落語「鶴満寺」の舞台を行く
   

 

 二代目桂小南の噺、「鶴満寺」(かくまんじ)より


 

 雪月花と言いますが、一番は春の桜でしょう。

 鶴満寺というお寺さんが大坂に有ります。ここには有名な桜があって、多くの人が桜見物に出掛けた。船場辺りの大旦那さん、料理を持参して芸者、太鼓持ちを大勢連れて鶴満寺さんのお花見に出掛けた。歩き疲れたところに白い塀の鶴満寺さんが見えてきたが、着いてみると大門が閉まっている。 
 太鼓持ちの一八が見に行くと張り紙がしてあり『花観る者は入るべからず』、奥には寺男が境内を掃いている。聞けば「2~3日前までは誰でも入れたが、酒飲みが大きな声で騒ぎ、池には石を投げ込み、桜の木を折ったりの狼藉が激しく、住職が怒ってお花見はいけないことになった」、「隅の木下では・・・」、「それもいけません」、どんな条件を出しても「ダメだ」の一点張り。

 「今までの花見客が悪さしたのでダメだと言っていますが、旦那さん、少し散財したら・・・」、「なんぼじゃ」、「百で結構です」、旦那から百文受け取り、「権助さん、袂を借ります」、と、百文渡した。手の平を返すようにOKが出て、「住職は法事で出掛けているから半刻ほどなら大丈夫」。
 境内に入って毛氈を敷いて考えたら、燗をする道具がない。権助に借りに行ったら、気い良くヤカンと炭の入った七輪を貸してくれた。お燗も出来て喉を湿し始めたが、権助がこちらを覗いている。「旦那、権助にも一杯飲ませてもイイですか」、「良かろう」、「権助さん、こちらで一杯、如何ですか」、「ハイ、喜んで。3杯ほどなら・・・」、「お猪口で・・・」、「いえ、バケツで」。
 「どうぞ、どうぞ」、「同じいただくなら、その大きな物で・・・」、若い芸者に酒を注いで貰って大満足。
 「三代前の住職から世話になっていて、檀家さんでは権助とは言わず、お古さんと呼ばれている。大久保彦左衛門の様な立場だ」、酔いが回ってきて、同じ事を何遍も言い出す始末。酒癖が悪く、場がしらけ始めた。三味線を入れたらと提案したら「とんでもない。俺が境内に入れてあげたのに、何て言うことを・・・」。
 「旦那、また、ご散財を・・・。一朱ばかりを」、「袖口を拝借」、「何だ、一朱か。先程が百で今度は一朱か。おぉ~、三味を弾け~。(下座よりお囃子が入る)芸者衆よ踊れ~。俺も踊る」。踊っていたがなにかにつまずき、バッタリ倒れて高いびき。このスキに一行は早々に片付け逃げ出した。

 その後に戻ってきたのが住職さん。満開の桜にご満悦。境内を良く見ると荒らされた跡が見受けられる。この下で寝ている者を見つけて、「風邪でも引いたら大事だ。権助じゃないか。これ権助起きろ、権助」、「三味線を弾け~。誰じゃ、気安く権助、権助と呼ぶのは」、「なんじゃ。あれほど人を入れてはいけないと言ったのに。また、人を入れたな」、「入れてはおらん」、「こんなに荒らされておるぞ」、「和尚が言っていた『歌詠みなら入れても良い』と言われたので入れた」、「そうだ、歌詠みなら、こんな乱暴はしない。だから言ったのだ・・・」、「歌詠みだった」、「歌詠みを入れたのか?何と詠んだ」、「そうだ『沖の暗いのに白帆が・・・』」、「何言ってるんだ。どんな歌だ」、「『花の色は うつりにけりな いたづらに
・・・』、あとは・・・」、「それは小野小町の歌だ。百人一首じゃ」、
「百人一首?ばれたか。最初は百で後が一朱だ」。

 



ことば

鶴満寺(かくまんじ);大阪市北区長柄東一丁目3-12。天台宗系のお寺で、奈良時代の創建と伝えられ、河内・西中島と移転して、江戸時代中頃の寛延年間(1750年代のころ)に、この地に順次再興されたん。ご本尊は阿弥陀如来。重要文化財(国指定)の銅鐘(朝鮮鐘)(明治42年9月21日指定)があり、太平十年(1030)二月の銘がある 。その再興当時に植えられ始めた枝垂桜は、たちまち評判となって、桜の名所になった。境内には腰掛け茶屋も出て、随分に賑わった。境内は桜の名所として知られ、樹下に各地の巡礼所の観音仏を安置して百体観音と称し、崇敬を集めていたが、明治18年(1885)の大洪水で流されてしまった。

 

大坂造幣局の花見大阪市北区天満1−1−79、本局の桜(2015年の通り抜け) この年の花「一葉」 大阪市北区の大川沿いに位置する本局は藤堂家大坂屋敷の土地にあり、同家が植栽していた桜樹木約120品種、約400本が造幣局へ引き継がれている(2015年現在、132品種、350本)。造幣局長遠藤謹助が「役人だけが花見をしていてはいけない」と1883年に一般公開を始めて以降、大阪大空襲で多くを焼失したが職員らが蒐集し多品種の桜並木が復元され、日本さくら名所百選に選定されるなど毎年4月中旬から下旬の開花時期に春の伝統行事として賑わう。夜間照明により日没後も夜桜鑑賞ができる。桜の品種は「ソメイヨシノ」が特段著名だが、ほかに一品種を「今年の花」として1975年より毎年紹介している。 太平洋戦争空襲被災の1943年から1946年以外は毎年開催され順路なども無く自由に鑑賞できたが、1967年に観客の1人が転倒したことから将棋倒しとなり、女性1人が死亡し27人が負傷。これを切っ掛けとして、翌1968年から川崎橋方向の南側ゲートから入場し桜宮橋方向の北側ゲートへ抜ける一方通行(「桜の通り抜け」)となった。2011年は東日本大震災に際し内外での開催反対意見を抑え、震災の電力危機により夜桜ライトアップを取り止めた縮小規模で昼間開催され、開催7日間に一千万円余が募金箱へ集まった。

北に行くと鶴満寺さん、南に行けば大阪城址公園があります。

大阪城公園の花見;公園内には梅林をはじめ樹木が多く植えられ、花見シーズンには桜や梅の名所となっている。濠の水辺に集まる野鳥を眺めて家族連れが憩おう姿も見られ、都会のオアシスとして市民から愛されている。日本国外からの観光客も多い。日本さくら名所百選に選定されている。

東京・千鳥ヶ淵公園(ちどりがふち_こうえん);千鳥ヶ淵緑道は、皇居西側の千鳥ヶ淵に沿う全長約700mの遊歩道で、千鳥ヶ淵戦没者墓苑入口から靖国通りまで伸びています。 千鳥ヶ淵緑道のソメイヨシノやオオシマザクラなど約260本の桜は遊歩道を歩く人の頭上に咲き、まるで桜のトンネルの中を歩いているような体験ができる、全国的にも有名な桜の名所です。観桜期には、日本全国から百万人以上の人が訪れます。
 この隣の靖国神社の桜も見応えがあります。また、東京の桜開花宣言を出す、標準木もここに有ります。

 

東京・上野恩賜公園(うえの_おんしこうえん);江戸時代、三代将軍・徳川家光が江戸城の丑寅(北東)の方角、すなわち鬼門を封じるためにこの地に東叡山寛永寺を建てた。その為、将軍の菩提所であったので、ここの敷地内ではドンチャン騒ぐことが出来ず、また、夕方には門限があって花見客は閉め出されてしまった。
 以来、寛永寺は芝の増上寺と並ぶ将軍家の墓所として権勢を誇ったが、戊辰戦争では寛永寺に立て篭った旧幕府軍の彰義隊を新政府軍が包囲殲滅したため(上野戦争)、伽藍は焼失し、一帯は焼け野原と化した。1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医ボードワンが、公園として残すよう日本政府に働きかけ、その結果1873年に日本初の公園に指定された。このことをもってボードワンは、上野公園生みの親と称されている。 2012年時点で、世界に文化と芸術を発信する「文化の森」を創出することを目的として、2010年度から2015年度までの計画で「上野恩賜公園再生整備事業」が行われている。

 

日本さくら名所100選(にほんさくらめいしょひゃくせん);1990年に公益財団法人日本さくらの会の創立25周年記念として選定、建設省、運輸省、環境庁、林野庁、全国知事会、財団法人国際花と緑の博覧会協会の後援によって行われたものである。各都道府県から最低1か所を選ぶなど、9つの選定基準によって選ばれた。

他にも日本名所100選として、
 日本の自然100選  花の百名山  日本の温泉100選  日本の音風景100選  歴史の山100選   日本神社百選  日本百名橋  日本の名城100選  日本の名水100選  日本古寺百選  日本の歴史公園100選  全国水源の森100選   日本の秘境100選  日本の清流100選  日本の谷100選  日本の滝100選  鉄道の旅100選   日本100名山  等々まだまだ有ります。

雪月花(せつげっか);雪と月と花。四季おりおりの好いながめ。つきゆきはな。

歌麿の三部作「雪月花」。 上より深川の雪。品川の月。吉原の花。

百文と一朱(100もん_いっしゅ);1両は4分=16朱。1両=(江戸初期公定相場)4貫=4000文、その後5貫とインフレになる。1両が8万円とすると、1朱は5000円。100文=2000円(4貫時)、また100文=1600円(5貫時)、となります。寺男の心付けとしたら少なくない金額です。その上に1朱も貰って、酔いつぶれるほど呑めれば言うこと無い話しです。

半刻(はんとき);1刻は約2時間、半刻は約1時間。

毛氈(もうせん);獣毛に湿気・熱・圧力・摩擦などを加えて一種の縮絨(シユクジユウ)を施し、各繊維を密着させて製する敷物用毛織物。(広辞苑)。 上図、吉原の花で、通りの床几に腰掛けている花魁が敷いているのが緋毛氈。現代ではお雛様の段飾りの布や、寄席で使う高座の緋毛氈があります。

大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん);大久保 忠教(おおくぼ ただたか)。永禄3年(1560)、三河国上和田(愛知県岡崎市)に誕生。徳川氏に仕え、17歳のときに兄・忠世と供に遠江平定戦に参加。犬居城での合戦が初陣という。以後、忠世や忠佐らの旗下で各地を転戦し、高天神城攻めで岡部元信を討ち、天正13年(1585)の第一次上田城の戦いでは全軍が真田昌幸の采配に翻弄される中、兄らと奮戦した。 天正18年(1590)、小田原征伐の後、主君・徳川家康が江戸に移封され、兄・忠世およびその子で甥忠隣が相模国小田原城主に任じられると3000石を与えられる。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは 秀忠の軍に同行し第2次上田城攻めに加わった。 このころ、次兄の忠佐は駿河国沼津城主となって2万石を領していたが忠佐の嫡子・忠兼が早世してしまったため、弟の忠教を養子として迎えて後を継がせようとしていた。しかし忠教はこの申し出を「自分の勲功ではない」と固辞したため、忠佐の死後沼津藩は無嗣改易とされた。 続けて忠隣が失脚、改易となると、それに連座して忠教も一時改易された。しかし家康直臣の旗本として召し出され、三河国額田に1000石を拝領し復帰した。慶長19年(1614)、大坂の陣にも槍奉行として従軍。家康死後も二代将軍・徳川秀忠の上洛に従い、三代将軍・徳川家光の代になって旗奉行となった。このころ更に1000石を加増されている。 寛永12年(1635)ごろから常陸国 鹿嶋に300石ほどの地を移し、余生を送りながら『三河物語』の執筆に没頭したようである。寛永16年(1639)に80歳で死去。死の間際に家光から5000石の加増を打診されたが、「余命幾ばくもない自分には有り難いが不要」と固辞したと伝えられている。
 俗に「天下のご意見番」として名高い忠教であるが、旗本以下の輿が禁止された際に「大だらい」に乗って登城したという逸話や将軍・家光にことあるごとに諫言したなどの逸話は後世の講談や講釈の中での創作である。これは太平の世に著書『三河物語』が当時の体制に不満を持っていた武功派の武士たちに支持され、いわばヒーローとして祭り上げられた結果ともいえる。右図:創作のたらいに乗って登城する大久保彦左衛門(月岡芳年画)
ウイキペディアより

『沖の暗いのに白帆が・・・』;「沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国みかん船」。紀伊国屋文左衛門の戯れ歌。紀伊国屋文左衛門は紀州湯浅(和歌山県有田郡湯浅町)の出身。文左衛門が20代の頃、紀州みかんや塩鮭で富を築いた話が伝えられる。元禄年間には江戸八丁堀へ住み、 江戸幕府の側用人柳沢吉保や勘定奉行の荻原重秀、老中の阿部正武らに賄賂を贈り接近したと言われる。上野寛永寺根本中堂の造営で巨利を得て幕府御用達の材木商人となるも、深川木場を火災で焼失、材木屋は廃業した。 また、幕府から十文銭の鋳造を請け負ったが、文左衛門の造った十文銭はとても質が悪く、五代将軍綱吉の死と同時にこの十文銭は1年で通用が停止されてしまった為大きな損失を被い商売への意欲を失ってしまった、と言われている。 晩年は浅草寺内で過ごしたのちに深川八幡に移り、宝井其角らの文化人とも交友。「千山」の俳号を名乗った。享保19年(1734)に死去したとされる。享年66。紀伊國屋は二代目文左衛門が継いだが、凡庸であったために衰退してしまった。 二男は宝永2年(1705)、程ヶ谷宿本陣六代苅部清兵衛の入り婿になり、持参金で苅部家の借財の返済に充てた。八丁堀に広大な邸を構え、奈良屋茂左衛門勝豊との吉原における豪遊の逸話が伝わっている。

『花の色は うつりにけりな いたづらに・・・』;本歌「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」 小野小町(9番) 『古今集』春・113
 訳:桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。
 栄え咲き誇った桜の花も、むなしく色あせてしまったわね。私が降り続く長雨でぼんやり時間をつぶしているうちに。かつては絶世の美女よ花よと謳われた私も、みっともなく老けこんでしまったものね。恋だの愛だの、他人との関わりのようなことに気をとられてぼんやりしているうちに。

小野小町(おののこまち);(生没年不明、9世紀ごろ)は平安時代のはじめ、文徳、清和天皇の頃の人で、女官として宮廷に仕えていたと伝えられています。 参議小野篁(おののたかむら)の孫であるとも、小野良貞の娘であるとも言われていますが、小野小町は和歌にもすぐれ、紀貫之が選んだ六歌仙や、藤原公任が選んだ三十六歌仙のひとりにも数えられていて、優れた歌人でもありました。
  また、現代でも「小野小町」といえば美人の代名詞のように使われていますが、その美しさは着物を通して輝いていたと言われるほどで、小野小町には様々な伝説が伝えられているほか、謡曲や戯曲、歌舞伎などの題材にもなっています。
  ところで、小野小町は在原業平(ありわらのなりひら)のことが好きでしたが、業平はそのことに気づきませんでした。この和歌はそのことを嘆いてつくった和歌だと言われていますが、花を喩えに、恋心を巧みに表現しています。
 この歌をタネにして「卒塔婆小町」や「通小町」など、「若い頃は絶世の美女と謳われたが、老いさらばえて落ちぶれた人生のはかなさ」を表現した謡曲や伝説が多数書かれています。土地の美人のことを「××小町」などと言うのも小町伝説の影響です。

百人一首(ひゃくにん いっしゅ、ひゃくにんしゅ);100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。 中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首(おぐら ひゃくにん いっしゅ)は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。
 小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。 室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。



                                                            2016年8月記

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