落語「釜泥」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円窓の噺、「釜泥」(かまどろ)より


 

 泥棒にもいろいろ居ますが、戦国時代の大泥棒・石川五右衛門が京都四条河原で釜ゆでの刑に処せられた。五右衛門の子分のそのまた子分が、その恨みを晴らすため大釜だけを盗み出した。
 とりわけ困ったのが豆腐屋さんで、仕事に差し障りが有った。

 「婆さんや、仲間内でもこの話しは出たが、解決策は無かった。それで、夜起きていて見張ったが、釜を盗まれた。で、新しい釜を入れたが、それも盗まれた。釜ばっかり買っていたら身上潰してしまう。今晩は寝ちゃうよ」、「お爺さんが寝ていて、泥棒が入ってきたらどうするんですか?」、「だから今晩は釜の中で寝てやろうかと思ってな。泥棒が釜を動かしたら地震だと思って目を覚まし、釜中鹿之助だと叫んだら、婆さんが枕元に置いてある金だらいを叩いて『泥棒~』と叫んでくれれば良い」、「はい、分かりました」、「釜に入るよ。婆さん、蓋を閉めてくんな。皆閉めないで少し開けておいてくれ」、「爺さん、私は寝ますよ」、「良いよ。明日の朝、お釜に火を着けるときは、俺を出してからにしておくれ。水を張るときもそうだぞ」、「それだけですか」、「はい、おやすみ」。
 「でも、退屈だな~。婆さん、一杯やりたいので、酒を持ってきてくんな」、「おやすみ」。「やっぱり、酒だけで肴が無いじゃ無いか」、チビチビやっている内は良かったが、酒が効いてきて、グッスリと寝込んでしまた。戸締まりは厳重にしていたが、そこは泥棒商売です。大きな釜を盗み出した。

 「兄貴、今日の釜は重いですね」、「明日の仕込みにと豆が入っているんじゃないか」、「月が出てますよ。『月夜に釜を抜く』とはこのことですか」、「つまらないシャレ言うな。黙って担げ」、「でも、兄貴ぃ、幾らぐらいになります?」、「親孝行してるんじゃ無い。黙って担げ」。「グゥグゥ(とイビキが聞こえる)」、「黙っていろと言ったら、寝ちまった。オイ、釜担いで寝る奴があるか」、「イビキなんてかいていませんよ。大きな目を開いています」、「イビキが聞こえたぞ」、「気のせいでしょ」。
 「婆さん~、婆さん~」、「釜担いで『婆さん』って言うなよ」、「兄貴、俺は呼ばないよ。俺には婆さんが居ないよ」、「気のせいかな。気のせいだ、気のせいだ、ヨイショヨイショ」。「婆さん、水一杯くれ!」と、大声で怒鳴った。「釜が化けた」と、泥棒はそのまま逃げ出した。
 「婆さん、地震だよ。速く逃げなくちゃ~ダメだよ。こんなグルグル回る地震も珍しい。速く逃げな。どうなっているんだ。ありゃ~、空一面星だらけだ。しまった、今夜は家を盗まれた」。

 



ことば

原話;「大釜」
 味噌屋の家へ、ある夜盗人が入り、家財はおろか着て寝た寝間着まで、引ったくられ、「今夜は着て寝るものも無し。幸いあの大釜こそ商売道具」と、大釜の中に寝る。やがて盗人、昨夜の味をしめ、また、入った所が何にも無し。「この大釜こそよき金目」と引つかたげ、すたすた逃げれば、釜の中で大イビキ。これは不思議と、畑の中に釜をおろせば、亭主、目を覚まし、あたりを見て「南無三、家を盗まれた」。
豊年俵百噺 (安永4年刊 鳥居清経画 二十話 国立国会図書館蔵 上記挿絵も)

類似小話、「つづら泥棒
 ある寝坊な男の家に泥棒が入った。所帯道具を残らず盗まれて、つづら一つだけが残された。「さてさて、こう盗まれてはどうにもならない」と言って、今度はつづらの中に入って「これなら、つづらを盗まれたって、気が付くだろう」と、安心して寝込んだ。ところが、また泥棒がやって来て、そのつづらを担ぎ出したが、中で寝返りを打った音にビックリして、泥棒はつづらを捨てて、逃げてしまった。男はつづらの蓋を開け出てみて驚いた。「南無三、今度は家を盗まれた」。
 本題の原話その弐。春帒(しゅんたい)より

楼門五三桐(さんもん ごさんの きり);石川五右衛門が有名になった芝居。安永7年4月 (1778年4月) 大坂角の芝居で初演された歌舞伎の演目。初代並木五瓶作、全五幕。二段目の返し「南禅寺山門の場」を単独で上演するときは特に『山門』(さんもん)と通称される。初演時の外題は『金門五山桐』(きんもん ごさんの きり)、のちに改称されて現在の外題となった。

 南禅寺の山門の屋上、天下をねらう大盗賊・石川五右衛門は、煙管を吹かして、「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」という名科白を廻し、夕暮れ時の満開の桜を悠然と眺めている。そこへ手紙をくわえた鷹が飛んでくる。そこに書かれたのは明国の遺臣・宋蘇卿(そう そけい)の遺言だった。読むうちに五右衛門は、自身が宋蘇卿の子で、かねてから養父・武智光秀の仇としてつけ狙っていた真柴久吉(ましば ひさきち、羽柴秀吉)が実父の仇でもあることを知る。怒りと復讐に震える五右衛門に捕り手が絡む。そこに巡礼姿に変装した久吉が現れ、五右衛門の句を詠み上げる。 久吉「石川や 浜の真砂は尽きるとも」、五右衛門「や、何と」、久吉「世に盗人の 種は尽きまじ」。驚いた五右衛門が手裏剣を打つと久吉は柄杓でそれを受け止め、「巡礼にご報謝」と双方天地でにらみ合って再会を期す。
 この場面の、金襴褞袍(きんらんどてら)に大百日鬘(だいひゃくにちかつら)という五右衛門の出で立ちは広く普及し、これが今日では一般的な五右衛門像となっている。
 右図:「天地の見得」 文政9年3月 (1826)、江戸中村座で上演された『楼門五三桐』「南禅寺山門の場」。楼上に五代目松本幸四郎の石川五右衛門、階下には二代目關三十郎(せき さんじゅうろう)の真柴久吉。二代目歌川豊国画。

石川 五右衛門(いしかわ ごえもん、生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日))は、安土桃山時代の盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で一子と共に煎り殺された。 従来その実在が疑問視されているが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述がある。また、処刑記録も現存しておりその光景を当時の絵師が残してもいる。処刑の際に詠んだとされる辞世の歌は有名。
「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」 を辞世の句としている。

月夜に釜を抜く;月夜に釜を抜かれるとは、ひどく油断すること、不注意きわまりないことのたとえ。
 「抜かれる」は、盗まれるという意味。 明るい月夜だから盗まれる心配はないだろうと思っていたら、大事な釜を盗まれてしまうことから。 『江戸いろはかるた』『上方(京都)いろはかるた』の一つ。 「月夜に釜を抜く」「月夜に釜をとられる」「月夜に釜」ともいう。
 江戸時代、鍋釜を含む金属類は近代工業以前まで泥棒が真っ先に狙うほどの貴重品であった。いかけ屋まであって直しながら使い込んだ大切な金属であった。落語「いかけ屋」に詳しい。
 

豆腐屋(とうふや);詳細は落語「甲府ぃ~」や「徂徠豆腐」を参照。

 

 上図;「江戸見世屋図聚」 三谷一馬著 中央公論社より『豆腐屋』

釜中鹿之助(かまなかしかのすけ);山中鹿之助のもじり。釜の中に居るから釜中鹿之助。
 山中 幸盛(やまなか ゆきもり)= 生誕 天文14年8月15日(1545年9月20日)?- 死没 天正6年7月17日(1578年8月20日)享年三十四。
 戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。尼子氏の家臣。通称は鹿介(しかのすけ)。巷間では山中鹿介の名でよく知られる。幼名は甚次郎(じんじろう)。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。 尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名。

 頼山陽評=嶽々(がくがく)たる驍名(ぎょうめい)、誰が鹿と呼ぶ、虎狼(ころう)の世界に麒麟(きりん)を見る。
訳文:勇名をはせた幸盛(鹿介)は、鹿という名前であるけれども、誰が鹿と呼べようか。幸盛は戦国乱世(食うか食われるかの世界)の麒麟である。

 勝海舟評=ここ数百年の史上に徴するも、本統の逆舞台に臨んで、従容として事を処理したる者は殆ど皆無だ。先づ有るというならば、山中鹿介と大石良雄であろう。
訳文:ここ数百年間の歴史を遡って見ても、本当の逆境に挑んで、慌てず落ち着いて処理した者はほとんどいない。もしいるとするなら、山中鹿介と大石良雄だろう。

 板垣退助評=私は常に山中鹿之介なるものを愛するのであります。彼は尼子の忠臣でありまして、尼子の衰運回復すべからざる時に、身を致して顧みなかった男であります。

右図:山中幸盛像「月百姿」(月岡芳年作・1886年、ウォルターズ美術館所蔵)。



                                                            2016年9月記

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