落語「電報違い」の舞台を行く
初代三遊亭圓歌作
■電報(でんぽう);一般に電話が普及するまでは、肉親の危篤などの緊急連絡手段に用いられていたが(当時撮影された邦画や、その時代を舞台とした映画に危篤などの緊急連絡を知らせる電報が配達されるシーンがあることが多い)、1960年代の電話・1980年代後半のファクシミリ・1990年代後半より携帯電話やインターネットの電子メール(Eメール)の普及により、緊急連絡に用いられることは少なくなった。 慶弔電報は冠婚葬祭などでのメッセージを伝達する手段(祝電・弔電)として1936年に逓信省によって開始された。 1980年代までは、電報電話局での内国電報の受付と外国電報の託送受付、旧KDDの各支店での外国電報の受付に加えて、郵便局・農業協同組合・漁業協同組合・国鉄の主要駅にて内国電報の受付を行っており、地域によっては郵便局が配達の業務を受託していた(かつて営業していた大北電信会社では長崎国際電信局にて外国電報を取り扱っていた)。 また、加入電信網(テレックス)・国際テレックス網のサービス終了までは、テレックスでの電報受付及びテレックスへの電報の送達も行われており、国際電報のテレックスへの着信にはテレックス番号の他にケーブルアドレスも使用された。 緊急連絡手段としての用途が薄れたことによる農業協同組合・漁業協同組合・国鉄主要駅での電報受付終了や、郵政省の電報類似の電子郵便(レタックス)へのシフトにより電報受付終了、電報電話局の窓口縮小、KDDの各支店閉鎖などにより、現在では営業窓口の他、電話、インターネット、ファクシミリにて受付されている。
打電の方法として、1.電報局への電話申込み。 2.電報局・電話局・郵便局の窓口(発信紙に記入)。
3.
電報配達員への依頼。 4.
電報取扱駅の窓口。 5.
車掌への依頼。等があった。
この噺の電文『アスアサケエレンタンナシンタ』は、本文の後に差出人の名前が入ります。電文ではカタカナ文だけで、スペース、濁音、半濁音は省略されます。ですから『明日朝帰れん旦那死んだ』、と読み手は理解してしまったのです。
■生薬屋(きぐすりや);薬草のまだ刻まず、調剤してない漢方薬。この薬を売る店を生薬屋と言い、漢方薬の店。転じて、売薬店。薬舗。薬種屋。
■石町(こくちょう);現在の東京都中央区日本橋本石町三~四丁目。東隣の日本橋室町三~四丁目。その東隣の日本橋本町三~四丁目。江戸通り(水戸街道)に面した街ですが、江戸時代から石町という呼び名は無く、本石町と現在まで言われます。
■名古屋(なごや);名古屋市(なごやし)は、愛知県西部(尾張地方)の政令指定都市であり、同県の県庁所在地です。全16区から構成される。東海道線大阪と東京の中間地で、文化的にも関西の影響と関東の影響を受けています。
中村遊廓は、日吉(ひよし)・寿(ことぶき)・大門(おおもん)・羽衣(はごろも)・賑(にぎわい)の5つの町からなっていたため、五町街(ごちょうまち)または五丁町(ごちょうまち)と呼ばれた。
遊郭移転後、遊客数・遊興金額・一人あたりの遊興金額とも増加してゆき、大正14年(1925)の遊客数は755940人(一日あたり2071人)を数えた。しかし全盛を極めたのは、昭和12年(1937)頃で、娼家138軒または147軒、娼妓約2000人、一軒の抱え娼妓が13~30余人を数えた。ちなみに厚生省の調査によれば、昭和12年当時の全国の娼妓総数44908人であり、全国の4.5%の娼妓が中村に集中していたことになる。
昭和3年と昭和8年には京都嶋原からその道の専門家を招いて花魁道中の催しを挙行した。県下はおろか他県からも見物客が押し寄せ、未曾有の盛況を呈した。
■臨月(りんげつ);出産する予定の月。うみづき。
■転勤より『天国』(てんくに);東京・銀座八丁目にある天麩羅屋。私は最初この店の前にあるバス停の地名表示に『天国前』(てんごくまえ)と書かれていたのでビックリ、お隣は『地獄』かと思った程です。
■お伊勢参り(おいせまいり);天照大神の神社として公家・寺家・武家が加持祈祷を行っていた伊勢神宮だったが、中世の戦乱の影響で領地を荒らされていた。その伊勢神宮を建て直すため、神宮で祭司を執り行っていた御師は外宮に祀られている豊受大御神を広めるため、農民に伊勢神宮へ参詣してもらうように暦を配るなど各地へ布教するようになった。
中世には、神社にも巡礼が盛んになった。街道の関所が天下統一により撤廃され、参詣への障害が取り除かれた。
江戸時代以降は五街道を初めとする交通網が発達し、参詣が以前より容易となった。世の中が落ち着いたため、巡礼の目的は来世の救済から現世利益が中心となり、観光の目的も含むようになった。米の品種改良や農業技術の進歩に伴い農作物(特に、江戸時代の税の柱であった米)の収穫量が増え、農民でも現金収入を得ることが容易になり、商品経済の発達により現代の旅行ガイドブックや旅行記に相当する本も発売された。
■向島(むこうじま);東京都墨田区向島五丁目にある花街、花柳界の総称。向島は隅田川沿岸に位置し、江戸時代から風光明媚の地として栄えてきたが、明治期に料理屋が置かれそれが花街の起源となる。最盛期には待合、料理屋が100軒から200軒、芸妓は1000名以上あり各検番(芸妓、料理屋を管轄する機関)にそれぞれ在籍した。中でも洋装のダンス芸妓が人気を集めた。関東大震災、第二次世界大戦の危機を乗り越えてきたが昭和後期に入り料亭、芸妓数の減少が続き、2009年現在、料亭18軒、芸妓120名である。戦前には複数あった見番が「向嶋墨堤組合」に統合され、芸妓の技芸向上や後進の育成を図るほか、春の時期に桜茶屋を設け花見客を接待するなど、対外的にも積極的に取り組んでいる。
■アゴ足付き;あごあしの「あご」は食べるときに噛み砕くところから、食事の意味。 転じて、江戸深川の岡場所などでは飲食費を言うようになった。 「あし」は「足代」の略で、交通費の意味。 元は、主催者が出演料の他に食事代と交通費を負担することを言い、もとは寄席芸人の隠語であった。
■新橋(しんばし);新橋駅は明治5年9月12日(1872年10月14日)、新橋駅 - 横浜駅(現・桜木町駅)間に日本初の鉄道が正式開業する際に起点駅として開設された。その後、明治22年(1889)7月1日には東海道本線が神戸駅まで全通し、国土の重要幹線に於ける東京側のターミナル駅として、東京駅の開業まで重要な役目を担うこととなった。昭和31年(1956)、東海道本線全線の電化が完成した。
■六郷を渡る(ろくごうをわたる);神奈川県と東京都の県境を流れる、多摩川の下流地域の別名。
■横浜(よこはま);関東地方南部、神奈川県の東部に位置する県庁所在地。政令指定都市の一つであり、18区の行政区を持つ。現在の総人口は日本の市町村では最も多く、人口集中地区人口も東京23区(東京特別区)に次ぐ。神奈川県内の市町村では、面積が最も広い。市域の過半は旧武蔵国で、南西部は旧相模国(戸塚区、瀬谷区、泉区、栄区、港南区の一部)。
幕末以降から外国資本が積極的に当地に進出。そのため近代日本において有数の外資獲得力を誇った。関東大震災後は政府による積極的な振興政策により、京浜工業地帯の中核都市となった。
横浜遊廓:幕末期、横浜開港に伴い、開港場を横浜村とすることに反対する外国人を引き付けるため、また、オランダ公使から遊女町開設の要請があったことにより、外国奉行は開港場に近い関内の太田屋新田(横浜公園及び横浜スタジアムが有る地)に遊郭を建設することを計画。品川宿の岩槻屋佐吉らが泥地埋め立てから建設まで請け負い、約1万5千坪を貸与されて開業した。
遊郭の構造は江戸の吉原遊郭を、外国人の接客は長崎の丸山遊郭を手本にした。 規模は遊女屋15軒、遊女300人、他に局見世44軒、案内茶屋27軒などがあった。1867年11月の豚屋火事で焼失、同年12月に関外の吉田新田北一ツ目を吉原町と改称して再興し吉原遊郭と称するも、1871年に再び火災で焼失。
1872年、高島町に移転して高島町遊郭と称したが、三度焼失して1880年吉田新田の南三ツ目へ移転し、1958年の赤線廃止まで永真遊郭街として存在することになる。
「岩亀楼」内部 広重画
■静岡(しずおか);静岡県中部に位置する政令指定都市であり、同県の県庁所在地である。駿府城下を基盤とした商業都市の旧静岡市と、特定重要港湾を擁する港湾都市の旧清水市が新設合併して誕生した市です。
二丁町遊郭(にちょうまちゆうかく)は、駿府にあった遊郭。静岡市葵区駒形通五丁目付近で、現在は静岡県地震防災センターがある。
大御所徳川家康の隠居の地である駿府城下に造られた幕府公認の遊郭で、1万坪もの広大な面積を誇っていた。後にその一部は江戸に移され、吉原遊郭になった。蓬莱楼など代表的な遊郭は明治時代以降も続いたが、第二次世界大戦の静岡大空襲で焼失した。
■久能山(くのうさん);久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社。
晩年を駿府で過ごした徳川家康が元和2年(1616)に死去した後、遺命によってこの地に埋葬された。
江戸時代には20年に一度、明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、近年では平成18年(2006)に社殿の塗り替えが完了した。 平成22年(2010)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。平成27年(2015)には鎮座400年を迎えるため、様々な催し物が企画、開催されている。
久能山東照宮博物館:http://www.toshogu.or.jp/kt_museum/
■宇治山田(うじやまだ);伊勢神宮最寄りのターミナル駅。1931年の参宮急行電鉄線(のちの近鉄大阪線・山田線)全通に際し、「神都」宇治山田市(1955年に伊勢市と改称)の新たな玄関口となる伊勢神宮最寄りのターミナル駅として、1930年に開かれた「御遷宮奉祝神都博覧会」の会場跡地に開設された。
当時から長距離列車の始終着駅として賑わい、また貴賓室があるため天皇をはじめとする貴賓客や、正月恒例の内閣総理大臣の伊勢神宮参拝の際の乗降駅となっている。
■余慶有り(よけいあり);先祖の善行のおかげで子孫が得る幸福。「積善の家に余慶あり」と使います。
■安城駅(あんじょうえき);愛知県安城市御幸本町にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅。
■岡崎駅(おかざきえき);愛知県岡崎市羽根町字東荒子にある、東海旅客鉄道(JR東海)・愛知環状鉄道(愛環)の駅。
■号外(ごうがい);定期以外に発刊する新聞・雑誌。特に、大事件などの際に臨時に発行する新聞。
■忌中の札(きちゅうのふだ);近親に死者があって、忌(イミ)にこもる期間。死者が出て葬儀に際し、入口に下げる「忌中」と書かれた札。
2016年8月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ
|