落語「はてなの茶碗」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「はてなの茶碗」(はてなのちゃわん)、別名「茶金」より


 

 京都の清水さんに音羽の滝といぅのがございます。さほど大きな滝ではございませんが、前に茶店がございまして、床机やなんかちょっと置いてある。 青葉の頃に滝の音を背にしながら、ちょっと一服するといぅのは、まことに結構なもんでございます。

  さて、茶店の床机に腰を下ろしてお茶を飲んでおりましたのが、年の頃なら五十ちょっと過ぎましたでしょ~か、結城の対を着ました、まことに上品な物腰のお方。お茶を飲んでおりましたが、飲み終わってその茶碗でございます、不思議そうに何をどぉ思いましたのか覗き込んだり、ひっくり返したり、陽に透かしたり、せんどひねくり回して、「はてな?」。茶代を払ろて出て行きましたんです。
 横手で同じようにお茶を飲んでおりましたのが、行灯の油を売り歩いておりました担ぎの油屋さんでございます。
 「こんなとこで何ぼ油売っててもしゃ~ない、表行って油売らんと、ボチボチ行くわ」、「まぁしっかりお稼ぎ」、「自前の茶碗が一つ欲しぃと思うねん、茶碗一つ分けてもらわれへんかいなぁと思て・・・」、「どれでもかまやせん、銭も何も要りゃせんで持って行きなされ」、「えらい済まんなぁ。ほな、これもろて行くわ」、「ちょ、ちょっと待った、そら置いといて。それやなしに、こっちのカゴの中に入った、どれでもかめへん」、「同じこっちゃがな」、「それちょっと置いといて。手を放しなさい。今そこでお茶を飲んでた人じゃが、京都の衣棚(ころもんたな)といぅ所に住んでる茶道具屋の金兵衛さん、人呼んで”茶金さん”ちゅうのはあの人のこっちゃ。京一の道具屋といぅことは、日本一の道具屋やで。あのお人が『この品は』と指一本指しただけで十両の値打(ねぐち)があるちゅうねんで。どこが気に入ったんや知らん、覗き込んだりひっくり返 したり陽に透かしたり、せんどひねくり回して『はてな?』ちゅうて置いていったんや。値打もんや分からんで。それは堪忍して、置いといて。こっちならどれでも持って行ってもろたら結構」。
 「知ってたんかいな。わいも茶金さん知ってんねん。バレたらしゃ~ない金払う。ここに小判二枚あんねん。もっとあったら出したいけど、これ身代限りや。えらい済まんけど、この茶碗二両でわいに売ってぇな」、「堪忍して。二両やそこらで・・・」、「頼むわ。あかんのん? えぇわい、要らんわい! 何じゃい、諦めた。諦める代わりに、お前にも儲けささん。この茶碗ここへ叩き付けて割ってしまう」、「待った、待った。そんな無茶したらどんならんやないか」、「う、売るか? 売らんか?」、「何をするんじゃ! 願ごて出るぞ」、「わしゃこの通り手は商売柄油だらけや『ツルッと滑った、粗相で落しました』ちゅうたら、どこへ出たかて申し開きは付くねん。さぁ、どないすんねん? 二両で売るか? 叩き付けて割ろか?」、「売る、売るがな。無茶なやっちゃなぁ、ホンマに二両やそこらで、儲かったら歩(ぶ)ぅ持ってこなあかんで」、「分かったぁる」。無茶な男があったもんで、強奪するよぉにこの茶碗を買ぉて帰ります。
 四、五日いたしますと、どこで手回しましたか古味の付いた桐の箱でございます。鬱金(ウコン)の布に包んで内包みをいたしまして、中へ茶碗を納める。更紗(さらさ)の風呂敷で上包みをいたしまして、自身も細かい縞ものを着まして、どっから見ても道具屋の手代といぅよぉな恰好で茶金さんとこへやってまいります。

 「えぇ、ご免を」、「へぇ」、「あのぉ、旦さんにちょっと見ていただきたいもんがあって持参いたしましたんで、よろしお取次ぎを」、主人は手が離せないので番頭が見るという。「ほかの人が見はったらしょ~もないもんに見えるか分からんので、決してあんたを馬鹿にして言ぅんやないが、旦さんに見てもらわんことには値打ちが分からん」、「まずは番頭の私が・・・」、「いや、笑うや分からんので。笑ろたらムカッときてゴン、決して笑わんよぉに」、「この茶碗どすか? 折角どすが、手前どもでは目が届きかねます。どぉぞよそさんへ。ハッキリ申せば、これは清水焼の安物の数茶碗、たかだか8文とか12文と言う茶碗。五百両? 千両? ホッホッホッほ」、ゴン。「痛たたたた、何をしなはる!」、「笑ろたらどつくっちゅうてるやないか。お前では分からんねん、旦さんを出せ旦さんを」。
 「店が騒がしぃが、どぉしました?」、「旦さん。あんさんに見てもらおと思て持ってまいりましたのに、この番頭が横手から要らん口出しして」、「人様のものを拝見して笑うといぅことがありますか。またあんさんも、手を掛けはらいでもよろしぃ。茶碗どすか? わたしが拝見いたしましょ。・・・これは、どこにでもある清水焼の、それもどちらかと言えば一番安手の茶碗。これのどこが五百両の千両の・・・」、「ホンマに何でも無いただの安もんの茶碗? ・・・おい、しっかりせいや。おまはんぐらいの人間になったらなぁ、誰やちゅうことを世間のもんが皆知ってるねん。誰がどこで迷惑を受けんもんでも無いんじゃ。しょ~もない茶ぁの飲みよぉさらすな!」、「しょ~もない?」、「あんたなぁ、五日ほど前や、清水さんの音羽の滝の茶店で茶ぁ飲んでたやろ。飲み終わってどこが気に入ったんか知らんけど、覗き込んだりひっくり返したり陽に透かしたり、せんどひねくり回して『はてな?』ちゅうて出て行たんやで。『この品は』と 指一本さしただけで十両の値打があるちゅうのに、こんだけひねくり回してる。こら値打もんに違いないと思うのは当たり前。二両てな金、あんたらにしたら何とも無いやろけどなぁ、京都で三年のあいだ油売って、飲まず食わずで貯めた身代限り放り出して、おまけに茶店の親父と喧嘩までして買ぉて来たんじゃ。何であんなしょ~もない茶ぁの飲みよぉさらしたんじゃ」、「この茶碗どしたか。わたし、あの時お茶をいただいとりましたらな、 ポタポタと漏りますのじゃ。傷でもあるんかいなぁと思ぉて調べてみたが傷もなければ釉薬(うわぐすり)に何の障りも無い。茶碗からポタポタとお茶が漏る。『はてな?』と言って置いてきた」、「あら~、値打もんやなしに、傷もん。漏りまんのん?」。
 勘当になって大坂から京に来て3年、なけなしの2両でこの茶碗買って、仕入の金にも困っていた。 「いわば、茶金といぅ名前を買ぉていただきましたよぉなもん。茶金、商人冥利(あきんどみょ~り)に尽きます。あんさんに損をさせては済まん、この茶碗わたしが買わしてもらいます」、「せ、千両で?」、「千両ではよぉ買わん。元値の二両、それへ一両足して三両、三両持ってどぉぞ大阪へお帰りやす」、「ある時払いの催促無しと言ぅことで、まことに厚かましぃことでお借りします。必ずお返しにあがります。大きな声出して、まことに相すまんこってした。堪忍しとくれやす。さいならごめん」。

 関白鷹司公のお屋敷へまいりましたときに 「金兵衛、近頃世情に面白き話はないか?」、「先ごろ手前どもでかよぉなことがございました」、「それは面白い、麻呂も一度その茶碗が見たい」。茶金さん、人を走らして茶碗を持ってまいります。お湯を注ぎますといぅ とやはりポタリポタリ。調べて見ても傷もなければ釉薬になんの障りもない。 「面白き茶碗である。料紙を持て」筆を取り上げになりますとサラサラッと、『清水の音羽の滝の音してや 茶碗もひびに 森の下露』。一首が添いまして茶金さんのところへ戻されてまいります。
 ついに時の帝のお耳に入ります。「一度、その茶碗が、見たい」。お天子の裾を濡らします「面白き、茶碗である」、筆をお取り上げになりますと箱の蓋に万葉仮名で「波天奈」と箱書きが座ります。えらい値打もんになって茶金さんのところへ戻されてまいります。
 大坂の金持ち鴻池善右衛門に、千両で売れました。さて茶金さん、この話を一刻も早よぉあの油屋にしてやりたいと思うのですが、油屋の方は面目無いもんですから茶金さんの家の表を通らんよぉにしております。

 やっと見つけて茶金さんの前に。縮こまっていると「千両で売れました」、「え! やることがえげつない。二両で仕入れて千両とは」。
 今までの経緯を話して聞かせた。「 わたいらが持ってたらただの安もんの、それも傷もんの茶碗だっせ。それがあんさんの手ぇに入っただけでそれだけの値打が付きまんねんなぁ。実はこの前、ムシャクシャして仕事が手に付かなんだんだ。今の話でス~ッといたしましたわ、また出なおす気で油売って、頑張ってみますわ。おっきありがと、さいならごめん」。「し、しばらく・・・、半分の五百両、これはあんさんに差し上げます。残りの五百両、この京にもその日の暮らしに困る気の毒なお方が随分あると聞きます。少しずつでも施しをして差し上げたい。また、何がしか別に残しといて、親類・縁者・友達、一人でも大勢の人に集まってもろてお祝いの大酒盛りをしたいと思います。承知ならこの五百両はどぉぞお収めを・・・」、「わぁ~、ご、五百両。辛いなぁ~、せめてここからこないだの三両引ぃてもろて、四百九十七両。番頭はん、こないだ頭ゴンといってすんまへんでした。膏薬代に十両とっといとくなはれ。いまの子ども衆っさん、よぉ見付けてくれはった、三両とっといて。この一掴み、お店の皆さんで分けとくなはれ」、「これこれ、小判をばら撒くんやないがな。お金は大事にせないかんで」、「分かっとりま。おおき、ありがとぉ、さいなら、ごめん」。油屋、喜んで帰って行った。

 さぁ、茶金さん、これで油屋も大手を振って大阪へ帰ったことやろぉ。と 思ぉております。しばらくいたしますと、表の方で「うわぁ~~ッ」といぅ歓声でございます。「何事や知らん?」と茶金さん表へ出て見ますと、大勢の人間が揃いの浴衣に鉢巻姿「ワッショイ、ワッショイ」と何やら重たそぉに担げて来る様子。先頭切って「えらやっちゃ、えらやっちゃ」言ぅてるのんはこないだの油屋で、「何をしてるんやいなあの男は、これ、油屋さん、油屋さん」、「うわぁ~ッ、茶金さん。今度は十万八千両の金儲けや。水壺の漏るやつ、見付けてきたんや」。

 



ことば

米朝の独壇場;戦後途絶えていたのを資料を基に再構成したもので、基本の筋はそのままだが、ほぼ米朝による創作とされている。一山あてようとする油屋のエネルギッシュさ、それを受け流す茶金の鷹揚さとが見事な対比を成していて、店先での両者のやり取りがこの噺の眼目でもある。とくに、鴻池、関白家、宮中、とのつながりのある茶金の存在感は大きく、「『店が騒がしい』の一言が日本第一の文化人、茶金になっている」と評されているように、品格が求められ、演じ方が難しい。また、関白や時の帝が出てくる唯一の噺で、その点でもスケールが大きい。

「はてなの茶碗」米朝考;「はてなの茶碗」のことをお話ししようと思います。東京では「茶金」と呼ばれていて、名人と言われた橘家圓喬が得意にしていたことでも知られています。私か素人だったころに、ラジオから流れてきた二代目桂三木助師匠の「茶金」を聴いたことがありました。まだ小学生やったと思うんですが、「ええ噺やなあ」とえらく印象に残ったのを覚えています。
 それが、いつしか上方では誰もやらんようになっていた。花月亭九里丸さんが「あんたがやるべき噺や」と勧めてくれたんです。で、東京の速記本を渡されました。私は桂南天さんをはじめ古老のもとを訪ねて、いろいろとこの噺について聞いて回りました。細かな演出までは誰も知らなんだと思います。五代目(笑福亭松鶴)やうちの師匠(四代目桂米團治)もやってなかったさかいね。
 「水がめの漏るやつ見つけてきた」。このサゲは昔から変わりませんが、誠によくできたサゲですな。これだけの名作ですから滅びるということはなかったと思いますが、私か手がけなんだら、上方でほかの誰かがやったということもなかったかもしれませんな。
 京一流の道具商である茶金をはじめ、富豪の鴻池善右衛門、関白鷹司公、それから「時の帝」まで出てくる噺です。南光は茶道具屋で茶金さんが出てくる場面の人物の描き方がとても難しいと言っているらしい。あの噺は演じ分けるということを考え過ぎたらとてもやれないと思います。むしろ、物語をしっかり伝えることが大事やないかな。子どもたちの前で、「こんな昔話がありますねん」という態度で喋るのが一番ええんやないかと思いますな。
 平成21年(2009年1月)談 写真:笑う桂米朝=2009年1月3日、大阪市。伊ヶ崎忍撮影

東京の「茶金」;すでに明治23年に、「波天奈廼茶碗」と第した三代目春風亭柳枝の速記があります。 明治後期には、四代目橘家円喬が京言葉を巧みに使い、大阪のやり方で正統的に格調高く演じ、「鰍澤(かじかざわ)」と並ぶ当たり芸にしました。 戦後は、若き日に円喬にあこがれた五代目古今亭志ん生が、円喬の速記から熱心に覚え、「茶金」の演題で、東京では、志ん生以外に演じ手がないほどの独壇場にしました。 これは、もともと純粋に大阪の噺で、江戸っ子の権化のような古今亭志ん生が演るのはミスマッチのような印象ですが、それを強引に押し切って、しかも、たまらなくおかしいのが志ん生の真骨頂。
 今回は米朝の実力を認めながら、江戸落語の雄、古今亭志ん生を概略にするつもりでいましたが、江戸のベランメイであり、江戸っ子独特の「ひ」と「し」が区別できなく、晩年の聞き取りにくさもあって、やはり正統派の米朝を取り上げています。

■清水寺(きよみずでら);開創は奈良時代末778(宝亀9)年。平安時代に入り坂ノ上田村麻呂が滝の清水と延鎮上人の教えに導かれて妻室とともに観音に帰依し、仏殿を寄進建立しご本尊十一面観音を安置した。798(延暦17)年寺域を広げた。右写真。
  ご本尊(秘仏)は本堂に祀られ“清水型観音”と呼ばれる42臂の最上の両手を頭上に上げ化仏をいただく清水寺独特のもの。『源氏物語』『枕草子』『今昔物語』などの他謡曲にも取り上げられる京都市の中でも観光客の多い寺院の一つ。 1994年ユネスコの世界遺産に登録された。
 江戸初期1633(寛永10)年再建。先の清水型観音=十一面千手観音を祀り「大悲閣」とも言う。正面11間(36㍍)側面9間(30㍍)高さ18㍍。寄棟造り、檜皮葺の屋根。平安時代の宮殿や貴族の邸宅の面影を伝える。

清水の舞台;京都市東山区清水1-1294。本堂南正面に懸造り・総檜張りの「舞台」を錦雲渓に張り出している。思い切って何かをすることを「清水の舞台から飛び降りるつもりで・・・」などという形容にも使われる場所。
  「清水寺成就院日記」によると、江戸時代中期の元禄7年(1694)から末期の元治元年(1864)に至る飛び降り数は、未然に引き留められたものを含めて234件。年間平均1.6件に上ります。 全体での死亡者は34人で生存率は約85%。不謹慎だが、意外と亡くならないものだな、と思った。「当時は舞台の下に木々が多く茂り、地面も軟らかな土でした。今ならこうはいきませんよ」。 
 無茶な飛び降り、実は願掛け:日本経済新聞 男女比は7:3、最年少12歳、最高齢80歳代。10〜20歳代が全体の73%となっている。 そして、飛び降りの生存率は85.4%とけっこう高い。といっても73%をしめる10〜20歳代の生存率が90%となっていて、60歳以上の飛び降りは全員死亡している。

音羽の滝(おとわのたき);東山三十六峰に連なる音羽山から下りてきた地下水が3本の筧(かけい)を伝って滝壺に落ちています。京都市の北から日本海へと連なる山並みは北山山地、丹波山地と呼ばれます。北山山地の分水嶺から北側の水は日本海へと流れ、南側の水は川となり、或いは伏流水となって京都盆地へと流れ下りてきます。この地下伏流水が東山の山並みの断層の割れ目から流れ出て、音羽山の雨水と合わさり音羽の滝となり、清らかな水は千年以上も前からとぎれることもなく流れ落ちています。清水寺の寺名の由来となった。
右写真:音羽の滝。

 

 清水焼と音羽の滝の地図(Googleマップより)。

衣棚 (ころもだな);現在の京都市上京区、京都御所の西側、室町通と新町通の間の南北に走る道路・衣棚通りに接した町。京都らしく、坊さんの袈裟や衣を商う法衣商が六十軒以上も集まっていたところ。 「棚」は同音読みの「店」が転じたもの。これすべて、千切屋という大太物問屋の一族郎党による 分店・支店で占められていたという。 噺に登場の茶道具屋も、江戸時代以後はこの付近に固まっていました。
 南に3~400m程行けば、鷹司公の屋敷が有りました。茶金さんの店から鷹司公の屋敷、帝の御所までは、ほんの隣同士です。

油の行商(あぶらのぎょうしょう);菜種油が荏胡麻油(えごまあぶら)に取って代わり、灯明油の中心を占めるようになるとともに、庶民も灯火の恩恵に浴するようになった。仏事、神事、あるいは宮廷以外の人々の生活にも明るい夜の世界が開けてきたのであり、江戸の豊かな文化を支える重要な基盤ともなった。しかし、明るいと言っても、真っ暗な室内から見ると明るいのだが、今の5W電球の何分の一位の明るさです。
 菜種油の価格はそう安価ではなく、文化年間(1804-1818)の価格で見ると、米が1升100文だったのに対して菜種油は400文と高かった。ろうそくは、まだ贅沢品であった。そのため庶民の間では臭かったが魚油を灯火用に使ったと伝えられており、江戸では外房で採れるイワシの油が使われていた。
 灯火用には蝋燭(ろうそく)も使われ、奈良時代にはすでに用いられており、蜜蝋から作った蜜蝋燭が中心だったようだ。その後松脂蝋燭が出て来て、江戸時代には、櫨蝋(はぜろう)から作る木蝋燭が各地で作られるようになり、蝋燭の利用が全国へと普及することとなる。明治時代に入ってからはパラフィンを原料にした西洋蝋燭が主流になるが灯火油に比べ高価だったので油が使われた。
 灯火以外には塗料用、化粧用などにも油が使われていた。又食用として天麩羅や揚げ物にも使われた。
 しかし、何と言っても、灯火用の油を江戸庶民は買っていた。その油は棒手振りの行商人が売り歩いていた。
 「油売り油は売れず油売る」
 「気を長く油のまけを待っている」。
右図:「油の行商人」 江戸府内絵本風俗往来 より

油を売る;搾油方法の技術革新により、行灯用の菜種油が庶民の間にも普及するに至り、享保年間(1716-1736)の頃ともなると百万都市江戸では年間一人当たり菜種油の消費量が7.2リットル(1升瓶換算で4本)程度はあったと推計されています。
 そんな中、油問屋・小売等から油を買い受けて、藍木綿の着物に渋染の胸前垂れ姿で町中の小口消費者を一軒一軒廻って振り分けて売り歩く振売商人(行商人)が各地に存在していました。
 油は曲物の塗桶に入れ天秤棒で担いで売り歩いたので、急いで歩くことも出来ず、又客に売る時は枡を使って油を量り、一旦量った油を柄杓を使って買い手の容器に移すのですが、水と違って油は垂れ落ちるのに時間を要するので、外に零さないように慎重に扱い、ゆっくりと時間をかけて垂らしている間はのんびりと客と世間話を交わすのが日常的な姿でした。そんな振売商人の一連の仕事ぶり「急ぐでもなく、ゆっくりと、のんびり客と世間話」する姿から、「油を売る」の言葉が生まれたと言われています。

参考URL:油屋.com/東京油問屋史 http://www.abura-ya.com/rekishi/rekitop.html?I2.x=125&I2.y=36

結城の対(ゆうきのつい);結城紬(ゆうきつむぎ)とは、茨城県・栃木県を主な生産の場とする絹織物。単に結城ともいう。国の重要無形文化財。近現代の技術革新による細かい縞(しま)・絣(かすり)を特色とした最高級品が主流である。元来は堅くて丈夫な織物であったが、絣の精緻化に伴い糸が細くなってきたため、現在は「軽くて柔らかい」と形容されることが多い。奈良時代から続く高級織物で結城市・小山市などで作られている。
その結城紬でこしらえられた、着物と羽織の対物。

せんど;先頃。このあいだ。せんだって。 (千度)=何回も、ひっくり返して・・・。

願ごて出る(ねごうて-);奉行所に訴える。

歩(ぶ)ぅ持って;割り前を持ってくる。歩合(ブアイ)。割合

鬱金(ウコン)の布;ウコンで黄色く染めた布。茶器を直接包む内布として使われる。
 ウコン=ショウガ科の多年草。アジア熱帯原産、沖縄でも栽培。根茎は肥大して黄色。葉は葉柄とともに長さ約1メートル。夏・秋に花穂を生じ、卵形白色の苞を多くつけ、各苞に3~4個ずつの淡黄色唇形花を開く。根茎を止血薬・香料やカレー粉・沢庵漬の黄色染料とする。

釉薬(うわぐすり);素焼スヤキの陶磁器の表面にかけて装飾と水分の吸収を防ぐために用いる一種のガラス質のもの。主成分は珪酸塩化合物。つやぐすり。ゆうやく。

関白鷹司公(かんぱく たかつかさこう);江戸時代、家禄一千石のち一千五百石。維新後、煕通(まさみち)が公爵に叙せられた。家紋は牡丹。 戦国時代、鷹司忠冬を最後に一度断絶した(1546年-79年)が、後に二条晴良の子の信房が鷹司家を再興し近代まで続く。1743年、閑院宮直仁親王の皇子である鷹司輔平が鷹司家を継承した。江戸後期から幕末にかけて鷹司家の当主が関白を務める機会が多く、特に鷹司政通は文政6年(1823)に関白に就任、天保13年(1842)には太政大臣に就任する。5年前後で関白職を辞する当時の慣例に反して安政3年(1856)に辞任するまで30年以上の長期にわたって関白の地位にあり、朝廷で大きな権力を持った。

関白=・政務に関し、天子に奏上する前に、特定の権臣があずかり、意見を申し上げること。
 ・平安時代以降、天皇を補佐して政務を執り行なった重職。令外(リヨウゲ)の官。884年(元慶8)光孝天皇の時、一切の奏文に対して、天皇の御覧に供する前に藤原基経に関白させたことに始まる。摂政からなるのを例とし、この職を兼ねるものは太政大臣の上に坐した。

鷹司公の詠=『清水の 音羽の滝の おとしてや 茶碗もひびに もりの下露(したつゆ)”』は、
 『清水の音羽の滝の音して(落として)や 茶碗もひび(日々=ヒビ)に 森(漏り)の下露』と洒落ています。

麻呂(まろ);(一人称。主として平安時代以降、上下・男女を通じて使われた) われ。わたくし。

(みかど);みかど。天子。皇帝。天皇。

万葉仮名(まんようがな);漢字を、本来の意味を離れ仮名的に用いた文字。借音・借訓・戯訓などの種類がある。6世紀頃の大刀銘・鏡銘に固有名詞表記として見え、奈良時代には国語の表記に広く用いられたが、特に万葉集に多く用いられているのでこの称がある。

鴻池善右衛門(こうのいけ ぜんえもん);鴻池家当主の通称。第3代は、名は宗利。諸大名との取引は三十数藩に及び、酒造・運送業を廃し、両替商専門となった。1707年(宝永4)今の東大阪市の北部にいわゆる鴻池新田を開発。家訓を遺す。(1667~1736)。上方一の金持ち。

十万八千両;小佐田定雄著「上方落語のネタ帳」によると、いささか半端な金額であるが、消費税が入っているわけではない。「無限大」という意味が「十万八千」と言う数字にあるそうだ。『西遊記』の孫悟空が乗っている觔斗雲(きんとうん)の速度がひと飛び十万八千里だというし、大晦日に突く除夜の鐘の百八つと言う数も関係あるかも知れない。



                                                            2016年6月記

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