落語「芝居の穴」の舞台を行く
   

 

 八代目林家正蔵(彦六)の噺、「芝居の穴」(しばいのあな)より


 

 芝居の方も今と昔ではシステムが違います。今では大会社がバックにあって興行をするのとは違って、興行師が取り持つが、金が無いので「金主(きんしゅ)」を見つけるのです。役者衆も1年契約で、取り巻き役者はその都度契約です。

 給金が決まって、蓋を開けたら客が入らないときは、大道具から先にクレームが付きます。当然給金の催促ですが、幕を開けるまでに金は使っていますから今金はない。翌日金主・亀右衛門の家まで皆で貰いに伺いますが、彼は黒子の衣装を着て向こうを向いて煙草を吹かしています。大道具方が上がり込んで、亀右衛門さんの肩を叩くが無言です。「我々が来ているのに何か言ったらどうだぃ」、「俺は黒子だから、居ても居ないんだよ」、「あ~、そうか」。と言って帰ってしまった。昔はシャレが通じたんですね。

 これも大道具の話で、鏡を持って太陽の光を反射させていた。舞台に生かそうと、稲妻の光として舞台に投影し、これが評判を呼んだが、その日は朝からあいにく雨だった。いくら何でも陽が無くては稲妻は出せない。

 台詞を言うのも難しいもので、大坂の役者で山中珍九郎(賃苦労のシャレ)が江戸に出て来て、河竹黙阿弥が新七と言っていた若い頃、使ってくれと嘆願した。「いいよ」と言うことで酒呑童子の青鬼の役をもらった。真っ青に化粧して舞台に立ったが台詞を忘れた。どう考えても台詞が出て来ない。身体は赤くなって首から上に赤色があがって、色が混ざって橙色になって汗が噴き出した。客席から大根、ダイコとヤジが飛んで、楽屋に逃げ込んだ。さすがに黙阿弥もイヤな顔をして「人臭ぇ、ぐらい言えないなんて」と、小言を言った。その日は許されて、翌日、金棒に「人臭ぇ」と書いて、舞台に立った。前日と同じように大根ダイコ、台詞忘れたのかとヤジが飛んだが、商売人ですから、黙って身じろぎもせず立っていると、客席が静まって、ここだな!とアンチョコを見て「屁、臭ぇ、臭ぇ」と言った。また、脅かされた。なぜかと言えば、自分で書いた人の字の上をにぎっていたので、へに見えた。

 芝居ですから本当のことはしません。泣くのにも、目頭に手拭いを持って来ません。役によって違い、若い娘や忠臣蔵六段目おかるが身を売る場面では額に手拭いを当てます。正面から見ると泣いているように見えます。また、佐倉惣五郎などになりますと、鼻の下に手ぬぐいを当てて、それを引きちぎって、膝で拭きます。下郎は爪の先から涙が出ます。ツメという目が10個有りますから。

 どの通し狂言でも序幕は華やかです。社前に茶店があって、そこの親父が出て来て、「忙しい、いそがしい」と言いますが、まだ何もやっては居ないのですが・・・、思うに彼が幕も開けたのでは無いかと思います。そこに参拝者が来ますと、親父は水汲みに行くので留守番を頼んで舞台から引っ込みます。留守番を頼まれた方も、天気は良いし参拝しようと、茶代も払わず留守番もせず出掛けてしまいます。
 空舞台になって、舞台が始まります。

 芝居の穴でした。

 



ことば

八代目 林家正蔵(はちだいめ はやしやしょうぞう); 明治28(1895)年5月16日~昭和57(1982)年1月29日 享年87 前名=五代目 蝶花楼馬楽 出囃子=菖蒲浴衣(あやめゆかた) 本名=岡本義(おかもとよし) 通称=稲荷町の師匠(下谷稲荷町の長屋に住んでいたため) トンガリ馬楽(蝶花楼馬楽時代に喧嘩っ早かったから) 紫綬褒章(1968) 勲四等瑞宝章(1974) 叙・従五位 賜・銀杯一個(菊紋)

写真:昭和53年(1978)3月31日 第119回落語研究会 国立小劇場 正蔵82歳時。

この噺は、落語では無く落語的なとらえ方をした芝居の裏話です。八っつあんや熊さんが出て来て芝居小屋で・・・、と言うような噺ではありません。淡々と裏話やエピソードのオムニバスです。

芝居は11月から始まりますから、11月が顔見世興行です。その時にその役者は1年を通してやりますから、このメンバーでやりますよ、と言う年度の初めです。昔は今のようなシステムが確立していませんから、金の算段、小屋の確保、役者の手配、筋書きを書く戯作者、などが揃わないと芝居は始まりません。

 

 「中村座」外観。江戸東京博物館蔵。1/1原寸模型。

興行主(こうぎょうぬし);プロジューサー。

金主(きんしゅ);金方という。スポンサー。

黒子(くろご);黒い服装で、黒頭巾を被って全身黒ずくめで、舞台を動き回る。役がやりやすいように準備をしたり、後片付けをしたりします。芝居の舞台では、居ても居ないことになっています。

大根(だいこん);下手な役者をけなすとき、使うヤジ。大根はどの料理に使っても、相手の料理を引き立てますが、大根で食中毒を起こすことはありません。そこで当たらない役者のことを大根役者と言います。

河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ);(旧字体:默阿彌、文化13年2月3日(1816年3月1日) - 明治26年(1893年)1月22日)は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。本名は吉村 芳三郎(よしむら よしさぶろう)。俳名に其水(そすい)。別名に古河 黙阿弥(ふるかわ-)。江戸日本橋生まれ。右写真。
 江戸・日本橋の裕福な商家吉村勘兵衛の二男に生まれたが、若い頃から読本、芝居の台本、川柳や狂歌の創作にふけるようになり、14歳で道楽が過ぎて親から勘当されてしまう。貸本屋の手代となって生計をたてるようになるが、仕事はそっちのけで朝から晩まで読書三昧の日々を送る。これが将来の糧となる。
 やがて「芳芳」の雅号で狂歌や俳句、舞踊などで頭角をあらわすようになると、天保6年(1835)には五代目鶴屋南北の門下となり、勝 諺蔵(かつ ひこぞう)と名を改める。そもそも抜群の記憶力があり、『勧進帳』などは若い頃から読み尽くしているので、その全科白を暗記して難役・弁慶をつとめる七代目市川團十郎を後見、これで認められるようになる。天保12年 (1841) 芝 晋輔(しば しんすけ)、天保14年(1843)には二代目 河竹 新七(にだいめ かわたけ しんしち)を襲名し立作者となる。嘉永4年(1851)11月江戸河原崎座の顔見世狂言『升鯉滝白籏』(えんま小兵衛)が好評で注目される。
 立作者になってからもしばらくは鳴かず飛ばずだったが、四代目市川小團次と出逢ったことが大きな転機となる。嘉永7年(1853)に小團次のために書いた『都鳥廓白波』(忍の惣太)は大当たりとなり、これが出世作となった。幕末には小團次との提携により『三人吉三廓初買』(三人吉三)や『小袖曾我薊色縫』(=『花街模様薊色縫』、十六夜清心)などの名作を次々に発表する。また、三代目澤村田之助には『処女翫浮名横櫛』(切られお富)、十三代目市村羽左衛門(五代目尾上菊五郎)には『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)などを書き、引っ張りだことなった。
右図:河竹新七(黙阿弥)、(左)と、四代目市川小團次、(右) 『俳優楽屋の姿見 作者部屋』 国立劇場所蔵。

 慶応2年(1866)に小團次は死ぬが、明治維新後もその筆は衰えなかった。この時代には明治歌舞伎を牽引した團菊左と不可分の作者として活躍する。この時期の代表作としては五代目尾上菊五郎に書いた『天衣紛上野初花』(河内山)、『茨木』、『新皿屋敷月雨暈』(魚屋宗五郎)、初代市川左團次に書いた『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)、九代目市川團十郎に書いた『北条九代名家功』(高時)、『紅葉狩』、『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)など、枚挙に暇がない。
 生涯に書いた演目は300余。歌舞伎に西洋劇の合理性を取り入れようと試行錯誤した坪内逍遙でさえ、新七のことになると「江戸演劇の大問屋」「明治の近松」「我国の沙翁」と手放しで絶賛した。一方新七の方はというと、はじめのうちは九代目に乞われて活歴物をいくつか書いてはみたものの、その九代目が新聞記者出身の福地桜痴などと本格的に演劇改良運動に取り組み始めると、これに嫌気がさしてそろそろ作者家業もおっくうになってきた。明治14年(1881)、團菊左のために散切物の『島鵆月白浪』(島ちどり)を書き上げると、これを一世一代の大作として引退を宣言し、さらにその名を黙阿弥(もくあみ)と改めた。
 明治26年(1893)1月東京歌舞伎座『奴凧廓春風』を絶筆として同月22日、本所二葉町の自宅で脳溢血のため死去した。享年76(満年齢)。
ウイキペディアより

酒呑童子(しゅてんどうじ);丹波国の大江山、または山城国京都と丹波国の国境にある大枝(老の坂)に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。酒が好きだったことから、手下たちからこの名で呼ばれていた。文献によっては、酒顛童子、酒天童子、朱点童子などとも記されている。彼が本拠とした大江山では龍宮御殿のような邸宅に住み、数多くの鬼共を手下にしていたという。
 一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った、安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼の酒呑童子の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。頼光らは旅の者を装って鬼の居城を訪ね、酒を酌み交わして話を聞いたところ、最澄が延暦寺を建て以来というもの鬼共の行き場がなくなり、嘉祥2年(849)から大江山に住みついたという。頼光らは鬼に酒を飲ませて泥酔させると、寝込みを襲って鬼共を成敗、酒呑童子の首級を京に持ち帰って凱旋した。首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院に納められた。
ウイキペディアより

 

 大江山、酒呑童子 大江山絵巻より部分。

忠臣蔵六段目「おかる」;お軽身売りの段。早野勘平(はやの かんぺい)切腹の段。
 五段目で、悪者の斧定九郎(おの さだくろう)に殺されてしまった与一兵衛。 そうとは知らない妻のおかやと娘のお軽は。昨日家を出た与一兵衛が今日になっても帰ってこないので心配しています。 じつは与一兵衛は婿の勘平の討ち入りの為に娘のお軽を祇園の茶屋に売りに行ったのです。 その金を受け取って持っているはずなのでますます心配です。 さらに勘平も夕べから戻りません。どうしたんでしょうか。 家中心配しています。そこに勘平が戻り駕籠に乗せられたお軽と出会い、「猟師の嫁が、駕篭でもねえじゃあねえか」という有名なセリフをはきます。
 勘平と別れのシーン、「こちの人、もう行くぞえ、私がいんだその後は、ととさんも、かかさんも、皆お前の世話じゃぞぇ。達者でいてくだしゃんせいナ~。(泣き)」、
と言って額に手拭いを当てる。

 「忠臣蔵 六段目」 画面手前には与市兵衛の死骸を届けて帰る猟師たち、画面右奥には勘平の住いに二人の侍、千崎弥五郎と原郷右衛門が訪れているのが描かれる。広重画。

佐倉惣五郎(さくら そうごろう);(? - 承応2年8月3日(1653年9月24日)?)は、江戸時代前期における下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主。姓は木内氏、俗称は宗吾。惣吾とも記される。 代表的な義民として名高いが、史実として確認できることは少ない。領主堀田氏(佐倉藩)の重税に苦しむ農民のため、将軍への直訴をおこなって処刑されたという物語は、江戸時代後期に形成され、実録本や講釈、歌舞伎上演などで広く知られるようになった。

右写真:成田市・東勝寺大本堂(宗吾霊堂)



                                                            2016年11月記

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