落語「大丸屋騒動」の舞台を行く
   

 

 二代目露の五郎(五郎兵衛)の噺、「大丸屋騒動」(だいまるやそうどう)より


 

 京で実際にありました話を噺に仕組んだもんやそ~でございますが、この刀といぅものが昔とただ今とではずいぶんこの感覚が違うよ~でございます。
 昔、まだ頭にちょん髷てなものを乗せておりました時代は刀は日本人の魂とか、日本の心とか申しました。で、この刀といぅモノにも二種類あるのやそ~ですなぁ。良い刀と悪い刀、価格が高いか低いかと言う事で無く、要するにこの、刀を鍛える人、こしらえる人、刀工の心がけがそのまま刀に出るのやそ~で、同じ「名刀」と言われましても「身を守る刀」と「相手を斬る刀」これは全く違うのやそ~ですなぁ。で、これがまた「守るほ~の刀」を正しぃとするか、あるいはこの「人を斬る」といぅ刀が、まぁ「妖刀」とか「悪剣」とか言われたものやそ~で、これがまぁ悪い刀といぅことにでもなるのでしょ~か。このえぇ刀の代表が「五郎正宗」。えぇほ~が『五郎』正宗。五郎です。で、この妖刀と申しますか、悪いほ~と言ぃますか「切れよ切れよ」と鍛えましたのが「村正」。この正宗と村正とは対照的なのやそ~ですな。「守れ守れ」と打ちましたのが正宗、身を守る刀でも、「切れよ切れよ」と鍛えましたのが村正。ですから村正といぅのは「抜くと血を見ねば納まらん」といぅよ~なことが言われたのやそ~ですが、この村正にまつわる噺でございます。

 伏見に大丸屋さんといぅ大~きな酒問屋さんがございまして、ここの主さんがご長男にお嫁御をおもらいになった。この花嫁が八幡(やわた) の八幡(はちまん)さまの宮司の娘でありましたところから、守り刀として輿入れのお道具の中に入ってまいりましたのが、この村正。その頃はまだ村正が妖刀であるの悪剣であるのといぅよ~な噂が立つほどの時代ではございませんから「さすがに宮司さんの娘さんだけあって立派な刀を持って来はったなぁ」、と。ここにひとり次男坊の宗三郎といぅ人がございまして、この方が「村正」を一目見るなりも~身震いが出るぐらい惚れ込んでしまいました。
 「外へ持って出ることならんのでっせ。差して歩いたりしたらあきまへんのでっせ」。いぅて、条件付きで宗三郎さんにこの村正を預けた。当初のうちは「あぁ えぇ刀やなぁ、えぇ刀やなぁ、こんなん見てると気が鎮まるなぁ」と朝夕に見ては悦に入ってたんです。

 ある時、兄の宗兵衛さんの代わりに問屋仲間の寄合いに出まして、帰りにも~お決まりの二次会でございます。祇園街へ繰り込んで芸者は来る舞妓は来る、太鼓持ち上げてワ~ッとこ~散財になりました時に、芸者で「ことき」といぅのと、ふとしたことから馴れ初めました。
 も~ポッポ・ポッポとのぼせ上がる、通い詰め。と、以心伝心、惚れられて嫌な気がするものではございません。お互いが相思相愛「ことき・宗三郎」と、人の口の端にのぼるよ~になります。そ~しますとも~ご親戚が黙ってやしません。「あんなことではどんならんやないかい。大丸屋の次男坊があれでは・・・」。あちらこちらから矢入れがあります。普通でございましたら、「あんなもん、祇園に行くことまかりならん。やめてしまいなはれッ!」と、こ~なるんですが、兄の宗兵衛さん、まことに話の分かった方でございますから「それほど思い思われたもんなら、何とかこ~段取り良~してやることはできんかいなぁ?」。「いずれ、次男坊のことやさかいに、嫁でももろ~たら一軒店を持たして暖簾分けと考えてた時だけに・・・」と、手を回して調べてみますと、このこときさん、ご浪人ではございますが武家の出といぅことで、読み書きその他もしっかりしてるといぅ。
 兄の宗兵衛さん、宗三郎さんと こときさん をお呼びになって、「これ、親戚の手前といぅものがある、そこまで思い思われたもの、何とか添わしてあげよ。じゃが、三月(みつき)だけ辛抱ができるか?三月のあいだ逢わんよ~にして、そのあいだにおときさんを祇園から引かして、一軒、家を持たして花嫁修業。一方では、おまはんのほ~は出養生とでもいぅことにして、そやな京都の木屋町あたりにでも、なんぞ家見付けたげよ。そこで まぁ、気に入った番頭一人連れて、出養生といぅことで三月ほど謹慎しなはれ。どや、三月のあいだ、辛抱ができるか?」、「へッ、も~そんなことなら兄さん、も~わて辛抱しますよって、ど~ぞひとつよろしゅ~、お頼の申します」。
 こときさんを祇園から引かしまして本名の『おとき』で祇園の近く富永町あたりに一軒家を持たし、女中を一人付けまして、住まわせました。宗三郎さんのほ~は三条上りましたところ木屋町に、鴨川を背中にいたしました路地の奥に、家を見付けまして、番頭の喜助といぅのを付けて、これは出養生といぅ形で謹慎。二人は三月といぅ約束が、も~二月(ふたつき)も過ぎて、三月目に入りました、も~後わずかといぅ時期。京都の夏は暑い、その暑い7月(新暦の8月)です。

 宗三郎さん、冷やした柳蔭と冷や奴で暑さしのぎ。川向こうには、緑濃い東山、だん王(だんの~)の法林寺さんが見える。(♪下座から三味線の京の四季)京の街を見回していると禁句の祇園街が望まれた。「祇園とか、おときとかいぅのは、も~しばらくは頭の中に無いのん。も~根っから思わへん。・・・どこぞで三味線の稽古してよんねんなぁ・・・?あれは、京の四季やな」、「三味線の京の四季いいおますな~」。
 「喜助、お前さっきんからなんやモゾモゾ腰浮かしてえらい落ち着いてへんやないか、どないしたん?」、「実はお恥ずかしながら、お手水に行きたいのんガマンしてましてん」、「体に毒やで、行といで」、「長いんです、えぇ。わたし便所行ってみなはれ、そのあいだに若旦那がヒョッとどこぞへ出て行くちゅなことになってみなはれ、わて旦さんに会わす顔がおまへんがな」、「『行かへん』ちゅうてるやないか、そんなもん、おときの『お~』も祇園の『ぎぃ』も忘れてる、っちゅうてるやろ。行かへん、お手水行っといで、どっこも行かへん」、「ホンマでっか、行ったらあきまへんで」。「行くと決めてるみたいに言われるんねやったら、行かな損や」、「今のあいだにちょっと行って、住んでる家だけ見てピュ~ッと帰ってきたら、それやったら何も怒られることないしなぁ・・・、行ってきたろ」、気が急(せ)いてるもんでっさかいに、下駄の音がカチャカチャカチャ。
 「わ、若旦那ッ!どこ行きなはる?」、「いや、どっこも行かへん」。「まだ残ってんねやろ、手水行っといで」。草履を帯に挟んで裏の川原から、腰に村正手挟んで抜け出した。三条大橋を渡ります。右へ曲がりますと祇園富永町 ”盛塩が膝を崩して夜が更ける”(♪下座:萩桔梗)。

 「(トントン)おとき、おとき居てるか?」。「今は留守です」、「おい、 おときの下駄そこにあるやん」、「よそ行きの下駄履いて・・・、なぁ、若旦那、帰っとくれやすな」、「おときを呼びちゅうねやがな」。
 「大きな声出しなはんな若旦さん、隣近所へ聞こえたらどないなはる。『三月辛抱したら添わしてやろ』とおっしゃってくれはった、お兄さんの心が無になるやおへんか」、「居てんねやっ たら始めから出てきたらどやねん」、「若旦那が来てくれはったん、おとき嬉しぃ。わて、嬉しおます、嬉しおすけども・・・、お家(いえ)上げるわけにもいかしません。ここで今、若旦さんをお家上げて、いえ、たとえ半刻(とき)でも話をして、といぅよ~なことが人さんの口からお兄さんの耳に入ったら・・・、おときの女御がすたります。いぃえ、わたしの女ごがすたるぐらいはかめしまへん。わたし一人が謝っ て済むことならそれもよろしぃ。けど若旦那、暖簾分けがどないなります・・・? なぁ若旦那、ど~ぞ辛抱してここは帰っと~くれやす。おときが可愛いと思し召したら、帰っと~くれやす」、「わし、逢いたかったで・・・」、「おときかて逢いとおました」、「帰るけども、チョッと一本だけ付けて、一本だけ。それ呑んだら帰るわ」、「お松と二人、女ぐらし。買い置きのお酒があったらおかしぃやおへんか」、「ほな、も~お酒えぇわ、お茶漬け一杯よんで」、「夏のこの時期でッせ、残せませんので二人で食べてしもうた」、「それじゃ、お茶の一杯も」、「若旦那と一緒になりたくて、お茶断ちしてまんねん」。お茶も出せない、水も出せない。若旦那は怒って「今日はこんなん持ってんねんぞ。コチャコチャ言ぅたら、斬ってしまうぜ」、「おおきに若旦那、よ~言ぅとくなはった・・・、若旦さん、あんさんに、おときが斬れますか? お兄さんに家(いえ)段取りしてもろた時から、たとえ式は挙げずとも、おときは若旦さんのもんと身も心も添~たつもりでございます。そのわたしを若旦さんがお斬りになる。世間でよ~申します『可愛けりゃこそ、一つも叩く、憎くてこの手が上げらりょか』。可愛いなりゃ~こそ腹が立つ、可愛いなりゃ~こそ斬ってしまおとおっしゃる。そこまでおときを可愛がっていただけるのなら、斬られて本望。おときは若旦さんの体でおます。さぁ、斬っと~くれやす、お斬りやす。喜んで、斬られます」、「えぇ~い。お前ちゅうやつはホンマに。エイッ!」、「ギャ~ッ!」、若旦那その気が無いのに、村正の鞘走りでおときさんは絶命。女中のお松さんも道連れになってしまった。そこに番頭の喜助がやって来たが、同じように村正の餌食になってしまった。

 元結(もっとい)が切れて髪はザンバラ。返り血を浴びて、血刀片手に表へ。三条通を東へ東へ、そ~なると憑かれたよ~に往き来の人の見境なく、「エ~イッ! エイッ!」。常軌を逸した者が血刀を下げて三条通を歩いているといぅ噂が飛びましたから、町々はパタパタパタっと大戸を閉めてしまいます。
 一方、宗三郎は三条通を東へ東へ。真葛原(まくずがはら)では二軒茶屋を中心に、盆の供養とございまして、祇園の舞妓、芸妓が総出でそれぞれ揃いの絽縮緬(ろ~ちりめん)の浴衣に絹張りのウチワ、手に手に総踊りの真っ最中。血刀下げた宗三郎が、フラ~ッ、フラ…… (♪下座:伊勢の陽田)「エイッ、ヤァ~ッ!」、「ギャ~ッ! 人殺しぃ~!」、芸妓、舞妓は蜘蛛の子を散らすがよ~に逃げてしまいます。所司代へ知らした者があったとみえまして、御用提灯、突棒(つくぼ~)、刺股(さすまた)を手に手に押し出してこよ~といぅ。御用、御用ッ! 御用、御用ッ!

 兄の宗兵衛さん、用事がありまして出て来たついでに、「どないしてるやろな」三条の家に寄ってみたが、もぬけの殻。「ひょっとしたら富永町へ?」 行ってみると死骸が三つ「宗三郎は?」。常軌を逸した者が血刀下げて東山で暴れているといぅ人の噂に、「ひょっとしたら、それは・・・」。来てみるとこの騒ぎ。「あッ、そ、宗三郎ッ!お役人さま、申し上げます」、「いかが致した?」、「あれ、あれに血刀を下げて暴れておりますのは、弟の宗三郎めにござります。わたくし伏見の大丸屋宗兵衛と申します。何卒、何卒あの弟の召し捕り方を私にお申し付けくださいますよ~に」、「見ればそのほ~、丸腰の商人(あきんど)ではないか。あの者は今までに数多(あまた)の者を手にかけておる。そなたごときに、召し捕りがかなお~や?」、「いえ、このまま人さんにご迷惑をかけるのを放っておくわけにはまいりません。何卒手前に十手取り縄をお下げ渡し願わしゅ~存じます」、「左様までに申すなら、十手取り縄を預ける。召し捕ってみぃ」。
 「宗三郎、宗三郎ッ!気を静めてくれぇ~ッ!」、「だ、誰や?これだけの人を傷つけたら、一人も二人も十人も一緒や。離せッ!離さなんだら、突くぞッ!おのれぇ~ッ!」、「御同役、御覧(ごろ~)じたか?あれなる者、兄と申しておったが・・・、 あの者が、今まで人を殺めたり傷つけた、あの手刀を以って突けども傷つかず、斬れども血潮ひとつ流れぬは、何か術を使っておるのか。いかがしたものでござろ~な?」、「これッ、そのほ~兄と申したな。今その者があまた殺傷致した刀を以って、そのほ~を突けども斬れども血潮ひとつ流れぬが、ど~したことじゃ?」、「へぇ、この者は弟の宗三郎。私は・・・、斬っても斬れん、伏見(不死身)の兄でございます」。

 

1時間近くの長編です。師匠もだらける事無く、グイグイとお客を引き込んでいきます。しかしこの概略を書いている私も大変ですが、これを読まれる方はもっと大変でしょう。ご苦労様です。

 



ことば

落語「村正」;この噺「大丸屋騒動」は舞台を見ても良く出来た上方の噺です。この噺を江戸に移植して「村正」と言う題に直して演じられています。
 当然内容的には同じなのですが、舞台を吉原に移して、後半を妖刀村正の出番になります。

 『大店の次男坊は吉原で遊びほうけていますので親類縁者が集まって、勘当という話になりますが、長男が出来た方ですから、今回はこの長男に一任することになりました。長男は吉原に行って、今後弟を遊ばないようにお願いして、大金を置いてきます。それを知らない次男坊はいつもの見世に上がりましたが、見世の者も花魁も芸者幇間も白々しく扱い怒って帰ってきます。自室にこもっていると床の間に村正が飾ってあります。その村正を持ち出して、先程の吉原に・・・。
 同じように今まで遊んでいた連中は他人行儀。花魁を呼んでも同じ事。冗談に花魁の肩を鞘ごと叩くと、鞘が割れてざっくりと切ってしまいます。「血まで流して冗談はよせ」。息絶えてしまいます。近くの者にも刃が向かって、次々と死人の数が増えていきます。見世から連絡があって、兄が急いで出向き、奉行の許しを得て弟を取り押さえます。「これッ、そのほ~兄と申したな。今その者があまた殺傷致した刀を以って、そのほ~を突けども斬れども血潮ひとつ流れぬが、ど~したことじゃ?」、「へぇ、この者は弟。私は・・・、斬っても斬れん、兄でございます」。』

 如何ですか、随分と噺が短略されて、上方噺の厚味と深さは伝わってきません。演じた時間も半分ですから仕方が無いのでしょうが・・・。上記の概略は金原亭馬生から取りました。

村正(むらまさ);伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工の名。または、その作になる日本刀の名。同銘で数代あるとみられる。別称は「千子村正」(せんじむらまさ、せんごむらまさ)。 村正は、濃州赤坂左兵衛兼村の子で、赤坂千手院鍛冶の出と伝えられている。しかしながら活動拠点は伊勢であり、定かではない。他国の刀工と同様に、室町末期に流行した美濃伝を取り入れ本国美濃の刀工の作と見える刃を焼いた作もあり、技術的な交流(坂倉関の正吉・正利・正善など・「正」の字が村正に酷似する)をうかがわせる。しかし美濃だけではなく、隣国の大和伝と美濃伝、相州伝を組み合わせた、実用本位の数打ちの「脇物」刀工集団と見られている。その行動範囲は伊勢から東海道に及ぶ。 「村正」の銘は、桑名の地で代々受け継がれ、江戸時代初期まで続いた。同銘で少なくとも三代まで存在するというのが定説である。村正以外にも、藤村、村重等、「村」を名乗る刀工、正真、正重等、「正」を名乗る刀工が千子村正派に存在する。江戸時代においては「千子正重」がその「門跡」を幕末まで残している。 なお、四代目以降、「千子」と改称したと言われているが、これは徳川家が忌避する「村正」の帯刀を大名や旗本が避けるようになったことが原因と考えられている。

村正と徳川家の因縁;徳川家康の祖父清康は家臣の謀反によって殺害されており、凶器は村正の作刀であった。また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際、切腹に使った脇差も「千子村正」であったという。このことを聞いた家康は幼少の頃に村正で手を切ったこともあり、「いかにして此作(こさく)の当家にさはる事かな」と村正をすべて捨てるように命じた。さらに関ヶ原の戦いの折、東軍の武将織田長益(有楽斎)が、その子織田長孝とともに戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。家康がその槍を見ている時に取り落とし、指を切った。家康は「この槍は尋常の槍ではない。作は村正であるか」と聞き、有楽も村正であると答えた。退出した有楽は、近習から徳川家と村正の因縁を聞き、「内府(家康)の御味方である自分が村正を使うべきではない」と槍を微塵に砕いたという。これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は廃棄され、公にも忌避されるようになった。民間に残った村正は隠され、時には銘をすりつぶして隠滅した。 また父広忠が岩松八弥によって殺害された際に使われた刀、家康夫人である築山殿を小藪村で野中重政が殺害して斬った刀も村正、元和元年五月七日、真田幸村が大坂夏の陣で家康の本陣を急襲した時家康に投げつけたと云われる刀も村正という伝承がある。

徳川家康と村正伝説の真偽;尾張徳川家は家康の形見として村正を伝承し、現在では徳川美術館に所蔵されている。末古刀に良く見られる皆焼の出来である。このことから、徳川美術館は徳川家康が村正を嫌ったのは「後世の創作」であると断言している。 村正は徳川領の三河に近い伊勢の刀工であり、三河を始めとする東海地方には村正一派の数が多く、村正一派の刀剣を所持する者は徳川家臣団にも多かった。三河に移った村正一派を「三河文珠派」と呼ぶ。たとえば徳川四天王の一人、本多忠勝の所持する槍「蜻蛉切」には、村正の一派である藤原正真の銘が残っている。また、四天王筆頭であった酒井忠次の愛刀(号 猪切)も藤原正真の作である。 なお、広忠の死因は多くの史料では病死とされており、また武徳大成記、徳川実紀などの編纂物でも死因を殺害とはしていない。謀叛による暗殺説は岡崎領主古記等の一部の説である。また三河物語は信康の切腹時に使われた刀については言及していない。 海音寺潮五郎は、吉川英治が『宮本武蔵』を連載しているときに散歩のついでに吉川邸に立ち寄り、先客であった岩崎航介という東大卒の鋼鉄の研究家から「妖刀伝説は嘘。昔は交通の便も悪いので近在の刀鍛冶から買い求める。三河からすぐ近くの桑名で刀を打っていた村正から買うのは自然だし、ましてよく切れる刀ならなおさら。今の小説家は九州の武士に美濃鍛冶のものを差させたり、甲州の武士に波ノ平を差させたりしているが、そういうことは絶無ではないにせよ、まれであった」と説かれている。もらった名刺を見ると住所は逗子であった。その日から数日経つと、『宮本武蔵』本編に「厨子野耕介」という刀の研ぎ師が登場したというおまけ話がある。 村正が「徳川家にとっての」妖刀といわれた理由は定かではない。一節として家康は村正のコレクターであり、没後、形見分けとして一族の主だった者に村正が渡された。これが徳川一門のステータスとなり、他家の者は恐れ多いとして村正の所有を遠慮するようになったが、後代になると遠慮の理由が曖昧となり、次第に「忌避」に変じていったというものがある。しかし家康の遺産相続の台帳である「駿府御分物帳」に村正の作は二振しか記されていない。

妖刀伝説の流布;新井白石は「村正は不吉の例少なからず」と記述している。 寛政9年 (1797) に初演された初代並木五瓶作の歌舞伎『青楼詞合鏡』(さとことば あわせ かがみ)で村正は「妖刀」として扱われており、この頃にはすでに妖刀伝説が巷間に普及していたことが窺える。万延元年 (1860) には「妖刀村正」に物語の重要な役どころを負わせた二代目河竹新七(黙阿弥)作の『八幡祭小望月賑』(縮屋新助=落語「名月八幡祭り」)が初演され、大評判を博した。明治21年(1888)には、三代目河竹新七によって『籠釣瓶花街酔醒』が作られたが、これにも作中に村正が登場する。三田村鳶魚は、この作品の元となった吉原百人斬り事件を考証し、宝暦年間に馬場文耕が著した『近世江都著聞集』に、このときの刀は国光作であったとしている。文政6年(1823)に起きた千代田の刃傷で用いられた脇差も村正という説と村正ではないという説がある。幕末から維新の頃にかけて書かれた『名将言行録』には、「真田信繁(俗に幸村)は家康を滅ぼすことを念願としており、常に徳川家に仇なす村正を持っていた」という記述があり、さらにそれを家康の孫である徳川光圀が「こうして常に主家のため心を尽くす彼こそがまことの忠臣である」と賞賛したという逸話が併記されている。
 一方幕府の記録でも妖刀伝説は史実として扱われ、公式の歴史書『徳川実紀』東照宮御實紀付録巻一でも「柏崎物語」からの引用という形で徳川家との因縁が記されている。嘉永年間、林復斎らが幕命により編纂した『通航一覧』巻一三九には、長崎奉行の竹中重義が平野屋三郎右衛門の訴出によって取り調べられ、私曲のかどで切腹となったことが記述されている。重義の死後、屋敷を調査したところ、おびただしい金銀財宝が見つかっただけでなく、「御当家三代有不吉例」であり、幕府が陪臣に至るまで厳しく所持を禁じていた村正の脇差を24所蔵していたことが発覚した。通航一覧の記述では、重義は現在人気がない村正の刀が、徳川の世ではなくなれば高く売れるであろうと考えたために村正を多数保持しており、この脇差がなければ遠島であっただろうが、悪が深いことにより切腹となったとしている。また先述の尾張家伝来の村正は健全な皆焼刃の作であるにも関わらず、「疵物で潰し物となるべき」と尾張家の刀剣保存記録(享和年間)には残されている。佐野美術館館長渡邉妙子は、「家康の死後に広がった村正の妖刀伝説をはばかって記したのではないか」と推測している。村正が徳川将軍家に仇なす妖刀であるという伝説は、幕末の頃には完全に定着していたことがわかる。 このため徳川家と対立する立場の者には逆に縁起物の刀として珍重された。早くも慶安4年 (1651) には、幕府転覆計画が露見して処刑された由井正雪がこの村正を所持していたことが知られているが、幕末になると西郷隆盛を始め倒幕派の志士の多くが競って村正を求めたという。また有栖川宮熾仁親王も本来親王がもつ格ではない村正を所持していた。そのため、以後市場には多数の村正のニセ物が出回ることになった。

写真上:国宝「相州正宗」(名物 観世正宗) 東京国立博物館所蔵。 号は能楽の観世家から家康に献じられ、明治に徳川慶喜から有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王に献上された。
写真下:村正作の刀。銘は「勢州桑名住村正」。東京国立博物館所蔵。 国宝指定されている刀剣一覧の中に、村正は一振りもありません。それは見てくれが悪いから。村正の刃には大きな波紋が波打ち、刃の両面の波紋が揃っていることが大きな特徴ですが、華やかで美しい正宗に対すると地味な印象は拭えません。見た目よりも実用性(人を斬る事)を追求したからかもしれません。つまるところ、村正の美しさは、千利休が言う所の”用の美”なのでしょうか。

余談;村正作の一振と正宗作の一振を川に突き立ててみたところ、上流から流れてきた葉っぱが、まるで吸い込まれるかの如く村正に近づき、刃に触れた瞬間真っ二つに切れた。一方正宗には、どんなに葉っぱが流れてきても決して近寄ることはなかったという。刀匠の年代が全く違うものの、この二振の違いを表す有名な逸話である。

戦前、東北大学の物理学教授で金属工学の第一人者として知られていた本多光太郎が、試料を引き切る時の摩擦から刃物の切味を数値化する測定器を造ってみたところ、 皆が面白がって古今の名刀を研究室に持ち込んだ。測定器の性能は概ね期待した通りだったが、なぜか村正だけが測定するたびに数値が揺れて一定しなかった。妖刀の不可思議な側面にあらためて感心した本多は、一言「これが本当の『ムラ』正だ」と論評。「あの先生が冗談を言った」としばらく研究室で話題になったという。科学雑誌『ニュートン』に掲載された逸話の一つである。

尾張徳川家の家宝を多く収蔵する徳川美術館では、徳川家が村正を嫌ったというのは「後世の創作」であるとしており、実際に尾張徳川家に家康の形見として伝来した村正を所蔵している。 

この噺の元は実話であったと言われる。
 この噺のモデルとなった事件の資料として、当時の官憲の報告書のコピーが「安永三甲午七月三日夜、京都烏丸通上る町大文字屋彦右衛門疳症にて人を多く怪我させし趣御公議へ書上の写」として西沢文庫「讃仏乗」二編中の巻におさめられている。
 あらましは、安永3年(1773)7月3日の夜、烏丸通りの材木商大文字屋の息子彦右衛門(25歳)が、新河原町の家で養生中に心神喪失状態となり手代を殺害、四条通に出て烏丸通りから丸太町の間にかけて「往来の人を切殺し又は手疵負せ右道筋につなぎ置き候馬迄三疋(びき)に瑕附候」、死者三名、重軽傷者二十一名という大惨事であった。凶器は「脇差、銘粟田口近江守忠納 長二尺三寸」で、その後、彦右衛門は帰宅後死亡したとある。

その後、事件は講釈、歌舞伎などに取り上げられ、落語にもなった。

伏見(ふしみ);京都市の南部に位置するまち・伏見区は遠く奈良時代から街道が整備され、水運も発達した要衝の地として栄えてきました。古代、深草あたりは深草遺跡で知られるように農耕が営まれて、この地は京都盆地を開発した渡来人・秦氏の拠点でもありました。平安時代には、鳥羽上皇の「鳥羽離宮」や橘俊綱の「伏見山荘」に代表される貴族の別荘の地、景勝の地として伏見の名は知られていきました。醍醐寺の五重塔や日野法界寺の阿弥陀堂は平安時代の優雅な文化の面影を伝えている京都市内唯一の文化財です。
 伏見はその昔「伏水」とも書かれ、伏見七ツ井と呼ばれた井戸があったことからも豊かな地下水に恵まれた所です。伏見の水は中硬度のミネラル水で、カルシウム・リンなどが適度に含まれ酒の低温仕込みに適しています。口当たりの良いまろやかな伏見酒はこの良質の地下水によって育まれます。酒どころとして全国にその名を馳せている伏見には、代表的な大きな蔵は、黄桜月桂冠、松竹梅、等々33社があり、おいしい伏見酒がつくられています。 伏見の酒を女酒と言い、灘の酒は腰がしっかりとしているので男酒と言って対比しています。

柳蔭(やなぎかげ);焼酎と味醂を醸造過程でミックスするのが本醸造柳蔭。または、味醂、焼酎をブレンドした夏用の冷酒。本直し。井戸で冷やされ、上方でよく飲まれた。
  
京都所司代(きょとしょしだい);江戸幕府の職名。京都に駐在し京都の警備、朝廷・公家の監察、京都・伏見・奈良の町奉行の管理、近畿全域の訴訟の裁決、西国大名の監察などにあたった。

下写真:当時の十手(左)。と、御用提灯(右) 明治大学博物館蔵

 

突棒(つくぼう);主に江戸時代、罪人を捕らえるときに用いた捕り物道具のひとつ。鉄釘を並べたT字形の金具に2~3mの柄を付けたもの。
下左写真:三つ道具(突棒・袖がらみ・刺股)から突棒(中央のT字形の棒) 明治大学博物館蔵

 

刺股・指叉(さすまた);江戸時代の捕り物道具のひとつ。の鉄金具に2~3mの柄をつけたもの。金具で相手の喉・腕などを塀や地面に押しつけて捕らえる。
上右写真:中央U字形の捕り物道具。金具からトゲが出ているのは押さえられた犯人が、そこを持って反撃出来ないように針が付いています。刺股の上に六尺棒が写っています。明治大学博物館蔵

二軒茶屋(にけんじゃや);八坂神社の南門前あたり、二軒の茶屋があったことから呼ばれる。「京の四季」で歌われる「ニ本ざしでもやわらこう、祇園豆腐の二軒茶屋」がそれ。

■師匠五郎兵衛の川柳句集に「盛り塩がひざをくずして夜がふける」の一句があります。大阪の今里新地で育った私(露の新治)はかろうじて「盛り塩がくずれる」のを見ています。私が子供の頃、お茶屋、見番の前には必ず盛り塩がありました。昔のお塩は精製せずニガリが入っていたので、空気中の水分を吸って次第にとけてゆくのです(今のお塩では、いつまでたってもとけません)。それで最初は尖っていた盛り塩の先が丸くなり、やがてどろっとくずれるのです。夕方に盛った塩が夜更けになるとくずれています。この形を「ひざをくずして」と表した師匠に感動します。芸者さんが、ひざをくずして横座りになっている姿が浮かびます。色街の夜更けのなまめかしさ、艶やかさが見事に出ています。師匠は大丸屋騒動にこの自作の句を使っています。主人公、宗三郎が祇園へ足を踏み入れる時の「はめもののきっかけ」です。本来なら「色街はいつに変わらぬ陽気なこと・・・」でしょう。師匠はこの句を口にすると、実に粹に扇子を開きました。その時の表情は祇園で遊んだ時の楽しさ、喜びにあふれていて、まさに宗三郎になるのです。
露の新治のホームページより

三月(みつき)だけ辛抱ができるか;細かい事は言いませんが、三月と言っていたのが途中から1年となっています。なんで1年になってしまったのか分かりませんので、噺の大筋で最後まで三月としておきました。

京都の街並み;私は東京人ですから噺の中に京都の街中を説明するところが多々あります。その説明に地図を描きます。Google地図をベースにしています。この地図の南側に京都駅が有ります。

祇園街(ぎおんまち);祇園社(明治以降は八坂神社)門前町であったのでこの名が付けられた町は、鴨川から東大路通・八坂神社までの四条通の南北に発展した。京都有数の花街(舞妓がいることでも有名)であり、地区内には南座(歌舞伎劇場)、祇園甲部歌舞練場、祇園会館などがある。現在は茶屋、料亭のほかにバーも多く、昔のおもかげは薄らいだが、格子戸の続く家並みには往時の風雅と格調がしのばれる。
 北部の新橋通から白川沿いの地区は国の重要伝統的建造物群保存地区として選定、南部の花見小路を挟む一帯は京都市の歴史的景観保全修景地区に指定され、伝統ある町並みの保護と活用が進んでいる。 また、四条通と東大路の交差点は「祇園」交差点である(しばしば「祇園石段下」とも言う)。交差点付近に京阪バスの祇園バス停留所がある。 なお、名の由来となった祇園社は祭神の牛頭天王が祇園精舎の守護神とされていたのでこの名になった。

矢入れ(やいれ);戦闘の始めに敵陣に矢を射込むこと。やあわせ。から派生した言葉で、ダメ宗三郎を親戚一同が突く事。

東山(ひがしやま);北は比叡山(京都市左京区、滋賀県大津市)から南は稲荷山(京都市伏見区)までとするのが一般的である。狭義には、比叡山を含めず山中越の南の如意ヶ嶽(大文字山)(京都市左京区)から南を指す向きもある。 「東山」とは一つの山系の名ではなく、京都の中心部から見て東に見える山を指す。したがって、他の山と鹿ヶ谷で隔てられている吉田山が含まれる一方、比叡山の北に連なる比良山系の山は含まれない。 「東山」の呼称は古くは平安時代にも用いられたことがあるが、一般的になったのは室町時代以降である。

■だん王(だんの~)の法林寺さん(ほうりんじ);京都府京都市左京区川端三条上。檀王法林寺(だんのうほうりんじ)は京都市左京区川端通三条にある浄土宗の寺院である。正式な山号院号寺名は 朝陽山 栴檀王院 無上法林寺であるが、人徳厚かった第二世住持の團王良仙を人々が親しみを込めて「だんのうさん」と呼んだ事から、当寺の呼称も檀王法林寺として定着した。琉球王国より帰国後、袋中が創建した浄土寺院のひとつ。

三条大橋(さんじょうおおはし);京都市にある三条通の橋。鴨川に掛かっている。 最初に橋が架けられた時期は明らかではないが天正18年(1590)、豊臣秀吉の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された。江戸時代においては、五街道のひとつ東海道につながる橋として、幕府直轄の公儀橋に位置付けられ、流出のたびごとに幕府の経費で架け替え・修復が行われた。現在の橋本体は2車線、歩道付のコンクリート製で昭和25年(1950)に作られた。 橋の名は、三条通と鴨川左岸(東側)を走る川端通の交差点名にもなっている。 写真:東海道五十三次「京都」広重画

祇園富永町(ぎおんとみながちょう);京都市下京区富永町。祇園という地名は無いので、その中の富永町を指す。

元結(もっとい);髪の髻 (もとどり) を結び束ねる紐 (ひも) ・糸の類。古くは組紐または麻糸を用いたが、近世には糊 (のり) で固くひねったこよりで製したものを用いた。もとい。もっとい。大元を束ねていますからここが切れたら髪の毛が収拾が付かなくなって、ザンバラ髪になってしまいます。落語「文七元結」を参照。

絽縮緬(ろ~ちりめん); 強撚の緯糸で捩りで絽目を作った、縮緬のさらっとした肌ざわり。夏場の定番。
夏物の着物とは、10月~5月に着る、裏地のついた「袷(あわせ)」のきものに対し、6月~9月に着る裏地のついていない「単衣(ひとえ)」のきもの。またその中の、特に7月・8月に着る「薄単衣(うすひとえ)」のきもののことを言います。また、それに合わせて選ぶ、夏用の帯や長襦袢もあります。 (長襦袢にも袷・単衣・薄単衣があります) 日本は他の国と比べて、四季の変化に富んでおり、季節のきものにもしっかりとしたルールがあります。 最近は、温暖化の影響や現代的な考え方の流行により、夏物きものの着用時期は広がってきていると言われています。



                                                            2016年8月記

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