落語「素人相撲」の舞台を行く 古今亭志ん生の噺、「素人相撲」(しろうとずもう)より
■アマチュア相撲;国内競技は日本相撲連盟、国際競技(IF)は国際相撲連盟が統括しており、プロの力士が所属する日本相撲協会(大相撲)とは異なる。具体的には、学生相撲や実業団相撲のことを指す。
■商業相撲の出来るまで;三田村鳶魚氏によると、
落語「寛政力士伝」は、素人相撲を描いた噺です。
■勧工場(かんこうば);同じ噺を橘家圓喬は、「負けない」と言うことを、オチを明治の東京新風俗の「勧工場」に模した。”かんこうじょう”、とは読みません。
勧工場では今では死語になって、分かる人は少なくなってしまいました。志ん生の漬け物屋の伜の方がオチとしては素直で分かりやすい。
■1年を20日で暮らすイイ男;「一年を二十日で暮らすよい男」とは、力士たちの暮らしぶりをうたった川柳です。これは安永7年(1778)以降、相撲興行日が雨の日はヨシズ張りで天井が無いので出来ず、晴天8日から晴天10日に延長され、かつ江戸の定場所が、春・秋の2場所だったので、春秋の合計20日間相撲をとれば暮らしていけることを意味しています。しかし、実は本場所の20日以外にも、地方への巡業や大名家での御用などがあり、川柳でうたわれていたような優雅な生活ではなかったようです。
両国技館正面壁画に使われている、江戸時代の取組。
■四股名(しこな);「相撲」社会における力士の名前。
もともとは醜名と書いた。この場合の「醜」とは「みにくい」という意味ではなく、「醜男」などの言葉と同じように「逞しい」という意味である。いつからか四股と相まって「四股名」と書かれるようになった。しこ名と書かれることも多い。
改名するときは、各場所の千秋楽から番付編成会議までの間に改名届を提出し、編成会議において承認される。
■釋迦ヶ嶽雲右エ門(しゃかがたけ くもえもん);釈迦ヶ嶽雲右エ門、寛延2年(1749) - 1775年3月15日(安永4年2月14日)は、出雲国能義郡(現在の島根県安来市)出身で朝日山部屋及び雷電部屋に所属していた江戸時代の大相撲の第36代大関。本名、天野久富。実弟の稲妻咲右エ門も大関で、大相撲史上初の兄弟幕内力士でもある。
右図:「釈迦ヶ嶽」。今様咄(安永5年刊 鳥居清経画)
■三里(さんり);灸穴のひとつ。手と足にあり、手の三里は橈骨(トウコツ)小頭の外下方、足の三里は膝頭の下で外側の少しくぼんだ所。ここに灸をすると、万病にきくという。いくら大きいと言っても、距離が3里もあると言うことではありません。このツボは、腹痛、下痢、嘔吐など胃腸の不調、膝痛や足のしびれなど足のトラブル、歯痛、歯槽膿漏などに効くとされています。
■身の丈7尺(みのたけ
7しゃく);7尺=約2.1m。近いと言っていますから、ま、2m位だったのでしょう。今ではバスケットボールやバレーボ-ルの選手では当たり前に居ますが、当時では驚異的な身長だったのでしょう。
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