落語「初音の鼓」の舞台を行く 春風亭正朝の噺、「初音の鼓」(はつねのつづみ)別題「ぽんこん」より
■マクラより、大名の小話三話。
・「三太夫、今宵は十五夜であるの」、「御意に御座います」、「お月様は出たか?」、「恐れながら申し上げます。『お月様』は女子供の使う言葉。御大身の殿ならば、月は月と呼び捨てになさいまし」、「左様か。月は出たか?」、「一天くまなく、中空に煌々と冴え渡っております」、「左様か。して、星めらは・・・」。そこまで威張らなくても良いのですが・・・。
・殿様の食事は意外と質素で有った。「三太夫、今宵の菜であるが、最前食した菜より味わいが劣ると思うが・・・」、「ははぁ~、最前食したる菜は本場三河島より取り寄せた三河島菜、百姓が下肥をかけて作りましたる菜。今お召し上がりの菜は、当下屋敷で清らかな水肥で作られた菜で御座います。味は一段下がるかと思います」、「菜という物は下肥を掛けると味わいが増というか。それでは、苦しゅう無い。これに掛けてまいれ」。
・食事で贅沢なのは、毎晩鯛の尾頭付きが出た。毎晩なので、大名食いと言って、背中の部分だけ一箸付けておしまい。もっと食べたいときには「替わりを持て」ですから・・・。毎晩のことですから、箸も付かなくなります。ところが有る日、鯛に箸が付いた、「鯛は美味で有る」。重ねて「替わりを持て」。さ~ぁ、困ったのが料理方、毎晩飾りだけの鯛ですから替わりの鯛は無い。今から早馬を仕立てても間に合わない。そこは機転の利く重役、「殿、庭の築山をご覧下さい。桜の枝振りがよろしく、春には美しい花がご覧になれるでしょう」、「築山の桜か。良く手が入った。春には立派な花が咲くだろうな~」、と見とれていた。そのスキに三太夫さん、頭と尻尾を持って、くるりとひっくり返した。「お~~、持参したか。早かったな~」。また一箸付けて「これも美味で有った。替わりを持て」。今度ひっくり返したら、先程の穴ぼこが出てしまう。みんなオロオロしていると、「三太夫、どうした。予がもう一度築山を観ようか」。
■この噺は「義経千本桜」のパロディです。
左図;「義経千本桜」二枚組 豊国画
『義経千本桜』の場合、源義経が平家を滅ぼすという大きな戦功を立てながら兄頼朝と不和になり、奥州藤原氏を頼って落ちのびる、というのが歴史の史実であり、基本的な筋です。「義経千本桜」の筋書き内容は、それによって引き起こされる周りの人々の悲劇を描き出しました。 時代物の常として五段構成で作られている『義経千本桜』ですが、中心となるのは二~四段目の三つの段です。
右図;「狐忠信」国芳画 寛永元年3月、市村座の「義経千本桜」で四世市川小団次が演じた狐忠信。身軽な小団次が宙乗りを行い、その仕掛けも描かれている。見上げる義経(八世団十郎)、静御前(しうか)を小さく描いている。 佐藤忠信;平安時代末期の武将で、源義経の家臣。『源平盛衰記』では義経四天王の1人。父は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治、もしくは藤原忠継。
奥州藤原氏から送られ、義経の郎党として随行。兄の佐藤継信は屋島の合戦で討死している。忠信享年は二十六。(菩提寺である医王寺の忠信の石塔には享年34とある)。どちらにしても若い。「義経千本桜」の「狐忠信」こと「源九郎狐」のモデルになった。
源義経;
九郎判官。源平合戦で活躍するが、その後兄の源頼朝に追われる身となる。義経伝説を背景に、武勇に優れ一軍の将に相応しく情理をわきまえた人物として描かれる。
武蔵坊弁慶; 豪腕無双の荒法師。義経一の家来。 静御前;
義経の愛妾で白拍子。義経に千年の劫を経た雄狐・雌狐の皮を張った初音の鼓を託される。 義経四天王; 駿河次郎、 亀井六郎、 片岡八郎、 伊勢三郎。
この項、落語「猫忠」(ねこただ。「猫の忠信」)より引用 「竹のひと節 義経千本桜/忠信狐之段」 「河連法眼館」の場面。楊洲周延画。
■初音の鼓;
上写真:日本の歴史伝承上の楽器。鼓(つづみ)。左、鼓(=こづつみ)。右、小鼓と大鼓(右奥の中央に出っ張りがある)の胴(東京国立博物館蔵)。皮の部分が無いのを見ると子狐が持って行ったのでしょうか(笑)。
上村松園 「鼓の音」 昭和15年 ニューヨーク万国博覧会 絹本彩色
軸装 77.0×95.7 ㎝
■小野小町(おののこまち);(生没年不詳)は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。生没地も分からないが、歌に関しては天才で有った。
■春日局(かすがのつぼね);春日局=斎藤福(さいとう ふく、天正7年(1579) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号。父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)。 稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。 江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた一人に数えられた。 また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。
■久米の仙人(くめのせんにん);天平年間に大和国吉野郡竜門寺の堀に住まって、飛行の術をおこなっていたが、久米川の辺で洗濯する若い女性の白い脛(はぎ)に見惚れて、神通力を失い、墜落し、その女性を妻とした。高市郡に遷都されたとき、久米仙人もまた俗人として夫役につき材木を運搬していたが、仙人であることを知った行事官の揶揄に発憤し、七日七夜の修行ののち、ついに神通力を得て、巨材を空運させた。
時の天皇がこれを聞き、免田30町をたまわり、久米仙人はそこに寺を建立した。これが久米寺であるという。すなわち久米寺の縁起である(『今昔物語集』巻11)。
なお『七大寺巡礼私記』や『久米寺流記』などでは、遷都の工事ではなく、聖武天皇の東大寺造営のときの話とする。
■箱書き(はこがき);書付は、書画・陶磁器などの作者名や作品の伝来、銘、署名、押印などを、紙に書いて添えたり、箱に書き付けたもの。作品を収めた「共箱」(その作品のために用意された専用の木箱)に記されたものを「箱書」と称する。権威の高い人物によるものをとくに「御書附」といい、作品の価値を高める作用を果たす。作者自身による物もあれば、作品の価値を高めることを目的として、有力人物に依頼して付される場合もある。
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