落語「角兵衛の娘」の舞台を行く 二代目三遊亭金馬の噺、「角兵衛の娘」(かくべいのむすめ)より
■山岡覚兵衛【やまおか かくべえ】;短命の赤穂浪士。元・百五十石。馬廻り役。
片岡源五右衛門のお父さんの親友、片野逸平(かたの いっぺい)門下で武芸の修行を積み、同門のお縫と結婚。
浅野家大変のあと、いち早く義挙に加盟血判をする。
お縫にはしらばっくれて、さしあたって泉州・堺に引っ越すが、数ヶ月経ったある日、井戸端へ出て顔を洗おうとしたとたんに脳溢血で急死してしまう。
■赤穂事件の概要;この事件は元禄14年3月14日 (旧暦) (グレゴリオ暦1701年4月21日)、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、江戸城松之大廊下で、吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかった事に端を発する。斬りかかった理由は、浅野内匠頭によれば「この間の遺恨」が原因との事だが、浅野のいう「遺恨」がどんなものであるのかは記録に残されておらず、史実としては不明である。
事件当時、江戸城では、幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中だったので、場所がらもわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対し、五代将軍徳川綱吉は激怒。
幕府は浅野内匠頭に即日切腹を言いつけ、浅野が藩主を務める播州赤穂浅野家は改易、赤穂城も幕府に明け渡すよう命じた。
それに対し吉良は何のお咎めもなかった。当時の「喧嘩両成敗」の原則に従えば、吉良にも何らか刑が下されるはずだが、吉良が斬りつけられた際に抜刀しなかったため、この事件は「喧嘩」として扱われず、吉良には咎めがなかった。
■仮名手本忠臣蔵概略;忠臣蔵(ちゅうしんぐら)は、人形浄瑠璃(文楽)および歌舞伎の演目のひとつで、1748年に大阪で初演された『仮名手本忠臣蔵』の通称。また歌舞伎や演劇・映画の分野で、江戸時代元禄期に起きた赤穂事件を基にした創作作品。なお、脚色された創作であるため、史実としての赤穂事件とは異なる部分が多々ある。
『仮名手本忠臣蔵』は現在でもほぼその全段が演目として残っている稀な義太夫浄瑠璃・丸本歌舞伎である。ただし現行の歌舞伎では、上演時間等の都合によって以下のように内容を大幅に省略している。
■仮名手本忠臣蔵と落語
歌舞伎の幕に関係ない
「赤垣源蔵」=兄に別れを告げに行くが、留守だったため着物を相手に杯を交わして去る。討ち入りの後、残した徳利が評判となり、人々が一目見ようと押しかけるようになる。
■上杉家と吉良の関係;吉良は上杉家と親戚関係を結んでいる。
吉良の妻富子は上杉家の出身であり、長男の三之助は上杉に養子にいき、家督を継いで上杉綱憲となっている。 上杉綱憲は将軍徳川綱吉の孫娘と結婚しており、吉良は将軍家とも親戚関係にある事になる。
また吉良上野介は上杉家から養子の吉良左兵衛義周をもらっており、上野介が引退した際には左兵衛に家督を譲っている。
赤穂浪士討ち入りの際、左兵衛は薙刀を持って相手を傷つけたが、自身も額と腰から背中にかけて傷を負い、気絶した。その後気付いて父・上野介を探しに寝室に向かったが、上野介が見つからず、落胆してまた気絶している。
にもかかわらず左兵衛は「不届き」で「親の恥辱は子として遁れ難く」あるという理由で、信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとなった。 そこで罪人だからと月代を剃る事すら許されない生活を送り、宝永3年に20歳ほどの若さで死んだ。
■池之端(いけのはた);寛永寺寺領であった、現在上野公園となったいる西側に位置する池を不忍池と言います。その南側の街。風光明媚で賑わっていた。
上野・不忍池。池の後方に見える街並みが、池之端。
■吉良 義央(きら よしひさ/よしなか);江戸時代前期の高家旗本。高家肝煎。赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれることが多い。本姓は源氏(清和源氏)。家紋は丸に二つ引・五三桐。
■側女(そばめ);貴人の側近く仕える女。又は本妻以外の妻。めかけ。てかけ。側室。
■山科(やましな);京都市東部の区。天智天皇山科御陵・山科別院・坂上田村麻呂墓などがある。
■大石内蔵助良雄(おおいし よしお/よしたか)は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名になった。
「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。
■大石主税良金(おおいし ちから よしかね);(元禄元年(1688年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))、江戸時代前期の武士。
元禄(げんろく)元年生まれ。大石良雄の長男。播磨(はりま=兵庫県)赤穂四十七士のひとり。元禄14年藩主浅野長矩(ながのり)切腹後に元服。吉良邸討ち入りの際は裏門の隊長を務めた。事件後,伊予(いよ)松山藩松平家にあずけられ、元禄16年2月4日切腹。16歳。幼名は松之丞。名は良金(よしかね)。変名は垣見左内。
■本所松坂町(ほんじょまつざかちょう);本所松坂町は旧名。ここには本所松坂町公園 (ほんじょまつざかちょうこうえん)があり、東京都墨田区両国三丁目13番9号にある区立公園と言うより史跡です。赤穂事件で有名な吉良義央の邸宅があったところで、赤穂浪士によって討ち入りを決行された現場です。
■出羽国(でわのくに);(古くはイデハ)
旧国名。東北地方の一国で、1869年(明治元年12月)羽前・羽後の2国に分割。今の山形・秋田両県の大部分。羽州(うしゅう)。
■山鹿流の陣太鼓(やまがりゅうのじんだいこ);山鹿流の祖、山鹿素行から直々に受けた赤穂藩からの山鹿流伝系は、赤穂藩断絶後も続いた。その伝系は、山鹿素水と相前後する山鹿流兵学の双璧であった窪田清音が、安政2年(1855年)幕府が開設した講武所の頭取兼兵学師範役に就任したことで、山鹿流は幕府兵学の主軸となった。幕府の御用学として山鹿流が採用されたのは、山鹿素水、九鬼隆都、窪田清音の関係によるものとされる。
■清水一学(一角)(しみずいちがく);元禄時代の人物。忠臣蔵(赤穂事件)における赤穂浪士討ち入りの際に亡くなっている。
忠臣蔵の芝居や講談などでは剣の達人として伝わるが、実際は吉良家の中小姓(用人)である。『大河内文書』には吉良上野介と吉良義周にお供して、「少々戦いて討たれ候」とある。『江赤見聞記』によれば、当時四十歳で台所で死んだ。
なお、『吉良家分限帳』には隠居付近習七両三人扶持とあるが、『江赤見聞記』には「上野介用人、清水一学、台所口、四十歳」とあり、近習なのか用人なのか不明。
■小林平八郎(こばやし へいはちろう);(? -
元禄15年12月15日(1703年1月31日))は、江戸時代前期の武士。高家吉良家家老。諱(実名)は央通(こばやし ひさみち)
■武者窓(むしゃまど);武家屋敷の表長屋の表側に設けた、太い竪格子のある窓。武家窓。
■薙刀(なぎなた);刀剣のひとつ。刃先が広く反りかえった刀で、中心(ナカゴ)を長くして、長い柄をつけたもの。柄は銅・鉄などを蛭巻にしたものが多い。平安時代の末頃から歩兵・僧兵が人馬を薙ぎ払うのに用いたが、戦国時代には衰え、江戸時代には鞘や柄を金銀蒔絵で飾って飾り道具としたほか、武家の女子の武道として発展し、現代に及ぶ。
薙刀の刀の部分。長船祐定(おさふね すけさだ)作。東京国立博物館蔵。
■縁端(えんばな);縁側のはし。
■角兵衛獅子(かくべいじし);越後獅子の別称。角兵衛は獅子頭の名工の名とも、獅子舞いの親方の名ともいう。右:角兵衛獅子。
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