落語「素人相撲」の舞台を行く
   
 

 古今亭志ん生の噺、「素人相撲」(しろうとずもう)より


 

 相撲取りは「1年を20日で暮らすイイ男」と言い、昔は20日間しか取らなかった。

 四股名でも聞いただけで強いか弱いか分かった。『四度飯(よたびめし)』と『朝粥(あさがい)』とが戦ったが、『四度飯』が当然勝った。
 大きな力士がいて、『釋迦ヶ岳』と言う力士は七つの時に、朝豆腐屋に買い物に行った。ドンドンと叩いたのが2階の雨戸で、ビックリしたおかみさんが出て来て釋迦ヶ岳の向こう脛に頭をぶつけてひっくり返った。その釋迦ヶ岳が大きくなって、土俵に上がったが、曇っているときは大きくて顔が良く見えない。それでは相撲が分からないので、晴天10日にやるようになった。当てにはなりませんが・・・。

 「大きいね、あの関取は、膝のところまでどの位有るんだろうね」、「三里はあるだろう」。三里と見当を付けたのはその頃からだと言われます。

 江戸では夏に暑いですから、皆が寄って素人相撲をやりますな。その中には常連が居まして、商売人みたいになっています。飛び入り勝手次第となっていますから、ドンドンやって来ますな。
 素人相撲も進み、東から出た力士が、身の丈7尺に近いような大男。対戦相手を探して、「鍛冶屋の関取、どうですか」、「相手はどいつだ。あれかぁ・・・。う~、チョッと出られないんだ。下っ腹が痛いんだ」、「さっきまで『調子良い』と言っていたじゃ無いか」、「急に痛くなってきたんだ」。「建具屋の関取、出たらどうだい」、「あれかい。あれはダメだ。急に腰の骨がズキンズキンとするんだ。明日医者に行こうと思うんだ」。「誰も出なかったら恥ずかしいよ。大工の関取どうです」、「親父が今わの際に枕元に呼んで、『相撲を取るのは良いが大きな飛び入りが出たときは、取ってはいけないよ』と、言い残したんだ。遺言は破れない」。「どうしたもんだろうね。相手が居ないというのは情けないね」。

 そう言っている間に出て来たのが、小さ過ぎる飛び入りだった。「そっち行って」、「俺が取るんだ」、「あのね、子供は昼間、夜は大人なんだ」、「こう見えても大人だい。湯銭は大人払っているんだ」、「相手をごらん」、「吹き飛ばしちゃうから大丈夫」、「そうは言ってもね・・・。では、やってご覧」。
 お客は喜んだ。「小が大を倒す、いいね」、「誰だい、子供を土俵で遊ばせているのは・・・、え~、あれが対戦相手だって。ぶつかったら飛んで行っちゃうよ」、「やる気十分だね」。見物人も、小さいのに声援。行司が軍配を下ろすと、影に隠れて見えなくなっちゃう。立ち上がったが、バカに大きいのとバカに小さい対戦だから、大きいのが捕まえようとすると、スッっと逃げちゃう。鬼ごっこみたいです。大きいのも、じれったくなって、ヤァ~と突くと、自分の力で土俵を割った。
 「小さいのが勝った。あれは俺の甥だ」、「嘘を付きやがれ」。「羽織でも何でもやっちゃえ」、「その羽織は俺のだ」、「ま、イイや」、「何言ってるんだ」、「お前のをやれ」、「俺のはヤダ」、「お前の方がしみったれだ」。「強いね。あの後ろから突いたのがイイね」、「押しが利いたね」、「利くはずだ、漬け物屋の伜だから」。

 



ことば

アマチュア相撲;国内競技は日本相撲連盟、国際競技(IF)は国際相撲連盟が統括しており、プロの力士が所属する日本相撲協会(大相撲)とは異なる。具体的には、学生相撲や実業団相撲のことを指す。
 統括団体である日本相撲連盟は日本武道協議会に加盟しており、学校体育にも武道種目として採用されている。しかし、柔道・剣道など他の武道と比べると競技人口はかなり少なく、トップレベルの選手と草相撲レベルの選手の競技人口が逆転しているという、逆ピラミッド型のいびつな構造となっている。 段級位制があり、日本相撲連盟が認定している。 試合は、日本相撲連盟競技会規程が競技ルールとして定められており、審判規定により勝敗が判定される。張り手や鯖折りなど危険な技は禁止されている。公認審判員制度があり、四段以上で、一定年齢以上、3年以上の審判実務経験、認定講習会を受講するという条件を満たした上で、申請書を提出して日本相撲連盟から認定を受ける。日本相撲連盟以外に、支部の相撲連盟の公認審判員や、国際審判員の資格がある。 かつては、プロの相撲は、義務教育を終えたばかりで入門するものであり、上級の学校に進学した場合は、大相撲入りすることはほとんど考えられなかった。しかし、進学率の向上、実業団相撲の縮小化、学校でのクラブ活動・体育科目としての相撲の普及率の減少などによる指導者としての進路の減少などの要因で、最近では、アマチュア相撲で一定の実績を上げた選手がプロ入りするなど、大相撲とのつながりが深くなっている。 なお、日本相撲協会に所属した経験のある者でも、現役時代の地位によってはアマチュア復帰が認められることもある。

商業相撲の出来るまで;三田村鳶魚氏によると、
 相撲は奉納相撲と勧進相撲との二つだった。奉納相撲というのはずっと昔から有って、ある社寺の年中行事として、日も決まっており、めいめい力自慢、腕自慢の連中がそこへ出て相撲を取る。飛び入り自由でした。無論営業的なものでは有りません。同じ言葉で、辻相撲というのが有って、素人が勝手に寄って取る相撲で、田舎なら草相撲です。任意に、御道楽で、おもしろ半分で相撲を取る。中には粗暴な連中もいて良民を困らすことが増えて、禁止令が出たこともあります。でも、こう言う連中が大名にも抱えられず、勧進相撲にも出られなければ、飯も食えない。ですから、プロとして勧進相撲に入って行くことになります。
 勧進相撲の方はおあしを取って見せる相撲。寺社再建のため有料で見せたのです。

 落語「寛政力士伝」は、素人相撲を描いた噺です。

勧工場(かんこうば);同じ噺を橘家圓喬は、「負けない」と言うことを、オチを明治の東京新風俗の「勧工場」に模した。”かんこうじょう”、とは読みません。
 勧工場は、組合を作ってひとつの建物で家庭用品、文房具、衣類などをそろえた、今でいうデパートやスーパーのはしりです。その後、商品の質が落ちたことで評判も落ち、明治40年代になると、新興の三越、高島屋、白木屋ほかの百貨店に客を奪われて衰退。大正に入ると、ほとんどが姿を消しました。
 勧工場の特徴は掛値せず、定価で売ったことで、噺のオチ「まけない」は、そこから来ています。なお、現在、新橋の橋詰にある「博品館」の前身は勧工場で、場所も元の位置です。

 勧工場では今では死語になって、分かる人は少なくなってしまいました。志ん生の漬け物屋の伜の方がオチとしては素直で分かりやすい。

1年を20日で暮らすイイ男;「一年を二十日で暮らすよい男」とは、力士たちの暮らしぶりをうたった川柳です。これは安永7年(1778)以降、相撲興行日が雨の日はヨシズ張りで天井が無いので出来ず、晴天8日から晴天10日に延長され、かつ江戸の定場所が、春・秋の2場所だったので、春秋の合計20日間相撲をとれば暮らしていけることを意味しています。しかし、実は本場所の20日以外にも、地方への巡業や大名家での御用などがあり、川柳でうたわれていたような優雅な生活ではなかったようです。
 双葉山が三役に上がった頃、一場所の取組日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増したため、日数が13日となり(1937年5月場所から)、さらに現在と同じ15日(1939年5月場所から)となった。

 両国技館正面壁画に使われている、江戸時代の取組。

四股名(しこな);「相撲」社会における力士の名前。 もともとは醜名と書いた。この場合の「醜」とは「みにくい」という意味ではなく、「醜男」などの言葉と同じように「逞しい」という意味である。いつからか四股と相まって「四股名」と書かれるようになった。しこ名と書かれることも多い。 改名するときは、各場所の千秋楽から番付編成会議までの間に改名届を提出し、編成会議において承認される。

釋迦ヶ嶽雲右エ門(しゃかがたけ くもえもん);釈迦ヶ嶽雲右エ門、寛延2年(1749) - 1775年3月15日(安永4年2月14日)は、出雲国能義郡(現在の島根県安来市)出身で朝日山部屋及び雷電部屋に所属していた江戸時代の大相撲の第36代大関。本名、天野久富。実弟の稲妻咲右エ門も大関で、大相撲史上初の兄弟幕内力士でもある。
 身長7尺5寸=227cm、体重180kgの巨人力士。大部分の巨人力士は見かけに反し大した実力を持っていないことが多いが、彼に限っては例外的に力士としての実力も高いことで知られる。当初は大坂相撲で大鳥井の名で看板大関として登場したが、明和7年(1770)11月(冬場所)の江戸相撲の番付で釋迦ヶ嶽の名で登場した。その場所は6勝0敗1休1預の成績で、次の明和8年(1771)春場所には6勝1敗1休のいずれも優勝相当成績に値する記録を残している。その後は関脇を4場所(うち2場所は休場)務めた。 釋迦ヶ嶽の人気は並外れた巨体にあった。元来病人のようであり、顔色が悪く、目の中がよどんでいたという。安永4年(1775)の2月14日(旧暦)、現役中に死去。27歳の若さだった。釈迦の命日と同じであり、しこ名と併せて奇妙な巡り合わせだと評判になった。 死因は腸閉塞(へいそく)と伝わるが、「あまりの強さゆえに毒殺された」とのうわさもある。

右図:「釈迦ヶ嶽」。今様咄(安永5年刊 鳥居清経画)
 豆腐を朝買いに来た釈迦が嶽。雨戸が閉まっていたので叩いたら、そこは二階であった。と言う噺の原典。

 その巨体から、東京都江東区の富岡八幡宮には、釈迦ヶ嶽等身碑が建てられている。巨体にまつわるエピソードには事欠かず、摂津国の住吉神社に参詣した帰りに茶店に立ち寄ったが、茶代を払うのに2階の窓へ支払ったと伝わっている。道中で履く草鞋の長さは約38cm、手形は長さ25.8cm幅13cmだった。しかし、本人は長身が故に何事につけ不自由するので性格も塞ぎ勝ちであり、芝居等の人混みを嫌った。安永2年(1773)に後桜町天皇から召されて関白殿上人らの居並ぶ中で拝謁して土俵入りを披露し、褒美として天皇の冠に附ける緒2本が与えられた。それを聞いた主君の出羽守から召されて、2本の緒を目にした出羽守は驚き喜び、側近に申し付けて小さな神棚を設けて緒を祀った。彼が没した時に神棚が激しい音を立てて揺れたので、出羽守は気味悪く思って出雲大社に奉納したと伝わっている。

三里(さんり);灸穴のひとつ。手と足にあり、手の三里は橈骨(トウコツ)小頭の外下方、足の三里は膝頭の下で外側の少しくぼんだ所。ここに灸をすると、万病にきくという。いくら大きいと言っても、距離が3里もあると言うことではありません。このツボは、腹痛、下痢、嘔吐など胃腸の不調、膝痛や足のしびれなど足のトラブル、歯痛、歯槽膿漏などに効くとされています。
 奥の細道の書き出しに、股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて・・・、俳人、松尾芭蕉も「足三里」に灸をすえて、奥の細道を旅したといいます。三里に灸のあとがない者とは旅をするなともいわれていた。

身の丈7尺(みのたけ 7しゃく);7尺=約2.1m。近いと言っていますから、ま、2m位だったのでしょう。今ではバスケットボールやバレーボ-ルの選手では当たり前に居ますが、当時では驚異的な身長だったのでしょう。



                                                            2016年11月記

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