落語「お好み床」の舞台を行く
   

 

 二代目昔々亭桃太郎の噺、「お好み床」(おこのみどこ)より


 

 「この先に『お好み床』という床屋が出来て、お客さまの趣味を言うとそれに合わせて髭を剃ってくれる。義太夫だと、口三味線に合わせて剃ってくれるよ」、「では、皆で行ってみよう」。

 「どちらさんから髭を当たりましょうか」、「私から」、「ご趣味は何ですか?」、「野球だ」、「ベースボール、イイですな。例えば貴方の頭がボールとするとカミソリはバットですな」、「そんなので打ったらダメだよ」、「打ったら血が出る。出たらアウトだ」。「私はプロ野球も好きだが、六大学も好きですね」、「早慶戦が大好きだ」、「どちらのフアンだか当てましょうか。毛がどっさり有るから、毛多い(慶応)でしょう」、「違うよ」、「汗をイッパイかいているから、あせだ(早稲田)だ。応援も楽しい。応援団長が立って、チャッチャッチャ、そーれ、それ~で、ヒゲ剃り終わり。おまちどおさま。ゲームセット」、「4回剃っただけだから、ヒゲが残っちゃったよ」。

 「次は私だ」、「どんな趣味で?」、「民謡が好きだ。特に外国の民謡だ。『オールドブラックジョー』が大好きだ」、「では、それで剃りましょう。(替え歌で一通り剃って)、最後に油を付けてオールバックにしよー」、「オールバックにしようなんてイイね」。

 「オイ、頼むよ」、「どうぞこちらへ。どんな・・・?」、「日本伝来の笙ひちりきを聞くのが好きなんだ。あの結婚式で使う雅楽だよ。好きだから私なんか5回も式を挙げたんだ」、「音楽が終わると、神主が真ん中に出て来て祝詞をあげる。・・・カミソリを持ち、伸びたるヒゲを振り上げたまえ、八代萬の神(髪)々に刈り込み刈り込みまうす~。えいッ、ご起立をお願いします」、「親方、上手ぃなァ。やられたよ。替わってくれ」。

 「それでは親方の出来ないのを頼もう」、「歌ですか?」、「歌じゃ無い。アーメンだ」、「アーメンって何ですか? アッ、あの十字架の・・・。イイ趣味ですな。私も好きで、素麺も大好きです。教会に行って賛美歌を歌ったり、話を聞いたり、為になりますな、『ユダヤに飢饉があって、その時、祈ると天からパンが下り、野菜が下り、腹が下り』・・・」、「腹なんか下らないょ」、「数多の食物が下ったと言うでは有りませんか。♪タダ信ぜよう、信ぜよう~。信じる者は救われる」、「親方、もう良いよ。同じ所ばっかりこするなよ。ヒリヒリしてきたぜ。あれッ、赤い物が付いてるよ。顔を切ったな」、「イエス」。

 「そんな注文出すからいけないんだ。今度は俺だ」、「どんな・・・」、「ドジョウすくい」、「だんだん疲れるのが出て来たな。派手な曲で安来節ですな『♪アラ、エッサッサぁ 安来~名物・・・アラスッチャッタ~ィ』」、「何でも剃っちゃうんだ。驚いたね」。

 「クヤシイね。ドケドケ、俺の番だ」、「何が好きなんですか?」、「相撲だ」、「これは良い趣味ですな。私も好きで、櫓太鼓を聞くと身体が動いてきますな『ドドンガドドンガ、・・・・ドドンガドガドガ』おまちどおさま」、「客を放り出すなよ」、「今のはうっちゃりです」、「うっちゃりは良いけれど、全然ヒゲが剃れていないよ」、「貴方は相撲ですから、残った残った」。

 



ことば

二代目昔々亭桃太郎せきせきてい-ももたろう);落語の名跡。当代は二代目(落語芸術協会のHP上では三代目)。 昔々亭桃太郎(山下喜久雄)は自称「二十四代目」と称していたが、近年の調査では過去にそれほど多い数はなく、当代桃太郎(柳澤尚心)を入れても『古今東西落語家事典』によれば五代目か六代目くらいではないかと言われている(尚、当代は亭号を昔昔亭とし落語芸術協会のHP上では三代目としている)。
 このように、落語家の名跡の代数は概していい加減なものが多い。

 先代(自称二十四代目)昔々亭 桃太郎(1910年(明治43年)1月2日 - 1970年(昭和45年)11月5日)は、東京の落語家。柳家金語楼の弟で、本名は山下 喜久雄(やました きくお)。
 小学校卒業後、奉公に出たが長続きせず、大正15年頃(1926)、実兄・柳家金語楼が出演していた寄席に出入りするうちに落語に興味を持ち、四代目蝶花楼馬楽(後の四代目柳家小さん)門下で、柳家小楼を名乗る。昭和2年(1927)、柳家小ぎくに改名。翌年、柳家小きんで二つ目昇進。20歳のときから新作落語をやるようになり、昭和7年(1932)3月、昔々亭桃太郎と改名して真打となり、東京落語協会所属となる。その後、初代柳家三語楼門下となり、兄同様に新作落語で売り出す。
 桃太郎は、新作落語をあえて「モダン笑話」と題し、高座はもちろんレコード吹き込みから戦地慰問と大活躍。当時の首相・東條英機も熱心なファンで、首相官邸に桃太郎一人が呼ばれて落語を演じていた。また喜劇役者としての顔も持ち、兄・金語楼の主演映画には、ほとんど必ず一役貰って出ていた。戦時中は、金語楼主演映画への出演のほか、もっぱら吉本興業の寄席・演芸場や東宝名人会への出演、そして戦地慰問が活躍の場となる。
 しかし、人気絶頂時の昭和18年(1943)に召集され、満州へ。終戦後もシベリアに抑留され、昭和22年(1947)に復員。昭和27年(1952)に兄・金語楼の友人である五代目古今亭今輔の紹介で日本芸術協会に加入する。
 当時、すでに人気は後輩の二代目三遊亭歌笑(後の三代目三遊亭金馬)や、それに続く初代林家三平に移っており、昔日の面影はなかった。兄と比べ高く評価されず、今日では桃太郎の存在は忘れられている。戦争の被害を受けた落語家であった。
 百田 芦生(ももた-あしお)の名で新作・改作を行っており、主な作品には『ジャズ風呂』『落語学校』『新聞記事(上方落語『阿弥陀池』の改作)』などがある。晩年は不遇で、家族とも音信不通。松戸で親子ほど離れた愛人に看取られ、胆のうがんにより千葉県市川市の病院で昭和45年(1970)11月5日に死去した。享年六十。墓所は兄と同じ品川本立寺。戒名は「笑覚院昔桃日喜信士」。なお、兄・金語楼は2年後の1972年に亡くなっている。 所属は東京落語協会→東宝→無所属→日本芸術協会→無所属 と変遷したが、無所属の期間が長かった。これは落語界で孤立していたことを示す。

右写真:1954年以前に撮影された、TBS専属の落語家たち 後列左六代目三遊亭圓生、五代目柳家小さん、 前列左昔々亭桃太郎、五代目古今亭志ん生、八代目桂文楽。

早慶戦(そうけいせん);または慶早戦(けいそうせん)は、早稲田大学(以下、「早稲田」)と慶應義塾大学(以下、「慶應」)との対校戦です。主にスポーツ(特に野球、サッカー、ラグビー、レガッタ)での対戦であったが、スポーツ分野以外でもこの両校の学生サークルが実施する討論会などで使用されることがある。 なお、慶早戦(けいそうせん)は慶應義塾側の呼称であり、同大学の学生や卒業生の間では一般的な呼称になっている。
 早稲田と慶應による硬式野球が「早慶戦」の起源。この早慶両校の野球チームの対抗は、現在のような各種野球大会・対抗戦・競技団体組織が未整備だった当時創成期の日本野球界やさらにスポーツ界全体においても大変な人気を博した。その後の東京六大学野球連盟の結成、さらに各地のアマチュア野球の形成・発展、そしてプロ野球の発足へと続く日本野球の発展に大きく貢献し、またその礎となった。

右写真:今年(2016)の早慶戦ポスター。プロ野球よりも歴史が長い創立90周年の東京六大学野球伝統の一戦で、宣伝ポスターが世間の話題を呼んだのだ。
「ハンカチ以来パッとしないわね、早稲田さん」
「ビリギャルって言葉がお似合いよ、慶應さん」
入場者が減少傾向にあったが、この自分たちで作ったポスターによって、満員御礼になった話題のポスター。

オールドブラックジョー;フォスターが活躍した19世紀半ばのアメリカでは、黒人が登場する楽曲と言えば、彼らの滑稽さや愚鈍さをあざ笑うミンストレル・ショーなどが大勢を占めていたが、フォスターは黒人労働者達に同情的に描写した作品を書き続けていた。 『オールド・ブラック・ジョー』にも彼らへの同情的な心情が反映されているようで、穏やかなメロディの中に郷愁と哀愁が優しく漂うメランコリックな曲調となっている。歌詞の内容的にも、伝統的な黒人霊歌にも通じるスピリチュアルミュージック的な作品と言えるだろう。

 Gone are the days when my heart was young and gay,
 Gone are my friends from the cotton fields away,
 Gone from the earth to a better land I know,
 I hear their gentle voices calling "Old Black Joe".

 若く陽気な日々は過ぎ去り
 綿花畑での友人達も逝ってしまった
 地上から離れ より良い場所へ
 彼らの優しい声が聞こえる
 オールド・ブラック・ジョー

ひちりき【篳篥】;雅楽の管楽器のひとつ。奈良初期(一説に推古朝末期)、中国より伝来。大と小とあったが、平安中期からは大篳篥は絶えた。小は長さ6寸(約18.2cm)の竹管の表に7孔、裏に2孔をあけ、その間に樺(カバ)の皮を巻き、上端に蘆製の舌(蘆舌・ロゼツ)を挿入する。舌の中途に籐でつくった帯状の責(セメ)をはめて、音色・音量を調節し、縦にして吹く。音は哀調を帯びて強い。雅楽の主要旋律楽器で、初め唐楽、のち高麗楽および東遊などの日本古来の楽舞や催馬楽・朗詠に至る各種の歌曲の伴奏にも用いられる。「笙(シヨウ)篳篥」。

(しょう)」は17本の竹を束ねたような形をして、その内の15本の竹の根元に金属のリードが付いており、息を吹いたり吸ったりすることでそのリードが振動して音となります。和音を奏するのが主で、他の楽器の音を包み込むような役割があります。その形は鳳凰が翼を立てている姿とされ、古代からその音色は「天から差し込む光」を表すとされています。またこの「笙」が西洋のパイプオルガンやアコーディオン、ハーモニカのルーツであるともいわれています。
篳篥(ひちりき)」は18cmほどの竹の筒に蘆を削って作ったリードを差し込み、そのリードから息を吹き入れて音を出す縦笛です。竹には九つの指穴があいており、細いヒモ状にした桜の木の皮を巻き付け、漆で仕上げてあります。主に主旋律を担当する楽器で、なだらかな抑揚をつけながら音程を変えたりするのが特徴で、この奏法を塩梅(えんばい)といいます。音域は狭く、男性が普通に出せる声の範囲とほぼ同じ1オクターブ。古代からこの楽器の音色は「人の声」つまり「地上の音」を表すとされています。西洋楽器のオーボエなどのルーツともいわれています。
龍笛(りゅうてき)」は篳篥の旋律にまとわりつく副旋律を担当することが多く、ときには主旋律も担当したりします。7つの指穴がある横笛で、2オクターブの音域を持っています。「龍笛」という名前の通り、天と地の間を行き交う「龍の鳴き声」を表しているとされています。つまり天と地の間の空間を象徴しているのです。
 雅楽ではこれら「笙」「篳篥」「龍笛」を合奏することが基本の表現となります。それは「天」「地」「空」を合わせる、つまり音楽表現がそのまま宇宙を創ることと考えられているのです。 またこれらの楽器の音は耳や頭で聴くというよりは、空気のように肌から自然に入ってきて心のどこかに触れて感じたり、あるいは意識外のところで細胞が勝手に反応したりするのではないかと思います。 人間もひとつの宇宙ですから・・・。
 東儀秀樹 雅楽師のホームページより

安来節(やすぎぶし);島根県安来市の民謡。「どじょうすくい」という滑稽なおどりを含み、総合的な民俗芸能として、大正期を中心に全国的人気を博した。
右写真:ドジョウすくい。

イエス;イエス・キリスト(紀元前6年から紀元前4年頃 - 紀元後30年頃、ギリシア語: Ίησοῦς Χριστός、ヘブライ語ラテン文字転記:Yhoshuah ha-Mashiah)は、ギリシア語で「キリストであるイエス」、または「イエスはキリストである」という意味である。すなわち、キリスト教においてはナザレのイエスをイエス・キリストと呼んでいるが、この呼称自体にイエスがキリストであるとの信仰内容が示されている。イエスの存在についてはフラウィウス・ヨセフス(1世紀)、タキトゥス(1世紀)、スエトニウス(1世紀)などの歴史家がその著作の中で言及している。日本正教会では中世以降のギリシャ語と教会スラヴ語に由来する転写により「イイスス・ハリストス」と呼ばれる。かつてはカトリック教会ではイエスは「イエズス」と表記されていたが、現在ではあまり用いられない。戦国時代から江戸時代初期にかけてのキリシタンは、「ゼス(ゼスス)・キリシト」を用いていた。

櫓太鼓(やぐらだいこ);相撲や芝居の興行場に櫓を建て、その上で開場、閉場などを知らせるために打つ太鼓のこと。江戸時代の末期には相撲の櫓の高さは約16mと規定され、高櫓から打出す太鼓の音は江戸市中に伝わり、興行の盛況をつくりだす重要な宣伝手段であった。

右写真:両国国技館の櫓太鼓と幟。櫓太鼓は落下事故が多く今ではエレベーターで昇降しています。また、文字通りやぐらですから、その都度作られたのでしょうが、今では鉄骨のタワーになっています。



                                                            2016年10月記

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