落語「うどん屋」の舞台を行く
   

 

 五代目柳家小さんの噺、「うどん屋」(うどんや)


 

  二八ソバ屋も大きな声で呼ばれるより、小声で呼ばれると、その後に続けて仲間が出てきて総じまいになることがある。江戸の後期になってもうどんは好まれず、「あんな、メメズ(みみず)みたいな物が食えるか」とバカにしていた。風邪を引いて熱取りに主に食べられた。売り声からして、ソバと違ってマヌケです。ある寒い夜、屋台の鍋焼きうどん屋が流している。

 酔っ払いが鼻歌交じりに千鳥足で屋台にしがみついてきた。湯を沸かす火にあたりながら、酔っ払いの長口上が始まった。「おめぇ、世間をいろいろ歩いてると付き合いも長ぇだろう。仕立屋の太兵衛ってのを知ってるか」、「いえ、存じません」。
 「太兵衛は付き合いがよく、仕事は良く出来る。一人娘のミイ坊は歳は十八でべっぴんで、今夜婿を取り、祝いに呼ばれると『おじさん、叔父さん』と上座に座らされて、茶が出たが変な匂いがすると思うと桜湯だったが、飲めねえよなあんな物。襖が開くと娘とお袋が立っていた。娘は立派な衣装を着て、頭に白い布を巻いて、胸元にはキラキラする物を入れて、金が掛かっているだろうな。正座して『おじさん、さてこの度は・・・』と挨拶して、この度はなんて、よっぽど学問があるか綱渡りの口上じゃなくちゃぁ言えねぇ。『いろいろお世話になり・・・』ときたね。小さいころから知っていて、おんぶしてお守りしてやって、青っぱなを垂らしてピイピイ泣いていたのが、立派な挨拶が出来るようになった。あぁ、目出てぇなぁ、うどん屋」、「さいでござんすな」。ぶっきらぼうな受け答えが気に入らないからと、クダをまいて、炭を足させた。
 またまた「太兵衛は・・・」が始まったが、先程聞いていたので、相づちは上手かった。酔っ払いも気持ちよくなって「どこか飲みに行こう」。
 「水をくれ」というから、「へい、オシヤです」と出せば、「水に流してというのを、オシヤに流してって言うか、水掛け論をオシヤ掛け論というか、間抜けめ」とからんだ。「酔い覚めの水値が千両と決まり」、水はただだと聞いて、水ばかりガブガブ飲むから、うどん屋はタイミングを見て商売にかかると、「おれはうどんは嫌ぇだ」、「雑煮もあります」、「酒飲みに餅を勧める頓知気があるか、バカ」。 

 気を取り直して呼び声を上げたら、今度は女が呼び止めて、
「今、子供が寝たばかりだから静かにしとくれょ」。

  どうも今日はさんざんだと表通りに出ると、大店の木戸が開いて「うどんやさん」とかすれた細い声。奥にないしょで奉公人がうどんの一杯も食べて暖まろうと、いうことかとうれしくなり、押さえた小声で「へい、おいくつで」、「一つ」。ことによるとこれは斥候で、美味ければ交代で食べに来るかもしれない、「どうぞ」と出来上がったドンブリを出した。(美味そうに熱いうどんをたぐりながら食べる小さん。場内からため息が漏れる)
 客は勘定を置いて、しわがれ声で、「うどん屋さん」、小声で「へ~ぃ」、
「お前さんも風邪をひいたのかい」。

 



ことば

落語・鍋焼きうどん;小さん三代の十八番。大阪で「風邪うどん」として 演じられてきたものを、明治期に三代目小さんが東京に移植。その高弟の四代目小さん、七代目可楽を経て戦後は五代目小さんが磨きをかけ、他の追随を許しませんでした。酔っ払いのからみ方、冬の夜の凍るような 寒さの表現がポイントとされますが、五代目は余計なセリフや、七代目可楽のように炭を二度おこさせるなどの演出を省き、動作のみによって寒さを表現しました。見せ場だったうどんをすする仕草は充分時間を掛けて食べていますし、五代目小さんによって、「うどん屋」はより、見て楽しむ要素が強くなったわけです。五代目はうどんと蕎麦の食べ方の違い、冷たいものか丼物の温かいものの違いも表現が出来ました。書いてても鍋焼きうどんが食べたくなるほどです。



鍋焼きうどん;鍋焼きうどんの記録の初出とされるのは、明治維新の3年前の慶応元年(1865=元治2年)初演の芝居の台詞だそうです。江戸三座の一つとして知られた市村座で掛かった「粋菩提禅悟野晒(すいぼたいさとりののざらし)」という芝居で、大阪四天王寺山門前で夜鳴きうどんを商う男が、客に向かって「ついこの前までは大阪名物のえんどう豆を売っていたのだが、近頃流行の鍋焼きうどんにすっかり押されてしまい、それから商売替えをしました」と、芝居に取り上げられました。
当時の大阪では、屋台の夜売りの「鍋焼きうどん」がかなり流行になっていたようです。その流行が始まったのはいつ頃かとなると、はっきりしません。
「守貞謾稿」記載の温かい掛けうどん以降から元治年間(1864-1865)までの間に開発されたと思われます。人気が出たのは大阪のことで、江戸で流行った形跡はありません。東京に伝わったのは明治6、7年頃のこととされていますが定かでありません。明治になってからもしばらくの間、東京では「夜鷹そば」があちこちに屋台を出していました。又の別の説では、東京での流行の最初は、明治11年頃の深川という説もあります。
特に明治11年に西南の役が鎮圧された後に、東京の下町辺りでよく食べられるようになったようです。
 東京で夜店の鍋焼きうどん屋が現れたのは明治維新後。したがってこの噺はどうしても明治以後に設定しなければならないわけです。読売新聞の明治14年(1881)12月に、「近ごろは鍋焼饂飩が大流行で、夜鷹蕎麦とては喰ふ人が少ないので、府下中に鍋焼饂飩を売る者が863人あるが、夜鷹蕎麦を売る者はたった11人であるといふ」 (槌田満文著「明治大正風俗辞典」角川選書) とあります。「夜鷹そば」(落語「時そば」)に代わって「夜泣きうどん」という呼び名も流行しました。三代目小さんが初めてこの噺を演じたときの題は、「鍋焼うどん」でした。  

鍋を焼くわけではないのになぜ鍋焼きというか;上方言葉ではオデンの「関東だき」など、煮ることを「たく」と呼びますが、これは「炊(た)く」や「焼(た)く」とも記します。「たく:煮る。大阪(「浪花聞書」)・大阪・京都。」(東條操編「全国方言辞典」)
古来、燃やしたり焼いたりすることを「たく」と呼んでいました。
「たく【焚く・焼く・薫く】(1)燃やす。焼く。「家(いは)ろには葦火(あしぶ)たけれど(多気騰母)」(万葉集20-4419)」(「古語大辭典」小学館)
したがって江戸初期の頃の「鍋焼き」という呼称は、磁器の鍋島焼や素焼きの土鍋などを、囲炉裏などで自在鉤に吊るして直火にかけるなどして、煮炊きすることが「焼(た)き」であり「焼(や)き」とも呼んでいるものです。
「たく【焚く・炊く・焼く・炷く・薫く】(何かをするために火を燃やすことをいう) (4)火を通して食べられるようにする。煮る。かしぐ。湯などをわかす。「寝いらぬに食(めし)焼(タク)宿ぞ明けやすき」俳・曠野・7」(「国語大辞典」小学館)と言われています。

二八ソバ(にはちそば);二説あって、蕎麦粉八割、うどん粉二割で打った蕎麦。寛文(1661~1673)頃定式化したものという。二説目は、天保頃(1830-1844)、もり・かけ1杯の値が2X8=16文だったことから、安価な蕎麦。江戸後期になっても16文であった。
 寛永6年(1853)の「守貞稿」によると、蕎麦屋(店売り)の値段表から、うどん・そば16文、しっぽく(松茸・椎茸・蒲鉾・野菜などの具入り。落語では鳴門の薄切りが1枚入った物)24文、あんぺい(鶏卵の入った物)24文、なんばん(南蛮=唐辛子や葱を加えて煮た具)32文、小田巻(うどんの入った茶碗蒸し。鶏肉・三つ葉・蒲鉾・椎茸などの具を加え、卵汁をかけて蒸す)36文となっています。

 右写真:二八蕎麦屋の屋台。うどん屋も看板を変えて同じ格好だったのでしょう。深川江戸資料館

桜湯(さくらゆ);塩漬にした桜の花に熱湯を注いだ飲物。「茶を濁す」意から茶を忌む婚礼の席などで用いる。

オシヤ;江戸ナマリでオヒヤ(お冷や)。江戸っ子は”ヒ”と”シ”の区別が付かなかった。

■「今、子供が寝たばかりだから静かにしとくれょ」;うどん屋も悲しくなった。私事で、暮れの防火の夜回りで、拍子木を打って「火の用心」と裏路地まで廻っていたときのこと、ガラリと窓が開いて、同じ台詞を言われたことがあります。その上、消防署まで「うるさい」と電話が入ったのです。

斥候(せっこう);戦争の時、敵状・地形等の状況を偵察・捜索させるため、部隊から派遣する少数の兵士。



                                                            2015年1月記

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