落語「呼出電話」の舞台を行く
   

 

 二代目三遊亭円歌の噺、「呼出電話」(よびだしでんわ)より


 

 現在は電話が普及して、固定電話より個人で携帯するようになってしまいました。
 この当時は、電話を持っていると呼び出すのが当たり前の時代がありました。

 「『先程掛かってきた電話は能病院でベットが空きましたからどうぞ』でしょ。貴方入る?。その前が『村上さんを呼べ』っていうの。その前は『裏のシュウマイ屋を呼べ』っていうの。家の用で掛かってくる事は無いの。呼びに行って帰ってくると、洗濯でしょう。又呼びに行って、洗濯でしょう。その繰り返し」。
 「いつ電話が掛かってくるか分からないから、今のうちに食事にしましょう」、「電話が鳴っている。俺が出よう。もしもし、山本ですがな」、「もしもし、菅原を呼んでもらいたいのだが・・・」、「何ぃ?津田沼か」、「五円札の肖像の・・・、1円札が武内宿禰、10円札が・・・、札はどうでも良いので菅原を呼んで欲しいのだ」、「菅原道真を呼ぶのか」、「いえ、前のパン屋・・・」、「パン屋を呼ぶのか?」、「パン屋の先に魚屋があって、そこを曲がって1丁半も行くと仕立て屋の2階に居るんです。居なかったら、奥さんを呼んで欲しい」、「どうかしているんじゃないか。1丁半も行くために電話引いているんじゃない」、「自転車で行けば良いだろう」、「自転車はない」、「自転車位買ったら。月賦で買えるよ」、「自転車まで買って呼びに行く事は出来ないよ。それに菅原なんて知らないよ」、「そうは言うけど、名刺に刷ってある。下谷の4770番だろ」、「表札の脇の電話番号は外しておけ。呼べないよ」、「呼ばないんなら、夜通し電話するからな。睡眠不足になって薬でも飲め。バカ」、「生意気言うな。昼間ぐっすり寝ておくわ。バカ」、「バカ」、「バカ」。

 「私なんかしょっちゅうよ。切っちゃえば良いじゃ無い」、「切らせないんだ」、「食事にしましょう」。

 「佐藤さんのお婆さんが来たわよ」、息子の会社に電話をしたいので借りに来たが、孫の事、嫁の事などを延々と話している間に、電話の事を忘れて帰ってしまった。食事をしようと思ったら又誰か来た。
 「俺が出よう」。

 若い女性がやって来た。「私は23番地に引っ越して来ました長谷川と申します。よろしくお願いします」、「ご丁寧に。私山本です」、「お食事のところ申し訳ありません」、「食事は差し上げませんので、どうぞお使いください」。
 「もしもし、火災保険会社ですか。2階で事務を執っている近藤を呼んでいただきたいのです。
もしもし、私よ。分からない?美佐子よ。引っ越したのよ。感じが良いところなのよ。みんなじゃないのよ、四畳半だけ。チッとも寄らないわね・・・、そんな忙しい? ・・・だって電話もないじゃない。ここの山本さんはとっても親切で、朝早くても夜遅くても大丈夫よ。来てくれないの。直ぐ重役と行くと言うんだから・・・。公衆電話は次の人が待っているけど、ここなら4~50分話しても大丈夫よ。もしもしぃ、こないだ女の人と銀座を歩いていたが、あの人はだ~れ? お母さんだってッ? お母さんは赤いハンカチーフを持って歩かないわよ。あんたの妹だって違うでしょ」、「おいおいおい、電話機にぶる下がってちゃ~ダメだよ」、「スイマセン。興奮しているので。貴方がそ~言うのなら会社に行くわよ。えぇ?そんなら解消するだって、解消したって良いけれど復讐するわよ」、「水を持って来い。いい加減にしなさい」、「スイマセン。男なんてみんな・・・、くやしぃ~」。

 「電話賃も置かずに行ってしまった」、「私なんか、食事が何処に入ったか分からないわ。凄いヒステリーね。でもイイ女じゃないの。あのぐらいの事で解消問題になるかしら」、「それはそうかも知れない。よく考えてご覧、先の会社が火災保険じゃないか。あんなに焼かれる奴は考えるよ」。

 



ことば

二代目 三遊亭 円歌(- えんか);本名、田中 利助(たなか りすけ)。明治24年(1890)4月28日 - 昭和39年(1964)8月25日。出囃子は『踊り地』。新潟県生まれ。新潟県立新潟中学校卒業。当時の落語家には珍しく旧制中学卒業の高学歴で、横浜で貿易商館員として働くも、女性問題を起こしたことがきっかけで札幌に移り、京染屋を始める。花柳界相手の商売を通じて、元噺家の松廼家右喬(まつのや うきょう)と出会ったことで、落語に興味を抱き、素人演芸の集団に加わる。
 北海道に移り住み旅回りの一座に入り、勝手に「東京落語の重鎮・三遊亭柳喬」と名乗っていたが、小樽で巡業中の二代目三遊亭小圓朝に見つかり、それがきっかけとなって、大正4年(1914)4月に東京の初代三遊亭圓歌に入門、歌寿美と名乗る。大正6年(1917)、二つ目に昇進して三遊亭歌奴を名乗る。大正10年(1920)4月、真打昇進。昭和9年(1934)10月、二代目円歌(「圓」の字は画数が多く自分の芸風にあわないとして「円」の文字を使っていた、また「圓」の字では四方八方囲まれてしまうので逃げ道を作るため「円」の字を用いたともいう)を襲名。非常な努力の末、新潟訛りと吃音を克服、普段の会話では吃り癖が残っていたが、高座に上がると弁舌さわやかに切り替わる名人ぶりを見せた。ただし高座の最中、不意に吃りが出ると、扇子が痛むほど床で調子を取っていた。モダンで明るく艶っぽい芸風で、女性描写は絶品であった。艶笑小噺もよく演じた。残された音源では放送禁止用語が連発されているものの嫌らしく聞こえないなど、かなりの力量を持った噺家であった。また高座では手拭いではなくハンカチを使い、腕時計を女性のように内側に向けて着けたまま演じていた。余芸で手品の披露もした。自身稽古をつけてもらった経験のある七代目立川談志によれば、演目の仕舞いに、自ら茶々を入れながら踊りを見せたりすることもあったという。大の歌舞伎ファンでもあった。
 五代目三遊亭圓楽は六代目三遊亭圓生に入門する2年前、入門するつもりはなかったが人柄が良さそうだったからと言う理由で二代目円歌に落語家になることについて相談をしに行った。 また、二代目円歌の本名「田中利助」は、落語『花色木綿(出来心)』で表札に書かれていた名前に今なお使用されることがある。五代目古今亭志ん生とは、息子が志ん生の娘と結婚したため、一時期親戚関係にあった(ただし、円歌の死後に両者は離婚)。晩年は自家用車を買って自分で運転していたが、「ひとにぶつけてはいけない」と非常にスロー運転で、銀座で「あまりにも遅すぎる」と警察から罰金を取られたことがあるという。 昭和38年(1963)、落語協会副会長就任。その後、健康上の理由から落語協会会長を退いた志ん生の後任として円歌を推す動きがあり、本人も意欲を示していたが、志ん生が芸の力量を優先して六代目三遊亭圓生を会長に推薦したため、対立を避けるために志ん生の前任の会長であった八代目桂文楽が会長に復帰し、円歌は副会長に収まったという経緯がある。 結局は会長就任がかなわぬまま、昭和39年(1964)8月25日に死去。享年74。没後、副会長職は圓生が引継いだ(翌1965年に会長に就任)。 三代目三遊亭金馬は兄弟子。門下には三代目圓歌、三遊亭歌太郎(旧名:三遊亭歌扇)、三遊亭笑三(現:三笑亭笑三)、三代目三遊亭歌笑、立花家色奴・小奴(色奴は三代目三遊亭圓遊の妻で、小奴はその娘)がいる。
ウイキペディアより

この演目の作者;加藤専太郎とは、三代目 三遊亭金馬の本名です。二代目 円歌は、金馬が落語界に誘って、初代 圓歌の弟子にした関係から、金馬は東宝演芸場の専属で協会とは関係ない活動をしていたが、金馬と円歌は、昭和39(1964)年、同じ年に亡くなるまで、生涯仲が良かった。もちろん、円歌より三歳年下の金馬ですが、噺家としては先輩なので、金馬は生涯、円歌の兄貴分でした。この演目は、円歌の当たり演目ですが、現在では、円歌に憧れて噺家になった三笑亭笑三に受け継がれています。
 この噺「呼び出し電話」は、三代目三遊亭金馬が昭和4年頃に「取り次ぎ電話」と題して作った噺。 金馬が四谷に住んでいた頃、近所の人が電話を借りにきて迷惑をした話がモデルとなっている。金馬から円歌が譲り受けて、「呼び出し電話」と改題し、新作落語の名作を作り上げた。円歌は住んでいた下谷の家に電話がなく、玄関先に電話番号を書いた看板を提げていた家の電話を借りていたことも噺の中に拝借した。

呼び出し電話;円歌は明るさ、リズム、色気、サービス精神などが溢れる噺家であったために、「呼び出し電話」がぴったり合う十八番となり、気ぜわしく喋る女性に不思議な色気があって、女性描写はとくに絶品であった。
 戦後の復興期で景気が上向く時期であったために、電話加入予約が殺到して順番待ちで焦らされる程待たされた。 この頃の電話はダイヤルがなく、受話器を取り上げると電話交換手が出て、先方の電話番号を告げると結んでくれた方式である。
 当時、電話が普及していなかったために、電話を引くと周辺10数軒の取次ぎの面倒を見ることが常識であった。その為電話機は玄関に置いてあった。でも、挨拶もなく呼出を頼まれると迷惑千番になった。昭和34年に、ダイヤル自動式電話に切替えになった。平成14年に、全国の固定電話台数より、携帯電話の保有数が上回った。独身者は携帯電話だけで、固定電話を持っていない人が多い。 家庭の固定電話も親機・子機で自分の部屋で電話をするようになっている。このような時代に、近所の人を電話口に呼び出す電話の話をしても、若い人には理解できないかもしれない。

電話機;日本における電話機設置場所の歴史=事務所では事務連絡に使用するため事務所に設置されていた。また、商店の店先に設置され、近所の電話のない家庭への呼出電話としても利用されていた。 家庭への普及の初期には、電話回線を契約していない世帯への呼出電話としての利用も引き続き多く、玄関先に設置されているのが一般的であった。多くの家庭に普及した後には、居間に設置されるようになった。また、親子電話(着信をスイッチで切り替えて秘話機能を持つ「切替式」と、1本の回線に2台が電気的にぶら下がっており秘話機能のない「ブランチ(分身)式」がある。更にはPBXを用いた内線電話システム「ホームテレホン」も1970年代半ばに登場した)などで個室にも設置されるようになった。
  現状では、2009年末現在、全世界で60億台弱の携帯電話および固定電話が使われている。内訳は固定電話が12億6000万台、携帯電話が46億台です。
 右写真:日本電信電話公社時代から、一般家庭にレンタルされていたパルスダイヤル式黒電話機。

 しかし、時代の進歩に黒電話も凋落していきます。昭和60年(1985)、日本電信電話公社は日本電信電話株式会社(NTT) へと民営化された。また、第二電電株式会社(現KDDI)をはじめとする「新電電」の参入が可能となった。これに伴い、端末設備を1社が独占的に提供(レンタル)する従来の形態から、技術基準適合認定をクリアしているものであれば自由に端末を選べる端末自由化も同時に果たされた。電話機は電話局から貸してもらうものではなく、家電店などで買うものへと変化した。ただし、平成14年(2002)までは、601形および601-P形が生産され続けていたため、新品の黒電話(601形および601-P形のみ)の設置が可能だった。
 その後21世紀に入り、電話機はコードレスホン化が進み、また留守番電話やファクシミリと一体となった多機能電話が主流となった。さらに、電話機の主役そのものがこれら固定電話から携帯電話など移動体電話に移行した。1970年代まで日本の家庭を席巻した「黒電話」は端末設備自由化後、急速にその姿を消して行った。 1993年には、ダイヤルパルス・トーン兼用の900-P形標準電話機が提供開始された。局給電のみで動作するため、黒電話の後継として、応急復旧用資機材として備蓄され、大規模災害の際の臨時無料公衆電話として使用されるようになった。

 それでは、「黒電話の時代は完全に幕が下ろされたのか」というと、実はそうでもない。電話回線にダイヤル式の設定が可能なら、600形・601形あるいは旧式の3号や4号(写真左3号、右4号)でも現用できる。IP電話用の終端装置も、ダイヤル電話機に対応したものがほとんどであり、例えば光回線やADSLのモデム設定をパルスに設定すれば、ブロードバンド回線にも接続することができる。また着信専用としてなら、プッシュ回線であっても使用できる。 構造が単純で、受動素子のみで構成されているため、信頼性・耐久性が非常に高く、数十年間の稼動にも故障を起こすことがほとんどない。使用方法もラジオ受信機並みに単純で、使用者に複雑な知識と配慮を必要としない点は、あらゆる電話機の中で最も優れていると言える。
 また、電話線から供給される電力を利用しているため、家庭で停電が起きても電話線と電話局さえ無事なら通話が出来る。東日本大震災後の計画停電に際し、黒電話を再購入する例、あるいは眠っていた黒電話を再び使う例が報告された。 核家族化により、若い世帯では多機能電話機の購入が進んだものの、構成員が年配であまりそういった機能に興味がなく、また必要としない世帯においては、600形・601形あるいは3号・4号はなお現役にとどまり続けている。ホテルなどの施設で、今でも内線用として使われているところも多い。個人に売却された「黒電話」の数は相当数に上る。また、オークションで稼動機が安価かつ豊富に流通していることもあり、「昭和のレトロアイテム」としてファンも根付いた。

・電話機の歩み=NTTによる各時代の有名な電話機の説明がここに有ります。
http://www.ntt-east.co.jp/databook/2007/pdf/2007_S1-01.pdf 

五円札の肖像で、1円札が竹之内宿禰、10円札が・・・;

五円紙幣 95X159mm

肖像画:菅原道真
発行:明治21年(1888)12月
廃止:昭和14年(1939)3月


一円紙幣 85X145mm

肖像画:武内宿禰(すくね)
発行:明治22年(1889)5月



10円紙幣 100X169mm

肖像画:和氣清麿
発行:明治23年(1890)9月
廃止:昭和14年(1933)3月


菅原道真すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん);(承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ=かげぐち)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。

1丁半(1ちょうはん);1丁(町)=109.09m。1.5丁=163.6m。百数十メートルも呼びに行かせられたら怒りたくなるのも当然。

月賦(げっぷ);「月賦払い」の略。代金などを一時に払わず、一定額ずつ月ごとに払う方法。 現在では死語になっていて、ローンとかカードで引き落とすと、「何回払いにしますか?」と聞かれ、分割に対する罪悪感はない。また、カードでは「リボルビング払い」と言って、事前に決めた金額を月払いにするシステムもあります。

下谷の4770番(したやの-);下谷に有った電話局で、その局から交換手によって手動で電話をつないでいた。理論的には一万回線取れますが、実際にはそれより少なく、後には局にも番号が振り当てられて、自動で接続されるようになった。同じ局内にも何回線も局番が付加されて多くの回線を処理するようになった。

表札の脇の電話番号;まだ復旧が乏しく、呼出電話が常識の時、玄関の鴨居に外部から見えるように電話番号の表示が張ってありました。その番号を見て、勝手に自分の名刺に刷り込んでいたのです。それには、番号の最後に(呼)と入っていたものです。

ヒステリー;女性の持病とされていた。 
 1.かつての精神医学において、転換症状と解離症状を主とする精神障害群を指していた語。
 2.転じて、一般の人がヒステリーと言う場合、単に短気であることや、興奮・激情により感情が易変し、コントロ
   ールが出来なくなる様子のことをさすことが多い。どちらも日本国内においては、本来の意味とは無関係に
   使用される場合が多く、しばしば蔑視のニュアンスを含む。略してヒスともいい(例:ヒスを起こす)、人物に対
   して「ヒステリー持ち」などという表現がされる場合は、この様な状態にしばしば陥る人物を指すことが多い。
 3.また、人々が、社会集団に対し、社会的緊張状態のもと、通常の状態では論理的・倫理的に説明のつかな
   いような行動をとる、集団パニック状態がみられることがあり、しばしば集団ヒステリーとよばれる。

 1563年、オランダの医師ピーテル・ファン・フォーレスト(1512-97)は、昔から伝わるヒステリーなどを含めた「女性の病治療」に賛同し「産婆の手技による性器への直接の刺激」が効果的だと医学的所見を纏め「貞淑な未亡人や修道女に有効な効果がみられる」と記しており、「売春婦や既婚女性はこの施術を行うより配偶者(異性)との性行為が効果的である」との見解を述べている。
ウイキペディアより



                                                            2016年6月記

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