落語「近日息子」の舞台を行く
   

 

 桂文朝の噺、「近日息子」(きんじつむすこ)より


 

 息子が部屋の入口でボヤッと立っているので、父親が聞いた「どうしたんだ?」、「隣町のお芝居、近くに行ったから、ついでに看板を見たら『明日から』演ると出ていたよ」、「そんな事無い。昨日千秋楽だったんだ。いろいろ準備があるから中一日で初日と言うことは無い」、「そんな事は無いよ。『近日上演仕り候』と書いてあるから、近日って今日に一番近い日だから、明日だよ。だから用意した方がイイよ」、「近日とは『そのうちにやります』という客の気を引くための文句で、商売上手なんだ。商売というのは先へ、先へと気を回さなければならない。家の商売でも先へ先へと仕入を考える。これが大人の対応だ。お前さんでも先へ先へと気を回す。いいね」、「分かった。俺も気を回すから。今晩寝る前に朝飯食っちゃうから・・・」。

 「便所に行きたくなったんで、お前が店番してておくれ」、「お父っつあん、チョット待ておくれ。気を利かせるから・・・」、「どうするんだ」、「お父っつあん、便所が混んでいるかどうか見てきてあげる」、「お前な~。二人しか居ないのに混んでることはないだろう。それが、間抜けだと言うんだ。同じ気を回すなら紙を持って来るんだ。・・・、オイオイ便箋と封筒を持ってきてどうするんだ。おまえと居るとバカバカしくて口も利けないよ」、「『口が利けない』?それは大変だ。チョット待ってな。気を利かすから・・・」。

 お医者さんがやって来た。「お宅の息子さんが来て、『お父っつあんの容体が悪いから直ぐに来てくれ』と言うので、患者さんが居たがここに来ました。息子さんは『口が利けない』と言っていましたが、もう大丈夫みたいですね」、「違うんです。小言を言っていたら、訳の分からないことを言うので『バカバカしくて口も利けない』と言ったのです。忙しいところ申し訳ありません」。

 息子のことで愚痴をこぼしていると、葬儀屋がやって来た。棺桶を置いて、「飾り付けは追って若い者が来ます」、「あの野郎だな。ふん縛って押し入れに入れとこう」、「お父っつあん、葬儀屋も来た。忙しいというのを無理して頼んだんだ。飾り付けも後から来てくれるんだね。お父っつあん、安心しな、もう後はお父っつあんが死ぬのを待つばかりだから・・・」、「何してたんだ」、「気を回していたんだ。お医者さんに行ってたら、ガッカリしたような顔で戻ってきたから、これはダメだなと思って葬儀社に回って、火葬場の手配も済ませてきたよ」、「親が生きている内から、葬儀社や火葬場なんて・・・。そっち行ってろ」。

 これを見た近所の人達が驚いた。前の家の主人が、「私は朝から見ているんですが、息子が飛び出して行ったら、医者が来る、その後に葬儀屋が来る。誰かが死んだんでしょうが、息子以外だと親父さんでしょう」。「そうですか。息子が亡くなればよかったのに。惜しい旦那を亡くしましたね。ところで、挨拶に行かなければいけませんよね。私は挨拶が得意ですから、私が行って来ます」。
 お悔やみを言っている内に旦那の顔を見てしどろもどろになって、「スイマセン」、と逃げ帰ってきた。「煙草を吸う本人の目の前でのお悔やみは言いにくい」。「顔の似ている親戚が居るんだよ」、というので今度は目のイイのが代表でお悔やみを・・・。「お亡くなりになったのは弟さんですか、お兄さんですか」、「町内の人がさっきから私に嫌味(悔やみ)を言いに、何で来るんですか」、「煙草を吸っている場合ではありませんよ。表に出てご覧なさい。白黒の花輪と幕が張ってあります。入口にはすだれを裏替えして『忌中』と言う札が張ってありますよ。町内の者が来るのが当たり前でしょう」、「はぁ?・・・、そこまで手が回っていたか。間違いです。伜がやったことで申し訳ないです。改めてお詫びに伺います」。

 伜はニコニコして「近所の人も、あまり利口じゃないよ」、「どこが利口じゃないんだ」、
「忌中の札のそばに近日と書いてあらぁ~」。

 



ことば

出典安永3年版(1774)笑話本「茶の子餅」(江戸後期作唐辺木著)中の「忌中」という小話から来ていると言われています。他にも幾つかの小話をつないで一遍の落語になったと言います。初めは江戸の落語家の手で産み落とされたのですが、出来が悪くて大阪に貰われて行った。そこで作り直され修行して磨かれいっぱしの噺に仕上がっていった。初代桂春團治や二代目桂春團治が得意とした。東京には、二代目春團治から教わった三代目桂三木助が東京好みに味付けし、好んで演じられて以来、広く演じられ、元の古巣東京の寄席に定着した。人間だけではなく、「近日息子」も旅から帰って、大きく成長し人気ものとなりました。

近日(きんじつ);芝居では次の公演予告を早くから出して、その日取りはまだ確約できないときは「近日開演」と書いた予告札「近日札」を下げます。そこからこの噺が出来ています。
 『近日上演仕り候』と書いてあるから、近日って今日に一番近い日だから、明日だよ。とは息子の理解。
 私が引っ越しの時、色々な物を梱包したのですが、茶釜の灰がひっくり返って、使い物にならなくなるのを心配して、段ボール箱の上に、赤で大きく『天地無用』と書いといたら、アルバイトがひっくり返して運んでいました。話を聞くと「天地をひっくり返しても平気と書いてあった」。無用って、そんな意味じゃないんだけれどね。

千秋楽(せんしゅうらく);演劇・相撲などの興行の最終の日。千歳楽。、「最終日」を指す業界用語。縮めて楽日(らくび)や楽(らく)ともいわれる。本来は江戸期の歌舞伎や大相撲における用語だったが、現在では広く演劇や興行一般で用いられている。 これにちなみ、千秋楽の前日、もしくはひとつ前に行われる公演は前楽(まえらく)、また、ひとつの演目で各地を巡業した場合、最後の公演地で行われる千秋楽の公演を、特に大千秋楽(おおせんしゅうらく)、略して大楽(おおらく)ともいうことがある。 「千穐楽」など異体字での表記は「秋」の文字にある「火」を忌んだものである。これは、江戸時代の芝居小屋は特に出火や延焼に悩まされることが多かったためである。

  今は無き浅草六区にあった電気館。日本初の映画専門の劇場で、明治末年、当初は輸入サイレント映画の専門館であったが、のちに浅草電気館(あさくさでんきかん)と改称、国産映画の専門館となった。お芝居の劇場と違い近日公開のビラはありません。江戸東京博物館蔵。

葬儀屋(そうぎや);葬儀に関する器物を貸しまたは売り、または葬儀一切を引き受ける職業(の人)。葬儀社。

忌中(きちゅう);近親に死者があって、忌(イミ)にこもる期間。特に死後49日間。葬儀を出すときに入口にすだれを裏側に吊ってその中央に「忌中」と書いた札を張ります。しかし、地方では知りませんが、最近東京では自宅で葬儀を出すことはなく、葬儀場でしますので、すだれを裏側にして出したり、忌中の張り紙をすることも見ることも無くなりました。

忌中(きちゅう)」と「喪中(もちゅう)」の違い;「死は穢れ(けがれ)たもの」と日本では古くから考えられてきました。 その穢れを祝いの場へ持ち込まない、殺生をしてはいけない期間のことを「忌中」 と呼びます。 一方、「喪中」は死者を偲ぶ期間になります。 この「喪中」の考えは、もともとは儒教からきているようですが、 奈良時代の「養老律令(ようろうりつりょう)」や、 江戸時代から明治時代までは、「服忌令(ぶっきりょう)」と、 法律で決められていたようです。 しかし、現在そのような法律はありません。浄土真宗やキリスト教では「死」を穢れと捉えないので、 忌や喪という概念はありません。
 「忌中」は四十九日、「喪中」は一年間が目安 「忌中」は、不幸があった時から始まって、仏式では法要を営む四十九日、神式では五十日祭、キリスト教であれば一カ月後の召天記念日または五十日祭までとされるのが一般的。「忌明け」は仏式で四十九日の法要を終えた後のことを指し、法要を「忌明け法要」、香典返しや満中陰志を「忌明け返し」と呼ぶこともあります。一方、「喪中」は宗教を問わず一年間とされることが多いようです。
 忌中の過ごし方は、基本は慶事や祭典を主催しない。忌中も喪中も故人の身内は慶事や祭典を避けるものとされています。忌中に親族が自ら結婚式を挙げたり、家を新築・改築する、神社へお参りする、神事を伴うお祭りやお祝いに参加する、新年を祝うといったことはできれば避けた方がイイでしょう。招待を受けた場合も、先方や身内に出席して差し支えないか相談します。

白黒の幕(しろくろのまく);紅白の幕は祝い事で張りますが、黒白(青白=浅黄幕)の幕は不祝儀に張ります。この幕の名を『鯨幕』と言います。右写真
 通夜や葬式など一般的には弔事で使用されるが、これは葬儀業者が発案したとされ、一般的になったのは意外と歴史は浅く昭和初期以降とされる。名前は、鯨の体が黒と白の2色であること、あるいは黒い皮を剥いだ際の身が白いことに由来する。白装束にもあるように、日本では古来より弔事には白を用いたが、本来は弔事・慶事に関係なく使用され、旧暦で行事が行われる地域や格式高い神社での行事、また皇室では慶事にも使用する。

医者(いしゃ);江戸時代の医者は一般的には徒弟制度で、世襲制であったが、誰でもなれた。 しかし、医師免許も教習もなければ資格もなかった。なる資格は”自分が医者だ”という、自覚だけであった。医者になると、姓を名乗り、小刀を腰に差す事が許された。
  日本に医師免許規則が出来たのは、明治16年(1883)になってからで、治療法も東洋医学から西洋医学へと変わっていきました。

 右写真:シーボルトが所持していた携帯外科道具差。東京国立博物館蔵。

  江戸時代の医者は市中で開業している町医者のほか、各藩のお抱え医者、幕府の御典医まで居て、種類、身分、業態は様々であった。医者は大きく分けて、徒歩(かち)医者と駕籠(かご)医者とがあった。つまり、歩いてくる医者と駕籠に乗ってくる医者であった。例えば文化文政(1804~1829)の頃、徒歩医者が薬1服(1日分)30文とすると、駕籠医者は車賃を含めて薬1服80~100文と高価であった。この頃、職人の手間が400文であった。高くても往診に来てくれと言う、名医であったら、別に食事代も付けたりした。
  医者はこの噺の中にもあったが、当然ご用聞きが出来ず、患者が来るまで待たなくてはいけない。幇間のように金持ちの旦那にべったり付いていた医者もあります。落語の中にはこのクラスの医者がゴマンといます。店(おたな)で病人が出ると、「あの医者はいけません、本当の医者に診せないと殺されてしまう」、と言う物騒な医者も居ます。また、”ヤブ医者”ならまだしも、ヤブにもならない”タケノコ医者”ではもっと困ったものです。この噺にも出てくる医者は、忙しくないので、患者が居ない時は畑仕事をしています。薬は葛根湯しか出さない”葛根湯医者”や、何でも手遅れにしてしまう”手遅れ医者”はたまた”デモ医者”は医者にデモなろうかという医者。このような医者は落語界では大手を振って歩いています。

  料金に公定相場はないので、自分で勝手に付けられましたが、名医ならば患者が門前市をなしますが、ヤブであれば、玄関に蜘蛛の巣が張ってしまうでしょう。で、自然と相場のような値段が付いてきます。またヤブは自然淘汰されていきます。ですから、無能な者が医者だと言っても長続きはしませんでした。
  江戸の医者で最高の医療費を取ったのは、慶安3年(1650)堀田加賀守を治療した幕府の医官狩野玄竹(げんちく)であった。その金、幕府から千両、堀田家から千両、合わせて二千両であった、と言われている。
 落語「夏の医者」より孫引き

 上記写真:江戸時代の医者が想像していた解剖図の模型。誰が見てもこんな内蔵では無い事は分かりますが、当時は真剣に信じられていた。白井白石などによって、腑分けが行われ、実際の臓器類が判明した。東京国立博物館蔵。


                                                            2016年6月記

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