落語「芝居の穴」の舞台を行く 八代目林家正蔵(彦六)の噺、「芝居の穴」(しばいのあな)より
■八代目 林家正蔵(はちだいめ はやしやしょうぞう); 明治28(1895)年5月16日~昭和57(1982)年1月29日 享年87 前名=五代目 蝶花楼馬楽 出囃子=菖蒲浴衣(あやめゆかた) 本名=岡本義(おかもとよし) 通称=稲荷町の師匠(下谷稲荷町の長屋に住んでいたため) トンガリ馬楽(蝶花楼馬楽時代に喧嘩っ早かったから) 紫綬褒章(1968) 勲四等瑞宝章(1974) 叙・従五位 賜・銀杯一個(菊紋)
写真:昭和53年(1978)3月31日 第119回落語研究会 国立小劇場 正蔵82歳時。
■この噺は、落語では無く落語的なとらえ方をした芝居の裏話です。八っつあんや熊さんが出て来て芝居小屋で・・・、と言うような噺ではありません。淡々と裏話やエピソードのオムニバスです。
■芝居は11月から始まりますから、11月が顔見世興行です。その時にその役者は1年を通してやりますから、このメンバーでやりますよ、と言う年度の初めです。昔は今のようなシステムが確立していませんから、金の算段、小屋の確保、役者の手配、筋書きを書く戯作者、などが揃わないと芝居は始まりません。
「中村座」外観。江戸東京博物館蔵。1/1原寸模型。
■興行主(こうぎょうぬし);プロジューサー。
■金主(きんしゅ);金方という。スポンサー。
■黒子(くろご);黒い服装で、黒頭巾を被って全身黒ずくめで、舞台を動き回る。役がやりやすいように準備をしたり、後片付けをしたりします。芝居の舞台では、居ても居ないことになっています。
■大根(だいこん);下手な役者をけなすとき、使うヤジ。大根はどの料理に使っても、相手の料理を引き立てますが、大根で食中毒を起こすことはありません。そこで当たらない役者のことを大根役者と言います。
■河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ);(旧字体:默阿彌、文化13年2月3日(1816年3月1日) - 明治26年(1893年)1月22日)は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。本名は吉村 芳三郎(よしむら よしさぶろう)。俳名に其水(そすい)。別名に古河 黙阿弥(ふるかわ-)。江戸日本橋生まれ。右写真。
慶応2年(1866)に小團次は死ぬが、明治維新後もその筆は衰えなかった。この時代には明治歌舞伎を牽引した團菊左と不可分の作者として活躍する。この時期の代表作としては五代目尾上菊五郎に書いた『天衣紛上野初花』(河内山)、『茨木』、『新皿屋敷月雨暈』(魚屋宗五郎)、初代市川左團次に書いた『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)、九代目市川團十郎に書いた『北条九代名家功』(高時)、『紅葉狩』、『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)など、枚挙に暇がない。
■酒呑童子(しゅてんどうじ);丹波国の大江山、または山城国京都と丹波国の国境にある大枝(老の坂)に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。酒が好きだったことから、手下たちからこの名で呼ばれていた。文献によっては、酒顛童子、酒天童子、朱点童子などとも記されている。彼が本拠とした大江山では龍宮御殿のような邸宅に住み、数多くの鬼共を手下にしていたという。
大江山、酒呑童子 大江山絵巻より部分。
■忠臣蔵六段目「おかる」;お軽身売りの段。早野勘平(はやの かんぺい)切腹の段。
「忠臣蔵 六段目」 画面手前には与市兵衛の死骸を届けて帰る猟師たち、画面右奥には勘平の住いに二人の侍、千崎弥五郎と原郷右衛門が訪れているのが描かれる。広重画。
■佐倉惣五郎(さくら そうごろう);(? - 承応2年8月3日(1653年9月24日)?)は、江戸時代前期における下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主。姓は木内氏、俗称は宗吾。惣吾とも記される。
代表的な義民として名高いが、史実として確認できることは少ない。領主堀田氏(佐倉藩)の重税に苦しむ農民のため、将軍への直訴をおこなって処刑されたという物語は、江戸時代後期に形成され、実録本や講釈、歌舞伎上演などで広く知られるようになった。
2016年11月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |