落語「きゃいのう」の舞台を行く
   

 

 柳家金語楼の噺、「きゃいのう」(きゃいのう)より


 

 「おい、団ちゃんじゃないか。何処行くの」、「(女ぽい話しぶりで)あら、山本さん、お久しぶり。お陰様で、私も元気に仕事をしてますワ」、「だいぶ様子が変わったね」、「2年、3年と役者仕事をしていたら、変わりますよ」、「もっとこっちへお出でよ、人がたかるから、路地の奥で話そう。・・・今、どこかへ出てるのかい?」、「出てるのか、じゃないよ。どうして、見に来てくれないの」、「そりゃ友達だから、見に行く手はあるんだよ。だって、お前の初舞台の時は、よっチャンと六さんと辰っつぁんと、四人で行ったじゃないか。芝居、ずっと見て、どこへ出たか分からなかった。後で聞いたら、車引きの牛の後足だって。『牛の後足!』なんて、ほめ言葉にならないよ。二度目に、俺は小岩の方に用があって、お前の名前が出ているから、見に行ったら、五段目の猪だったじゃないか。大森に出たって葉書が来たから、六さんと二人で見に行ったら、塩原太助の馬じゃないか。牛、猪、馬、お前は十二支専門だよ。まあ、お前の獣(けもの)でない役は、いっぺん浅草で見たよ。天竺徳兵衛のガマやったろう。動物一式をやって、両生類にかかり、今に魚類を・・・」。
 「何を言ってるのよ。役者の修行中は仕方がないの。この頃では、ちゃんと、役が付くんだから」、「そりゃ見に行っても良いけれども、やっぱり這ってるの?」、「歩きますよ。今度は人間の役ですからね」、「人間!へぇ、人間の何やんの?・・・死人?」、「死人が歩くかよ、舞台を私は歩くんだよ。旧劇ですよ、女形。それでね、お師匠さんから言われて、役者は心構えが肝心だから、女形なら普段から、女の様な仕草をしなければいけないと。だから、私はこうするの(シナを作る)」、「そうか、役者の修行ってのはつらいんだね。でも、やっぱり芸熱心だなぁ。あの猪の時なんざ、這い出す稽古してたもんなぁ、カエルの時は雨が降った」、「何を言ってるのよ。今度は、女形。腰元ですよ」、「ああ、金魚のウンチ。お姫様の後をつながったり、切れたりしながら、付いて行くんだろ」、「いやぁね、ウンチじゃないわよ」、「じゃ、おしっこ?」。
 「今度は、たった三人しか出ない腰元の一人で、台詞が言えるんですからね」、「台詞?お前の台詞、聞いた事あるよ。ヒヒーンってのとね、モォ~ォってのと、ガマは聞かなかったけど・・・」、「何を言っているのよ。ほら、これが書き抜き。台詞が書いてあるのよ。私は、朝晩、これを見て、台詞を忘れないように、稽古してるのよ」、「へぇ、見せてくれよ。これねぇ、ああ・・・真ん中にチョロチョロっと書いてある、これ?『き・や・い・の・う』。これ何?」、「それが台詞だよ。『きやいのう』って読むんじゃないの、『きゃいのう』ってのよ」、「『きゃいのう』?そんな言葉があるのかよ。日本語の中に無いよ」、「三人の腰元の、私は最後に出るの。すると、向こうの垣根の所へ乞食が来るの。一番先の腰元が『むさ苦しい』と言うの、次の腰元が『とっとと外へ行(ゆ)』まで言うの。後、私が『きゃいのう』」、「それで『きゃいのう』かよ。お前、一人じゃ日本語にならないじゃないか。これを朝晩見て、忘れないように、稽古してるの?」、「いけないわ。楽屋入りの時間だワ」、「それじゃ~、早く行きゃいのう」。




ことば

■この噺は続きがあって・・・、
 さて、芝居の当日となります。友達、大勢が見物に押し掛ける。昔の芝居と言うのは、小道具などは自分持ち。修行中の身ですから、カツラだって、満足なモノは揃えられない。紙で作った張りぼてのカツラを用意して、楽屋で、火鉢を囲んで、タバコを飲みながら、みんなで雑談。そろそろ、出番だと言うので、キセルをポーンとはたいたんですが、そのはたいた火玉が灰吹きに入らず、カツラの上にスポッと乗っかった。そんなのを知らずに、そのカツラをかぶって舞台へ出たから、たまらない。最初は、ブスブスくすぶっていたが、やがて煙が出て、ぼうぼう燃えだした。
 さて、いよいよ、登場の場面。腰元が三人現れ、乞食を追い払う。
女形壱「むさ苦しい」、
女形弐「とっとと外へ行」、
團五兵衛「うーんん、熱いのぅ」。

初代柳家三語楼の作と伝えられるが、原作は江戸時代の小噺「武助馬」で、新作というよりは、古典の改作ととらえられる。地位の低い歌舞伎俳優の哀感を描写した小品である。その、概略は、

 武助は呉服屋の奉公人だったが、役者になりたくて芝居の一座に身を投ずる。五年後、その店に挨拶に来た。
 所属の中村勘袋一座がこの町で芝居を打つことになったので、見に来てくださいとのこと。
「役は?」
「一ノ谷嫩軍記(いちのたに・ふたばぐんき)の馬の後ろ足です」
「たとえ馬の足でも役者は役者だ」と、主人は大いに喜んで、店の者、出入りの者、親類縁者を集めて総見することにした。
 いよいよ当日。客席から大勢で武助に「待ってました! 馬の足!」と声をかける。
 後ろ足の武助は嬉しくなって、舞台を勝手に跳んだりはねたり。しまいに片足を高く持ち上げて「ひ、ひひーん」といなないた。
 客席の主人はあきれ返って「前足が鳴くのなら我慢するが、後ろ足が鳴くやつがあるか!」と怒鳴った。
武助は「最前、前足がおならをしました」。

■俗に初代柳家 三語楼(1875年3月 - 1938年6月29日)は、落語家。本名は山口 慶三。 横浜生まれで家業は運送業、セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ出身で少年時代から外国人商社で働いていたため、噺家としては珍しく英語が堪能だった。 落語が好きで、素人落語を長らくやっていた。 1910年頃?に四代目橘家圓喬に入門し右圓喬、大正元年(1912)師匠圓喬の死後は翌年、二代目談洲楼燕枝門下に移籍し燕洲となり、後に三代目柳家小さん門下で三語楼を名乗った。大正5年(1916)5月に真打昇進。大正期を代表する人気落語家の一人で、落語のマクラに英語を入れるなどナンセンス落語が大いに受けた。昭和2年(1927)、東京落語協会を飛び出し、五代目三遊亭圓生と共に独立。落語協会、俗に言う「三語楼協会」を設立した。昭和5年(1930)三語楼協会を解散して東京落語協会に戻るが、昭和7年(1932)再度離脱。昭和13年(1938)に胃がんで没。享年六十三。
 門下には柳家金語楼、七代目林家正蔵(初代林家三平の父、九代目林家正蔵、二代目林家三平の祖父)、初代柳家権太楼、五代目古今亭志ん生(東京落語協会脱退せず、協会残留)、語ン平(後の二代目古今亭甚語楼)、三味線漫談(粋談)柳家三亀松、都家琴月(後の柳家三亀坊)、柳家金語(後の古今亭志ん好)、柳家語楽(1901年-1980年代以降)、もともと漫才師で「柳家語楽・大和家こたつ」というコンビであったが、のちに膝人形などの珍芸で花王名人劇場などに出演していた。息子はやはり花王名人劇場に出ていたタップ紙切り師の花房蝶二)、柳家東三楼(元柳家東蔵)など。 なお、亡くなる直前一時期の弟子志ん生(当時七代目金原亭馬生)の次男三代目古今亭志ん朝の本名「強次」(誕生日が陸軍記念日の3月10日で勝利にちなんで)は三語楼が名付けたとされる。
 得意ネタは『九段八景』『寝床』『たぬき』『お直し』『締め込み』など。古典落語に大胆なアレンジを施して五代目志ん生などに伝えるなど、現在に影響を与えた点では初代三遊亭圓遊、初代桂春團治と並ぶ功績をあげている。「たぬき」で狸が札束に化けた時に使う「いけねえ札から蚤が出てきた」、というのは三語楼の作ったクスグリ。そのほかには『鰍沢』でお熊にピストルを持たせたり飛行機に乗って女郎買いにいくなどの奇想天外な演出を行っていたために、無名時代は仲間内の評判はよくなかったという。最初の師匠圓喬を崇拝しており、「俺が死んだときは、師匠から貰った袴が大事にとってあるから、それをはかして棺の中へ入れてくれ」と遺言していた(六代目三遊亭圓生談)。 残されているSPレコードは『厄払い』『嘘の皮』『意趣返し』『眼鏡屋泥棒』『たぬき』『高尾』『見世物風景』『宴会』のほかにコント風の『花嫁十人』『耳鏡』などがある。
ウイキペディアより

柳家 金語楼(きんごろう);40年以上も前に亡くなってしまったので、ご存知の方は少ないかも知れませんが、映画・テレビ・喜劇等々の世界では、超有名な歴史上の人物でした。ロカビリー三人男の故・山下敬二郎さんの実父であり、リバーシブルで使える運動会の紅白の帽子や、爪楊枝の頭に刻みを付け、それを折り取って爪楊枝置きにするのを考えた発明家でもありました。本名は山下敬太郎ですが、柳家金語楼の芸名のように、6歳の時に二代目三遊亭金馬(1868~1926)一座で、三遊亭金登喜(きんとき)を名乗って、柳橋や圓生と同じように子供落語家として、その芸歴をスタートさせました。12歳で小金馬を襲名して二ツ目。19歳で三代目小さん門に移り、柳家金三で真打ち。翌年陸軍に入隊し、朝鮮に駐屯中に紫斑病を罹って、20歳で頭髪がほとんど無くなりました。21歳で除隊し、三語楼一門に移って自作の「噺家の兵隊」で売り出しました。関東大震災の翌年の大正13年(1924)に、23歳で金語楼を襲名。
 人気絶頂の金語楼に協会を作らせたかった吉本興業は、落語睦会の四天王(柳橋、柳好、文楽、小文治)の内、群を抜いていた柳橋を五代目左楽(1872~1953)の了解を得て引き抜き、日本芸術協会(現在の落語芸術協会)を作らせた。吉本は、人気者の金語楼を会長にするつもりだったが、金語楼は序列が上の柳橋を会長にし、自分は副会長となる。
 現在は噺家が落語とはまったく関係の無いテレビのバラエティ番組などに出ていますが、戦前はそうではなくて、芸能人になるには鑑札と云う許可証が必要で、しかもその鑑札は、一業種しか取れませんでした。昭和13年(1938)には吉本興業に所属し最も高給を取りましたが、昭和15年には金語楼劇団を旗揚げして喜劇俳優の道へ進みましたので、噺家との二足の草鞋が履けないために、昭和17年には警視庁に落語家の鑑札を返納して噺家を廃業しました。戦後になって、昭和28年(1953)に始まったNHKテレビの「ジェスチャー」と云う番組に出演し、全国的な人気者になりました。映画・テレビに多数出演し多忙ではありましたが、高座で落語を披露する事もありました。もちろん絶大的な人気だったと談志も語ってます。金語楼は、自分の顔を商標登録していたくらいで、何も喋らなくても金語楼の顔を見ただけで客が笑うと云う、文句無しの爆笑王でした。また「こんにゃく問答」と云うNHKのテレビ番組(1954~1957)では、徳川夢声と金語楼の二人がホストとなり、各界の著名人を招いて話を聴くと云う、日本に於ける放談番組の基礎を作りました。また、金語楼は、有崎勉(ありさきつとむ=勤め先ありの洒落)のペンネームで、毎月落語を書き、自分で演じるばかりではなく、今輔や柳昇にも落語を提供していました。

車引きの牛の後足(くるまひきの うしのあとあし);車引きは「菅原伝授手習鑑」(すがわらでんじゅ てならいかがみ)という長い芝居の一部です。もともとは文楽の作品。「車引(くるまびき)」という舞台は、文楽では短い「つなぎ」の場面だったものを、歌舞伎でひたすら派手にショーアップしたものなので、ここだけ見ると筋らしい筋はありません。
 敵の右大臣の菅原道真(すがわらの みちざね)に謀反の罪をきせて九州太宰府に左遷させた、藤原時平の牛車がやってきます。ここで一騒動起こします。
牛車を引いていた牛の後足の役、これでは誰だか分かりません。

 「菅原伝授手習鑑」車引き

五段目の猪(ごだんめのいのしし);仮名手本忠臣蔵五段目に出て来る重要な猪。落語「中村仲蔵」を参照。
 猪役は「三階さん」と呼ばれる大部屋役者の役である。ある大部屋役者が猪役で出た時、揚幕の係がお前にも「成田屋」や「中村屋」のように声をかけてやろうというので、その役者は喜んだが何てかけてくれるのだろうと思った。いよいよ本番、猪が花道から飛び出した。すると揚幕係がかけたのが「ももんじ屋ッ!」、場内も舞台裏も大爆笑だった(ももんじ屋は猪料理店の名)。
 また昔はかなりいい加減なというか、おどけた事も許されていたらしい。十七代目中村勘三郎の話によれば、ある猪役の役者は本舞台に行くと、大道具の松の木に手をかけ「向うに見えるは芋畑、芋でも食ってくれべえかぁ」といって見得を切ったという。
 与市兵衛、定九郎、勘平の三人は五段目と六段目で全員死ぬことになる。死ななかったのは、猟師の勘平に獲物として狙われていたはずの猪だけである。そこで江戸時代には、次のような川柳が詠まれている。
「五段目で 運のいいのは 猪(しし)ばかり」。
 落語「中村仲蔵」から孫引き。

図:「仮名手本忠臣蔵五段目」部分 歌川国直画 

塩原太助の馬(しおばらさすけのうま);「塩原多助一代記」の『青との別れ』に出てくる青という名の馬。
 「青との別れ」 5両5粒で買い求めた馬、青を連れて元村まで使いに出した。帰りは四つ(夜10時過ぎ)になるので、目印は馬に塩原と書いた桐油を着けて行かせるから、庚申塚で切ってしまおうと打ち合わせていた。庚申塚近くになると青は後ずさりして動かなくなった。どんな事をしても動かないが、そこに友人の御膳龍(ごぜんかご)をしょった円次郎が通りかかって青を引くと動いた。で、多助が引くと動かない。円次郎が青を引いて、多助は御膳龍をしょって、それぞれの家に届ける事になった。円次郎は庚申塚でめった切りにされて絶命し、多助は何も知らず帰り着くとお亀はびっくりしたが、次の手を考え始めた。ある夜、青が激しくいななくので厩に行ってみると、原丹治、丹三郎の父子を見て、青が見た下手人である事を確信した。このままではいつかは殺される事を悟って、家を出る事を決心する。宝暦11年8月満月の夜、愛馬青に別れを告げて、江戸へ旅立って行く。
 落語「塩原多助一代記」より孫引き。

天竺徳兵衛のガマ(てんじくとくべいのがま);落語「蛙茶番」参照のこと。
 【天竺徳兵衛韓噺】 歌舞伎脚本。時代物。五幕。四世鶴屋南北(つるやなんぼく)作。文化元年(1804)7月、江戸・河原崎(かわらさき)座で初世尾上松助(おのえまつすけ=松緑)が初演。寛永年間(1624~44)天竺(インド)へ渡り、天竺徳兵衛といわれた船頭の巷説(こうせつ)「天竺徳兵衛物語」を脚色したもので、近松半二(はんじ)作の浄瑠璃『天竺徳兵衛郷鏡(さとのすがたみ)』を下敷きにした作品。天竺帰りの船頭徳兵衛が自分の素姓を吉岡宗観(そうかん)実は大明(だいみん)の臣木曽官の子と知り、父の遺志を継いで日本転覆の野望を抱き、ガマの妖術を使って神出鬼没、将軍の命をねらうが、巳(み)の年月そろった人の生き血の効験によって術を破られる。原作には徳兵衛に殺された乳母五百機(いおはた)の亡霊が現れる怪奇な場もあり、松助が二役で勤め評判になったが、その後、三世尾上菊五郎の再三の上演ごとに脚本も改訂され、五世・六世の菊五郎に継承されて尾上家の芸となり、普通『音菊(おとにきく)天竺徳兵衛』の外題で「宗観館」「同水門」「滝川館」の二幕三場が上演されている。草双紙趣味豊かな舞台で、「水門」でガマから引き抜いた徳兵衛の引込み、「滝川館」で本水を使い、越後座頭に化けた徳兵衛が偽上使になって登場する早替りなどが見もの。
 落語「蛙茶番」より孫引き。

旧劇(きゅうげき);新派劇が発足する前の劇。すなわち歌舞伎劇のこと。

女形(おんながた);演劇で、女役に扮する男の役者。また、その役柄。お山。

腰元(こしもと);貴人のそばに仕えて雑用をする侍女。

書き抜き(かきぬき);演劇で、台本から俳優一人一人のせりふだけを書きぬいて1冊に綴じたもの。所作事でせりふのないものも表紙だけを作る。台詞書。

渡り台詞(わたりぜりふ);歌舞伎で、一つづきの台詞を数人で分けて順次に言うもの。



                                                            2016年10月記

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