」。

 



ことば

原話;口入屋は、上方落語の演目の一つです、と言いますが、東京では「引越の夢」という題で演じられます。原話は、寛政元年(1789年)に出版された「御祓川」の一編である「壬生の開帳」。と言われていますが、江戸落語の「引越の夢」はそれよりも古く『醒睡笑』(せいすいしょう。寛永5年板=1628年3月)に載っています。また、天保年間(1837~1844年)には江戸でも高座に掛けていた。で、江戸落語が元祖かも知れません。

 安楽庵 策伝(あんらくあん さくでん、天文23年(1554) - 寛永19年1月8日(1642年2月7日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての浄土宗西山深草派の僧。金森定近の子といわれる。落語の祖ともいわれる。策伝は道号。諱は日快、号は醒翁、俗名は平林平太夫。
 美濃国の武将・金森定近の子といわれ、兄に金森長近などがいる。 幼いときに美濃国浄音寺で出家し、策堂文叔に師事した。その後、京都禅林寺(永観堂)に転じ智空甫叔に学んだ。
 天正年間(1573年-1592年)、中国地方に赴き備前国大雲寺などを創建したと伝えられる。慶長元年(1596年)、美濃浄音寺に戻り25世住持となる。慶長18年(1613年)に京都誓願寺55世(浄土宗西山深草派法主)となり、貴顕と交友を広げた。元和9年(1623年)、紫衣の勅許を得た後、塔頭竹林院に隠居し、茶室安楽庵で余生を送った。 寛永19年(1642年)、死去。 笑い話が得意で説教にも笑いを取り入れていたが、京都所司代・板倉重宗の依頼で『醒睡笑』を著し、笑話集のさきがけとなった。 策伝は安楽庵流茶道の流祖としても、収集あるいは見聞した椿に付いての記録『百椿集』(1630年、寛永7年)を残したことでも知られる。策伝作の狂歌・俳諧も残っている。親王・五摂家・武士・文人の間に広く交流を持ち、特に松永貞徳や小堀政一(遠州)との交流が深かった。

夜這い(よばい);昔、村祭りは男女の出逢いの場として使われ、若い者が集まって夜這いに出かけるなどもめずらしいことではなかったようです。 一夫一婦は基本でしたが、性に関してはあけっぴろげで「皆、村の子供」という意識があり、皆が助け合った時代にはこういう風習も良かったのでしょう。 昔の日本や、現在でも海外の未開部族の村などでは、旅人が泊まると娘や女房に伽をさせるということもあり、これは同族での婚姻を繰り返すと血が濃くなって良くないということに対する知恵でもあり、外部との交流が少ないところでは非常に理にかなったものでした。

 『蚊帳一重でも夜這いにはきつい邪魔』 俳風末摘花 (右絵)
 『町内で知らぬは亭主ばかりなり』 俳風末摘花

 この噺「引越の夢」は、東西でほぼ筋は同じですが、東京では堅物の主人の方針で、奉公人に女のことで間違いがあってはならないと、奉公人達が夜出歩くことを禁止して醜女の女中を選んで入れますが、夜這いが絶えず女中が居着きません。 困った主人が特別に性悪の女をと口入れ屋に頼んで入れてもらうことになります。

 『口惜しさ下女五人目に食いつき』
 『八九人べい来ましたと下女は泣き』

川柳・右絵:絵本俳風末摘花より

これでは下女が居着くはずは無く、男連中よりも二枚も三枚も世慣れた女を旦那は頼むことになります。

 

桂庵(けいあん);市中には農村から江戸に流入する人びとに奉公先を斡旋する業者が多数存在した。江戸の人々が、けいあん・口入・口入人・人宿・奉公人の宿・受人宿・肝煎の宿などと呼び、幕府の法令で「人宿」と称した。彼らは奉公人の保証人となって判銭(印代)をとり、奉公先を周旋して、主人と奉公人の両方から斡旋料をとった。寛政のころの斡旋料は武家方荒奉公人の日雇170文から216文程度の給金のとき16~32文だった。しかし江戸店など町家の長い年季の奉公人(番頭や丁稚)は、知人を通じて直接国許から雇い入れる場合が多く、人宿を経て雇うのは下男・下女など、短期契約の者たちだった。その典型が信濃者(ムクドリと呼ばれた)である。出稼人に限らず奉公人には長年季と一季(1年)・半季・日雇など短期間の者とがあった。この契約期間が切れ、奉公人が交代することを「出替り」といった。江戸の出替りは3月5日がしきたりとなっていた。出替りのとき人宿が連れてきた何人かの就職希望者を、男なら亭主、女なら女房が面接した。これを「目見え」という。気に入ったものがあれば、宿元、実家の大家、「先ん主」つまり前歴などを確かめて飯をくわせた。やっと食事の許可が出て、『御しなんを受けましたらとめしに付』『こつずいにうまそうにくふしなの者』(『柳多留』)となるのであるが、さらに仕事をさせ、人柄や仕事ぶりをみたうえで決定した。「目見え」が無事にすむと、人宿が保証人となって「請状」(奉公契約証文)が作成される。請状を奉公先に差し出したとき雇主は奉公人に給金の一部を前渡金として渡す。奉公人はこのなかから人宿に斡旋料を払う。 それでも地方から出てきてやっと手に入れた給金である。「請状か済と買たいものはかり」(『柳多留』)だった。奉公人の給金は半年で京・大坂も江戸も約一両二分だった。冬場稼ぎの信濃者は十一月から二月まで、金一分で働いたという説もあるが、これは川柳にあらわれた極端な例である。4ヵ月で一両ちかい給金を得たとしてよいだろう。下女も地方からの出稼人で占められ、ことに相模(神奈川)・安房・上総(千葉)出身のものが多かった。江戸生れの町家の娘たちは幼年より諸技芸を習って、武家屋敷に女中として勤めることを理想としたからである。給金は下男とほぼ同額とみてよい。
 江戸出稼人の実数は天保14年七月(1843)男2万5848人、女8353人計3万4201人と町人人口の約6%の多きを数えたが、安政期以降には激減し、慶応3年(1867)9月には男3642人、女1050人となっている。江戸奉公人の形態は初期は譜代奉公人が主流で、慶安期ごろからしだいに出替り奉公人に変化したといわれる。それにつれ江戸出稼人は寛文期ごろから定着しはじめたと推定される。はじめ一般農民の江戸出稼ぎは比較的自由に行われた。しかし江戸後期になり、農村の荒廃現象が顕著になるとこれを防ぐために幕府は出稼ぎ制限にのり出す。安永6年(1777)幕府は村役人に余剰人員のみを出稼奉公人として排出せよと命じているが、天明8年(1788)2月以降「出稼ぎ制限令」によって、面倒な手続きが必要となった。この手続きをふまなかったものは無宿者として取り扱われた。江戸の無宿は町奉行所の役人に捕えられて、最悪の場合は佐渡送りとなる。一度金山の暗い坑道の穴に送りこまれた人の命は三年とはもたなかったという。
(江戸学事典・弘文堂より)
 落語でも「元犬」「化け物使い」「百川」「操競女学校・お里の伝」など、慶庵が奉公人を斡旋している噺があります。慶庵は、「桂庵」「慶安」とも書き、承応年間(1652-55)に江戸京橋の大和慶庵と言う医者が、よく縁談の紹介をしたため、人を斡旋する仕事を桂庵と呼ぶようになったと言います。また、武家からの依頼も多く、下働きや下僕、草履取り、参勤交代の行列員などもありました。

無名圓(むめいえん);夜這いで怪我したときに付ける薬です。文久の頃まであったが、その後無くなった。
また、「無名圓つける夜這は不首尾なり」の「負傷」だけでは、やゝもすれぱ女性が負傷でもしたやうに誤解され易いから、柱に衝突とか、又は今一歩立入て枕でどやされた場合とか付け加えたいような気がする。
叉、川柳、「無名圓聞きに帰って叱られる」に「怪我した事」よりも、粗忽者が慌てふためきて薬買に行く途中で其薬名を忘れて聞きに帰った場合で、それは叱られるでしょう。

大店(おおだな);大規模な商家。大商店。

 江戸を代表する大店「越後屋」。江戸東京博物館蔵

出雲の神(いずものかみ);古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、明治4年(1871)に出雲大社と改称した。 正式名称は「いづもおおやしろ」であるが、一般には主に「いづもたいしゃ」と読まれる。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがある。
 東京にも支庁の東京分詞が港区六本木七丁目18にあります。右写真。
 大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではない。そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的な信仰をあつめるようになった。

ねずみ入らず;鼠が侵入しないように作った食器や食物を入れる棚。日本の木製の食器用の戸棚。また、冷蔵庫の無い時代、多くは食品の収納庫としても用いられ、中に収納された食品を鼠害から守るためにネズミが中に侵入することができないように作られている。多くの場合は、台所に置かれる。正面の引き違い戸には、ガラスや網戸が使われます。
 この噺のねずみ入らずは、天井から吊り下げたれた物で、足場になると思ったのが間違いの元であった。

かっぽれ住吉踊り(すみよしおどり);大阪住吉神社の御田植神事に行われる踊り。縁に鏡幕をつけた菅笠を冠り、白の着付に墨の腰衣、白の手甲・脚絆、茜(アカネ)色の前垂、白布で口を覆い、一人が長柄の傘の上に御幣をつけたものの柄を右手の割竹で打ちながら唄を歌い、踊子がうちわを持ってその周囲をめぐって踊る。願人坊主によって流布され、のち川崎音頭・かっぽれとなる。

 

住吉踊り;上左図、東海道五十三次より「日本橋・朝の景」広重画 日本橋に描かれている、傘を持った一行が住吉踊りの一団です。軒付けで生計を立てています。
かっぽれ;上右図、「カッポレカッポレ甘茶でカッポレ」という囃子言葉からの名。江戸末期、住吉踊から出た大道芸のひとつ。伝統江戸芸かっぽれ寿々慶会 深川江戸資料館にて
 現在、寄席の舞台で芸人が揃って踊ることが有り、志ん朝も亡くなる前、仲間と踊った。
落語「五月雨坊主」より孫引き

蔵の折れ釘;蔵の外壁に付いているL字型の釘。火災の時や壁を補修する時、梯子を固定するための釘。
右写真:蔵の二階部分。外壁に折れ釘が有るのが分かります。
深川江戸資料館にて

権助(ごんすけ);落語国では御店の下働き、主に飯炊き男です。地方から出て来て、もっさりしていて垢抜けしない男の代表。



                                                            2016年6月記

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