落語「太閤記」の舞台を行く 初代林家三平の噺、「太閤記」(たいこうき)より
■初代林家 三平(はやしや さんぺい、本名:海老名 泰一郎(えびな やすいちろう。旧名:栄三郎(えいざぶろう))、1925年11月30日 - 1980年9月20日)は、落語家。社団法人落語協会理事。
東京市下谷区(現在の東京都台東区)根岸出身。旧制明治中学卒業、明治大学商学部入学。通称は「根岸」。出囃子は『祭囃子』。
この太閤記でも、三平は父の芸を受け継いだが、父のギャグを部分的に取り入れるも、出てきた内容はいつもと同じで小話の羅列である。「天文5年正月尾張で生まれたのが秀吉であった。これだけのことが言えるのは三平はバカではない。」から小話が延々と始まり、話が展開しない。それでも観客は爆笑していた。頭から間違った年号で噺に入るが、細かい間違いにはお客さんには分からない。また、今回は初めて訂正を入れません。
■太閤記(たいこうき);広義には太閤・豊臣秀吉の生涯を綴った伝記の総称。
絵本太功記:信長の家来、明智光秀の生涯を描いた話。文楽、歌舞伎に編纂される。絵本太功記は元ネタを「太閤記」からとっています。「絵本」というのは、挿絵があり、文章には総ルビがふってある読みやすい本をいいます。
「絵本」風にわかりやすく楽しく書き起こした「太閤記」ですよ。というようなタイトルです。
絵本太閤記(岡田玉山 画)より。 国立国会図書館蔵 武内確斎著7編84冊。寛政9~享和2年(1797~1802)刊。以下、挿絵より。
■豊臣秀吉;生年・天文6年2月(1537) ~没年・慶長3年8月18日(1598.9.18)
、安土桃山時代の武将。尾張国愛知郡中村(名古屋市)の百姓で織田信秀の足軽木下弥右衛門を父に、同郡曾根村の百姓の娘なか(天瑞院)を母として誕生。父は戦傷のため帰農、秀吉7歳のときに没し、母は秀吉と姉ひとりを抱え信秀の同朋衆竹阿弥と再婚した。幼時は面相から猿と呼ばれ日吉丸と称した。天文20年(1551)元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文(1千文)をもって家出。行商ののち、今川氏の家臣松下之綱、次いで織田信長に仕官、永禄4年(1561)夏織田家の弓衆浅野長勝養女ねね(旧姓杉原氏、木下定利次女)を娶り、木下藤吉郎秀吉と名乗った。
■日吉神社;山王権現。日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合して成立した、延暦寺の鎮守神である。また、日吉大社の祭神を指すこともある。
山王権現は、比叡山の神として、「ひよっさん(日吉さん)」とも呼ばれ、日吉大社を総本宮とする、全国の比叡社(日吉社)に祀られた。また、「日吉山王」とは、日吉大社と延暦寺とが混然としながら、比叡山を「神の山」として祀った信仰の中から生まれた呼び名とされる。
日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)が入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていた。唐から帰国した最澄は、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀った。
清洲山王宮日吉神社;愛知県清須市清洲 2272番地。尾張で生まれたといわれる豊臣秀吉公は、清須市朝日の出身である生母(大政所)が日吉神社に祈願し授けれれた神の子であり、それゆえ幼名を日吉丸といい、身のこなしが当神社の神の使いである猿に似ていたと伝えられています。
そして、秀吉公の妻ねね(北の政所)は、その母とともに日吉神社を深く崇敬し三十六歌仙の歌仙額を寄進し、さらに、神社の垣牆(えんしょう)、神宮寺の薬師堂を造営寄進しています。 天下人となった秀吉公が病を患ったおり、後陽成天皇は勅使を日吉神社に派遣し病気平癒を願われたと記録されています。
■落語界の出世頭;一番が談志さん、二番目が、この僕・三平、三番目が円鏡、四番目が柳家つばめさん。
談志:立川 談志(たてかわ だんし、本名・
松岡 克由 )は、落語家の名跡。七代目(自称五代目)の死後は空き名跡となっている。
これは明治時代の寄席で人気を博していた釜掘りの談志(四代目)が初代を称し、俥屋の談志がそれに倣って四代目と称していたようなので、小ゑんは五代目というのは語呂が良く、さらに師匠五代目柳家小さんと代数が合うので丁度いいということで、五代目を名乗ることになった。
円鏡;(昭和9年〈1934〉4月3日 - 平成27年〈2015〉10月7日)五代目月の家圓鏡(つきのや えんきょう)で売り、八代目橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう)になった。東京府東京市(現:東京都江戸川区)平井出身の落語家。本名、大山 武雄(おおやま たけお)。落語協会所属、同協会相談役。出囃子は『虎退治』。「ヨイショの圓鏡」の異名で、落語家としてもラジオスターとしても一時代を築いた。強度の近視のため、黒縁眼鏡を掛けたまま高座に上がっていたが、これは従来の寄席演芸のタブーを破るもので、トレードマークになった。
柳家つばめ;五代目柳家 つばめ(やなぎや つばめ、昭和3年(1928)4月30日 - 昭和49年(1974)9月30日)は、落語家。本名、木村 栄次郎(きむら えいじろう)。
■蜂須賀小六(はちすかころく);蜂須賀 正勝(はちすか まさかつ。
大永6年(1526年)~天正14年5月22日(1586年7月8日)
)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉(羽柴秀吉)の股肱の家臣。播磨龍野城主。徳島藩主蜂須賀家の祖。
初名は利政。通称は小六(ころく)で広く知られているが、のちに彦右衛門(ひこえもん)と改名。官位は従四位下修理大夫。
月岡芳年 『美談武者八景、矢矧の落雁』。矢矧橋における蜂須賀小六(描画上は蓮葉皃六将勝)と日吉丸(少年期の豊臣秀吉)の出会いを描いた大判浮世絵武者絵。明治元年(1868年)刊。
■今川義元(いまがわ よしもと);戦国時代の武将、駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第十一代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。海道一の弓取りの異名を持つ。
寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。
■桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい);永禄3年5月19日(1560年6月12日=梅雨の真っ最中)に尾張国桶狭間(愛知県名古屋市の東、豊明市西部)で行われた合戦。戦力、織田軍三千 -五千(奇襲を実行したのは二千)、今川軍二万五千-四万五千(諸説あり。また織田軍に直接対峙したのはこのうち五千 -六千人)。二万五千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元・今川氏真親子に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた。
戦後、東海道に君臨した今川氏が没落する一方で、勝利した織田氏は美濃・伊勢侵攻から畿内の制圧へと急成長し、戦国時代の重要な転機となった。
『尾州桶狭間合戦』 歌川豊宣画
桶狭間合戦では義元本隊の主力に駿河、遠江の有力武将が多く、これらが多数討たれたこともあり今川領国の動揺と信長の台頭は地域情勢に多大な影響を及ぼした。
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