落語「かんしゃく」の舞台を行く
   

 

 益田太郎冠者 作
 八代目桂文楽の噺、「かんしゃく」(かんしゃく)


 

 旦那様が自家用車でご帰宅です、ブーブーブ~~。「お帰~り。お帰~~り」、何回呼んでも誰も出て来ない。旦那様はキレて、自分で玄関に入って行った。「オイ。コラ。誰かおらんのか!」、慌てて使用人達が迎えに出た。「玄関でこれだけ叫んでいるのに、誰も聞こえないのか」と癇癪が落ちた。脇を見ると箒が立てかけてある。「掃除をしたのは分かるが、客が来たらみっともない。早くかたしなさい」と二回目の癇癪が落ちた。「女どもはここから出入りしてはいけないと言っている。汚い履き物が散らかっている、片付けなさい」。連射で癇癪が出てきます。「帽子掛けが曲がっている。庭に水が撒かれていない。4時に帰ってくるのが分かっているはずだ。天井に蜘蛛の巣が張っている。箒を持ってきなさい。蜘蛛を殺さないから逃げてまた巣を作るぞ。布団、布団、座布団が無いから言っているのだ。静子、お茶が出ていないぞ。(グルッと見回して)床の間の花が曲がっているぞ。額縁が曲がっている。釘を持って来い。金槌だ、ふ、ふ、ふ、踏み台だ」。完全に癇癪の鬼に変身してしまった。
 社員のご来訪。用件は済んでいるので、ユックリと食事をして行けと指図した。「まだ出来ていないのか」、まだ癇癪は収まらない。「湯は沸いていない。下をよく見て歩け、ホラ見ろ、土瓶をひっくり返した。雑巾は綺麗な物を使え」。訪ねてきた社員の山田さんは、「込み入った話なので、ご機嫌が悪いようなので、改めてお伺いします」、と言って帰ってしまった。その事でまた一騒動。
 静子さんたまりかねて、里に帰して欲しいと言い出した。「俺が言い出したんじゃ無いぞ。お前が言うのだ。帰れ、帰れ~。バカぁ~~」。

 「静子が帰って来たから、お婆さんもこちらに来なさい。帯を解いて、涼しい風を入れなさい。・・・どうしたんだい。涙なんか流して。何かあったのかい、それとも何かしくじったかい。そ~かい、しくじったか。え、お暇が出た?けしからん。旦那さんが言ったのでは無く、お前さんの口から出た。嫁に行ったらこの家は無いんだぞ。お前さんも『結構な旦那さん』だと言っていたじゃないか。それをお前から帰って来るなんて」、「お父さん、まあ、まあ、みっともないじゃないですか、そんな大きな声を出して。私はどちらの肩を持つわけではありませんが、旦那さんは外面はイイのですが、家では何時もガミガミと小言ばかり言っている人です。静子は大人しい子ですから可哀相ですョ」、「何が可哀相だ。お前が甘やかして育てたから、こんな子が出来たんだ。ウルサいから引っ込んでいろ。 ははは、良いんだ静子」。静子さんを手元に呼んで、言い聞かせた。
 「『煙くとも後に寝やすき蚊遣りかな』と言う言葉がある。辛い、クルシイ事を通り越さないと人というものになり損なうよ。旦那さんは会社で苦労して社員を使っているが、使っているのでは無い、使われているのだ。心安まるのが家だろう。その家が自分の思うようになっていなければ、小言の一つも出るよ。その家を切り回すのが、静子お前だろ。それが出来なければ女房の役は果たせない。お前の家には何人いるんだ。女性が3人、書生が2人、運転手にお前さん、それだけ居れば家が片付かない訳はありませんでしょ。お前さんがやらなくても良いんだ、それぞれ担当を決めてやらせれば良いんだ。そこに旦那さんが帰ってくればお小言が出る訳が無いだろう。そうだろう、そうだよ、分かったな。分かったら、帰りなさい。お前1人で帰さないよ。人を付けてやるから安心しなさい」。中村さんに細々とお願いをして、送り帰した。見えなくなるまで見送る父親だった。

 静子さんは利発な方なので、お父さんの言うことをじっくり考えて、各自を使いこなし、トントントンと片付けた。4時にお帰りのところ、3時半から玄関に勢揃い。
 ブーブーブ~~、「お帰~り」。「お帰りなさい。お帰りなさい。お帰りなさいませ」。「オイ、玄関の箒、片づいているな。オイ、下駄、も片づいているな。帽子掛けも直っているな。庭に水も撒かれているな。よし、ヨシ。蜘蛛の巣も取ったな。フトン、布団、敷いているか。涼しいから扇がなくてもイイ、え?扇風機が掛かっているか。花は生け替えてイイ、イイ、額縁も真っ直ぐになったか」、部屋中見回しているが、どこも気に入らないとこは見付からない。何処も片づいている。
「オイ」、「ハイ」、「これじゃ俺が怒るところが無いじゃないか」。

 



ことば

■作者「益田太郎冠者」は、三井財閥の一族で実業家・劇作家で初代三遊亭圓左のために書き下ろした作品。
 益田太郎冠者(ますだたろうかじゃ、1875年(明治8年)9月25日 - 1953年(昭和28年)5月18日)は、日本の実業家・劇作家・音楽家。貴族院議員。男爵。東京都出身。本名、太郎。 三井物産の創始者・男爵 益田孝の次男であり、自らも台湾製糖、千代田火災、森永製菓など、有名企業の重役を歴任した実業家であった。一方、青年時代のヨーロッパ留学中に本場のオペレッタ、コントに親しみ、その経験から帰国後、自らの文芸趣味を生かしてユーモアに富んだ喜劇脚本を多く執筆した。帝国劇場の役員となり、森律子をはじめとする帝劇女優を起用した軽喜劇を明治末から大正時代にかけて上演した。コロッケ責めの新婚生活を嘆いたコミックソング「コロッケー」(通称「コロッケの唄」)、落語「宗論」、「堪忍袋」、この噺「かんしゃく」(いずれも初代三遊亭圓左のために執筆)は特に有名である。 板倉勝全子爵の娘、貞との間に五男二女があり、息子に洋画家の益田義信。葭町の芸者だった岩崎登里という妾のほか、森律子とも噂があり、晩年は律子が毎日通ったという。

自動車(じどうしゃ);文楽の持ちネタで、一つだけある新作です。当時は国産自動車の端境期ですから、自家用車と運転手を持っているのは大変な力です。当時の社用車は外国車が多くて、アメ車と言われるアメリカ産の乗用車が全盛でした。ブーブーブ~~、とは警笛やエンジンをならしては来ませんが、当時の面影が見事に現されているフレーズです。

・国産第1号
 明治37年(1904)ごろから、日本でも自動車を製造する動きがありましたが、関心を持つ人は少なかったようです。同年に初の国産蒸気自動車(山羽式蒸気自動車)が生まれていますし、明治40年(1907)には国産のガソリンエンジン1号車とみられる「国産吉田式自動車」(タクリー号)が製作されています。
 日本で初めてオートバイを製作したのは大阪の島津楢蔵氏です。明治42年(1909)に氏のイニシャルをつけたNS号を完成させています。が、これが市販されるようになるのは大正に入ってからのことになります。
 自動車の効用に、特に関心を持ったのは、時の政府のようで、明治45年(大正元年=1912)に皇室用の自動車の使用を始めています。大正天皇即位のパレードにも自動車を用いています。当時、全国の自動車保有台数は521台(大正2年・1913年)とありますから、極めて珍しい存在であったと言えます。

・アメリカ2大メーカーの進出
 関東大震災を契機に、大正13年(1924)フォードが、昭和2年(1927)ゼネラルモーターズ(GM)が日本で自動車の生産を始めます。
 フォードは昭和4年(1929)に年間約1万台、GMは昭和7年(1932)に年間約6,000台の生産を行いました。
 また、タクシーも増えました。
 大正13年(1924)には大阪で、東京ではその翌年に「円タク」と呼ばれる均一料金制のタクシーの営業が始まります。いまだ、ややぜいたくなのりものとみられていたようですが、子どもは後席の前側に設けられた折りたたみ式の補助席に座るものだとも言われました。昭和8年(1933)ごろ、当時のタクシーはフォードが44%、シボレー(GM)が27%、ダッジ6%の比率だったと言われます。(日本で作られた)外国車が主流でした。
 

 「円タク」 江戸東京博物館蔵

癇癪(かんしゃく);神経過敏で怒りやすい性質。また、怒り出すこと。

 この噺のマクラで、文楽はこの様に言っています。「お金持ちはワガママだ」と言った人が居ますが、金持ちはワガママで、貧乏人はワガママでない、とは決まっていません。しかし、御裕福な方は身体に余裕がありますから、書物に目を通す。土台、才能がおありですから、その上ご勉強ですから、益々頭が進んできます。人のことがまどろっこしい、なんだこれ位、大勢の人が掛かって、俺だったら1人でやってしまうのに。これが癇癪の固まりです。この癇癪をほぐすのが奥様の役目で、まことにご婦人は損でございます。

蚊遣り(かやり);蚊を追い払うために、煙をくゆらし立てること。また、そのもの。
よもぎの葉、カヤ(榧)の木、杉や松の青葉などを火にくべて、燻した煙で蚊を追い払う大正時代初期頃までの生活風習があった。

燃え立って貌(かほ)はづかしきひとつ哉」 与謝蕪村。
「蚊やりして皆おぢ甥の在所哉」 小林一茶
「蚊遣火の煙の末をながめけり」 日野草城

右図:蚊遣り。深川江戸資料館蔵

書生(しょせい);他人の家に世話になり、家事を手伝いながら学問する者。



                                                            2015年2月記

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