落語「青空お婆さん」の舞台を行く
   

 

 五代目古今亭今輔の噺、「青空お婆さん」(あおぞらおばあさん)より


 

 歳をとると、若い時にはあ~いう事があった、こういう事があったと、悲しい話しも、夫婦喧嘩した話しも、病気になったことも、みんな楽しい話題になるそうです。長生きはしなければいけません。自分のためにも、お孫さんのためにも。長生きの家庭に生まれたことを感謝しなければなりません。

 「春子さん、ご両親は、『是非遊びに来なさい』と言っているのに、なぜ嫌がるのです。どうして家に入ったらいけないんですか」、「イヤだわ。秋夫さんに会わせたくない人が居るんです」、「会わせたくないと言えばなおその男に会いたいですな」、「直ぐ怒るんですもの。男とは言いませんよ」、「女性だって、好きなのは春子さんで、他の女性には関心ありません。歳は若いんですか」、「私より年上で、母親より年上です。七十一になるお婆さんなんです」、「お婆さんが反対するんですか」、「秋夫さんには何も欠点は無いのですが、有るのがお婆さんなんです。会ったら、私のこと嫌いになるんじゃ無いかと、それが心配で・・・」、「行灯の油をなめるんですか」、「イヤだわ、化け猫にしちゃって。良く言えば新しくて朗らかなんです。悪く言えば脳天気で気違いじみているんです」、「大変差がありますね」、「お婆さんを神経痛ですかリュウマチが悪いので、両親が交通事故を心配して外に出さないんです。朝からテレビやラジオを聞いているので、変に新しいお婆さんが出来上がってしまったんです。近ごろは英語を習い始めたんです」、「進んでますな。是非会わせてください」。

 「お婆さん、ただいま」、「ミス春子カムイン。何ソワソワしているんだい。ハズバンドの秋夫さんが来たのかい、こちらにお入れしなさい。ミスター秋夫さん、カムイン、ハロー」、「秋夫と言います、どうぞよろしくお願いします」、「春子の祖母です。よろしくお願いします。春子、テーを入れてきなさい。懐に手を入れるんじゃ無く、ジャパニーズティーですよ。ケーキもあるでしょ」、「突然だったもので、お土産も買ってこなかったんです。何が好きですか」、「笑うかも知れませんが、ベートーベンのバイオリン協奏曲です。それと、ベルリンフィルが大好きです」、「お婆さん、何を勘違いしているの。音楽の話しでは無く嗜好品のことですよ」、「好きな物は何でも聞いておいた方がイイです。音楽には造詣が深いんですね。僕は音痴で、しいて言えば映画を観に行くぐらいです」、「でも、全然歌わないと言うことは無いでしょ」、「子供の頃は童謡など歌いましたが、あの『青空』はよく歌いました」、「私は、お掃除等の時は歌います。調子が合うので・・・。一緒に歌いませんか」、「僕はダメです」、「そんな卑下しなくても。3、4・・・」。
 「一緒に、ハイ 3、4・・・、では、(ガラガラ声で)『♪夕暮れに ランララ~ 仰ぎ見る ジャンジャジャン 輝く青空~ ジャンジャジャン 陽が暮れて~ ランララン たどるは~ ジャンジャジャン 我が家の細道 ランララン 狭いながらも楽しい我が家 愛の光の差すところ ジャンジャジャン 恋しい ランララン 家ぇこそ ジャンジャジャン 私~の青空~ ランララン』」。

 「春子、どうしたの。往来で泣いていること無いでしょ、二十四にもなって。家の中に入りなさい。秋夫さんが来ているのにお前が外に出ていたら、お婆さんと二人っきりになってしまうでしょ」、「二人で歌を唄っています」、「お婆ちゃんも脳天気でこまったな~。秋夫さんをこっちに連れていらっしゃい。秋夫さんもおかしくなってしまう」、「泣いていないで、早く家に入って、秋夫さんを連れてらっしゃい」。
 「♪ランララン ~~ ジャンジャジャン ~」、「お婆さん」、「♪ランララン ジャンジャジャン」、「お婆さん」、「♪ランララン ジャンジャジャン」、「♪お婆ぁさぁん」、「♪ジャンジャジャン」、「♪呆れたは」、「♪ジャンジャジャン 驚く有様ぁ~ ジャンジャジャン」、(相の手はお婆さんで、母親が歌う)「♪陽が暮れて~ ジャンジャジャン 歌うは ジャンジャジャン 我が家の小座敷 ランララン 浮かれながらも悲しい騒ぎぃ~ 七十過ぎたるお母さん ジャンジャジャン 情けない ジャンジャジャン 人こそ ジャンジャジャン わた~しぃの トほほほ 母親」。
 お馴染みのお婆さんで御座いまして、失礼します。

 



ことば

五代目古今亭今輔(ここんてい いますけ);(1898年(明治31年)6月12日 - 1976年(昭和51年)12月10日)は、群馬県佐波郡境町(現:伊勢崎市)出身の落語家。本名は、鈴木 五郎(すずき ごろう)(旧姓:斎藤)。生前は日本芸術協会(現:落語芸術協会)所属。出囃子は『野毛山』。俗にいう「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれた。実子は曲芸師の鏡味健二郎。
 「古典落語も、できたときは新作落語です」というのが口癖で、新作落語の創作と普及に努めた。弟子たちに稽古をつける際も、最初の口慣らしに初心者向きの『バスガール』などのネタからつけていた。だが、もともとは古典落語から落語家人生をスタートしていることもあって、高座では古典もよく演じており、一朝や前師匠小さんに仕込まれただけあって高いレベルの出来であった。特に『塩原太助』は、自身が上州生まれだったこともあり人一倍愛着が強く、晩年は全編を通しで演じていた。
 今輔については落語「妻の酒」、「ダイアモンド」参照

 前回に引き続きまして、五代目今輔です。あまり取り上げられない珍しい噺が二つ続きましたので、お婆さんものを取り上げました。

脳天気(のうてんき);【能天気・能転気】とも書く。 軽薄で向うみずなさま。なまいきなさま。また、物事を深く考えないさま。

神経痛(しんけいつう);種々の原因で、特定の神経の走行に沿って起る痛み。座骨・三叉・肋間神経などに起りやすい。
 一般に発作性の痛みが反復して現れることが多く、不規則に起こるが長時間続くことは少ない。原因不明の特発性のものから、原因のはっきりしたものまで含め、特定の末梢神経領域に起こる痛みを総称し「神経痛」と呼ぶ。手足や関節などに起こりやすいが、全身いたるところに起こりうる。強い針で刺したような、あるいは焼け付くような痛みが特徴。末梢神経への圧迫や炎症などが直接的な原因と考えられる。特に秋から冬にかけて増える傾向がある。痛みはリウマチにも似ているが、神経痛では関節の変形は起こらない。

リュウマチ関節リウマチとは、関節が炎症を起こし、軟骨や骨が破壊されて関節の機能が損なわれ、放っておくと関節が変形してしまう病気です。 腫れや激しい痛みを伴い、関節を動かさなくても痛みが生じるのが、他の関節の病気と異なる点です。 手足の関節で起こりやすく、左右の関節で同時に症状が生じやすいことも特徴です。

ベートーベンのバイオリン協奏曲;ベートーヴェン中期を代表する傑作の一つ。彼はヴァイオリンと管弦楽のための作品を他に3曲残している。2曲の小作品「ロマンス(作品40および作品50)」と第1楽章の途中で未完に終わった協奏曲(WoO 5)がそれにあたり、完成した「協奏曲」は本作品1作しかない。しかしその完成度はすばらしく、『ヴァイオリン協奏曲の王者』とも、あるいはメンデルスゾーンの作品64、ブラームスの作品77の作品とともに『三大ヴァイオリン協奏曲』とも称される。 この作品は同時期の交響曲第4番やピアノ協奏曲第4番にも通ずる叙情豊かな作品で伸びやかな表情が印象的であるが、これにはヨゼフィーネ・フォン・ダイム伯爵未亡人との恋愛が影響しているとも言われる。
写真:ヘンリック・シェリング(Vn)、ハイティンク指揮コンセルトへボウ管(1973年録音/フィリップス盤)

ベルリンフィル;ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(ドイツ語:Berliner Philharmoniker ベルリーナー・フィルハルモニカー)は、ドイツ・ベルリンのフィルハーモニー(Berliner Philharmonie ベルリーナー・フィルハルモニー)に本拠を置くオーケストラ。
 初期の
1884年にはヨハネス・ブラームスが自作の交響曲第3番を指揮し、ピアノ協奏曲第1番を弾いた。またドヴォルジャークも自作の指揮を行った。1887年にヘルマン・ヴォルフがハンス・フォン・ビューローを招き、以後、ベルリン・フィルは急速に成長し、この数年の間にハンス・リヒター、フェリックス・ワインガルトナー、リヒャルト・シュトラウス、グスタフ・マーラー、ヨハネス・ブラームス、エドヴァルド・グリーグらが指揮台に立っている。
 その後はアルトゥル・ニキシュ(1895年 - 1922年 常任指揮者)。 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1922年 - 1945年 常任指揮者、1952年 - 1954年再任、終身指揮者)。 レオ・ボルヒャルト(1945年 常任指揮者)。 セルジュ・チェリビダッケ(1945年 - 1952年 常任指揮者)。 ヘルベルト・フォン・カラヤン(1955年 - 1989年 終身指揮者・芸術監督)。 クラウディオ・アバド と世界の名指揮者が指揮台に上っている。

 

私の青空(わたしのあおぞら);My Blue Heaven (1927)
作詞:George Whiting、作曲:Walter Donaldson 日本語詞:堀内敬三、唄:二村定一/榎本健一/他多数

  日が暮れてたどるは
  我が家の細道
  狭いながらも楽しい我が家
  愛の灯影(ほかげ)
のさすころ
  恋しい家こそ私の青空
  (繰り返し)

 原曲はジャズのスタンダード、「My Blue Heaven」です。 日本語訳はエノケンや多くの歌手が歌っています。
 昭和3年(1928)にジーン・オースティンの歌で大ヒットしました。ジーン・オースティンは、この歌を抑揚を抑えた声で、殊更に感情を歌い上げることをしていません。そこが、この歌の「家族のささやかな幸せ」というテーマに合っています。
日本では、翌年の昭和3年(1928)堀内敬三の歌詞を浅草オペラの二村定一が歌って紹介されました。「アラビアの唄」とのカップリングで、レコードもヒットしました。浅草が日本で最大の盛り場であった頃のことです。二村定一は浅草オペラのコーラスボーイだったエノケンこと、榎本健一とともに、軽演劇団「カジノ・フォーリー」を作った人です。「カジノ・フォーリー」はスピード感ある踊りと音楽、おしゃれな演出と笑いで人気がありました。当時、日本でもジーン・オースティンのヒットとほとんど同時に紹介されていたことは驚くべきことです。

  

 ジャズシンガーの二村定一と、孫悟空のエノケンこと榎本健一。

 二村定一が明るく歌う「私の青空」は、日本人の庶民感覚とマッチして、これが日本でのこの歌の印象を決定付けました。堀内敬三の歌詞は、原曲のエッセンスを見事に表現していますが、原曲の歌詞とは意味が異なったものになりました。堀内敬三は「Blue Heaven」、直訳すれば「青い天国」を「青い空」としたために、日中の晴れわたる青空を連想させます。しかし原曲は夕闇が迫る、家族が集う安らぎ時を「闇に包まれる前の、空間が青く感じられる、そして天国の存在を感じるほどの幸せな場所=Blue Heaven」と表現しています。ブルーと言うと「憂鬱」を連想しがちですが、ここはハワイアン・ブルーやラプソディ・イン・ブルーのイメージです。キリスト教徒ではない日本人にとっては、「青空」のほうが晴々とした幸福を感じるものですが、アメリカと日本の「家族の幸せとやすらぎ」に対する感覚の違いでもあるようです。



                                                            2016年9月記

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