落語「角兵衛の娘」の舞台を行く
   

 

 二代目三遊亭金馬の噺、「角兵衛の娘」(かくべいのむすめ)より


 

 忠臣蔵の外伝です。四十七士の中に入れなかった、討ち入りの前に急死した山岡覚兵衛という忠臣がいた。
 赤穂浪士は討ち入りの秘密を一切外部に漏らさなかったし、その上、家族や親戚にも話をしなかった。角兵衛は死の床にあったとき、娘・縫(ぬい)を枕元に呼んで、「どうぞ、父の志を通してくれ」と目をジッと見つめて、逝った。

 父親の遺志が伝わったお縫さん、葬儀を出し、家をたたんで江戸へ出た。池之端の鍔屋宗伴(つばや そうはん)を頼り、上野介の側女にして欲しいと願い出た。女大好き人間の上野介ですから、受け入れられ、一部始終の情報を山科に逐一送った。
 上杉の方では松坂町にあっては、万が一の時にはマズいだろうと、出羽の国に国替えをしようと話が進んでいた。お縫さん、同じ仇討ちをするのでも、江戸の本所松坂町の方がし易いと報告した。四十七人と道具一式を山形まで送るのでは、その差は歴然。

 時は元禄15年12月14日、本所松坂町、表門には総大将の大石良雄、裏門は一子大石主税良金、持っていた山鹿流の陣太鼓、一打ち二打ち三流れで打ち出した。上杉の方でも付け人として清水一学(一角)や、小林平八郎など名だたる武芸名人を配していた。しかし、今宵は雪も降っているし討ち入りは無いだろうと、酒を飲んで寝ていた。太鼓の音で目を覚まし、武者窓を開けて見ると、「女、小者には手を出すなッ!」と右往左往している。
 お縫さんの部屋では、自分が書いて送ってある屋敷の絵図面が、功を奏しているであろうと、薙刀を小脇に抱えて廊下に出ると、剣客の一人と出くわした。相手は仲間だと思っていたが、敵方の密使、不意を突かれたが剣術で抱えられている人間、そこはお縫さんを廊下の縁端に追い詰めた。とどめの一撃が鴨居にぐさりと大刀が刺さった。お縫さんは縁端から落ちたが、その瞬間くるりと回転して、持っていた薙刀で、乳のところから脇腹に切り込んだ。相手はおでんのチクワのようになって切られてしまった。父親の遺志を一人討ち取って仇討ちの手助けをした。
 それを見ていた大石良雄はやんやと誉めた。「良く、落ちたときにひっくり返ったものだ」、「角兵衛の娘だもの」。

 



ことば

山岡覚兵衛【やまおか かくべえ】;短命の赤穂浪士。元・百五十石。馬廻り役。 片岡源五右衛門のお父さんの親友、片野逸平(かたの いっぺい)門下で武芸の修行を積み、同門のお縫と結婚。 浅野家大変のあと、いち早く義挙に加盟血判をする。 お縫にはしらばっくれて、さしあたって泉州・堺に引っ越すが、数ヶ月経ったある日、井戸端へ出て顔を洗おうとしたとたんに脳溢血で急死してしまう。
 お縫は遺品のお守りから出てきたメモ書きから夫の決心を知り、「女ながらもあなたの妻。きっとあなたの忠義をば貫いてご覧に入れまする!」と撞木町の内蔵助の元へ自分を売り込みに行く。 山岡覚兵衛というキャラよりも、夫の亡き後に、女だてらに操を捨てて吉良邸に侵入する、このお縫という奥さんのエピソードのほうが大きく取り上げられる。
 落語「山岡角兵衛」ではお縫は娘というバージョンであり(この噺)、その場合は父・角兵衛がいまわの際に娘に「あとをたのむ」と言い残すので、池之端の鍔屋宗伴のつてで吉良邸に奉公に入る。
 角兵衛の妻(あるいは娘・縫)の活躍がメインなのは変わらないが、元禄14年の饗応がいかに大切だったか将軍・綱吉の生まれたところや、桂昌院の解説を入れたり、演者によっては勅使、院使に出す料理の下りや松之廊下。岡野金右衛門のくだりや、茶道具のくだりなど「親父のは討ち入りまでが長い話」と三代三遊亭小圓朝(昭和48年没)が語るように長尺で演じる噺家もいたようです。

赤穂事件の概要;この事件は元禄14年3月14日 (旧暦) (グレゴリオ暦1701年4月21日)、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、江戸城松之大廊下で、吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかった事に端を発する。斬りかかった理由は、浅野内匠頭によれば「この間の遺恨」が原因との事だが、浅野のいう「遺恨」がどんなものであるのかは記録に残されておらず、史実としては不明である。 事件当時、江戸城では、幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中だったので、場所がらもわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対し、五代将軍徳川綱吉は激怒。 幕府は浅野内匠頭に即日切腹を言いつけ、浅野が藩主を務める播州赤穂浅野家は改易、赤穂城も幕府に明け渡すよう命じた。 それに対し吉良は何のお咎めもなかった。当時の「喧嘩両成敗」の原則に従えば、吉良にも何らか刑が下されるはずだが、吉良が斬りつけられた際に抜刀しなかったため、この事件は「喧嘩」として扱われず、吉良には咎めがなかった。
  しかし浅野のみ刑に処せられた事に浅野家家臣達は反発。筆頭家老である大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心に対応を協議した。反発の意思を見せるため、籠城や切腹も検討されたが、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡す事にした。この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心とした浅野家再興の道も残されており、籠城は得策でないと判断されたのである。 一方、同じ赤穂藩でも江戸に詰めている家臣には強硬派(江戸急進派)がおり、主君の敵である吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。彼らは吉良邸に討ち入ろうと試みたものの、吉良邸の警戒が厳しく、彼らだけでは吉良を打ち取るのは難しかった。そこで彼らは赤穂へ行き大石内蔵助に籠城を説いたが、大石はこれに賛同せず、赤穂城は予定通り幕府に明け渡された。 吉良を打ち取ろうとする江戸急進派の動きが幕府に知られるとお家再興に支障が出てしまうので、主家再興を目標とする大石内蔵助は、江戸急進派の暴発を抑える為に彼らと二度の会議を開いている(江戸会議、山科会議)。 しかし浅野内匠頭の弟である浅野大学の閉門が決まり、播州浅野家再興の道が事実上閉ざされると、大石内蔵助や江戸急進派をはじめとした旧浅野家家臣(以降赤穂浪士と記述)達は京都の円山で会議(円山会議)を開き、大石内蔵助は吉良邸に討ち入る事を正式に表明した。
 そして仇討ちの意思を同志に確認するため、事前に作成していた血判を同志達に返してまわり、血判の受け取りを拒否して仇討ちの意思を口にしたものだけを仇討ちのメンバーとして認めた(神文返し)。 その後、大石は宣言通り江戸に下り(大石東下り)、吉良を討ち取る為に深川で会議を開いた(深川会議)。 そして元禄15年12月14日 (旧暦) (グレゴリオ暦1703年(1702年ではない)1月30日)、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった(吉良邸討ち入り)。この時討ち入りに参加した人数は大石以下47人(四十七士)である。 四十七士は吉良邸から引き揚げて、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。引き上げの最中には、四十七士のうち一人(寺坂吉右衛門)がどこかに消えているが、その理由は古来から謎とされている。 寺坂を除いた四十六人は、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従って全員切腹した。その墓は泉岳寺にある(右写真)。 

仮名手本忠臣蔵概略;忠臣蔵(ちゅうしんぐら)は、人形浄瑠璃(文楽)および歌舞伎の演目のひとつで、1748年に大阪で初演された『仮名手本忠臣蔵』の通称。また歌舞伎や演劇・映画の分野で、江戸時代元禄期に起きた赤穂事件を基にした創作作品。なお、脚色された創作であるため、史実としての赤穂事件とは異なる部分が多々ある。
 赤穂浪士の討ち入りがあってからというもの、事件を扱った物語が歌舞伎、人形浄瑠璃、講談、戯作などありとあらゆる分野で幾度となく作られてきた。 その中でも白眉となったのは浅野内匠頭の刃傷から47年後に作られた人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』である。同じ年の12月には歌舞伎にもうつされ、歌舞伎では興行上の気付薬「独参湯」と呼ばれる程の人気を博し、不入りが続くとこの演目を出すといわれた。本作以降、赤穂事件を扱った創作物は忠臣蔵ものと呼ばれる事になる。

  『仮名手本忠臣蔵』は現在でもほぼその全段が演目として残っている稀な義太夫浄瑠璃・丸本歌舞伎である。ただし現行の歌舞伎では、上演時間等の都合によって以下のように内容を大幅に省略している。
 大序:おおむね省略なし。
 二段目:ほとんど上演されず、上演することがあっても改作の「建長寺」を二段目として出すことが多い。
 三段目:ほとんどの場合「どじょうぶみ」と「裏門」を省略し、また幕間を置かず次の四段目を続けて上演する。
 四段目:「花籠」が省略され、この四段目のあと清元『落人』を挿入する。通常「出入り止めの幕」。
 五段目:省略なし。普通ではこのあと幕を引かずに舞台を廻し、すぐに六段目の場となる。
 六段目:原作冒頭のおかると母のやりとりから、一文字屋(お才)が訪ねて来るまでを略す。
 七段目:冒頭の九太夫と伴内の登場を略す。なお現行では通しでもこの七段目までしか上演されず、その後に「討入り」の幕が付け加えられることがある。
 八段目:みどり狂言形式の興行で、独立した所作事として上演されることがある。
 九段目:これもみどり狂言形式の興行で、一幕物の演目として上演されることがある。ただしそれでも「雪転し」が通常省略される。
 十段目:ほとんど上演されない。
 十一段目:現行の討入りの場面は原作の浄瑠璃の内容に基づくものではなく、幕末から明治にかけての後人の補筆によるものである。  

仮名手本忠臣蔵と落語
 大序「兜改め」  「村芝居」=村人が忠臣蔵を演じ、兜改めの場で高師直の烏帽子に蜂が入って大騒ぎになる。頭がみるみる腫れていくのを見て、客がびっくり、「師直から福助への早代変りや」。
 二段目「松切」  「芝居風呂」=芝居が好きで湯屋の入り口を芝居小屋のように改装し、中の台詞 も全部芝居尽くしにすると、これが大当たり。客同士の喧嘩も芝居でやるが、裸で見栄を切ってはっと気付き、「おい、俺の着物は」「二番目じゃあ」 円生、彦六 という大御所の録音あり。「二番目」というのが分からないので、忠臣蔵の二段目にして、「二段目じゃあ」と代えたらしい。
 三段目「喧嘩場・勘平道行」  「質屋芝居」=質屋みんなが芝居好きで、質札を出したのに、品物を取りに行く者がみんな、質草を使って勘平と伴内の喧嘩を演じる。客が入って来ると、主人が木戸番になって「札がないと入れません」「さっき表で札を出したやろ」。松の廊下の喧嘩と、勘平と伴内の喧嘩の違いを聞かせてくれる。
 「紙屑屋」=若旦那が屑屋に奉公して紙屑をより分けるが、芝居の本が出てくると夢中になって演じ始める。これが三段目、松の廊下の場面。
  「小倉船」=林家蘭丸作。「龍宮界龍の都」「龍宮」などとも。なぜか東京に残 っている。龍宮城で偽浦島が遊んでいると本物が現れ、立ち回りとなるが、勘平と伴内の立ち回りを模す。
 四段目「判官切腹」  「淀五郎」=判官役を演ることになったが、演技がまずいので由良之助の役者が傍へ来ない。苦心をしてやっと形を作ると、相手も傍へ来てくれた。「ああ、由良之助か・・・待ちかねたぁ~」 今でも大御所から若手まで、多くの演者が取り上げている。
  「四段目」=上方では「蔵丁稚」。芝居好きな小僧が蔵に閉じ込められながら芝居の真似をする。切腹しようとするのを見て慌てて食事を差し入れるが、「御膳(御前) ~」「蔵の内でか(由良之助か)」「はは」「待ちかねたぁ」 東西どちらでもよく演 じられている。
 五段目「山崎街道」  「中村仲蔵」=定九郎を演じた役者の苦心談。構成に二通り、落ちもいくつかあり、現在でも演じられる。圓生がドラマチック。弟子の円楽(先代)は林家正蔵(彦六)の型で演っていた。
  「二八浄瑠璃」=上方ネタ、浄瑠璃でこの段を語ろうとするが、猪の出場で「しし」という言葉を忘れてしまう。仲間が「十六」と声を掛ければ「しし十六」で猪を思い出すだろうと約束する。演じていてやはり同じ ところで詰まるが、「十六」「二四が八、二五の十・・・二八に出会い」。
  「能狂言」=狂言を見たことが無いという田舎大名に、江戸の噺家が演じて見せるが、当人もよくは知らないので、忠臣蔵五段目をお能の調子で演じる。金を取っ た勘平が女郎買いに行くが幕が無いから終わらない。死んでいる定九郎がいたたまれず立ち上がって、「女郎買いにはやるまいぞ、やるまいぞ」。
  「村芝居」=大序の「村芝居」の続きか。権助が頼まれて定九郎をやるが、鬘の変わりに糸屑やもぐさで髷を作る。勘平が本物の火縄銃を持っていて、その火が鬘に燃え移る。
  「田舎芝居」=「吐血」とも。これも「村芝居」の続きか。定九郎役が財布をくわえて鉄砲に撃たれるはずが、不手際で音が鳴らない。それでも口にふくんでいた血糊を入れた卵の殻を割ってしまい、口から血がたらたら。「鉄砲も鳴っていないのに、どうしただ」「今日は吐血だ」。 同じ題名のものを続けて演じたらしい。
  「辻八卦」=芝居好きな客が、定九郎や勘平がどうなっているかを尋ねる。皆現代に生まれ変わっていると説明する。勘平はいい男だから○○(演じている本人)に生まれ変わったなど。最後に「では由良之助は」「いまだ誕生つかまつりませぬ」。
  「軒付け」=上方噺。五段目をやっと上げた男が、失敗し、茶漬けをよばれようと軒付けに参加する。五段目を軽い調子でやる浄瑠璃が笑える。
 六段目「勘平切腹」  「田舎芝居」=大序の「村芝居」の続き。勘平が腹を切るのをきっかけに諸士が出るはずなのに出ない。「諸士」と声を掛けると、「しし」と聞いてしまい、前の段で役目が終わったと思っていた猪が慌てて飛び出す。
  「六段目」=その続きか。腹を切った勘平に諸士が起請文を見せようとするが、忘れてしまった。勘平、はらわたを手に、「さあ、どうするどうする」  ここまで「田舎芝居」「村芝居」は全部通しで演じるとどれがどれやら。昔は実際に通したという。「素人芝居」とも。 「鹿政談」の中でも諸士の台詞が出る。
 七段目「一力茶屋」 「七段目」=芝居好きの若旦那と小僧が七段目を演じるが、夢中になって若旦那が真剣を振り回すので、小僧が階段を転げ落ちる。大旦那が介抱して、「てっぺんから落ちたか」「いいえ、七段目」。
  「落ちゃるか」=地震と雷が廓に遊びに行って「揺らしゃんすか(由良さんか= 由良之助か)」「そちゃ、落ちゃるか」という小噺。上方では由良之助が手紙を読む 場面でお軽が上から覗いて簪を落とし、「落ちゃるか」と落ちになるそうだ。
  「由良之助」=「揺らしゃんすか」を夜布団の上でするのが激しいという意味で落とすバレ噺。
 八段目「道行嫁入」  落語にしにくい場面なのだろうか、探したが無い。
 九段目「山科閑居」  「九段目」=素人芝居で役者が足りなくなり、大急ぎで代役を探し、その人に台詞を付けるというだけの噺。舞台で斬られると血止めの煙草を出して落ちになるのが本来の型だが、円生、彦六など、前半の台詞を教える部分だけを演っていた。教わっている台詞が三河万歳になるのが落ち。
 十段目「天河屋」  「天河屋義兵衛」。由良之助が一力茶屋で遊び、玄人は飽きたと、天河屋の女房を口説く。天河屋と女房が部屋を代えて休むと、由良之助が忍んで来て、天河屋の寝ている布団に入り込む。はっと目覚めた天河屋、「天河屋義兵衛は男でござる」。
 大詰「討入」  「山岡角兵衛」=この噺。
 「敵の首」=首を作る職人が、赤穂討ち入りの場に吉良の首を届けて本懐を遂げる。 判官の幽霊が出て「これ、偽者であろう」という落ち。星新一の原作。
 「元禄女太陽伝」=吉原の小春が大石内蔵助の息子主税を男にしたという。金子成人作。

  歌舞伎の幕に関係ない 「赤垣源蔵」=兄に別れを告げに行くが、留守だったため着物を相手に杯を交わして去る。討ち入りの後、残した徳利が評判となり、人々が一目見ようと押しかけるようになる。
  「忠臣グラッ」=討ち入りなどする気のない浪士らが、町人の活動に追い詰められて行く。「何なんだ、こりゃ」が繰り返され、落ちに用いられる。立川志の輔の作。
この項、名作落語大全集#182  発行者:越智健 より 整理加筆

上杉家と吉良の関係;吉良は上杉家と親戚関係を結んでいる。 吉良の妻富子は上杉家の出身であり、長男の三之助は上杉に養子にいき、家督を継いで上杉綱憲となっている。 上杉綱憲は将軍徳川綱吉の孫娘と結婚しており、吉良は将軍家とも親戚関係にある事になる。 また吉良上野介は上杉家から養子の吉良左兵衛義周をもらっており、上野介が引退した際には左兵衛に家督を譲っている。 赤穂浪士討ち入りの際、左兵衛は薙刀を持って相手を傷つけたが、自身も額と腰から背中にかけて傷を負い、気絶した。その後気付いて父・上野介を探しに寝室に向かったが、上野介が見つからず、落胆してまた気絶している。 にもかかわらず左兵衛は「不届き」で「親の恥辱は子として遁れ難く」あるという理由で、信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとなった。 そこで罪人だからと月代を剃る事すら許されない生活を送り、宝永3年に20歳ほどの若さで死んだ。

池之端(いけのはた);寛永寺寺領であった、現在上野公園となったいる西側に位置する池を不忍池と言います。その南側の街。風光明媚で賑わっていた。

 上野・不忍池。池の後方に見える街並みが、池之端。

吉良 義央(きら よしひさ/よしなか);江戸時代前期の高家旗本。高家肝煎。赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれることが多い。本姓は源氏(清和源氏)。家紋は丸に二つ引・五三桐。
右写真:本所松坂町公園内にある吉良の像。
 最期は、12月15日未明、大石を始めとする赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入った。当主・義周はじめ吉良家臣らは防戦にあたるも、義央自身は炭小屋に隠れた。赤穂浪士たちは義央の捜索にあたったものの、容易に見つけることはできなかった。吉田兼亮や間光興らが、台所横の炭小屋から話し声がしたため、中へ入ろうとするや、皿鉢や炭などが投げつけられ、2人の吉良家臣が斬りかかってきた。切り伏せたあと、奥で動くものがあったため、間光興が槍で突いた。義央は脇差で抵抗しようとするも、武林隆重に斬り捨てられ、首を討たれた。享年62(満61歳)。 義央の首は泉岳寺の浅野長矩の墓前に捧げられたあと、箱に詰めて同寺に預けられた。寺では僧二人にこれを持たせて吉良家へ送り返し、家老の左右田孫兵衛と斎藤宮内がこれを受け取った。二人の連署の署名がある吉良の首の領収書(首一つ)を泉岳寺が残している。先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が首と胴体をつなぎ合わせたあと、菩提寺の万昌寺に葬られた。

側女(そばめ);貴人の側近く仕える女。又は本妻以外の妻。めかけ。てかけ。側室。

山科(やましな);京都市東部の区。天智天皇山科御陵・山科別院・坂上田村麻呂墓などがある。
 大石内蔵助良雄は元禄14年6月赤穂を立ち、6月25日京都・山科に隠栖します。この地を選んだのは当地出身の赤穂藩士進藤源四郎の縁故により、土地を手に入れることができたからで家屋を新築して住み始めます。閑居跡は山科区岩屋寺(京都市山科区西野山桜ノ馬場町96)のなかにあります。大石内蔵助良雄が住んだ家は残っていませんが、その住いの古材で建てられた茶室が近くに残ります。討入り後、邸宅、田畑など一切の財産を岩屋寺に寄進しています。岩屋寺には赤穂義士にちなんだ数々の遺物・遺品が保存され、一般に公開されています。元禄15年8月1日には大石内蔵助良雄、山科を引き上げ、四条河原町梅林庵に仮寓します。山科滞在中、歌舞伎では一力茶屋で遊んでいますが、事実は山科の近く、撞木町の小さな墨染遊廓で、この遊廓のなかでも大石内蔵助良雄が遊んだのは「よろずや」です。現在、石碑が建てられています。

大石内蔵助良雄(おおいし よしお/よしたか)は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名になった。 「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。
右写真:泉岳寺にある大石内蔵助の立像。

大石主税良金(おおいし ちから よしかね);(元禄元年(1688年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))、江戸時代前期の武士。 元禄(げんろく)元年生まれ。大石良雄の長男。播磨(はりま=兵庫県)赤穂四十七士のひとり。元禄14年藩主浅野長矩(ながのり)切腹後に元服。吉良邸討ち入りの際は裏門の隊長を務めた。事件後,伊予(いよ)松山藩松平家にあずけられ、元禄16年2月4日切腹。16歳。幼名は松之丞。名は良金(よしかね)。変名は垣見左内。
右図:『義士四十七図 大石主税吉金』(尾形月耕画)

本所松坂町(ほんじょまつざかちょう);本所松坂町は旧名。ここには本所松坂町公園 (ほんじょまつざかちょうこうえん)があり、東京都墨田区両国三丁目13番9号にある区立公園と言うより史跡です。赤穂事件で有名な吉良義央の邸宅があったところで、赤穂浪士によって討ち入りを決行された現場です。
 元禄時代の当時は付近の一帯が吉良義央の邸宅であり、その広さは約8400平方メートル(2550坪)と推算されている。邸宅は、赤穂浪士による討ち入りの後は江戸幕府に没収され、その後住宅などが立ち並び、往時の吉良邸を偲ばせるものはなにもなかったが、昭和9年(1934)に地元の有志らが旧邸内の「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入して東京市に寄贈し、翌昭和10年(1935)に公園として開かれたのが始まり。昭和25年(1950)に墨田区へ移管された。 普段は住宅街のなかにあるので閑散としているが、地域主催の義士祭(12月14日)が行われる際は多数の出店などがあり、近隣だけではなく全国から多くの観光客で賑わいを見せる。また、当地には斬られ役でもある義央を偲び、公園内にある稲荷社、松坂稲荷に参拝に来るものも少なくない。
左写真:本所松坂町に建つ、吉良邸跡の史跡。

出羽国(でわのくに);(古くはイデハ) 旧国名。東北地方の一国で、1869年(明治元年12月)羽前・羽後の2国に分割。今の山形・秋田両県の大部分。羽州(うしゅう)。
 江戸時代、秋田県北部では鎌倉時代以降土着した小領主を常陸に転封し、代わりに佐竹氏(久保田藩)が入った。最上氏改易(1622年)後には酒井氏(庄内藩)・鳥居氏(山形藩)・戸沢氏(新庄藩)・能見松平家(上山藩)が入ったが、山形藩の入れ替わりは激しかった。山形藩の領地は天領に組み込まれ、尾花沢・長瀞・寒河江、柴橋などの代官陣屋が置かれた。
 明治時代、明治元年12月7日(1869年1月19日)、戊辰戦争に敗けた奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われた。同日、出羽国は、現在の山形県にほぼ相当(庄内地方最上川以北は含まれない)する羽前国と、秋田県にほぼ相当する羽後国に2分割された。このとき、陸奥国も5分割された。

山鹿流の陣太鼓(やまがりゅうのじんだいこ);山鹿流の祖、山鹿素行から直々に受けた赤穂藩からの山鹿流伝系は、赤穂藩断絶後も続いた。その伝系は、山鹿素水と相前後する山鹿流兵学の双璧であった窪田清音が、安政2年(1855年)幕府が開設した講武所の頭取兼兵学師範役に就任したことで、山鹿流は幕府兵学の主軸となった。幕府の御用学として山鹿流が採用されたのは、山鹿素水、九鬼隆都、窪田清音の関係によるものとされる。
 山鹿流といえば、歌舞伎・人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』のなかで、赤穂四十七士の吉良邸討ち入りを指揮する大星由良助が合図に叩いた「山鹿流陣太鼓」が有名だが、実際には山鹿流の陣太鼓というものは存在せず、物語の中の創作。

清水一学(一角)(しみずいちがく);元禄時代の人物。忠臣蔵(赤穂事件)における赤穂浪士討ち入りの際に亡くなっている。 忠臣蔵の芝居や講談などでは剣の達人として伝わるが、実際は吉良家の中小姓(用人)である。『大河内文書』には吉良上野介と吉良義周にお供して、「少々戦いて討たれ候」とある。『江赤見聞記』によれば、当時四十歳で台所で死んだ。 なお、『吉良家分限帳』には隠居付近習七両三人扶持とあるが、『江赤見聞記』には「上野介用人、清水一学、台所口、四十歳」とあり、近習なのか用人なのか不明。
 江戸時代の歌舞伎では実際の人物の名称を使うことが禁じられていたため、作中では「清水一角」、「清水大学」などと表現される。 また今日の忠臣蔵のドラマでは清水一学を二刀流の剣士として描くことがあるが、彼を描いた明治期の歌舞伎では二刀流として扱っておらず、二刀流というイメージは近代に入ってからのものだと思われる。
右図: 五代目尾上菊五郎扮する清水一学(豊原国周画)

小林平八郎(こばやし へいはちろう);(? - 元禄15年12月15日(1703年1月31日))は、江戸時代前期の武士。高家吉良家家老。諱(実名)は央通(こばやし ひさみち)
 伝承では元は米沢藩上杉家の家臣であり、上杉家から吉良義央(上野介)に嫁いだ富子(梅嶺院)もしくは義央に養子入りした吉良義周の付き人として吉良家家臣になったとされる。しかし『上杉家分限帳』に名は見当たらないため、はじめから吉良家家臣だったと考えられる。吉良家では最上の150石取りで、名の央通の「央」の字も主君・吉良義央から与えられたものとみられる。 元禄15年(1703)、元赤穂藩の浪人(赤穂浪士)による吉良邸討ち入りに巻き込まれ討ち死にした(赤穂事件)。この赤穂事件を題材にした『忠臣蔵』などの創作物では、吉良側で最も活躍した剣客として描かれることが多いが謎も多い。『大河内文書』によれば、平八郎は逃げようとしたところを赤穂浪士達に捕らえられ、「上野介(義央)はどこか?」と聞かれたのに対して、「下々の者なので知らない」と答えるも、「下々が絹の衣服を着ているはずがない」と言われ、首を落とされたとしている。ただしこの資料は上杉家の編纂したものであるため、山吉盛侍など上杉家家臣の働きのみを評価し、それと相対させて吉良家家臣を貶める傾向があると指摘する研究家もおり、これも本当かどうかは不明。一方、赤穂方の落合与左衛門(瑤泉院付き用人)の書といわれる『江赤見聞記』には「小林平八は、槍を引っさげて激しく戦い、上野介をよく守ったが、大勢の赤穂浪士と戦ってついに討ち取られた」となっている。
右図:『月百姿 小林平八郎』(月岡芳年画)

武者窓(むしゃまど);武家屋敷の表長屋の表側に設けた、太い竪格子のある窓。武家窓。
右写真:大門の所に有る武者窓。

薙刀(なぎなた);刀剣のひとつ。刃先が広く反りかえった刀で、中心(ナカゴ)を長くして、長い柄をつけたもの。柄は銅・鉄などを蛭巻にしたものが多い。平安時代の末頃から歩兵・僧兵が人馬を薙ぎ払うのに用いたが、戦国時代には衰え、江戸時代には鞘や柄を金銀蒔絵で飾って飾り道具としたほか、武家の女子の武道として発展し、現代に及ぶ。

 薙刀の刀の部分。長船祐定(おさふね すけさだ)作。東京国立博物館蔵。

縁端(えんばな);縁側のはし。

角兵衛獅子(かくべいじし);越後獅子の別称。角兵衛は獅子頭の名工の名とも、獅子舞いの親方の名ともいう。右:角兵衛獅子。
 越後獅子が江戸に来たのは宝暦5年(1755)のことで、諸侯へ召し出されて獅子冠を演じた親方が角兵衛であったから角兵衛の獅子、角兵衛獅子となったともいう。信濃川中流部の中之口川沿岸の農民角兵衛が毎年の凶作や飢饉から村人を救うため、獅子舞を創案した。江戸後期の風俗百科事典『嬉遊笑覧』には「越後獅子を江戸にては角兵衛獅子といふ。越後にては蒲原郡より出づるに依りカンバラ獅子といふとぞ、角兵衛獅子は、恐らくは蒲原獅子の誤りならむ」とある。『娯楽業者の群』によると、洪水に悩まされた月潟村の者が堤を造る費用を得るために、子供に越後の獅子踊りをさせて旅稼ぎをさせたのが始まりで、江戸時代には、越後から親方が連れて各地を訪れていたが、大正時代の東京では、東京に定住した新潟出身者が行なっていたという。
 大道芸としては明治時代に衰退してゆく。更に義務教育の定着などの社会の意識の変化により、児童に対して親方と呼ばれる大人が鞭を用いた体罰で芸を仕込むことや学校にも通わせないことに対する嫌悪感が生まれ、次第に忌避の対象となっていった。明治中期の東京では、小石川柳町が角兵衛獅子の棲家で、2~3人の親方が貧しい家の子を4~5歳のうちに4~5円で買い取り、体を柔らかくするために酢を飲ませたり、棍棒や分銅を使って稽古をさせるなどしており、その扱いが残酷であるとして警視庁から新たな子供を加えてはいけないという禁止令が出され、次第に数が減っていった。明治末期の1910年にロンドンで開かれた日英博覧会には、日本を代表する大道芸として他の芸人らとともに2名の角兵衛獅子が参加した。



                                                            2016年11月記

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