落語「短命」の舞台を行く
   

 

 立川談志の噺、「短命」(たんめい)別名「長命」より


 

 「八っつあん。ま、お上がりよ。どうした」、「伊勢屋の旦那が、三度死んだんです」。
 「人間って二度も三度も死ぬのかい」、「そうじゃないんです。実は大旦那は恵比寿様と言われるほど良い人で、誰も悪口を言う人も無かった。私なんかも随分世話になって、盆暮れには黙って金を貸してくれた。その位良い人だったが、亡くなって大きな葬儀(ともらい)を出した。残された一人娘が美人で腰が低くて、来た婿さんがイイ男で、一対のお雛様のようだった。買い物もお芝居も二人連れ、食事も奥の部屋で二人っきり。奥様(娘さん)が男に食べさせてやるんだ『おいしいでしょ』」、「お前は何しに来たんだ」、「その位仲が良かった。おっ母さんが安心したのか亡くなって、本当の二人っきり。若い世代になるかと思ったら、婿さん1年も経たずに寝込んでしまい、半年後には亡くなった」、「それは可哀相に」。
 「大店(おおだな)ですから、次の婿さんはどんな人かと思ったら、色が黒くてがっちりした婿さんだったが、1年もしない間に顔色が悪くなって、半年持たずに亡くなった」、「それはそれは・・・」。
 「三度目の正直だと言ったら、二度有ることは三度あるとバカが言ったら、その通りになってしまった。で昨日死んだんです」、「分かった。良く分かった」、「分からないのは、あの恵比寿様のような良い人の家に三度もこの様なことが有るのが分からない。『積善の家に余慶あり』と言うでしょ。お嬢さんは性格も父親譲りの人格者。どうしてなんでしょうね」。
 「その、後家さんは幾つになる」、「ヤマは越えていないよ。二十七八かね。その上綺麗、キレイ。近くで見ると震い付きたくなる程キレイだから遠くから見るだけだ。二十歳前と言えば通るほどだ」。
 「前の亭主とは雑談なんかしたかい」、「したよ。奥さんの事になり、『ミミズ』がいると言ったり、『蛸が好きなんだって』、それから『たわら』が有るんだって。ミミズやタコやタワラって何?」、「それだよ。タワラは絞めるんだ。分からなければ良いんだ。奥さんが美人なのが短命だ」、「長く生きるのは、長命だよね。で、なんで美人だと短命なの」。

 「美人だと・・・な。過ぎるだろう。『一人寝るのは寝るんじゃないよ、枕抱えて横に立つ』と言うだろう。『その当座 昼も箪笥の環(かん)が鳴り』、『新婚は夜することを昼間する』と言うだろう」、八つあん、何が何だか判らず、チンプンカンプンの返答をするのみ。「『何よりもそば(傍)が毒だと医者が言い』、だろう」、「分かった、蕎麦は冷えるから毒だよね」、「何しにここに来てんの」、「どうして早死になのか、聞きに来たら分からないことばっかり言って」、「それが全部そうなんだ。閑でやることがないだろう」、「そうなんだ。身体が鈍って短命なのか」。
 「何て言ったら良いんだ。家は広くて誰もいないんだろう。美人だから・・・ほら、つい・・・。ご飯食べるときも二人っきりなんだろう。ご飯をよそって貰って手渡しすれば、手が触れるだろう。綺麗な指なんだろう」、「白魚を五本並べたような指なんだ」、「綺麗な指が手に触ると、回りを見れば誰もいない。前を見れば震い付きたくなるような美人がいるだろう。短命だろう」、「分かった、分かった。ここからバイ菌が入るんだ」、「何ッ」、「怒らないで教えてよ」、「教えてるよ。子供だって分かるよ」。
 「ご飯食べるときは二人キリなんだろう」、「さっきから言ってるよ」、「ご飯をいただくとき、指が触るだろう。前には震い付きたくなるようなイイ女だ。回りには誰もいない。その時、八つあんは飯食うか?」、「俺だったら・・・?。美人がいて・・・、回りには誰もいない。ん。飯なんか食っていられるかい。指が触れると言うのは何処も触れて良いのかぃ」、「当然」、「俺は勘が良いから直ぐ分かるんだ」、「勘が悪いよお前は・・・」、「やり過ぎと言ってくれれば分かるんだ」、「それを言ったら・・・」、「そうだよね。美人の女房持つと大変だ。どうも有り難う。サヨウナラ」。

 「おっか~、今帰ったよ」、「(男みたいな声で)お帰えんなさ~ぃ」、「お店(たな)のこと聞いたかい」、「大変だね~。私なんかひっくり返って屁たれちゃった。早く行って手伝わなければいけないよ」、「腹減った」、「食べて行きな」。「おっか~、今何やってんの」、「片付けものやってて、忙しいよ」、「チョットこっち来いょ」、「お前が来いよ」。
 「台所じゃダメだから、こっち来いよ」、「ヤダよ。昼間っから・・・」、「亭主が来いと言ってるんだ、こっち来いよ」、「しょうが無いね。来たよ」、「おっか~、飯を盛れ」、「飯を盛れだって・・・。頭(ず)のぼせんじゃないよ。やだよそんな事したことないよ。恥ずかしい。表に裸で走っちゃうからね」。
 「飯をよそえ」、「惚れてんな。こんなもの簡単なんだから。そら食え」、「それじゃ、とっかかりが無いじゃないか。手で渡せ」、「手で渡せ?この・・・」、「いいか、受け取れば、指が手に触れる。回りを見れば誰もいない。その気になら~ぁ。顔を見れば・・・。ふぅ~。おっか~、俺は長命だ」。

 



ことば

題名の短命ですが、あからさまに「短命」では縁起が悪い。ではどうするか? 短命では無く、「長命」の方が聞こえが良くて縁起がイイ。で、オチの部分を取って、長命となった。中身は全く同じですから、そんな事にこだわっている閑があったら、若手さん、もっと中身を磨いて欲しいのは私だけでは無いと思います。
 談志はマクラで、前座話のようなものですから・・・、と言っています。多くの落語家さんが高座に掛けています。でも、この様な艶笑話に近いものは、年季が入った演者がやるとイヤらしさが表に出ないで、楽しむことが出来ます。と言って、学校では教えない噺の一つです。談志はえげつないところはえげつなく、よくこんな単語が出るものだと感心します。

 長命はもう一つの落語「寿限無」に出てくる主人公の名前が、「寿限無 寿限無 五劫のすり切れ 海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末 食う寝るところに住むところ やぶらこうじのぶらこうじ パイポパイポパイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助」。長久命君を縮めて、長命といいます。

隠居(いんきょ);この噺の中では隠居とか大家さんだとか、物知りの先生だとかは言っていません。大先輩なのでしょうが、若い人に説明するのにはこの位回りっくどい事を言わないと、いけないかも知れませんが、八っつあん程の所帯持ちがチョット理解を得るのに時間が掛かったようです。私ですら、もう少し早く分かりましたから。

隠居:世事を捨てて閑居すること。家長が官職を辞しまたは家督を譲って隠退すること。また、その人、その住居。戸主が自己の自由意志によってその家督相続人に家督を承継させて戸主権を放棄すること。中世の武家法以来の伝統的な法制であるが、1947年廃止。同じように、商家の旦那も息子に譲って別家に住んだ。

 隠居したからといって全く安心して相続人に後を託して生活していたわけではない。
 天皇家でも天皇職を譲り、上皇となっても、院政を布いたり、家康が秀忠に将軍職を譲っても大御所として厳然と武家社会に君臨したように、相続人が安定するまでは目を光らせるのは何時の時代でも同じです。
 ましてや民間の大店などで、息子に店を任せたはいいが、若旦那のつもりで女郎遊びにふけったり、お茶屋遊びで金銭を湯水のごとく使って、店の金を持ち出したりして、店の当主としての自覚が無い場合は、勘当という形で息子を追放することも出来たようだ。「山崎屋」の若旦那が番頭から金をせしめる時の台詞に「私が旦那になったら・・・」というのがあるが、実際には当主としての責任がその店の信用、従業員の雇用、同業者や取引先の関係ばかりでなく、地域社会にも生ずるから簡単に放蕩が出来ることではなかった。
 また隠居が知らなくても店が危なくなるほどに相続人が事業に失敗すれば、使用人の雇用関係もなくなる恐れがあり、番頭や手代が親類や縁者と相談して、相続人を隠居させ、元の旦那を復活させることもあった。現代でも二代目に会社を譲ったら、見る間に業績が低下して、元の社長が復職した等はザラで、アメリカのアップルも創業者が引退して、やはり業績が悪化したときも、創業者のジョブスが戻って、大躍進したのは有名です。

 当時の隠居は店の商売などで一応の成功をし、ひと財産作って、これを隠居時に生活の糧として分け、自分で保留しておき、隠退後に使っていくのですが、「三軒長屋」の隠居の場合のように隠居時に貸店のついた長屋を買い求め、自分は妾と共にその家の真ん中に住み、両隣を貸して家賃収入を得ようとする人もあった。
 また、「茶の湯」では家作が付いた物件を買い求めている。
 一般的には隠居は家業から隠退すると今まで居た屋敷内の相続人である息子らの母屋の裏に住まいを建て、そこで趣味三昧にふけるようになるが、店が大通りに面する場合は家の裏に住まいを持つことも出来ないときもあり、街の横丁の所に家を設け、そこに住むこともあった。そこで噺に出て来る隠居さんはいつも「横丁のご隠居」と落語の世界では呼ばれた。

 「片棒」の旦那は現役中に社会的な付き合いや素養を身に付けておかないと、隠居してから困ることになる。そのため現役中でも大店の旦那は番頭がしっかり店のことは見てくれているから、いろいろな教養を学べた。書道、茶の湯、漢詩、漢文、俳諧をやり、碁を打ち、琴、三味線、浄瑠璃、踊り等の音曲も勉強していたという。それらが高じると大変です。「寝床」のように、長屋の者や店の者、家族も含めて総出で聞きたくも無い義太夫を聞かなくてはなりません。「笠碁」では碁に熱中するあまり、しなくても言い喧嘩をしたりしています。
 「紫檀楼古木」では、ラオ屋さんが実は大変な狂歌の大宗匠であったりします。一方「松竹梅(高砂ヤ)」の三人組に婚礼の引き出物として「高砂」の謡を教えてやる隠居はその素養があったのだろう。
 教養を身に付けていたのは大店の隠居だが、普通でも画や詩歌は学んでいたのであろう。「一目上がり」では八っつあんに詩歌の意味を教えてやったり、「道観」では「七重八重・・・」と描かれた掛け軸の画と詩歌を説明してやっている。
 隠居は一通りの勉強はしているから、近所の無筆の連中から頼りにされている。「提灯屋」では、店が出した新規開店のチラシを読んでやって、大変なことになってしまう。
 また、隠居は趣味として釣りと庭つくりがあったようで、盆栽や花作りなども挙げられている。「野ざらし」に出てくる隠居は武士上がりだが、釣りが好きで毎日、川に行っていたが、ある日、葦のかげに髑髏を見つけ、酒をかけてやり、回向をしている。
 年をとれば後生を願うのは老人の常であるが、「後生うなぎ」では隠居がなんでもまな板の上にあるものは、助けなければならないと思い込み、鰻やドジョウを川に逃がしてやったが、ついに赤ん坊まで川に投げ込んでしまうお粗末を演じている。
 「江戸の夢」もかって救ってやった男が一人娘と一緒になり幸せに過ごしているので、隠居して江戸見物に来たが、婿殿に頼まれた浅草の大店の葉茶屋に来てみれば、実はそこの息子と知ってびっくりする。
 「甲府ぃ~」でも一人娘にもらった婿が店を盛り返し、親御さんを隠居させています。
 「紺田屋」では、一人娘が死んで、店が傾き隠居の身で夫婦揃って江戸に出て来たが、死んだはずの娘には孫がいて、当時の手代の新七が同じ屋号の店で繁盛させていた。
 「弥次郎」の話す旅の話を面白がって聞いている隠居は常識外れの馬鹿馬鹿しい嘘の話をする弥次郎を咎めもせず、鷹揚に聞いている隠居の姿がほほえましい。

短命の理由;腎虚(じんきょ)が原因だと言われます。腎虚って何だッ?
 広辞苑によると、漢方で、腎気(精力)欠乏に起因する病症の総称。俗に、房事過度のためにおこる衰弱症を指す。これが過ぎると死に至ります。江戸時代は栄養が十分でなく、現代では考えられないことですが、過ぎると短命になると言われていました。貝原益軒も養生訓の中で、「接して漏らさず」と言っています。若いときは「接しず漏らす」と言われたものです。

 きのふはけふの物語に、精力が尽き果てたような老人が薬屋にやって来ました。「精力減退の薬が欲しい」と言います。驚いたのが薬局のご主人、「そんな薬を飲んだら、死んでしまいますよ」、「いえ、女房に飲ませるんです」。

日本の『末摘花』(川柳本)にも、「おごる平家・・・」をもじって、
 「おごるへのこ久しからず腎虚なり」
 と戒めているが、女房としたら腎虚になるまで愛されたのは嬉しい。だから、
 「嫁の身になって嬉しい腎虚なり」  これはこれで、もっともなのですが、
 「なぜ腎虚させたとしゅうと嫁をにじ」 
 のように、姑ばあさんからごねられては、喜んでばかりはいられない。そこで、
 「がになって女房腎虚じゃないといい」と、頑張ることになる。なにしろこの病気は、
 「馬鹿らしい病気女を見るも毒」
 なのだから、女房に煎じ薬を飲ませて貰っている間に、つい・・・、
 「毒だによ毒だによとて女房させ」 これでは薬も効かない。

 フランス小話に、孫のような娘を射止め、新婚旅行にイタリアに来た。景気ズケにバーに来てポルト(ポルトワイン=ポートワイン)を一杯注文したら気の利いたバーテンが、ポルトは精を減らすからシェリー(スペイン・アンダルシア州で生産される酒精強化ワイン)にしなさいと薦められた。翌晩、バーに来て「私にシェリーを、それから女房にポルトを1ビン届けてくれたまえ」。

 古今東西、栄養が行き届かなかった時代には男は苦しんだのでしょう。男が苦しんだ病気に現代では前立腺肥大があるでしょうが、これも江戸時代には疝気(せんき)といって、「疝気の虫」の主人公で、漢方で腰腹部の疼痛を起こす悪玉。特に大小腸・生殖器などの下腹部内臓の病気で、発作的に劇痛を来し反復する状態を指します。
 『悋気は女の苦しむ病気、疝気は男が苦しむ病気』と言われるように、特に男性が罹る病気だと言われます。

■『何よりもそば(傍)が毒だと医者が言い』。蕎麦は冷えるから毒だと言うのは誤解も甚だしい。  

蕎麦の花

ヤマ;数の隠語で3。山の縦棒が3本から来ていると言います。

恵比寿様(えびすさま);【恵比須・恵比寿・夷・戎・蛭子】七福神の一柱。もと兵庫県西宮神社の祭神蛭子命(ヒルコノミコト)。海上・漁業の神、また商売繁昌の神として信仰される。風折烏帽子(カザオリエボシ)をかぶり、鯛を釣り上げる姿に描く。3歳まで足が立たなかったと伝えられ、歪んだ形や不正常なさまの形容に用い、また、福の神にあやかることを願って或る語に冠し用いたともいう。

 えびす(右図)は日本の神で、現在では七福神の一員として日本古来の唯一(その他はインドや中国由来)の福の神である。古くから漁業の神でもあり、後に留守神、さらには商いの神ともされた。えびす神社にて祀られる。日本一大きいえびす石像は舞子六神社に祀られており、商売繁盛の神社とされている。 「えびす」という神は複数あり、イザナギ、イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)か、もしくは大国主命(大黒さん)の子である事代主神(ことしろぬしかみ)とされることが多い。少数であるが、えびすを少彦名神や彦火火出見尊とすることもある。また、外来の神とされることもあり、「えびす」を「戎」や「夷」と書くことは、中央政府が地方の民や東国の者を「えみし」や「えびす」と呼んで、「戎」や「夷」と書いたのと同様で、異邦の者を意味する。このように多種多様の側面があるため、えびすを祀る神社でも祭神が異なることがある。  

婿さん(むこさん);娘の夫。特に、娘の夫として家に迎える男。結婚の相手としての男。また、婿となって嫁の家(の籍)に入ること。

 今では個人(二人)をメインに考るのですが、家、家系を主に考えた制度です。夫は、婿養子になることにより、妻の親の嫡出子、推定相続人となる。そのため、跡継ぎとして男性を欲する家がある場合に行われることが多い。 日本では、婚姻すると夫の氏を夫婦の氏にすることが圧倒的多数である。そのため、婚姻の際に夫婦の氏として妻の姓を選択したことだけで、「夫が婿養子になった」と勘違いする人がいる。しかし、それだけでは妻の親と養子縁組したことにはならず、単に戸籍の筆頭者を妻にしたに過ぎないため、妻の親の嫡出子・推定相続人にならない。



                                                            2016年8月記

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