落語「太閤記」の舞台を行く
   

 

 初代林家三平の噺、「太閤記」(たいこうき)より


 

 天文5年正月尾張で生まれたのが秀吉であった。これだけのことが言えるのは三平はバカではない。

 尾張の中村に近いところにあった日吉権現に参拝したら、腕白な男の子が産まれた。その名を”日吉丸”と言った。腕白は将来出世する。落語界では一番が談志さん、二番目が、この僕・三平、三番目が円鏡、四番目が柳家つばめさん、この方は國學院大學を出て中学の先生になった。女性徒を犯して首になった。つばめさんの親類が居たら謝ります。

 文武両道が出来ていれば出世が出来る時代。自力で這い上がった人が天下を取ることが出来た戦乱の世の中。いち・・・(カンで次の言葉が出なくなった)、原稿が破けてここは分からないところです。
 奥さん初めてお笑いになって・・・、心の中では『何言ってんのでしょうね。このバカ』なんて・・・。こちらからこちらは、笑いが少ないですよ。こちらを重点的にやります。こっちからこっちは休め。
 こんな事を言っているから『マンネリだ』とか言われ、本当の落語をやんないで司会ばかりやって・・・とか。「身体を大切にして下さい」。三平の落語は進歩が無い。いつ聞いても同じ事ばっかりやっている。哀れなる三平何処に行く。そんな所で手を叩いちゃいけません。何処に行くと言っても、行く所なんて有りません。この間、前に出て舞台から落っこちたんです、そうしたら「落伍(落語)者だ」と声が掛かった。このギャグも10年やってるんです。大変なんですから。「あッ!いらっしゃいませ。こちらの席が空いています。今、来るかとウワサしていたんです」、三平は芸が無いから愛嬌でもっている実例です。

 何処までやったか忘れてしまった。(と、言いつつ)・・・、日吉丸は腕白小僧で、寺に預けられたがそこを出て、天文13年、橋の上で寝ていると蜂須賀小六に出合った。それが出世の糸口になった。人間人生三度のチャンスが有ると言い、最初は生まれて来るとき、(ここでまた脱線)生まれるのはおしべとめしべがくっつくからで、種なし西瓜は・・・、肥料に避妊薬が入っているから。
 日吉丸が藤吉郎と名前を変えて、奉職したのが織田商会で社長が織田信長。若くて頭は良いが悋気(りんき=ヤキモチ、本来は勘気と言いたかった)が激しい人で短期(短気)大学の優等生、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」(これもカンで言えないが、笑いは来る)。
 雪の日、信長庭に出て「雪を見たい」と所望、藤吉郎が草履を出すと、ほんのり温かい。勘気の激しい信長「この草履に腰を下ろしていたな!」、「いえ、あれなる電子レンジで温めておきました」、「そうか」と言って大変喜んで、2階級特進。その後も目の付け所が良く出世。
 天文26年、演舞大会を開くにあたり、鎗(やり)の競技があり指南役は長い鎗を選んだ。藤吉郎に聞いた「男として長いのがイイか、短いのがイイか?」、「(小さい声で)長いのが・・・」、「良く分からん。そちの物をここで見せよ。何を股ぐらを覗き込んでおる。鎗の話だ」、やりっ放しというのは、ここから出たと言います。また、信長に目を掛けていただいた。

 年が変わって永禄3年織田城中に・・・、信長公が正面に座し、今川義元公、京に上る道すがら桶狭間において戦の準備。三平も芸が良くなると講談も出来るんですから(え?これ講談)。桶狭間は雨が凄かった。織田勢が三千、今川勢が二万三千。今川勢は油断して食事や酒を飲んでいた。
 「藤吉郎、木に登って敵陣の様子を見てこい」、信長の命令で猿と言われた藤吉郎は木にスルスルと登って様子を見た。「殿ッ。今川勢は今、給食の時間のようです」、「何を食べている?」、「今川焼きを食べております」、「藤吉郎だったら、何を食べる?」、「勿論、太鼓(太閤)焼で御座いまっす」。

 



ことば

初代林家 三平(はやしや さんぺい、本名:海老名 泰一郎(えびな やすいちろう。旧名:栄三郎(えいざぶろう))、1925年11月30日 - 1980年9月20日)は、落語家。社団法人落語協会理事。 東京市下谷区(現在の東京都台東区)根岸出身。旧制明治中学卒業、明治大学商学部入学。通称は「根岸」。出囃子は『祭囃子』。
 大正14年(1925)11月30日、七代目柳家小三治(後の七代目林家正蔵)(海老名竹三郎)と母・歌の長男として東京根岸に生まれる。海老名榮三郎と名づけられる。 昭和20年(1945)3月、本土決戦部隊として陸軍に徴兵される。土木作業への従事を経て肉弾特攻を命じられるが、終戦を迎えた同年10月、敗戦により兵長として復員。復員後、本名を海老名泰一郎に改名。明大明治中学校を経て、明治大学入学。 昭和21年(1946)2月、東宝専属である父正蔵に入門し東宝名人会の前座となる。父の前座名柳家三平を貰い、芸名を林家三平と名づけられる。落語家は真打になった時などの区切りの場面で改名することが通例だが、この名を生涯名乗り続けることになる(前座名のまま亡くなるまで通した落語家の代表)。現在の公式プロフィールでは、同年4月、父親の独演会で初高座。翌1947年秋、東宝名人会において二つ目に昇進。 昭和24年(1949)10月20日、父正蔵死去。同年、かつて父の弟子だった四代目月の家圓鏡(後の七代目橘家圓蔵。大山武雄・圓蔵の師匠)門下に移る。新師匠圓蔵が所属する落語協会で改めて前座からやり直す。 昭和25年(1950)4月22日、五代目柳家小さん襲名トラブルの余波で、正蔵の名跡を貸して欲しいという騒動が起きた。 昭和26年(1951)3月、二つ目昇進。 翌年、妻・香葉子と結婚。仲人は三代目三遊亭金馬(東宝の父正蔵の同僚で、香葉子と中根の育ての親)。同年、病気で1ヶ月の入院生活を送る。この頃、父正蔵から相続した土地を半分手放す。昭和29年(1954)、文化放送「浪曲学校」司会。 昭和30年(1955)、出口一雄により、KRテレビ(現:TBS)『新人落語会』(後に『今日の演芸』と番組名変更)の司会者に抜擢される。三平大ブームが巻き起こる。経済的に苦しい生活からテレビ界の寵児に一夜にして変身。以後、死ぬまで大スターであり続ける。 昭和32年(1957)10月中席、上野鈴本演芸場で、二代目三遊亭歌奴(現三代目三遊亭圓歌)と共に、二つ目身分のままでトリを取る。 昭和33年(1958)10月、真打昇進。口上は大師匠八代目桂文楽が務める。なお、この真打披露興行もKRテレビで生中継された。前座名である三平の名を一枚看板までに大きくし、初代林家三平の名を生涯貫く。

 この太閤記でも、三平は父の芸を受け継いだが、父のギャグを部分的に取り入れるも、出てきた内容はいつもと同じで小話の羅列である。「天文5年正月尾張で生まれたのが秀吉であった。これだけのことが言えるのは三平はバカではない。」から小話が延々と始まり、話が展開しない。それでも観客は爆笑していた。頭から間違った年号で噺に入るが、細かい間違いにはお客さんには分からない。また、今回は初めて訂正を入れません。

太閤記(たいこうき);広義には太閤・豊臣秀吉の生涯を綴った伝記の総称。
 武内確斎著とされ、岡田玉山画。また、儒学者小瀬甫庵によって書かれたもので、初版は寛永3年 (1626)、全20巻。各種の『太閤記』のうち最も有名なものがこれである。作者の名をとって『甫庵太閤記』(ほあん たいこうき)ともいう。江戸時代に幾度か発禁にされたが、以降も版を重ねている。 秀吉伝記の底本とされることが多いが、著者独自の史観やそれに基づく史料の解釈、改変も指摘されている。

絵本太功記:信長の家来、明智光秀の生涯を描いた話。文楽、歌舞伎に編纂される。絵本太功記は元ネタを「太閤記」からとっています。「絵本」というのは、挿絵があり、文章には総ルビがふってある読みやすい本をいいます。 「絵本」風にわかりやすく楽しく書き起こした「太閤記」ですよ。というようなタイトルです。

絵本太閤記(岡田玉山 画)より。 国立国会図書館蔵 武内確斎著7編84冊。寛政9~享和2年(1797~1802)刊。以下、挿絵より。

 
左:日吉丸誕生。                        右:藤吉郎初めて信長に謁見

 
左:藤吉郎、仲間と兵法論議                 右:秀吉閉門

 
左:信長、光秀の態度を叱り蘭丸に鉄扇で打たす     右:本能寺の変で信長死去

豊臣秀吉;生年・天文6年2月(1537) ~没年・慶長3年8月18日(1598.9.18) 、安土桃山時代の武将。尾張国愛知郡中村(名古屋市)の百姓で織田信秀の足軽木下弥右衛門を父に、同郡曾根村の百姓の娘なか(天瑞院)を母として誕生。父は戦傷のため帰農、秀吉7歳のときに没し、母は秀吉と姉ひとりを抱え信秀の同朋衆竹阿弥と再婚した。幼時は面相から猿と呼ばれ日吉丸と称した。天文20年(1551)元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文(1千文)をもって家出。行商ののち、今川氏の家臣松下之綱、次いで織田信長に仕官、永禄4年(1561)夏織田家の弓衆浅野長勝養女ねね(旧姓杉原氏、木下定利次女)を娶り、木下藤吉郎秀吉と名乗った。
 清洲城普請、墨俣築壘、次いで京都警備、江北出陣と戦功を重ね、天正元年(1573)8月浅井氏の滅亡により小谷城主と旧領18万石、羽柴姓と筑前守の受領名を給った。次いで湖辺今浜の古城址に長浜城を経営、年貢・諸役免除など繁栄に尽力した。信長の天下統一が西国におよぶと命令に従って転戦。天正10年播磨、但馬、因幡、淡路を征し、備中高松城に毛利軍と対陣中に本能寺の凶変を知った。秀吉は和睦して軍を返し、山崎に謀反人明智光秀を討って信長の統一事業を継承。織田信孝、柴田勝家、滝川一益らの同僚の反発を抑え、天正12年織田信雄、徳川家康の連合軍と小牧・長久手で戦った。長久手で家康に敗れたことは秀吉として最大の痛恨で最後まで東国と家康を意識せざるを得なくなったが、西国は大坂城を拠点として、まず同13年3月紀州根来と雑賀を征し、四国長宗我部元親を服し、九州は同14、15年北の大友と南の島津の対立に大友を後援して島津義久を降し、筑前博多の復興に尽くして凱旋した。
 博多は信長以来の堺に代わって秀吉の貿易政策の拠点、大陸侵略の基地ともなる。 天正15~6年は秀吉生涯で最高の時期であった。さきに山崎合戦(光秀討伐)に勝利したとき、従五位下左近衛権少将となり姓も信長の平を受けたが、13年内大臣に任じ右大臣菊亭晴季の計らいで前関白近衛前久の養子となり、関白二条昭実を罷めさせ関白に進んだ。関白にふさわしい邸宅として14年2月から壮大な聚楽第の建設をはじめ、また方広寺大仏の造営に着手、同年12月には太政大臣に進み豊臣の佳姓を賜った。15年には九州征討も終えて9月13日聚楽第も成り、ここに中秋の名月を賞した。10月1日には秀吉の企画、茶頭千利休の演出のもとひろく庶民を集めて北野大茶湯を催して一世を驚かせ、翌16年春には後陽成天皇に聚楽第行幸を仰いで、洛中地子銭を献上し、諸将からも誓紙を得て政権を固め、権力基盤となる検地も徹底させ大仏建立を口実に刀狩を行い兵農分離を進めた。 天正18年には小田原に北条氏直らの征討を行い関八州を家康に与えて、一応国内統一を終えて凱旋したが、前年来貢を促していた朝鮮使を聚楽第に引見、続いて翌年には朝鮮侵略を決定、文禄元年(1592)、文禄の役を開始した。
 この前後から秀吉の性急な行動に精神的異常性が加わったかにみえる。その端緒は天正17年3月聚楽第の南鉄門に関白批判の落書が現れたとき、多数の人間を処刑。19年2月には最も寵愛した利休をも自刃に追い込んでいる。同年8月秀吉は甥の養子秀次に関白職を譲って太閤と称した。文禄2年側室淀殿に実子秀頼が生まれると、同4年7月に秀次を謀反人として切腹せしめ、妻妾子女悉くを処刑。その残酷な方法はこの間に進められた朝鮮役における一般俘虜についても同様であった。文禄、続いて慶長の役(1597~98)の朝鮮侵略は失敗、晩年は伏見城において幼い秀頼の前途のみを案じた暗澹たる最期であった。
 朝日日本歴史人物事典より

日吉神社;山王権現。日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合して成立した、延暦寺の鎮守神である。また、日吉大社の祭神を指すこともある。 山王権現は、比叡山の神として、「ひよっさん(日吉さん)」とも呼ばれ、日吉大社を総本宮とする、全国の比叡社(日吉社)に祀られた。また、「日吉山王」とは、日吉大社と延暦寺とが混然としながら、比叡山を「神の山」として祀った信仰の中から生まれた呼び名とされる。 日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)が入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていた。唐から帰国した最澄は、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀った。
 現在も残る山王社の多くは、大山咋神を祭神とする神道の日枝神社や日吉神社等になっている。使い姫は猿です。
 元亀2年(1571)、織田信長の比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586)から再建されたものである。信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから、当社を特別な神社と考えたためである。

清洲山王宮日吉神社;愛知県清須市清洲 2272番地。尾張で生まれたといわれる豊臣秀吉公は、清須市朝日の出身である生母(大政所)が日吉神社に祈願し授けれれた神の子であり、それゆえ幼名を日吉丸といい、身のこなしが当神社の神の使いである猿に似ていたと伝えられています。 そして、秀吉公の妻ねね(北の政所)は、その母とともに日吉神社を深く崇敬し三十六歌仙の歌仙額を寄進し、さらに、神社の垣牆(えんしょう)、神宮寺の薬師堂を造営寄進しています。 天下人となった秀吉公が病を患ったおり、後陽成天皇は勅使を日吉神社に派遣し病気平癒を願われたと記録されています。  

落語界の出世頭;一番が談志さん、二番目が、この僕・三平、三番目が円鏡、四番目が柳家つばめさん。

談志:立川 談志(たてかわ だんし、本名・ 松岡 克由 )は、落語家の名跡。七代目(自称五代目)の死後は空き名跡となっている。 これは明治時代の寄席で人気を博していた釜掘りの談志(四代目)が初代を称し、俥屋の談志がそれに倣って四代目と称していたようなので、小ゑんは五代目というのは語呂が良く、さらに師匠五代目柳家小さんと代数が合うので丁度いいということで、五代目を名乗ることになった。
 1936年1月2日、東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区白山)に生まれる。先輩に安藤鶴夫、牧伸二がいる。同年4月、東都高等学校を中退後、16歳で五代目柳家小さんに入門。本名の「克由」の一字を取って、柳家小よしと名乗る。1954年3月、二つ目昇進し柳家小ゑんに改名。寄席のほかに日劇ミュージックホールや新宿松竹文化演芸場にも定期的に出演し、コントや漫談も披露。 1962年、入門が5年遅い古今亭朝太(後の三代目古今亭志ん朝)が「36人抜き」で小ゑんよりも先に真打に昇進し、生涯最大の屈辱を味わう。1963年4月、立川談志を襲名し、真打に昇進。同時に小さん門下から五代目柳家つばめも真打に昇進した。 喉頭癌を発病したことを『サライ』大賞授与式で告白。癌の発病箇所は声門であり、声帯摘出以外に完治の見込みはなかった。没年齢2011年11月21日(満75歳没)。

円鏡;(昭和9年〈1934〉4月3日 - 平成27年〈2015〉10月7日)五代目月の家圓鏡(つきのや えんきょう)で売り、八代目橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう)になった。東京府東京市(現:東京都江戸川区)平井出身の落語家。本名、大山 武雄(おおやま たけお)。落語協会所属、同協会相談役。出囃子は『虎退治』。「ヨイショの圓鏡」の異名で、落語家としてもラジオスターとしても一時代を築いた。強度の近視のため、黒縁眼鏡を掛けたまま高座に上がっていたが、これは従来の寄席演芸のタブーを破るもので、トレードマークになった。
 七代目(自称五代目)立川談志、五代目三遊亭圓楽、三代目古今亭志ん朝と共に「落語四天王」と呼ばれた。兄弟子の初代林家三平が「ヨシコさん」で売ったのに対抗し、愛妻の節子夫人をネタにした「ウチのセツコが」というフレーズが大いにウケた。2015年10月7日、心室細動により死去。81歳没。

柳家つばめ;五代目柳家 つばめ(やなぎや つばめ、昭和3年(1928)4月30日 - 昭和49年(1974)9月30日)は、落語家。本名、木村 栄次郎(きむら えいじろう)。
 宮城県石巻市の出身。大学卒の落語家第一号。國學院大學卒業後、神奈川県藤沢市の中学校の教師から噺家になった変り種。 字心、絵心もあって楽屋の楽屋帳もビラ文字(寄席文字)で丁寧に書いていた。高座では似顔絵を描く演出も試み、漫画家清水崑にも入門し雑誌等に絵や文章が掲載されるほどの腕前であった。高座で描いたこともあった。昭和38年(1963)3月 - 真打昇進し、五代目柳家つばめ襲名。1974年 - 肝硬変により死去。享年四十六。弟子に三代目柳家権太楼(弟子当時は柳家ほたる)達がいる。
 以上、諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社より。

蜂須賀小六(はちすかころく);蜂須賀 正勝(はちすか まさかつ。 生:大永6年(1526年)~没: 天正14年5月22日(1586年7月8日) )は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉(羽柴秀吉)の股肱の家臣。播磨龍野城主。徳島藩主蜂須賀家の祖。 初名は利政。通称は小六(ころく)で広く知られているが、のちに彦右衛門(ひこえもん)と改名。官位は従四位下修理大夫。
 講談や『太閤記』『絵本太閤記』では、蜂須賀正勝は野盗の親分とされて、これが長らく信じられていたが、単なる作り話である。 羽柴秀吉との出会いについても俗説が広く信じられている。特に浪人時代の秀吉と矢矧川の橋(矢作橋)で出会ったという逸話が有名であるが、矢矧川に橋が架かったのは江戸時代初期の元禄年間であり、天正年間には渡し船で渡河していたことが分かっており、この逸話は後世の創作であって信用できない。 一説では、秀吉は織田氏に仕える以前に正勝に仕えていたとも云われ、秀吉による推薦があって(敵側だった)正勝は信長の家臣となったという話もある。小和田哲男は、秀吉の父弥右衛門は蜂須賀正利の配下であったことがあり、秀吉はその縁で正勝に仕えたのだろうと指摘している。

月岡芳年 『美談武者八景、矢矧の落雁』。矢矧橋における蜂須賀小六(描画上は蓮葉皃六将勝)と日吉丸(少年期の豊臣秀吉)の出会いを描いた大判浮世絵武者絵。明治元年(1868年)刊。 

今川義元(いまがわ よしもと);戦国時代の武将、駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第十一代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。海道一の弓取りの異名を持つ。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい);永禄3年5月19日(1560年6月12日=梅雨の真っ最中)に尾張国桶狭間(愛知県名古屋市の東、豊明市西部)で行われた合戦。戦力、織田軍三千 -五千(奇襲を実行したのは二千)、今川軍二万五千-四万五千(諸説あり。また織田軍に直接対峙したのはこのうち五千 -六千人)。二万五千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元・今川氏真親子に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた。 戦後、東海道に君臨した今川氏が没落する一方で、勝利した織田氏は美濃・伊勢侵攻から畿内の制圧へと急成長し、戦国時代の重要な転機となった。
 13時頃、昼食を取っていた本陣に、視界を妨げるほどの豪雨が降る。『信長公記』には「石水混じり」と書かれているため、雹(ひょう)だった可能性がある。織田軍はこれに乗じて兵を進め、義元の本隊に奇襲をかけた。今川軍の総勢は2万人であったとされるが、義元を守る兵力は五千から六千人に過ぎずに、双方の戦力が拮抗した結果、大将同士が立ちあって刀槍をふるう乱戦となった。 『信長公記』によれば、義元は輿を捨て三百騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとした(ために、敵将の位置が分かった)が、度重なる攻撃で周囲の兵を失い、ついには信長の馬廻に追いつかれる。義元は服部一忠を返り討ちにしたが、毛利良勝によって組み伏せられ、討ち取られた。『改正三河後風土記』によれば、義元は首を討たれる際、毛利の左指を喰い切ったという。 総大将であり今川家の前当主である義元とそのめぼしい重臣が戦死により今川軍は戦意を喪失し、合戦は織田軍の勝利に終わった。
 この桶狭間での合戦は、およそ2時間で終わった。今川方で討ち取られた首は、およそ二千~二千五百で、織田軍は八百三十人ほどの戦死者であった。

『尾州桶狭間合戦』 歌川豊宣画 

 桶狭間合戦では義元本隊の主力に駿河、遠江の有力武将が多く、これらが多数討たれたこともあり今川領国の動揺と信長の台頭は地域情勢に多大な影響を及ぼした。
 甲相駿三国同盟の一角である今川家の当主が討ち取られたことで、北条家武田家と敵対する勢力、とりわけ越後の長尾景虎(上杉謙信)を大きく勢い付かせることとなり、太田資正や勝沼信元らが反乱を起こすなど関東諸侯の多くが謙信に与し、小田原城の戦いや第四次川中島の戦いに繋がっていった。さらに甲斐の武田氏と今川氏は関係が悪化し、永禄11年末には同盟は手切れとなり、武田氏による駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)が開始される。信長と武田氏は永禄初年頃から外交関係を持っており武田氏は同盟相手である今川氏の主敵であった信長と距離を保っていたものの永禄8年頃には信長養女が信玄世子の勝頼に嫁いでいるなど関係は良好で、以後信長と武田氏の関係は同盟関係に近いものとして、武田氏の西上作戦で関係が手切れとなるまで地域情勢に影響を及ぼした。



                                                            2016年7月記

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