落語「凝り相撲」の舞台を行く
   

 

 八代目雷門助六の噺、「凝り相撲」(こりずもう)より 別名、「相撲風景」(すもうふうけい)


 

 ボクシングでもいい加減な応援をしていますが、同じように相撲でも、「俺が付いているッ」なんて勝手なヤジを飛ばしています。いくら付いていても、負けるときは負けるのです。

 「帽子を被ったままで、前が見えないよ」、「帽子を取って貰おう」、「ダメだよ。取ってくれたが、帽子でなく頭が長いんだよ」、「頭を曲げろッ」。「ダメだよ。頭を曲げたら。後ろの8人皆が見えなくなっちゃった」。

 「腹が減ってきたね。エッ、作って持って来たの。お結びじゃないか。海苔のと胡麻のと両手に貰うよ」、「食べてないで相撲を見ろよ。立ったよ」、「時間前に立ったよ。(大きな掛け声で)シッカリやれよ。そこだ。手を伸ばせ。まわしを取れ。もう少しだ。・・・取ったら離すなよ。力一杯、力一杯にぎれ、親指入れたら、5本の指でグッとにぎれ」。「見なさい、あの人。おにぎり握りつぶしちゃったよ。あの手はどうなるんだろう」。「そこだ。にぎったら・・・、じれったい。回しから手を離して突っ張っていけ。あ~ぁ、暑い」。

 隣の人のネクタイを引っ張って、「そこだッ、前へ引っ張って・・・」、「苦しい!ダメですよ。ネクタイを引っ張ったら、いけません」、「何を言うんだ。この野郎、離すもんか」、「いけないよ、目の色が変わっているよ。引っ張ったら駄目だよ。ネクタイが切れる」、「切れるようなネクタイを何処で買った」、「大きなお世話だ」。

 「オイ、顔色が悪いぞ。何処か悪いのか。気持ちが悪いのか?」、「分かっているんだ。俺は相撲が好きだろう、さっきからこの一番が終わったら行こうと思っている内に、もういけません、目が霞んできた。時間の問題」、「早く行って来なょ」、「もう立てません」、「チョット待ちなよ。一緒に来たんだから。見えるか?前の酔っ払いの足元に空の二合瓶が転がっているだろう。あれを借りてくる。あの中にやってしまえ。さぁ、やっちまいな。誰も見ていないよ。相撲の方を観ているから・・・。(大きな掛け声で)早くやっちまいな。取りこぼすなよ。一本じゃ足りないのかよ。お替わり借りてくる。もう良いのか。・・・でも弱ったね、持っている訳にもいかないし、そうだ、酔っ払いだから分からないだろうから、元のところに置いておこう」。
 酔っ払いが目を覚ました。「俺が付いているんだ。頑張れよ。誰だ俺の肩を叩くのは・・・。出方さんか、ご苦労さん。なに『寿司を持って来た』、分かった貰うよ。そうだ、酒が無い、若い衆さんチョット待って。酒が無いよ~。ん?有るじゃないか。若い衆さんもう良いよ。無いと思えば黙って持って来てくれたんだ。ところで、この酒は大変なあぶくだな。あぶくで驚くか、向に吹けば良いんだ。悪い酒だな、目に染みるよ」、「旦那、旦那」、「こぼれるから、引っ張っちゃ・・・、えぇ?・・・これが・・・貴方の・・・え?そちらの方の・・・そうですか、人の物を黙って飲んで済みません」、「謝るのは私の方です」、「偉いな、謝らせずに自分で謝るなんて。江戸っ子だね、何処の生まれだぃ」、「神田の生まれで・・・」、「気に入った。寿司食いね~。酒飲みね~」。

 



ことば

八代目雷門 助六(1907年4月22日 - 1991年10月11日)は、東京都本郷出身の落語家、喜劇役者。本名は岩田 喜多二(いわた きたじ)旧姓は青木。出囃子は『助六ばやし』。愛称は「六さん」。 父は六代目雷門助六。5歳だった1912年から父の門下で小助六の名で人形町末広で初舞台、以降小噺やかっぽれで舞台に立った。1917年には五代目柳亭左楽の門人となり、小学校の頃は一時中断していた時期もあったが1921年10月には16歳の若さながら睦の五郎の名で真打に昇進(この頃同じ実父が芸人だった睦ノ太郎(後の八代目春風亭柳枝)、睦の三郎とで若手三羽烏として売り出される)。1928年には父六代目が睦会を脱退し独立した際に自身睦の五郎を返上し雷門五郎に改名する。このころから三遊亭歌奴(後の二代目三遊亭圓歌)、柳亭芝楽(後の八代目春風亭柳枝)、橘家圓蔵(後の六代目三遊亭圓生)ら若手真打5人を集めて「五大力の会」を結成。
 1934年に父の死去に伴い落語を離れ軽演劇に傾倒し「五郎ショウ」を結成し浅草などの劇場に進出。1937年ごろに雷門五郎劇団を結成、大阪にも進出、大阪では新興キネマ演芸部所属であった、戦中戦後は寄席を離れ軽演劇の一座を率いて全国を巡業。浅草松竹演芸場などを中心に喜劇役者として活躍した。1944年応召され1946年に復員し復帰。1959年より短期間ながら吉本新喜劇の座長として出演した。 1956年7月には八代目桂文楽の斡旋で落語に復帰、落語芸術協会(当時・日本芸術協会)に加入し、寄席に復帰。1962年10月に父の名八代目雷門助六を襲名し、落語に専念。東京・名古屋・岡山にまたがる雷門一門の惣領として活躍した。
 「あやつり踊り」「かっぽれ」「人形ばなし(二人羽織)」「住吉踊り」「松づくし」など踊りを中心とした寄席芸を確立した。 得意ネタは『長短』『虱茶屋』『片棒』『仕立ておろし』『宮戸川』など。
 1981年に勲五等双光旭日章受章。1986年に文化庁芸術祭賞受賞。 晩年は膝を悪くして正座が出来なくなったため、前に釈台を置き、胡坐で演じていた。 1991年に死去。満84歳没。

相撲(すもう);花見や月見の行楽や、芝居見物、相撲見物は江戸の楽しいイベントのひとつです。落語「寛政力士伝」、「佐野山」、「稲川」、「幸助餅」、「花筏」等で紹介しています。

 相撲(すもう)は、土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事や祭りであり、同時に武芸でもあり武道でもある。古くから祝儀(懸賞金という表現)を得るための興行として、大相撲が行われている。近年では、日本由来の武道・格闘技・スポーツとして国際的にも行われている。
 弥生時代、『日本書紀』には、神ではなく、人間としての力士同士の戦いで最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまいとらしむ・スマヰ」または「すまい・スマヰ」と訓す)での戦いである。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手にトドメの一撃を加えて命までをも奪った上、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代の相撲とはルールも意識も異なるもので、武芸・武術であったことは明確である。 宿禰・蹶速は相撲の始祖として祭られている。
右:「野見宿禰と當麻蹶速対戦の図」

 「平安朝相撲節会の図」

 奈良時代、突く殴る蹴るの三手の禁じ手・四十八手・作法礼法等が神亀3年(726年)に制定される。

 「織田信長の上覧相撲」

 江戸時代、江戸時代には寺社建立修繕の資金集めとして勧進相撲が興行されていた。これが職業としての大相撲の始まりとされ、以降渡世文化としての相撲が定着した。

 歌川豊国(三代)画 「東の方土俵入之図」弘化2年(1845)

 徳川将軍家の上覧相撲もたびたび開催された。

  歌川国輝(二代)画 「勧進大相撲土俵入之図」慶応2年(1866)

  江戸時代から、また座頭相撲と、そこから派生した女相撲の興行も存在し昭和30年代後半まで存続した。 江戸期には都市の発達に伴い大都市のみならず地方都市においても相撲興行が行われ、歌舞伎や人形浄瑠璃などとともに催された。それに伴い多くの浮世絵師が相撲や力士の錦絵を製作し、力士絵は浮世絵のジャンルとして確立した。

  

 『北斎漫画』の相撲絵。

出方さん(でかたさん); 芝居茶屋・相撲茶屋などに所属し、客を座席に案内したり、飲食物の世話をしたりする人。
 相撲茶屋( すもうぢゃや)、相撲興行に際し、見物人に座席を売りさばき、飲食物、みやげ物を提供する商業組織。寛政元年(1789) 頃好角家の集りから自然発生した組織団体であったが、のち上記の業務を行う営利事業になり、相撲会所 (現在では相撲協会) と契約して世襲家業となった。
 国技館内には20軒の案内所があり、その昔、それぞれが屋号を持って「お茶屋」と呼ばれていました。江戸時代にさかのぼると、大相撲のほかに芝居小屋や歌舞伎などにもお客様に代わって、入場券やお弁当など飲食の手配を引き受ける代行業として「お茶屋」制度があったのです。現在「お茶屋」は「案内所」と名称を変えてはいますが、お客様に大相撲観戦を楽しんでいただく気持ちに変わりはありません。

 

 両国国技館の茶屋に配属された、たっつけ袴の出方さん。

江戸っ子だね、何処の生まれだぃ、神田の生まれで・・・、気に入った。寿司食いね~。酒飲みね~
 三十石船の中で乗合い衆の話が街道一の親分の話となり、これを聞いていた石松が、「清水の次郎長」と答えた客を気に入り、買ってきた酒と押し寿司を喰わせる場面で「酒飲みねぇ、スシ食いねぇ、江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ」というのが広沢虎三の次郎長伝の一節です。そのパロディー。

 森の石松(もりのいしまつ、生年月日不明 - 1860年7月18日(万延元年6月1日))は、清水次郎長の子分として幕末期に活躍したとされる侠客。浪曲では「福田屋という宿屋の倅」ということになっている。森の石松の「森」とは森町村のことである。半原村説では、半原村で生まれたのち、父親に付いて移り住んだ森町村で育ったという。なお、現在語り継がれている石松は、清水次郎長の養子になった天田五郎の聞き書きによって出版された『東海遊侠伝』に因るところが大きく、そこに書かれて有名になった隻眼のイメージは、同じく清水一家の子分で隻眼の豚松と混同していた、または豚松のことを石松だと思って書かれたとも言われており、石松の人物像はおろか、その存在すら信憑性が疑われている。しかし、「遠州っ子」(1980年、ひくまの出版・刊)の森の石松にまつわる記事には、出所後の晩年を興行主として相撲や芝居などの開催を仕切っていた清水次郎長と会った事のあるという人が、次郎長が森の石松の事を聞かれて涙したと語っていた事などの記述があるため、森の石松が実在の人物なのか、それとも空想上の人物なのか、ますます判らなくなっている。
 孤児の石松は侠客の森の五郎に拾われて育てられた。侠客同士の喧嘩から上州(後の群馬県)で人を斬り、次郎長に匿われてその子分となった。酒飲みの荒くれだが義理人情に厚く、どこか間が抜けており、温泉地の賭場で八百長サイコロを使って100両儲けたと思ったら、翌日以降300両負けて次郎長の湯治費を丸ごとスッてしまい、仲間から「馬鹿は死ななきゃ直らない」とからかわれた、といった愛すべきキャラクターとして講談や浪花節(浪曲)にも数多く登場する。 病で妻に先立たれたばかりの次郎長と共に宿敵を討ち果たし、親分の御礼参りの代参で金刀比羅宮へ出掛けた帰路、方々から預かっていた次郎長への香典を狙った侠客の都田の吉兵衛(都田は後の静岡県浜松市北区都田。講談や浪花節では「都鳥」とされる)に、遠州中郡(後の静岡県浜松市浜北区小松と思われる)にて騙し討ちに遭い、斬られて死亡した。吉兵衛は翌万延2年(1861)、次郎長によって討ち果たされる。

■最後に相撲の小話を三つ、

まずは「相撲場」(すもうば)
 釈迦が獄に仁王堂というので、相撲は近年にない大入り。札を買っても中に入れないほど。裏から囲いを破って犬のように頭から入り込むと、見回りの者が見つけて、「こりゃ、そこは入る所じゃない。木戸から入れ」 と追い出される。そこで、今度は尻から入ると、見回りが見つけて、「こりゃ、そこから出る奴があるか。木戸から出ろ」  とひきずり込んだ。

 明和9年(1772)『鹿の子餅』の「角力場」。「相撲風景」の一部として、また相撲ネタのマクラに円生がよく使っていた。
 釈迦ケ獄雲右衛門は身長7尺1寸7分(238cm、体重は184kgという)と伝わる巨漢の大関(1749~75)。仁王堂は同じ時代の大関で、身長227cmという。初代横綱という明石志賀之助は、『相撲』昭和46年1月によれば、『関東遊侠伝』という物語から創作された人物だとする。能見正比古の『横綱物語』では、この明石が仁王堂と取り組んでいる。明石は目よりも高く差し上げられて投げられるが、空中で一回転、飛び蹴りで仁王堂を倒す。

相撲の蚊帳」(すもうのかや)
 相撲が大好きな米屋の旦那、町で会っても「関取」と呼ばないと返事をしない。贔屓の力士が負けてご機嫌斜めで妾宅へ現れ、妾が「それなら私と相撲を取って負かせば敵討ちをしたつもりで気分が晴れるだろう」と提案。蚊帳を張るとこれを4本柱に見立て、布団で土俵を造る。更に妾にも裸で褌一つになることを要求、妾も自分から言い出したことだから仕方がない。仕切りを終えて立ち上がると、逃げ回るばかりの妾をやっと旦那が捕まえて、豪快な上手投げ。妾の方は蚊帳にくるまって台所まで転がっていった。旦那が仁王立ちで土俵を踏みつけると、蚊帳がなくなったので、蚊の大群が攻め寄せた。
  ブーン。「ほう、勝ったので、数万の蚊がうなってくれた」。

 文政7年(1824)『噺土産』の「夫婦」をもとにしたもの。すたれかけた噺で今では演じる事も無くなりました。明治29年(1896)三代目柳家小さんの速記が残る。「妾の相撲」「蚊帳相撲」とも。「賽投げ」あるいは「妻投げ」という噺は初代柳家三語楼の改作。妻を投げると警官に捕まってしまう。理由を尋ねると、「博打容疑だ。賽(さい=妻)を投げた」というもの。
  二代目柳家甚語楼は褌一つにするときに「帯があすこに食い込む」と言ったり、二人が取り組むと「これはいかん、いつもの気分になってきた」、「まわし、邪魔ですわね、外しましょうか」とスレスレまで行く艶笑噺として演じたが、この録音が残っている。

四十八手」を、
 下っ端の相撲取りが死んで、三途の川を渡ろうとするが「しょうずかの婆ぁ」に渡す金がない。「相撲取りならわたしと一番取ろう。勝ったらタダで渡してやる」という。二人は回し姿で向かい合った。これが強い婆ぁで、なかなか負けない。そこで、婆さんの前袋(急所を隠す回しの前の部分)に手を入れて引っ掻き回すと、あら不思議、ヘナヘナとしゃがみ込んでしまった。で、無事、彼岸へ。



                                                            2016年10月記

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