落語「電報違い」の舞台を行く
   

 

 初代三遊亭圓歌作
 三代目三遊亭圓歌の噺、「電報違い」(でんぽうちがい)より


 

 石町の生薬屋の旦那と出入りの植木屋の信太(しんた)を連れて名古屋に来ていた。名古屋では当然名古屋弁なので、信太さんには肌が合わない。早く帰りたい気持ちでイッパイ。

 「あすこを見なさい」、「名古屋と言うところは不思議なところですね。若い男女がレールを枕にして寝ていますよ」、「寝てるんじゃ無い。あれは心中だ。変に止めると逆上するといけないから・・・」。
 「おい、こんな所で死んじゃイケネ~」、「助けると思って、死なせて下さい」、「バカヤロウ。助けたり死なせたりできるかぃ」、「信さん、お嬢さんは臨月だ。今いた、宿に戻って話しを聞くから・・・。今晩の汽車に乗ることになっているので家の者達が心配するといけないから電報を打ってきてくれ」、「電報ってなんですか」、「電報知らないのか?今晩帰れないので、『明日の朝の汽車で帰る』と打ってきて欲しい。窓口に行けばみんなやってくれるから・・・。15時まではその料金で行くから、郵便局に行って来てくれ」。

 「やになっちゃうな。東京に帰れると思ったら、もう一日名古屋弁を聞かなければならない」。
 郵便局に来てみれば、当然名古屋弁ばかりであったが、電報の窓口は東京から転勤になった人がいて、言葉が同じで嬉しくなった。「俺は転勤より『天国』(てんくに)の方が良いんだがな~」、「天麩羅屋の話しじゃ無いんです」、「東京に来たら石町の生薬屋に来てくれよ。出入りの植木屋で信公というんだ。名古屋から来たと言っておくれ、一緒に飲んで向島に繰り込もう・・・。さようなら」。
 「もしもし、何しに来たんです?」、「そうだ、電報打ちに来たんだ。石町の旦那が『お伊勢参りしたことがあるか』と言うので、付いて来たんだ。アゴ足付きだぞ。新橋から汽車に乗ったが、後ろの方に電柱が走っていくんだ」、「それは汽車が走っていくんです」、「六郷を渡ると東京を離れたと思っていたら、横浜で降りた。楽しいところが有って、女が『チョット、チョット』と呼ぶんだ。俺は細いのが好きなんだが、旦那は太っているのがイイと言うんだ。丁度イイ見世が有ったので上がったよ。その女はくすぐるんだ。くすぐられるのは嫌いなんだが、女にくすぐられると気持ちいいんだ・・・。コチョ、コチョ、俺は女の足をくすぐって『そんな事したらくすぐったい』、で、朝になった」。「回りに立たないで下さい。この人は電報を打ちに来たんですから・・・」。
 「それから、汽車に乗って富士山を見たね。上だけが雪を被って、下が茶色いんだ。すると静岡に着いたので汽車を降りた。昔、清兵衛さんが生薬屋で番頭として働いていたんだ。働き者で、のれん分けしてもらった。その清さんのとこに行くと『良くいらっしゃいました』と言って、下にも置かない歓待ぶり。翌日は家康の遺品が飾っている久能山に行ったんだ。それで帰ろうと思ったら、清さんは江戸者だねその晩、静岡の花柳界に招待してくれたんだ。旦那は太ったので俺は細いのが相方に付いた。その女が風呂の手伝いをしてくれて、奥座敷に通された。女は帯を解いて新しい長襦袢に着替え、布団に入った。俺は」、「くすぐられるのが嫌いでしょう」、「お前その時いたのか?」、「くすぐられたので、貴方は足をくすぐったんでしょ」、「どうして俺のクセまで知っているんだ」。
 「朝になったので、静岡を発って、宇治山田で参拝して、名古屋に入った。3日間遊んで、さて帰ろうとしたら、心中者がいて帰れなくなった。で、電報打ちたい」、「女と寝たところから話さないと電報打てないんですか?」、「それから言わないと分からないんだ」。

 「では、何と・・・」、「『アスアサケエレン』だ。俺は江戸っ子だからこれで良いんだ」、「そこに用紙が有りますから、それに書き込んで下さい」、「恥書かせるのか。俺は字が書けないんだ」、「分かりました。では『アスアサケエレン』ですね。で、誰が電報打つんです」、「『ダンナ』だ」、「お名前は?」、「昔から旦那で通っているので、名前は知らない。その下に俺の名前『シンタ』と入れておいてくれ」、「届け先は?」、「生薬屋ダ」、「生薬屋と言っても沢山あるでしょ」、「有ったってしょうが無いだろう。『トウキョウシ・ニホンバシク・コクチョウ・オオキナキグスリヤ』これで分かる」、「そうですか」。
 「いくらだぃ」、「時間が過ぎていますから、17銭ですな」、「俺は旦那から15銭しか預っていない」、「普通は15銭で良いんです。4時半(圓歌の間違い)までは・・・」、「俺が来たのは、3時半だぞ」、「今は6時半です。新橋だの横浜と言ってるから、こんな事になったんです。今晩着かなければいけませんか?」、「明日の朝だって良いよ」、「では、15銭です」、「では、頼んだよ。東京に来たら寄ってくれよな」。

 「旦那、行って来ました」、「ご苦労さん。二人の話を聞いたら、お嬢さんは大きな病院の娘さんで、ご子息はお寺さんの息子だ。親御さんがどちらも許さないので、出て来たがどうしようも無いので心中となった。私が親御さんに話しして許しを請うて来るよ。明日は4人で帰るから、今夜は骨休めしてくれ」。
 宿の番頭がやって来た。「旦那さん、人を助けると『余慶有り』と言いますが、今が正しくそれです。今夜お乗りの予定だった列車が、安城で貨物列車と正面衝突して、全員即死だという情報が入りました」、「お二人さん、貴方のお陰で命拾いをしました。今夜は私の心祝いだよ。お泊まりの皆さんにお酒をキリ無く差し上げて下さい」。こっちはこれで済んだ。

 東京では、番頭さんが新聞を読んでいます。駅まで迎えに行った二人が戻ってきた。「駅まで行ったらごった返しており、安城と岡崎間で列車事故があり乗客全員が死んだと言うことで、列車は動いていないので戻ってきました」。号外が来たので番頭さん読んでみると、「『名古屋発上り606号、安城、岡崎間において正面衝突し乗っていた全員が死傷した』。これは名古屋発8時だから違う。これには20時になっているからね」、「旦那が乗ったのは8時、事故を起こした列車は20時発だ」、「番頭さんに申し上げます。鉄道では12時を過ぎると、1時とは言わず13時と言います」、「20時と言うと・・・夜の8時じゃ無いか」。そこに電報が着いた、「『アスアサケエレンダンナシンタ』。・・・、信太さんだけ生きていたんだよ」。

 忌中の札を出して、翌朝。信太さんだけが荷物を背負って石町に帰って来た。「旅に出ている間に誰が死んだのかな。奥さんかな・・・。誰だろう。只今帰りました」、「信さんが帰って来たよ。信さんビックリしただろうね」、「はい、この様な結果になりまして・・・」、「旦那さんのことも詳しく話してくれるかぃ。ところで、旦那さんの身柄はどうなっている・・・」、「へぇ? 旦那の身柄? 心配要らない。今、お寺に行っている」。

 



ことば

電報(でんぽう);一般に電話が普及するまでは、肉親の危篤などの緊急連絡手段に用いられていたが(当時撮影された邦画や、その時代を舞台とした映画に危篤などの緊急連絡を知らせる電報が配達されるシーンがあることが多い)、1960年代の電話・1980年代後半のファクシミリ・1990年代後半より携帯電話やインターネットの電子メール(Eメール)の普及により、緊急連絡に用いられることは少なくなった。
 現在、電報の多くは冠婚葬祭での祝電や弔電用に使われている。 また、電文の伝達手法も、モールス信号で多くの電報局を人手による解読で中継する方式から、テレタイプ端末と交換機による電報局間自動中継を経て、ISDNパケット通信による配達委託先への直接伝送・印刷が使用されるようになり、人員の合理化も進んだ。 2006年1月末には、米国のウエスタンユニオンが電報サービスを廃止した。

 慶弔電報は冠婚葬祭などでのメッセージを伝達する手段(祝電・弔電)として1936年に逓信省によって開始された。 1980年代までは、電報電話局での内国電報の受付と外国電報の託送受付、旧KDDの各支店での外国電報の受付に加えて、郵便局・農業協同組合・漁業協同組合・国鉄の主要駅にて内国電報の受付を行っており、地域によっては郵便局が配達の業務を受託していた(かつて営業していた大北電信会社では長崎国際電信局にて外国電報を取り扱っていた)。 また、加入電信網(テレックス)・国際テレックス網のサービス終了までは、テレックスでの電報受付及びテレックスへの電報の送達も行われており、国際電報のテレックスへの着信にはテレックス番号の他にケーブルアドレスも使用された。 緊急連絡手段としての用途が薄れたことによる農業協同組合・漁業協同組合・国鉄主要駅での電報受付終了や、郵政省の電報類似の電子郵便(レタックス)へのシフトにより電報受付終了、電報電話局の窓口縮小、KDDの各支店閉鎖などにより、現在では営業窓口の他、電話、インターネット、ファクシミリにて受付されている。

 打電の方法として、1.電報局への電話申込み。 2.電報局・電話局・郵便局の窓口(発信紙に記入)。 3. 電報配達員への依頼。 4. 電報取扱駅の窓口。 5. 車掌への依頼。等があった。
 電報を送る際の注意として、電報を送るには、まず電信局で電報用紙を受け取り、要件を手短に分かりやすく書く必要があった。現代のメールとは違って全文字カタカナ表記で字数制限がある為、電報だけでは詳細な内容は伝えられず、送る側と受け取った側で内容の認識の誤差が生じるなど不便な面もあった。

 この噺の電文『アスアサケエレンタンナシンタ』は、本文の後に差出人の名前が入ります。電文ではカタカナ文だけで、スペース、濁音、半濁音は省略されます。ですから『明日朝帰れん旦那死んだ』、と読み手は理解してしまったのです。

生薬屋(きぐすりや);薬草のまだ刻まず、調剤してない漢方薬。この薬を売る店を生薬屋と言い、漢方薬の店。転じて、売薬店。薬舗。薬種屋。

石町(こくちょう);現在の東京都中央区日本橋本石町三~四丁目。東隣の日本橋室町三~四丁目。その東隣の日本橋本町三~四丁目。江戸通り(水戸街道)に面した街ですが、江戸時代から石町という呼び名は無く、本石町と現在まで言われます。

名古屋(なごや);名古屋市(なごやし)は、愛知県西部(尾張地方)の政令指定都市であり、同県の県庁所在地です。全16区から構成される。東海道線大阪と東京の中間地で、文化的にも関西の影響と関東の影響を受けています。
 東京特別区部を除けば、横浜市・大阪市に次ぐ全国第3位の人口を有する都市であり、都市圏人口も三大都市圏の一つに当たる中京圏の中枢都市。中京圏を擁する中部地方の政治・経済・文化・交通の中枢となっている。栄と名駅が広域集客可能な繁華街となっており、栄と名駅一帯には広大な地下街が発達している。それに伴い、地下鉄網も充実している。地元住民は名古屋駅のことを「名駅」(めいえき)と呼び、これは名古屋駅周辺の行政地名(中村区・西区名駅一から五丁目、中村区名駅南一から五丁目)にもなっている。 2008年にはユネスコの創造都市に認定された(日本では神戸市と共に初であり、デザイン部門でも神戸市と中華人民共和国の深圳市と共にアジア初の認定)。 市章は、現在の名古屋市を拠点に尾張を統治した親藩、徳川御三家筆頭格の尾張徳川家の合印に由来する「八」である。 2016年、都市的地域の人口は約1004万人であり、世界第36位の都市である。また、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第69位の都市と評価された。

中村遊廓は、日吉(ひよし)・寿(ことぶき)・大門(おおもん)・羽衣(はごろも)・賑(にぎわい)の5つの町からなっていたため、五町街(ごちょうまち)または五丁町(ごちょうまち)と呼ばれた。 遊郭移転後、遊客数・遊興金額・一人あたりの遊興金額とも増加してゆき、大正14年(1925)の遊客数は755940人(一日あたり2071人)を数えた。しかし全盛を極めたのは、昭和12年(1937)頃で、娼家138軒または147軒、娼妓約2000人、一軒の抱え娼妓が13~30余人を数えた。ちなみに厚生省の調査によれば、昭和12年当時の全国の娼妓総数44908人であり、全国の4.5%の娼妓が中村に集中していたことになる。 昭和3年と昭和8年には京都嶋原からその道の専門家を招いて花魁道中の催しを挙行した。県下はおろか他県からも見物客が押し寄せ、未曾有の盛況を呈した。  

臨月(りんげつ);出産する予定の月。うみづき。

転勤より『天国』(てんくに);東京・銀座八丁目にある天麩羅屋。私は最初この店の前にあるバス停の地名表示に『天国前』(てんごくまえ)と書かれていたのでビックリ、お隣は『地獄』かと思った程です。

お伊勢参り(おいせまいり);天照大神の神社として公家・寺家・武家が加持祈祷を行っていた伊勢神宮だったが、中世の戦乱の影響で領地を荒らされていた。その伊勢神宮を建て直すため、神宮で祭司を執り行っていた御師は外宮に祀られている豊受大御神を広めるため、農民に伊勢神宮へ参詣してもらうように暦を配るなど各地へ布教するようになった。 中世には、神社にも巡礼が盛んになった。街道の関所が天下統一により撤廃され、参詣への障害が取り除かれた。 江戸時代以降は五街道を初めとする交通網が発達し、参詣が以前より容易となった。世の中が落ち着いたため、巡礼の目的は来世の救済から現世利益が中心となり、観光の目的も含むようになった。米の品種改良や農業技術の進歩に伴い農作物(特に、江戸時代の税の柱であった米)の収穫量が増え、農民でも現金収入を得ることが容易になり、商品経済の発達により現代の旅行ガイドブックや旅行記に相当する本も発売された。
 明治に入り、明治天皇が伊勢神宮へ行幸したのをきっかけに伊勢神宮の性質が変容し、さらに、明治政府が御師の活動を禁じたために、民衆の伊勢神宮への参拝熱は冷めてしまった。『おかげ年』にあたる明治23年(1890)の新聞には、「お蔭参りの面影もなし」という内容の記事が掲載された。

向島(むこうじま);東京都墨田区向島五丁目にある花街、花柳界の総称。向島は隅田川沿岸に位置し、江戸時代から風光明媚の地として栄えてきたが、明治期に料理屋が置かれそれが花街の起源となる。最盛期には待合、料理屋が100軒から200軒、芸妓は1000名以上あり各検番(芸妓、料理屋を管轄する機関)にそれぞれ在籍した。中でも洋装のダンス芸妓が人気を集めた。関東大震災、第二次世界大戦の危機を乗り越えてきたが昭和後期に入り料亭、芸妓数の減少が続き、2009年現在、料亭18軒、芸妓120名である。戦前には複数あった見番が「向嶋墨堤組合」に統合され、芸妓の技芸向上や後進の育成を図るほか、春の時期に桜茶屋を設け花見客を接待するなど、対外的にも積極的に取り組んでいる。

アゴ足付き;あごあしの「あご」は食べるときに噛み砕くところから、食事の意味。 転じて、江戸深川の岡場所などでは飲食費を言うようになった。 「あし」は「足代」の略で、交通費の意味。 元は、主催者が出演料の他に食事代と交通費を負担することを言い、もとは寄席芸人の隠語であった。

新橋(しんばし);新橋駅は明治5年9月12日(1872年10月14日)、新橋駅 - 横浜駅(現・桜木町駅)間に日本初の鉄道が正式開業する際に起点駅として開設された。その後、明治22年(1889)7月1日には東海道本線が神戸駅まで全通し、国土の重要幹線に於ける東京側のターミナル駅として、東京駅の開業まで重要な役目を担うこととなった。昭和31年(1956)、東海道本線全線の電化が完成した。
  現在の駅は2代目で、大正3年(1914)の東京駅完成により東海道本線の起点が変更され、それまでの烏森駅を新橋駅に改称して現在に至るとともに、元の新橋駅は汐留駅に改称され、荷物列車と貨物列車の専用駅となった。烏森駅は1909年に開業した現在の山手線に相当する電車専用駅であった。開業に遅れて竣工した初代の新橋駅本屋は、万世橋駅を参考に鉄道院が設計したルネサンス様式煉瓦造りであった。その後関東大震災で内部を焼失する被害にあったものの、構体そのものの被害は軽微であったことから屋根部分の改修で戦後まで使用されたが、東海道線と横須賀線の分離運転に伴う同線の地下ホームの建設に支障をきたすことから、1970年(昭和45年)に撤去され、現在の駅舎になった。



写真:絵葉書・大正時代の新橋駅。旧新橋停車場 鉄道歴史展示室

六郷を渡る(ろくごうをわたる);神奈川県と東京都の県境を流れる、多摩川の下流地域の別名。

横浜(よこはま);関東地方南部、神奈川県の東部に位置する県庁所在地。政令指定都市の一つであり、18区の行政区を持つ。現在の総人口は日本の市町村では最も多く、人口集中地区人口も東京23区(東京特別区)に次ぐ。神奈川県内の市町村では、面積が最も広い。市域の過半は旧武蔵国で、南西部は旧相模国(戸塚区、瀬谷区、泉区、栄区、港南区の一部)。 幕末以降から外国資本が積極的に当地に進出。そのため近代日本において有数の外資獲得力を誇った。関東大震災後は政府による積極的な振興政策により、京浜工業地帯の中核都市となった。

横浜遊廓:幕末期、横浜開港に伴い、開港場を横浜村とすることに反対する外国人を引き付けるため、また、オランダ公使から遊女町開設の要請があったことにより、外国奉行は開港場に近い関内の太田屋新田(横浜公園及び横浜スタジアムが有る地)に遊郭を建設することを計画。品川宿の岩槻屋佐吉らが泥地埋め立てから建設まで請け負い、約1万5千坪を貸与されて開業した。 遊郭の構造は江戸の吉原遊郭を、外国人の接客は長崎の丸山遊郭を手本にした。 規模は遊女屋15軒、遊女300人、他に局見世44軒、案内茶屋27軒などがあった。1867年11月の豚屋火事で焼失、同年12月に関外の吉田新田北一ツ目を吉原町と改称して再興し吉原遊郭と称するも、1871年に再び火災で焼失。 1872年、高島町に移転して高島町遊郭と称したが、三度焼失して1880年吉田新田の南三ツ目へ移転し、1958年の赤線廃止まで永真遊郭街として存在することになる。
 岩槻屋佐吉が経営する遊女屋は、岩槻の音読みから「岩亀楼」(がんきろう。上記写真=明治8年頃)と呼ばれ、遊郭の中でも特に豪華で、昼間は一般庶民に見物料を取って閲覧させていた程の設備を誇った。江戸幕府は外国人専用遊女(羅紗緬)を鑑札制にし、岩亀楼に託した。岩亀楼内は日本人用と外国人用に分かれており、外国人は羅紗緬しか選ぶことができなかった。 

「岩亀楼」内部 広重画

静岡(しずおか);静岡県中部に位置する政令指定都市であり、同県の県庁所在地である。駿府城下を基盤とした商業都市の旧静岡市と、特定重要港湾を擁する港湾都市の旧清水市が新設合併して誕生した市です。
1889年2月1日:東海道本線が開通し、江尻駅(現清水駅)が開設される。
三保には三保の松原があり、落語「羽衣の松」参照。

二丁町遊郭(にちょうまちゆうかく)は、駿府にあった遊郭。静岡市葵区駒形通五丁目付近で、現在は静岡県地震防災センターがある。 大御所徳川家康の隠居の地である駿府城下に造られた幕府公認の遊郭で、1万坪もの広大な面積を誇っていた。後にその一部は江戸に移され、吉原遊郭になった。蓬莱楼など代表的な遊郭は明治時代以降も続いたが、第二次世界大戦の静岡大空襲で焼失した。
 勘右衛門は現在の安倍川近くに1万坪の土地を自費で購入し、故郷である山城国(京都府)伏見から業者や人を集め、自身も「伏見屋」という店を構えた。これが幕府公認の遊郭の始まりである。 後に、町の一部を江戸の吉原遊郭に移したので、残った町がいわゆる「二丁町」と呼ばれ、全国に知られた静岡の歓楽街になった。駿府城下には町が96か町あり、その内7か町が遊廓であった。その内の5か町分が江戸へ移り、残った2か町が二丁町の由来ともいわれる。『東海道中膝栗毛』にも登場する。   

久能山(くのうさん);久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社。 晩年を駿府で過ごした徳川家康が元和2年(1616)に死去した後、遺命によってこの地に埋葬された。 江戸時代には20年に一度、明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、近年では平成18年(2006)に社殿の塗り替えが完了した。 平成22年(2010)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。平成27年(2015)には鎮座400年を迎えるため、様々な催し物が企画、開催されている。

 久能山東照宮博物館:http://www.toshogu.or.jp/kt_museum/ 
久能山東照宮博物館は、徳川家康公を祀る久能山東照宮に付属した博物館です。 徳川家康公が関ヶ原合戦で用いた甲冑である「重要文化財 歯朶具足」、二代将軍徳川秀忠公が久能山東照宮に奉納した「国宝 桐紋絲巻太刀拵(国宝 太刀 銘真恒 拵)」、徳川家康公の神像である「東照大権現像」など、徳川家康公をはじめとする江戸幕府の歴代将軍に関係する文化財を2000点超収蔵しています。

宇治山田(うじやまだ);伊勢神宮最寄りのターミナル駅。1931年の参宮急行電鉄線(のちの近鉄大阪線・山田線)全通に際し、「神都」宇治山田市(1955年に伊勢市と改称)の新たな玄関口となる伊勢神宮最寄りのターミナル駅として、1930年に開かれた「御遷宮奉祝神都博覧会」の会場跡地に開設された。 当時から長距離列車の始終着駅として賑わい、また貴賓室があるため天皇をはじめとする貴賓客や、正月恒例の内閣総理大臣の伊勢神宮参拝の際の乗降駅となっている。

余慶有り(よけいあり);先祖の善行のおかげで子孫が得る幸福。「積善の家に余慶あり」と使います。

安城駅(あんじょうえき);愛知県安城市御幸本町にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅。
明治24年(1891)6月16日 - 官設鉄道(国鉄)の岡崎 - 安城-刈谷間に新設開業。一般駅。

岡崎駅(おかざきえき);愛知県岡崎市羽根町字東荒子にある、東海旅客鉄道(JR東海)・愛知環状鉄道(愛環)の駅。
 岡崎市には研究教育施設や史跡が多く、市の規模に比して文教都市の色が濃い。また、伝統地場産業には八丁味噌、花火、石製品、額田の豆腐などがある。

号外(ごうがい);定期以外に発刊する新聞・雑誌。特に、大事件などの際に臨時に発行する新聞。

忌中の札(きちゅうのふだ);近親に死者があって、忌(イミ)にこもる期間。死者が出て葬儀に際し、入口に下げる「忌中」と書かれた札。



                                                            2016年8月記

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