■作者「益田太郎冠者」は、三井財閥の一族で実業家・劇作家で初代三遊亭圓左のために書き下ろした作品。
益田太郎冠者(ますだたろうかじゃ、1875年(明治8年)9月25日 - 1953年(昭和28年)5月18日)は、日本の実業家・劇作家・音楽家。貴族院議員。男爵。東京都出身。本名、太郎。
三井物産の創始者・男爵 益田孝の次男であり、自らも台湾製糖、千代田火災、森永製菓など、有名企業の重役を歴任した実業家であった。一方、青年時代のヨーロッパ留学中に本場のオペレッタ、コントに親しみ、その経験から帰国後、自らの文芸趣味を生かしてユーモアに富んだ喜劇脚本を多く執筆した。帝国劇場の役員となり、森律子をはじめとする帝劇女優を起用した軽喜劇を明治末から大正時代にかけて上演した。コロッケ責めの新婚生活を嘆いたコミックソング「コロッケー」(通称「コロッケの唄」)、落語「宗論」、「堪忍袋」、この噺「かんしゃく」(いずれも初代三遊亭圓左のために執筆)は特に有名である。
板倉勝全子爵の娘、貞との間に五男二女があり、息子に洋画家の益田義信。葭町の芸者だった岩崎登里という妾のほか、森律子とも噂があり、晩年は律子が毎日通ったという。
■自動車(じどうしゃ);文楽の持ちネタで、一つだけある新作です。当時は国産自動車の端境期ですから、自家用車と運転手を持っているのは大変な力です。当時の社用車は外国車が多くて、アメ車と言われるアメリカ産の乗用車が全盛でした。ブーブーブ~~、とは警笛やエンジンをならしては来ませんが、当時の面影が見事に現されているフレーズです。
・国産第1号
明治37年(1904)ごろから、日本でも自動車を製造する動きがありましたが、関心を持つ人は少なかったようです。同年に初の国産蒸気自動車(山羽式蒸気自動車)が生まれていますし、明治40年(1907)には国産のガソリンエンジン1号車とみられる「国産吉田式自動車」(タクリー号)が製作されています。
日本で初めてオートバイを製作したのは大阪の島津楢蔵氏です。明治42年(1909)に氏のイニシャルをつけたNS号を完成させています。が、これが市販されるようになるのは大正に入ってからのことになります。
自動車の効用に、特に関心を持ったのは、時の政府のようで、明治45年(大正元年=1912)に皇室用の自動車の使用を始めています。大正天皇即位のパレードにも自動車を用いています。当時、全国の自動車保有台数は521台(大正2年・1913年)とありますから、極めて珍しい存在であったと言えます。
・アメリカ2大メーカーの進出
関東大震災を契機に、大正13年(1924)フォードが、昭和2年(1927)ゼネラルモーターズ(GM)が日本で自動車の生産を始めます。
フォードは昭和4年(1929)に年間約1万台、GMは昭和7年(1932)に年間約6,000台の生産を行いました。
また、タクシーも増えました。
大正13年(1924)には大阪で、東京ではその翌年に「円タク」と呼ばれる均一料金制のタクシーの営業が始まります。いまだ、ややぜいたくなのりものとみられていたようですが、子どもは後席の前側に設けられた折りたたみ式の補助席に座るものだとも言われました。昭和8年(1933)ごろ、当時のタクシーはフォードが44%、シボレー(GM)が27%、ダッジ6%の比率だったと言われます。(日本で作られた)外国車が主流でした。
「円タク」 江戸東京博物館蔵
■癇癪(かんしゃく);神経過敏で怒りやすい性質。また、怒り出すこと。
この噺のマクラで、文楽はこの様に言っています。「お金持ちはワガママだ」と言った人が居ますが、金持ちはワガママで、貧乏人はワガママでない、とは決まっていません。しかし、御裕福な方は身体に余裕がありますから、書物に目を通す。土台、才能がおありですから、その上ご勉強ですから、益々頭が進んできます。人のことがまどろっこしい、なんだこれ位、大勢の人が掛かって、俺だったら1人でやってしまうのに。これが癇癪の固まりです。この癇癪をほぐすのが奥様の役目で、まことにご婦人は損でございます。
■蚊遣り(かやり);蚊を追い払うために、煙をくゆらし立てること。また、そのもの。
よもぎの葉、カヤ(榧)の木、杉や松の青葉などを火にくべて、燻した煙で蚊を追い払う大正時代初期頃までの生活風習があった。
「燃え立って貌(かほ)はづかしきひとつ哉」 与謝蕪村。
「蚊やりして皆おぢ甥の在所哉」 小林一茶
「蚊遣火の煙の末をながめけり」 日野草城
右図:蚊遣り。深川江戸資料館蔵
■書生(しょせい);他人の家に世話になり、家事を手伝いながら学問する者。
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