落語「天王寺詣り」の舞台を行く
   

 

 六代目笑福亭松鶴の噺、「天王寺詣り」(てんのうじまいり)より


 

  お彼岸さんに入りますと、各家庭ではご先祖さんのご供養が始まります。大阪では四天王寺さんで七日のあいだ無縁の仏の供養が始まりますが、 この時期天王寺さんへお詣りする方はずいぶん多ございまして、まぁその時期のおうわさでございます。

 「こんちゃ~」、「さ、こっち入り」。
 「『ヒガン』て何だんねん?」、「天王寺さんでな、七日のあいだ無縁の仏の供養をすんねや」、「『無縁の仏』言ぃますと?」、「天王寺さんで引導鐘を撞くねや、するとこれが十万億土へ聴こえると言ぅ」、「よ~そんなアホなこと言ぅてるわ。家と天王寺さんと目と鼻の先でっせ。それ家でちょっとも聴こえしまへんが」、「そ~やないねん、ご出家はな『十万億土の道を教える』と言ぅねや」、「わてこないだな、心斎橋筋歩いてたんですわ。『八幡筋はど~行たらよろしゅございます?』と、こない聞ぃてましたがな。八幡筋が分からんちゅうのにあんた、十万億土が分かりそ~なはずがないがな」、「ご出家はな『極楽の道を教える』ちゅうねや」。「天王寺さん行て何しまんねん?」、「引導鐘を撞くねやがな。功徳(くどく)になんねやがな」、「その引導鐘っちゅうのは、誰でも撞いてくれまんのん」、「そや」、「わても撞いてやりたいもんがおまんねや」。
 「何かい、あの犬死んだんか?」、「うちらの近所に悪い子どもが居てましてなぁ、五人ほど寄って来て、棒持ってきよって頭ボォ~ン、いわしよったんだ。ほたら『クワァ~ン』ちゅうたんが、この世の別れ。無礙性(むげっしょ~)にはどつけんもんでんなぁ」、「そ~か、そら可哀相なことしたなぁ・・・。お前、泣いてるなぁ」、「天王寺さんへ行て鐘撞いてやりまひょ」、「どないしたら、撞いてくれま?」、「そら、20銭も包んで持って行ったらえぇねや」、「済んまへんなぁちょっと立て替えとくなはれ」、「貸してあげるけども・・・、こら、白紙(しらかみ)では持って行けんで。戒名を書かな。戒名なければ俗名で・・・」、「ほなまぁ『俗名クロ』」、「犬の死んだ日は?『七月の二十四日』やな。ついでに、うちの親っさんのんも書いといてもらいまひょか」、「どこぞの世界に犬のついでに親の引導鐘撞きに行くやつがあるか?ほいで戒名は?」、「霊巖貴鄭信士(れぇがんきてぇしんじ)ちぃまんねん」、「いつ死んだんや?」、「それわて忘れてしもたんだ」、「アホかお前わ。犬の死んだ日ぃ覚えてて、親の死んだ日を忘れるやつあるかい。確か月見の頃だったな」、「そうそう、八月十五日。それからねぇ、そこへ『俗名笑福亭松鶴』と書いといとくなはれ」、「笑福亭松鶴ちゅうのは?」、「落語家の笑福亭松鶴でんがな。まだ達者で働いてまんねやわ。贔屓にしてまんねやがな、ちょっと撞いといてやろ思て・・・。日は幾日にしときまひょ?」、「まだ死んでへんちゅうねん、あほやなぁ「先祖代々過去帳一切」として・・・、これを持って詣っといで」、「えらい済んまへん。ほんであの、あんたは今日は詣りまへんか?」、「わしの詣んのは中日やなぁ。今日が三日目、あしたが四日目で中日。あした詣る」、「『あした詣る』やなんて、そんなこと言ぅてて、今晩のあいだにゴロッと死んでしもたら詣られしまへんで。
 小野小町が言ぅてまんがな『人間は風前の灯火、明日をも知れぬ身の終わりかな』。一休禅師がど~言ぃなはった『今をも知れぬ身の終わりかな』。御開山(ごかいっさん)が何とおっしゃった『明日あると思う心のあだ桜、夜わに嵐の吹かぬものかわ、ただ南無阿弥陀仏』」、「そんな人の気の悪なるよ~なことば~っかり言ぅねや、も~しゃ~ないわ、こないなったら『牛に引かれて善光寺詣り』や」、「わてらは『犬に引かれて天王寺詣り』でんなぁ」、「ほっとけ、何を言ぅとんねん、表出なはれ」。

 「下寺町(したでらまち)やなぁ、『忙しぃ下寺町のお坊主持ち』といぅのはここやなぁ。早いモンや。これが逢坂(おおさか)は合邦辻(がっぽ~がつじ)やなぁ、西に見えるが新世界、高いのが通天閣や。こっちが、動物園。来なはれ、これが一心寺さん、向かいが安井の天神さんや。早いもんやなぁ、正面が天王寺は石の鳥居や。鳥居の上を見てみぃ」、「えらいとこにチリトリが上がったぁんねやなぁ」、「『チリトリ?』チリトリと言ぅやつがあるかい、あら扁額(へんがく)ちゅうねや。あの中に字が書いたぁるが読めるか」、「読めまっせ。四つと四つでシシの十六字」、「字数やないねん。『釈迦如来、転法輪処、当極楽土、東門中心』じゃ」、「誰が書いたんですか?」、「弘法の支え(ささえ)書きと言ぅなぁ。まことは小野道風の自筆やとも言ぅなぁ」、「扁額の縁が片っぽ取れてまっせ」、「いや、扁額と言ぃ以上、箕(み)をかたどったぁる『不意死したものは箕で身を救ぅてやろ~』といぅ。柱の根元を見てみなはれ、蛙が彫ったぁるやろ、上が箕ぃで下が蛙「上から下へ、箕ぃ蛙」ちゅうねん」。
 「立石と言ぅやつがあるかいな、こら『ポンポン石(せき)』と、こ~言ぅねんなぁ」、「『ポンポン石』て何だんねん」、「この石に四角い穴が開いたぁるやろ、そこへ別の石を持っていって叩くとな『ポ~ン、ポ~ン』ちゅうて、唐金のよ~な音がするねん。穴に耳を当てると、我が身寄りの者があの世で言ぅてることが聞こえるっちゅうねや」、「やってこましたろ(トントン)へぇ~ッ、これで叩きまんのん、なるほどねぇ(トントントン)へぇ、なるほど、あそ~か、はッはッはッはッ・・・、やりよったなぁ。うちのオッサンね、あの世行て閻魔はん取り込んで、手広~商売してますわ」、「そんなことが分かるか?」、「景色(けぇしょく)のえぇところが空いておます。おでんの熱々、休んでお帰り」、「そら隣りの茶店じゃアホ」。
 「これが納骨堂。布袋(ほてぇ)さんがお祀りしてあんねや。乳母(おんば)さん、乳の出ん方はここへお詣りするなぁ。こっち出といで、これが天王寺の西門(さいもん)やなぁ」、「こんなとこ車が付いてまんなぁ」、「こら『輪宝(りんぼ~)』ちゅうねや。天王寺は天竺をかたどって手洗い水がない、水といぅ字を崩して車にしてある『これを三べん回すと手を洗ろ~たも同然じゃ』ちゅうねや」、「やったろ・・・(カラ、カラッ)こ~やって回しまんのん? へぇ~ッ。よ~そんなアホなこと言ぅてまんなぁ、あんた『手を洗~たも同然や』て今さっきお尻掻いたん、臭い嗅いだらやっぱり臭そおまんがな」、「罰(ばち)が当たるで・・・。これが義経の鎧掛け松。文殊堂やなぁ、これが金堂や。この中を見てみぃ、中にあるのが淡太郎の木像や」、「何でんのん?」、「淡路屋太郎兵衛、紙屑問屋の旦那やなぁ。我一代で身代をこしらえて、我一代で潰してしもた。天王寺が天火(てんび)で焼けた時に五重塔を建立したんや」、「その五重塔ちゅうのはどこにおまんねん。目の前? 一つ、二つ、三つ、四つ・・・、四つしかおまへん」、「もひとつ上にあるやないかい」、「あぁ、あの蓋も一緒でっか」、「『蓋』ちゅうやつがあるかいな、重箱みたいに言ぅてるなぁ」。
 「こっち出といでや。これが回廊、南門、仁王さんのあんのがここや。西に見えるが紙衣(かみこ)さん。虎の門。太子堂。引導鐘やなぁ。猫の門は左甚五郎の作、大晦日の晩にはこの木彫りの猫が鳴くといぅ。用明殿。指月庵に、お太子さん十六歳のお姿や。亀井水と言ぅて亀の口から水が流れてるなぁ、経木流しに来んのがここや。西に見えるが牛さんで、前が瓢箪の池。東に見えるが東門で、内らへ入ると釘無堂に本坊に釈迦堂や。こっち回り。これが大釣鐘に、足形の石に、鏡の池に、伶人(れんじ)の舞の台やないかい」、「あんた何でもよ~知ってはりまんなぁ。『♪天王寺の蓮池に、亀が甲干す、ハゼ食べる。引導~鐘ゴンと撞きゃ、ホホラのホイッ』ちゅうのはどれです?」、「そらここの池やがな」。

 こない言ぅてますと、天王寺さんの中はたった二人しか歩いていんよ~でっけど、なかなかせやないんですなぁ。彼岸には寄進坊主が出てるやら、ぶっちゃけ商人(あきんど)が店を出してるやら、参詣人で押し合いへしあい「お焼香~~ッ・・・」、「本家ぇは竹独楽屋でござい(ウゥ~~ッ)本家ぇは竹独楽屋でござい(ウゥ~~ッ)」隣りを見ますと、「亀山のチョ~ン兵衛はん(ピョンッ、コロコロッ)亀山のチョ~ン兵衛はん(ピョンッ、コロコロッ)」。
  いろんな店がぎょ~さんに並んでおりますが、ひときわ目に付くのがこの握り寿司屋さんでございまして。「ほ~~ら、下ろしたて、うまいのん下ろしたて、ど~じゃい。ほ~~ら、握りたて、うまいのん握りたて、ど~じゃい。江戸寿司じゃいな、早や寿司じゃいな。こんなんど~じゃいな、こんなんど~じゃいな。ほ~~ら、下ろしたて、うまいのん下ろしたて。握りたて、うまいのん握りたて。江戸寿司じゃいな、早や寿司じゃいな。こんなんど~じゃいな。(へぇ~ッくしょいッ)ほ~ら握りたて」。

 「さぁ、出といで。これが引導鐘やがな」、「ほ~~ら立派なもんでんなぁ」、「今さっき渡したやつ、持っていって頼みっちゅうねや」、「あの~~ボンさん!」、「これ、大きな声で『ボンさん』ちゅうやつがあるかい『これ、ひとつよろしゅお頼い申します』とこ~言ぅねや」。
 「はいはい、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、こちらへお上がり。願我身浄如香炉(がんがしんじょにょこ~ろ)、願我心如智慧火(がんがしんにょちえか)、念念焚焼戒定香(ねんねんぼんじょかいじょ~こ~)供養十方三世仏(くよ~じっぽ~さんぜぶ)、一切経。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。今日(こんにち)引導鐘の功力(くりき)を以って、七月二十四日の精霊(しょ~れぇ)俗名クロ・・・?これは御女中ですか?」、「それね、オンでんね」、「また願わくば八月十五日の精霊、霊巖貴鄭信士。また願わくば俗名笑福亭松鶴・・・、この人、日ぃおまへんなぁ?」、「まだ達者で働いています」、「先祖代々過去帳一切の精霊。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏(ボォ~ン、オ~ン、オ~ン、ブォ~~ン)」、「お前が鐘を撞いてやろといぅ一心がクロに通じて、クロが鐘に乗り移ってるやないかい」、「どこに」、「引導鐘に・・・。あの「ブォ~~ン」ちゅうのん、クロの鳴き声によ~似たぁるがな、聴ぃてみぃ」、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏(ボォ~~~ン、ブォ~~ン)」、「ク、クロ、お前来てたんかいな。お前が来るぐらいのこと知ってたら、たとえ鰻のシャッポなと買~てきてやんのに」、「『鰻のシャッポ』ってなんだい」、「鰻の頭だ」。
 「ボンさん、引導鐘は三つやと聞ぃてまんねん。あと一つわてに撞かしとくなはれ」、「はい、撞いてあげなされ、功徳になりますで。どうぞご焼香を」、「ご焼香ってなんや」、「香をくべるんじゃ」、「火が無いよ」、「無ければ真似事を・・・。早く撞いてしまいな」、
「ひぃのふのみっつ(クワァ~ン)。あぁ、無礙性(むげっしょ~)にはどつけんもんや」。




ことば

大阪の賑わい名所;「犬の引導鐘」という別の題もある。ストーリーは単純であるが、彼岸の四天王寺境内のにぎわいをスケッチした点に特色がある。玩具を売る者、竹独楽屋、寿司屋(江戸鮨屋)、などを演じ分けなければならない。また、石の鳥居、五重塔、亀の池の紹介など名所旧跡のガイド説明の要素もあり、演者にはかなりの力量が求められる。 六代目笑福亭松鶴のお家芸で、五代目松鶴が臨終に際し息子の六代目に直接教えたネタと言われている。(実際は六代目はその場にいなかったとの説もある。)現在は松鶴一門の多くが演じている。
 クスグリも沢山あるが、中でも秀逸なのが、経木に死者の名を書く時、「次は誰やねん。」「ヘ~、俗名笑福亭松鶴」、「・・俗名笑福亭松鶴・・・おい、これだれや」、「あんた、知りまへんかいな。あの眼のギョロっとした噺家」、「ほお。あの松鶴。かわいそうにあいつ死んだか」、「いや。まだ達者でやすねん」、「これ、そら何するんじゃいな。生きてる者の名前、経木に書いてどうすんねん」、「へえ。わたい松鶴が贔屓でっさかい書いたろと思て」、「それでは松鶴が災難や。けど、書いてしもたらしゃあない」、「日ぃ、いつにしときまひょ」、「まだ生きとる」(六代目松鶴口演の場合)という、演者自身の名を使う件である。「地獄八景亡者戯」の「○○、近日来演としたぁる」と同じパターン。ここでは必ず大爆笑となる。露天商の売り声、さらに今は歌われなくなったわらべ唄「天王寺の蓮池で 亀は甲干すハゼ食べる。引導鐘ボンと突きゃ ホホラノホイ」が唄われたりするなど、貴重な民俗資料でもある。五代目、六代目松鶴のほか、五代目桂文枝、四代目桂文紅らも演じていた。大阪のローカル色豊かな演目なので東京ではあまり演じる者がいないと言うか出来ない。

天王寺さん=四天王寺;大阪市天王寺区にある和宗(初めは天台宗)の寺。山号は荒陵山。天王寺と略称。古くは荒陵(あらはか)寺・難波寺・御津(みつ)寺と称した。中門・塔・金堂・講堂が一直線に並ぶいわゆる四天王寺様式の建築で、飛鳥時代の様式を伝える。現在の建物は戦後復元されたもの。堀江寺。
 舞台になる四天王寺は、聖徳太子(厩戸皇子)ゆかりの寺院で「天王寺さん」と大阪市民に親しまれている。毎年春、秋の彼岸には多くの善男善女が、祖先の戒名を書いた経木(薄い木の札)を亀の池に流し引導鐘をついて供養するために参詣する。このときは普段静かな境内は露店が出るなど大にぎわいである。上方落語には「天王寺詣り」のほかに「弱法師(菜刀息子)」「鷺とり」「戒名書き」など四天王寺を舞台とした演目がいくつかある。
 
四天王寺境内;それぞれの写真・内容については「はなしの名どころ・天王寺区」 が詳しい。
「天王寺詣り」で四天王寺参詣 写真集 https://sinsokusaitouki.wordpress.com/2013/11/18/4ten-2/ 
また、伽藍配置は「四天王寺公式サイト」をご覧ください。

お彼岸(おひがん);春分・秋分の日を中日として、その前後7日間。俳諧では特に春の彼岸をいう。彼岸会の略。彼岸会の7日中に寺院や先祖の墓に詣ること。また、寺院から檀家に読経に行くこと。彼岸詣で。

無縁の仏(むえんのほとけ);弔う縁者のない死者。

十万億土(じゅうまんおくど);娑婆世界から阿弥陀如来の極楽浄土に至る間にある仏国土の数。極楽浄土が遠いことをいう。

引導鐘(いんどうがね);四天王寺亀の池の西南端に引導鐘堂とよばれる「北鐘堂」が建っています。正式の堂名は「黄鐘楼(おおしきろう)」といいますが、この黄鐘とは雅楽など日本音楽の基本である黄鐘調のことだとか。
 鐘の音は祇園精舎の鐘の音と同じ響きを持つとされ『摂津名所図会』には「無常院の鐘」と呼ばれたと記されています。そういうことから、北鐘堂の鐘はいつしか引導鐘と呼ばれ、回向する時にこの鐘を撞くと、その音はあの世まで響き極楽浄土にいるご先祖の心が安らぐと言われています。だから現在でもお彼岸には数あるお堂の中でもこの北鐘堂にお詣りする人が多いといわれています。
 梵鐘は天蓋の上にあって目にすることはできませんが、その大きさは総高約1.6m、口径約1.2m、重量約770kg、天蓋の中心から下りている綱を引いて天井裏の鐘を鳴らす仕組みになっています。
写真:引導鐘堂と亀池。

無礙性・無碍性(仏教用語・むげしょう、むげっしょう);障げられることのない本能。無礙性に=気持ちのおもむくまま手加減しないで。思い切り。

先祖代々過去帳一切;家系の初代以後、一家の現存者以前の代々の人々。また、家廟に祀ってある人々。祖先。さきつおや。過去帳=先祖代々を記した帳面。そこに記された全ての人々。

小野小町(おののこまち);平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。出羽郡司小野良真(篁タカムラの子)の娘ともいう。歌は柔軟艶麗。文屋康秀・僧正遍昭らとの贈答歌があり、仁明・文徳朝頃の人と知られる。絶世の美人として七小町などの伝説がある。
落語「洒落小町」、「千早振る」、「羽衣の松」で取り上げています。

一休禅師(いっきゅうぜんじ);出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤(らくいん)とする説が有力視されている。『一休和尚年譜』によると母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだという。幼名は、後世史料によると千菊丸。長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号。
 文明6年(1474)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」(いっきゅうじ=京都府京田辺市薪里ノ内102)とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。1481年、88歳で病没。一休寺で静かに眠っています。
 写真:絹本着色「一休和尚像」橋本清水画 東京国立博物館蔵。
木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされる。

御開山(ごかいっさん);宗派・寺院の開祖を敬っていう語。特に、浄土真宗の開祖親鸞(しんらん)の称。

牛に引かれて善光寺詣り;《信心のない老婆が、さらしていた布を角にかけて走っていく牛を追いかけ、ついに善光寺に至り、のち厚く信仰したという話から》思ってもいなかったことや他人の誘いによって、よいほうに導かれることのたとえ。落語「御血脈」で取り上げています。

南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ);阿弥陀仏に帰命するの意。これを唱えるのを念仏といい、それによって極楽に往生できるという。六字の名号。

下寺町(したでらまち);大阪府大阪市天王寺区の町名。松屋町筋の東側に面し、南北に細長い地域。松屋町筋と千日前通が交わる「下寺町交差点」付近を北限に、松屋町筋の東側に面する東西100m未満、南北約1.3kmの地域で、北から1丁目、2丁目となる。学園坂交差点が1丁目と2丁目の境界となる。

逢坂(おおさか)は合邦辻(がっぽ~がつじ);四天王寺西門前から西区に下る逢坂(おうさか)と、逢坂から天下茶屋(てんがちゃや)方面に向かう街道とのT字形交差点が合邦辻。また、四天王寺西門前から西区に下る逢坂(おうさか)と、逢坂から天下茶屋(てんがちゃや)方面に向かう街道との交差点。

新世界、高いのが通天閣(つうてんかく);大阪市浪速区の歓楽街。通称、新世界の中心にある塔で、エッフェル塔にならって明治45年(1912)竣工。現在のものは昭和31年(1956)再建。高さ103m。

動物園天王寺動物園。大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1−108。大阪市天王寺区の天王寺公園内にある大阪市立の動物園。大正4年(1915)1月1日に開園した、日本で3番目に長い歴史をもつ動物園(開園100周年)。面積約11ヘクタールの園内に、約200種900点の動物が飼育されている都市型総合動物園。通称・天王寺動物園。

一心寺(いっしんじ);大阪市天王寺区逢阪2丁目8-69にある浄土宗の寺であり、正式名称は坂松山高岳院一心寺。骨仏の寺としてよく知られている。天王寺公園に隣接した上町台地の崖線上に建ち、緑の多い広い境内を有している。法然上人二十五霊跡第七番札所。

安井の天神さん;大阪市天王寺区逢阪1丁目3。一心寺の北向かい、上町台地の南端になり、このあたりから北側(夕陽丘)は坂道が多い。昌泰4年(901)、菅原道真が筑紫に左遷される道中、この神社境内でしばし安居したところから名付けられたという。また、元和元年(1615)、大坂夏の陣における真田幸村戦死の地として伝えられ、その石碑が建っている。境内には桜や萩などがあり、茶店もあって見晴らしよく、遊客も多かったという。

 

写真左:安居天神参道。 右:「安居天神山花見の風景」 広重画

≪ここより四天王寺境内≫
天王寺は石の鳥居;もとは木造でありましたが1294年に現在の石造となりました。 寺に鳥居は奇異に感じますが、元来鳥居は聖地結界の四門として古来インドより建てられたもので神社に限ったものではありません。 重要文化財。写真下左。

 

扁額(へんがく);扁額の文字は「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書いてあり、これは『 おシャカさんが説法を説く所であり、ここが極楽の東門の中心である』の意です。この額は箕の形をしており<チリトリ>のように全ての願いをすくいとって漏らさない阿彌陀如来の本願を現しています。写真上右。

『釈迦如来、転法輪処、当極楽土、東門中心』;ここが釈迦如来が法輪を回した処で極楽の東門の中心である。という意味。石の鳥居に掲げる鋳銅製の額.嘉暦元(1326)年銘の本物は宝物館にある。

弘法の支え(ささえ)書き;「支える」には「表に出ないで陰で」という意味が含まれ「名を隠して書いた」という意味。

小野道風の自筆;平安時代前期、10世紀に活動した能書家であり、それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されている。後に、藤原佐理と藤原行成と合わせ、「三跡」と称されている。 道風は中務省に属する少内記という役職にあり、宮中で用いる屏風に文字を書いたり、公文書の清書をしたりするのがその職務であった。能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王羲之の再生」ともてはやされた。『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」(意訳)と言っている。没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っている。 一方で気性が激しく、「空海筆の額を批判した」などという不評も同時に伝わっており、晩年はたいへん健康を壊し、随分苦しんだという。

『智証大師諡号勅書』(部分、東京国立博物館蔵、国宝) 

ポンポン石(せき);この石に四角い穴が開いたぁるやろ、そこへ別の石を持っていって叩くとな『ポ~ン、ポ~ン』ちゅうて、唐金(からかね=青銅)のよ~な音がするんねん。穴に耳を当てると、我が身寄りの者があの世で言ぅてることが聞こえるっちゅうねや(噺より)。左右一対ある。
立石(たていし):道しるべや墓の標として立ててある石。
 右写真。ポンポン石と、左側に鳥居があってその下(根元)にカエルの彫り物が張り付いています。

納骨堂(のうこつどう);現在の納骨堂は阿弥陀堂に隣接しているが、それとは異なり石の鳥居の近くにあった。下写真上。

 
 
  

布袋(ほてぇ);乳の布袋.お乳の出がよくなるようにと絵馬を捧げる。聖徳太子の乳母を祀ったともいわれるので、お乳母さんの用例もある。上写真下。

天王寺の西門(さいもん);推古元年創建。昭和37年、松下幸之助氏の寄贈により再建された西大門は、極楽に通ずる門の意味から、通称『極楽門』とよばれている。 門の内部には番浦省吾作の釈迦如来十大弟子、武(ぶ)庫(こ)山(さん)出現の山越阿弥陀如来、観音製紙菩薩の画像が描かれています。 門柱に転宝輪があり、参詣者はこれを回転させ、直接法門に触れることにより、洗心の功徳を積むことができる。また、転宝輪とは、釈迦如来の説法が過去現在未来と無限に続くことを表しており、仏足石・菩提樹と並んで、 仏陀(悟れるもの)の象徴とされている。

輪宝(りんぼ~);天王寺は天竺をかたどって手洗い水がない、水といぅ字を崩して車にしてある『これを三べん回すと手を洗ろ~たも同然じゃ』ちゅうねや(噺から)。西門前に片桐主膳銘のある手洗舎もあった。
転宝輪:仏が教えを説かれることを表す法輪(チャクラ)を小さくしたもの。手で回すことにより「仏の法(のり)を教えて下さい」と挨拶代わりにしたのが起源。
天王寺説明板では、「転宝輪」はお釈迦様の教えが他に転じて伝わるものを、輪にたとえたもので、仏教の象徴です。右写真。

義経の鎧掛け松;西門の脇にあり、松が植わっている。

  

文殊堂やなぁ、これが金堂;聖徳太子のご本地仏である救世観音をお祀りし、四方を四天王が守護しています。毎日11時より舎利出しの法儀が厳修されます。南無仏のお舎利を以て、ご先祖のお戒名(霊名)が書かれたお経木にあてられ、又参詣者の頭にあててもらおうと多くの信者さんが参詣されます。下写真。

五重塔;聖徳太子創建の時、六道利救の悲願を込めて、塔の礎石心柱の中に仏舎利六粒と自らの髻髪(きっぱつ)六毛を納められたので、この塔を「六道利救の塔」といいます。塔の入口は南北にありますが、通常開放しているのは北側のみで、南正面に釈迦三尊の壁画と四天王の木像をお祀りしています。右写真。

回廊(かいろう);金堂、五重塔を囲む回廊。再建。回廊内部は拝観有料。

南門;仁王さんのあんのがここや(噺から)。写真下左。

 

紙衣(かみこ)さん;「紙子さん」というのは「紙子堂」、正しくは「万灯院」と言います。勿論建物は変わってますが、これは今も同じ所に建ってます。上写真右。 

虎の門;この虎の門は「お太子さん」つまり「太子堂」の門の一つで、上部に寅の彫り物が乗っている。続く「猫の門」もそうです。今は西向きに建っていますが、元々は北向きに建っていました。下写真左。

 

太子堂;聖徳太子をお祀りしているお堂(天王寺のご廟)で、正式には「聖霊院(しょうりょういん)」といいます。太子信仰の中心となっています。 前殿には十六歳像・太子二歳像・四天王が奥殿には太子四十九歳像(1月22日のみ公開の秘仏)が祀られています。毎年2月22日の「太子二歳まいり」ではお太子様の知恵にあやかるべく、2歳前後のお子たちを連れたご家族で賑わいます。  上写真右。

猫の門;左甚五郎の作、大晦日の晩にはこの木彫りの猫が鳴くといぅ。右写真

用明殿;太子殿の北。聖徳太子の父、用明天皇ら五天皇を祀る。今この位置には宝物館が建つ。

指月庵;用明殿の東。下の池(弁天堂)の南に白蓮庵として描かれている建物。明治初年に太子殿を再建した白蓮にちなむが、戦災で焼失。

亀井堂;亀井堂の霊水は金堂の地下より、湧きいずる白石玉出の水であり、 回向(供養)を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うといわれています。 東西桁行は四間あり、西側を亀井の間と読んでいます。東側は影向の間と呼ばれ、左右に馬頭観音と地蔵菩薩があります。中央には、その昔聖徳太子が井戸にお姿を映され、楊枝で自画像を描かれたという楊枝の御影が安置されています。 右写真

瓢箪の池;亀井堂の向こうには弁天堂のある「下の池」があります。蓮池の根を亀が食い尽くして現在「亀の池」。
右写真

東門;東大門。国宝だったが戦災で焼失。梁間の梅が枝の手水鉢が名物だった。西に天王寺四石の一、伊勢神宮遙拝石。下写真

釘無堂に本坊に釈迦堂;「内らにあるのが釘無堂」というてますが、これは本坊の塀の内側にあったからなんです。「釘無堂」というのは、ちょうど弁天堂の北にあった本坊の宝庫のことなんです。
本坊は四天王寺の境内の北東の角一帯が全部そうです。今はその庭には有料で入ることができます。

大釣鐘;大鐘楼は、六時堂の北西にあったんです。ここには、当時、世界最大の釣鐘があったんです。明治36年(1903)の第五回内国勧業博覧会に併せて、聖徳太子1300年の御遠忌を記念して鋳造されたもんで、高さ7.8m、直径4.8mもあったそうです。今も四天王寺さんの南参道に「釣鐘まんじゅう」を製造発売するお店がありますが、この大釣鐘を記念して作られたもんです。釣鐘は太平洋戦争の時に供出されていまいましたが、大鐘楼は「英霊堂」となって残っています。右写真

足形の石;上の池の西畔に仏足石釈迦如来石像がある。
右写真

鏡の池;「鏡の池」というのは「丸池」のこと。

伶人(れんじ)の舞の台;亀の池の上に架かっている石橋に組まれた舞台で、毎年4月22日に聖徳太子を偲んで行われる聖霊会舞楽大法要の際には、古来よりの作法にのっとり舞台上で舞楽が舞われます。下写真



≪これから境内の賑わい≫
寄進坊主(きしんぼうず);乞食坊主を上品にいった語。願人坊主。

ぶっちゃけ商人(あきんど);地面に品物を広げて商いをする人。

竹独楽屋(たけこまや);主に九州地方の郷土玩具。サイドにスリットが切られ回すとブ~ンという音を立てて回るコマ。それを売る店。
竹独楽;竹筒を芯とした竹製の独楽。四天王寺の彼岸会にはなくてはならぬ名物のひとつであったが、戦後姿を消して、復活を見ない。
大坂ことば事典 牧村史陽編 
右図:上記事典より四世長谷川貞信画 「竹独楽」。その右、広辞苑から宮崎県産雷ゴマ。

亀山のチョ~ン兵衛はん;竹細工のオモチャ。竹片に小さな人形が乗せてあり裏に竹ひごで細工を施し、手を離すと回転しながら飛び上がる。これも竹独楽と同じように戦後には絶滅して、見なくなった。
右図:浪花風俗図絵より 
落語「菜刀息子」に、この玩具のアップ図が有ります。

江戸寿司;江戸風のにぎり寿司を作って売っていた。

願我身浄如香炉(がんがしんじょにょこ~ろ);香偈(こうげ)=香を焚く際に唱える偈(げ:詩)の一部。訳:願わくは我が身(きよ)きこと香炉(こうろ)(ごと)く。

願我心如智慧火(がんがしんにょちえか);香偈(こうげ)=香を焚く際に唱える偈(げ:詩)の一部。訳:願わくは我が心智慧ちえの火の如く。

念念焚焼戒定香(ねんねんぼんじょかいじょ~こ~);香偈(こうげ)=香を焚く際に唱える偈(げ:詩)の一部。訳:念念に戒かいと定じょうの香を焚焼(ぼんじょう)して。

供養十方三世仏(くよ~じっぽ~さんぜぶ);香偈(こうげ)=香を焚く際に唱える偈(げ:詩)の一部。訳:十方三世(じっぽうさんぜ)の仏に供養したてまつる。

一切経(いっさいきょう);経蔵・律蔵・論蔵の三蔵およびその注釈書を含めた仏教聖典の総称。大蔵経。

功力(くりき);修行によって得た不思議な力。功徳の力。効験(こうけん)。

精霊(しょうれい);草木・無生物などに宿るとされる魂。肉体を離れた死者の霊魂。未開宗教では万物に存在する精霊が人の運命の吉凶をつかさどると信じ、これを崇拝した。(仏教では死者の霊を精霊といい、「しょうりょう」と読むこともある)(中経出版『世界宗教用語大事典』) 

鰻のシャッポ;シャッポ=帽子。で、鰻の頭。

焼香(しょうこう);香をたくこと。特に、仏前・霊前で香をたいて仏・死者にたむけること。


                                                            2016年7月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system