落語「代書屋」の舞台を行く
   

  

 四代目桂米團治作
 桂米朝の噺、「代書」(だいしょ)別名「代書屋」より

 

 『儲かった日も代書屋の同じ顔』は四代目桂米團治(よねだんじ)の作です。『割り印で代書罫紙に箔を付け』も米團治の作です。上手い川柳です。

 代書屋に履歴書の代筆を無筆男が頼みに来た。仕事先で持って来いと言われたが、家中探したが無いので、向かいの家に借りに行ったら、そこにも無いので、ここにやって来た。
 「就職なさるんですね」、「いえ、勤めに出るのです」。「何処に」、「箱屋です」、「紙箱とか木箱とか?」、「いえ、色街の箱屋です」、「芸者屋の男衆さんですな」。
 「籍は?・・・本籍です。親代々住んでいた所」、「日本橋(にっぽんばし)三丁目です」、「『大阪市浪速区日本橋三丁目二十六番地』」、「風呂屋の向かいです」。「住んでいる所も同じですな? 現住所、右に同じ。あんた戸主でしょ」、「おだてなさんな」、「いえ、家の大将でしょ。では戸主です」。
 「名前は?」、「田中彦次郎」、「彦次郎の”じ”は次ですか、治ですか」、「お任せします」。
 「生年月日は・・・」、「生年月日は無かったと思います」、「貴方の生まれた歳です」、「歳が判ってしまう」、「歳が判るように書くのです」、「内国博覧会の夜に提灯行列が出たでしょ。その時『お前も若い者の仲間に入れてやる』と言われ嬉しかった」、「年月を言いなさい」、「明治36年4月1日や」、「・・・若いですな」、「いえ、これは提灯行列のあった日。この時提灯の火を点けさせてもらったのが縁で今のカカと・・・」、「ノロケは良いんです。干支は?」、「猿です」、「明治17年、生まれた日は?」、「天神祭の明の日」、「7月26日。そのぐらい直ぐに言えるようにしておきなさい。学歴は・・・」。
 「学校はもう行っていません」、「そやろうな。四十過ぎて・・・。何という小学校?」、「尋常小学校」、「本籍地内小学校、そ・・・卒業したんだろうね」、「2年で卒業」、「それを言うなら、中途退学」、「そー言うと体裁が良いな」。
 「職歴だが、判らないだろうな。どんな商売をしていた」、「言われると辛いな~。提灯行列の明けの年」、「だったら明治37年、何をやった・・・」、「友達が『巴焼きの道具空いてるさかい、使えへんか』言うて貸してくれたんだ。借りに行たら、錆びで緑青が吹いていたので、それをペーパーで・・・」、「場所は?」、「玉造(たまつくり)の駅前で、家賃が12円50銭」、「家賃はイイので、『同市内玉造駅前において』・・・、巴焼では判らないだろうから、『まんじゅう商を営む』として、いつまでやった?」、「いや、やろう思ったけど、家賃高いから、やめた」、「やったことだけ言いなさい。消すと紙が汚くなる。一行抹消。判子貸しなさい。訂正印だ。本当にやったのは?」、「同じ年の12月に、夜店を出したんだ」、「『明治37年露店営業人として』・・・、品物は何?」、「ヘリドメ」、「服のえり止め?」、「いや、減り止め。下駄の歯ァの裏に打つゴム」、「そんな物書いたことが無い。『履物付属品を販売す』と、書いとこ。いつまで?」、「これはホンマに道に品物並べましたんや。ところが12月で、冷たい北風がピューピュー吹いてくる。誰も買わない。アホらしなって、2時間でやめた」、「・・・一行抹消。判を貸しなさい。あんたが、ご飯を食べてた本職は一体何だんねん」、「わたい大体は、ガタロだんねん」、「ガタロて何だんねん?」、「胸のとこまであるゴム靴履いてな、金網で川底をさらって、鉄骨の折れたんやら釘の曲がったのやら取ってる奴がいるでしょ」、「初めて聞いた。いよいよ書きようがない」、「どうでっしゃろ、『ガタロ商を営む』では・・・」、「黙ってッ。『河川に埋没したる廃品を収集して生計を立つ』と」、「うまいもんやなあ。ガタロが引き立つ」。「それから、昭和5年の5月5日や。忘れもせん、松島だ」、「『西区松島町において』・・・、これは何をやったん?」、「わいと松っちゃんが初めて女郎買い行たんや」、「アホか! どこぞの世界に、履歴書に女郎買いに行ったのを載せる人がいます」、「これぐらいのこと書いとかなんだら、読む者がおもろない」、「書いてしまった。一行抹消。判を貸しなさい。もう、こっちでええ加減に書きます。賞罰はないな?」。
 「正月は年にいっぺん」、「警察へ引っぱられたとか、誉められたことないやろ」、「ありまっせ」、「ちょっと人に誉められたぐらいではだめで、大きく表彰されたとか・・・」、「こんな大きな賞状もろて、新聞に写真入りで載ったんだっせ」、「それだったら載せておかなければいけない」、「3年前、新聞社主催の大食会でぼた餅56個食べて、こんな大きな賞状もらって・・・」。
 「兵役もないやろう。もうよろし、『右の通りに、これ相違なく候(そうろう)なり。年月日』。ここへ名前書きなはれ。本人自署というて、名前だけは本人が書かないかんねん」、「それが書けるなら、あんたとこへ頼みに来るか」、「ちょっと判を貸しなはれ」、「判を押したが何で?」、「自分で名前が書けないので『自署不能につき代書す』と書いたわ」、「恥晒しているようなもんだ。決まりなら、仕方が無いが、お礼は?」、「手間が掛かったが決まりで、1枚30銭が2枚かかったから、60銭置いていきなさい」、「30銭より持ってません。1枚だけもらって帰ります」、「そんなもん半分だけ持って行てどないもなるかいな。もう、負けたるさかい持って行きなはれ」、「そんな気っ風が良いと、箱屋やっても芸者衆に惚れられるよ」。

 この後、中気で字が書けない、という老人が結納の受け取りの代書を頼みにやって来た。「贅沢を言うて申し訳ないのじゃがな、ゲン(縁起)のもんじゃでな、筆と墨をサラのもので頼めませんかな」、「へい、結構です」、と言って、新品の筆を下ろし、墨も上等の墨で擦り直した。「チョット待って下さいよ。『中濱代書事務所』の字は看板屋に書かしなはったんか、あんたが書きなさったか?」、「あれは私が書きました」、「見れば、あまり名筆でないな~。中濱の中の字、心棒がいがんではしまいか。濱の字もバランスが悪いな。全体に右肩上がりで、字に品が無いな。せっかく来ましたが、今度軽い物の時に来ます。お邪魔をしました」。「筆と墨ドナイになるのだ。今日は悪い日だ~」。

 怪しげな話し言葉でやりとりする、男が来た。朝鮮本国からやって来る妹のために、渡航証明書の作成を依頼する朝鮮人が登場する。渡航証明書を作るに当たって、本籍の訂正、親の死亡届け、妹の出生届け、それらの理由書等を、複雑な手続きの上、各種の書類を作った。本籍の訂正や、それにともなう罰金が来るというのですべてキャンセルになった。

 その後、上述の老人宅の奉公人の女性が、やって来た。「先ほど、手前どものご隠居さんが失礼をいたしました。『謝っておいてくれ』と申します。ほんの些少ではございますが、お筆料でございます」、と、心付けを持って謝罪にやって来た。「ご丁寧にアリガトウございます」。
 「一応、お金のことでございますから、受け取りのしるしに、小さい紙切れで結構でございますので、何かにお名前を・・・」、「はいはい、分かりました。チョチョット書きますから・・・」、「待つのはかまいませんので、チョチョットでは無く、丁寧にお願いします」、「難しいんですね」、「そうなんです。隠居さんは上手下手では無く、丁寧に書けと申します。隠居さん、今は中気で字が書けなくなっていますが、往年は名の知れた書家でした」、「そうでしょう。字にはウルサかった。それを聞いたら肩が張って、余計書けなくなった。こうやって・・・」、「中の字の心棒が、チョットいがんだようです」、「書き直せば良いんだ。は・ま」、「濱の字は、偏(へん)と比べると旁(つくり)が大きすぎて、お饅に例えると・・・」、「大福餅だと言うのでしょう」、「右肩上がりで・・・」、「もいいわ。こんなもん、もらわなければよかった」、「イライラすると余計書けなくなるので、チョットお貸し下さい。『中濱賢三』(なかはまけんぞう)さんでしたね」、「・・・上手いな~。女御しさんで、良くこれだけ書けますな~。これだけ書かれると、書くことが出来ませんな~」、「それでは判をお借りして・・・、これを受け取りにします」、出したのを見ると、名前の下に小さい字で『自署不能につき代書す』。




ことば

落語代書について;米朝の師匠である四代目桂米團治の創作。題名の「代書」は米朝がこの噺を演ずるときは「代書」で通しています。通常は「代書屋」です。
 昭和10年代、大阪市東成区今里の自宅で副業として一般代書人事務所(現在は司法書士)を営んでいた四代目桂米團治が、その経験から創作した古典的新作落語。
 昭和14年(1939)4月初演。原典にあたる口演速記は雑誌『上方はなし』第46集(1940年5月発行)に掲載されている。従来の落語で使われてきたクスグリがひとつも使われていないことが、四代目桂米團治の自慢であったという。
 発表当時から人気作となり、四代目桂米團治が高座に上がると客席から「代書屋ッ」「代書ッ」と叫ぶリクエストが絶えなかったという。
 四代目桂米團治本人は、代書人でありながら肝心の公文書作成が下手であったため、代書業者としては専ら能筆を活かして賞状・書状書きばかり手がけていたという。
米朝もこの噺のマクラで、役所に何回か申請書を持って行ったが、間違いが多く受理してもらえなかった。そこで役所の人が聞いた「何処で書いて貰いました?」、「中濱代書事務所で・・・」、「あッ、あそこはダメだ!」。
 四代目桂米團治が京都の寄席に出た際、『代書』を高座に掛けたところ受けに受けたため、その寄席の席亭は「出演期間中、ずっと『代書』をやってくれ」と頼んだ。しかし四代目桂米團治は「おれの古典は気に食わないのか」とヘソを曲げ、この時の出演では最後まで『代書』を再演しなかった。

 当時、上方では落語に対してお客さんが少なく、米團治も生活が出来るような状況では無かった。その為、副業として代書屋を始め、その時の体験談が落語となった。この噺が売れに売れて、副業の代書屋をしなくても生活が成り立つようになった。米朝が出るまで、上方では不遇な落語の時代が続いていた。その当時の時代背景や世情、生活が良く出た噺です。

■マクラの「儲かった日も代書屋の同じ顔」という川柳も自作である。五代目立川談志が東京に移植して演じていた。上方で「代書」という題で演じるのは、後半を意識したものであろう。
 米團治の初演では、朝鮮人が来て奇妙な日本語で笑いを呼んだが、今は演じられない。誕生日を聞かれて旅順陥落の日と混同するというくだりがあるが、現在でも時事ネタが入ることが多い。
 小学校は尋常という小学校と答えていたが、権太楼は「ケンブリッジ」「オックスフォード」「コロンビア大学」など世界各地の名門を使う。最初から最後まで笑いが続くネタだが、学校を聞いてびっくり、仕事を2時間で辞めた、など、受けたところで終わらせている。
 二代目桂枝雀は師匠の米朝から教わったが、東京落語のオーバーアクションを取り入れて人気になり、この噺ではくすぐりを逆輸入して代表作にした。

■この噺、後半まで演じることはまれとなっており、多くの場合は、一人目の客の男のくだりで噺を切る。
 四代目桂米團治の原話では、能書家の老人と女性の間に、朝鮮本国からやって来る妹のために、渡航証明書の作成を依頼する朝鮮人が登場する。渡航証明書だけでは無く、本籍の訂正や、それにともなう罰金が来というので複雑な各種の書類を作ったが、すべてキャンセルになる。
 川柳には他にも「割り印で代書罫紙に箔を付け」というものもあり、やはりこの演目のマクラに、四代目桂米團治の逸話をともなって取り込まれることがある。
 最初にやってくる無筆の男の名は、落語家によってそれぞれ違い、四代目桂米團治の原話では「太田藤助」としたが、その他、「田中彦次郎(笑福亭福笑ら米朝も)」「松本留五郎(二代目枝雀ら、「松本」は枝雀の祖父方の旧姓)」「河合浅治郎(二代目桂春團治の本名。三代目春團治ら)」「湯川秀樹(三代目権太楼ら。「ノーベル賞取った科学者と同姓同名じゃないですか」「おいらも、天皇賞取りました」というクスグリがある)」など。戦後は前半のみが多く演じられることから、無筆の男の名を楽屋ネタとする事例が多い。作者の四代目桂米團治は、自身がモデルの代書屋の名を、本名の「中濱賢三」とする楽屋ネタを使っていた。
 
男が「生年月日は確かなかったはずです」と答えるくだりは、六代目笑福亭松鶴の証言によれば、六代目松鶴が米團治に提案して採用されたもので、それ以前は「そんなんまだ食べた事おまへん」と答える、という演じ方だったという。二代目枝雀は「生年月日を言ってください」という代書屋の質問に対して、男が「生・年・月・日ッ」と大声で復誦する、というアレンジを加えている。
 巴焼き屋を開いた場所は、四代目桂米團治の原話では「住吉区浜口町(=現在の住之江区浜口東・浜口西)」です。
 「減り止め」の材質は、四代目桂米團治の原話ではブリキです。 かつて笑福亭鶴光は男が本籍地を答えるくだりで、「マクドナルド(当時流行った1号店のこと)の2階」と答えた。楽屋で米朝に「受けるから言うて何でも言っていいもんちゃう」と怒られた。
 この噺の概略に取り上げた、音源は四代目桂米團治33回忌を昭和58年(1983)4月に京都府立文化芸術会館で公演されたが、米朝は噺の中の3組(4人)のお客をカットせずに演じ『代書』の題で演じています。

 『代書』創作70周年にあたる平成21年(2009)に、地元の有志団体「東成芸能懇話会」などの発起で、東成区役所敷地(東成区大今里西二)の一隅(四代目桂米團治のかつての代書事務所の跡)に、四代目桂米團治の顕彰碑が建立された。同年5月2日の除幕式には米朝らゆかりの人々も出席し、東成区民ホールでは米朝の実子・五代目米團治によって『代書』が口演された。 顕彰碑には「中濱代書事務所ノ地」の標記と並んで、東成区と四代目桂米團治や『代書』との関わりについての文章が刻まれており、五代目米團治の墨跡による「儲かった日も代書屋の同じ顔」が刻まれている。

代書屋(だいしょや);明治の初期に、司法職務定制および訴答文例による代書人制度として発足し、1919年の司法代書人法により法律上の制度として認められた。その後、35年名称が司法書士と改められたほか、数次にわたる大小の改正を経て現行の司法書士制度として確立した。当初は、文字どおり〈代書屋〉にすぎなかったが、現行司法書士法(1950公布)では、その業務を、登記・供託および訴訟等に関する手続の円滑な実施に資し、もって国民の権利の保全に寄与するという高い次元に位置づけている。司法書士は、業務の範囲を越えて他人間の訴訟その他の事件に関与することは禁じられており、本来の業務と関係なしに独立して法律相談を受けることは弁護士法に抵触し許されないが、嘱託を受けた本来の業務に関連しての法律相談は許される、とされている。
 自動車の免許更新時は、写真を必要としていた時期があり、代書屋で写真を撮り、一緒に申請書も作成してもらった。しかし、現在は写真不要になって、直接試験場や警察署に行くので、代書屋の行列は無くなった。

箱屋(はこや);御座敷に出る芸妓に従って、箱に入れた三味線を持って行く男。はこまわし。はこもち。はこ。
 箱屋には、海千山千の中年男性や花柳界に出入りする浪人などが就いた。女に付き従う仕事ゆえ、まともな男の仕事とは思われておらず、失敗をやらかして解雇された商人の手代とか、美声を褒められその気になってしまった職人とか、身を持ち崩した訳ありの人物が多かった。留学を終えて帰国したころの高橋是清も、一時身を持ち崩して日本橋の芸者置屋の居候になり、箱屋をやっていた時期があった。奈良原繁も一時身を窶して、京都で箱屋をしていた。
 右図:芸者と箱屋。三谷一馬画

履歴書(りれきしょ);履歴を書いた書類。経歴書。

本籍(ほんせき);戸籍の冒頭に本籍として記載された場所。現実の住所とは関係なしに、どこに定めてもよく、また変更(転籍)もできる。原籍。

戸主(こしゅ);一家の首長で、戸主権を有し、家族を統轄しこれを扶養する義務を負う者。1947年(終戦後)、家の制度とともに廃止。家の代表者。

内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい);明治時代に明治10年(1877)東京上野公園を皮切りに、5回開かれた博覧会。名称通り国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的とした、明治政府主導の博覧会。明治14、23年(1881、1890)に同じく上野で第2、3回が開催され、同28年(1895)に京都で第4回、同36年大阪で開かれ、第5回が最後となった。なお、第3回については落語「お富の貞操」にあります。
 第5回は明治36年大阪で開催されて、大成功裏に終了する。開催期間、明治36年(1903年)3月1日-7月31日(153日間)。場所、大阪・天王寺今宮。11万4千坪の敷地に延530万人の入場者があった。

  

左:第5回内国勧業博 明治期最大規模の博覧会の石版画(明治36年・天王寺)。
中:第5回内国勧業博 加奈陀(カナダ)特設館。 右:第5回内国勧業博 参考館の陳列装飾。

玉造駅(たまつくりえき);巴焼家を始めるつもりだった場所。大阪府大阪市天王寺区玉造元町および玉造本町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・大阪市交通局(大阪市営地下鉄)の駅。 JR西日本の大阪環状線と、大阪市営地下鉄の長堀鶴見緑地線が乗り入れ、接続駅となっている。JRの駅はアーバンネットワークエリア、および特定都区市内制度における「大阪市内」に属する。 噺の時代では、地下鉄は開通していなく、JRでは無く、国鉄玉造駅のみで、大阪城の南側に位置し、大阪環状線の森ノ宮駅と鶴橋駅に挟まれた所。

干支(えと);十干十二支。十干を五行(木・火・土・金・水)に配当し、陽をあらわす兄(エ)、陰をあらわす弟(ト)をつけて名とした、甲(キノエ)・乙(キノト)・丙(ヒノエ)・丁(ヒノト)・戊(ツチノエ)・己(ツチノト)・庚(カノエ)・辛(カノト)・壬(ミズノエ)・癸(ミズノト)に、十二支を組み合せたもの。甲子(キノエネ)・乙丑(キノトウシ)など60種の組合せを年・月・日に当てて用いる。
十二支。年、特に生年や方位・時刻に当てる。子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種を順番に当てる。

ガタロ;大阪の俗語で、本来は河童の意味(広辞苑)であった。川太郎=かわたろうが訛ってガタロになったとも言われる。大坂の東横堀のクランク状に曲がった、本町橋と農人橋との間には(中央区役所辺り)、ガタロが棲んでいるから川岸で遊んではいけないと、きびしく止められていたという。ガタロ転じて、川さらいの淘屋(よなげや)=廃品回収業者を指したものである。
 天王寺区谷町筋の源聖寺坂上(天王寺区生玉町2)に、戦前まで河太郎横町(がたろよこまち)という小路が有ったが、このガタロは横堀や道頓堀川の浅いところで川の中の泥を大きないかき(ざる)ですくい上げては、その中の落とし物(金属類)を拾い集めるのを商売にしていた人達が多く住んでいたので、この俗称が出来た。
右図:大坂ことば事典 牧村史陽編 四世長谷川貞信画 「ガタロ」

 二代目枝雀は、男が名乗る職業をガタロから「ポン」(=ポン菓子の行商人)に変更して、ポン菓子ができる際の「ポーン」という音を、大きな動きとともに口演するところでオチとする、大幅な改変を行った。米朝一門会において、枝雀が前トリで同演目を演じた際、大トリの米朝は「ほんまは大食いのオチなんですけど、あんな派手な噺やなかったんですが・・・」と苦笑した。二代目小南は、女郎買いのくだりを当世風に「ストリップを見に行きました」とアレンジした。

天神祭(てんじんまつり);7月(陰暦6月)25日に行われる天満宮の夏祭。
・天満祭(てんま まつり);大阪の天満宮の夏祭すなわち天神祭のこと。日本各地の天満宮(天神社)で催される祭り。祭神の菅原道真の命日にちなんだ縁日で、25日前後に行われる。一年のうち1月の初天神祭など、ある月に盛大に行われることがある。各神社で行われる天神祭の中では、大阪天満宮を中心として大阪市で行われる天神祭が有名。日本三大祭(他は、京都の祇園祭、東京の神田祭)の一つ。また、生國魂神社の生玉夏祭、住吉大社の住吉祭と共に大阪三大夏祭りの一つ。期間は6月下旬吉日 - 7月25日の約1か月間に亘り諸行事が行われる。特に、25日の本宮の夜は、大川(旧淀川)に多くの船が行き交う船渡御(ふなとぎょ)が行われ(下記写真)、奉納花火があがる。大川に映る篝火や提灯灯り、花火などの華麗な姿より火と水の祭典とも呼ばれている。他に鉾流神事(ほこながししんじ)、陸渡御(りくとぎょ)などの神事が行われる。24日宵宮、25日本宮。

 

尋常小学校(じんじょう しょうがっこう);旧制の小学校で、初等普通教育を施した義務教育の学校。明治19年(1886)に初めて設置、満6歳で入学、修業年限は4年、明治40年(1907)に6年(高等小学校)になった。

兵役(へいえき);軍籍に編入され、軍務に服する務め。第二次大戦前の日本では、現役・予備役・後備役・補充兵役・国民兵役の各兵役に分けた。

中気(ちゅうき);中風(チュウフウ・チュウブとも) 半身の不随、腕または脚の麻痺する病気。脳または脊髄の出血・軟化・炎症などの器質的変化によって起るが、一般には脳出血後に残る麻痺状態をいう。古くは風気に傷つけられたものの意で、風邪の一症と思われていた。中気。風疾。

書家(しょか);書道にすぐれた人。能書家。また、書道を教授し、またはそれを職業とする人。書工。

些少(さしょう);分量や程度がきわめてわずかであること。すこし。へりくだって少ないと言うこと。

巴焼き(ともえやき);広辞苑では掲載されて無く、今川焼きで載っています。代書屋さんも困ったのが良く分かります。江戸時代中期の安永年間、江戸市内の名主今川善右衛門が架橋した今川橋の神田側に存在した神田西今川町や神田東今川町の店がこれらの焼き菓子を発売し、後に「今川焼き」が一般名詞化して広がったとする。 現在の静岡県中部にあたる駿河国などを治めた守護大名・戦国大名、今川氏の家紋である二つ引両(引両紋)を由来とする説もある。 この和菓子の名称は全国的には統一されておらず、地域や各店舗によってさまざまに呼称されている。
 小麦粉を主体とした生地に餡を入れて金属製焼き型で焼成した和菓子で、全国各地で大判焼き(おおばんやき)と呼ばれるほか、その形状からの由来や販売店名を使用するなど、地域や店舗ごとに多数の別称が存在する。鯛焼きも今川焼きの変形です。



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