落語「お文さん」の舞台を行く
   

 

 三代目林家染丸の噺、「お文さん」(おふみさん)より


 

 大阪の中船場に「万両」といぅお酒屋さんがございました。本家は兵庫の酒どころ灘の醸造元でございまして、店は非常に繁盛いたしております。

 そこに、年の頃四十前後の人品賎しからぬお方。結城の着物に大島紬の羽織をお召しになりまして、仙台平の袴を着けて、白足袋にその頃流行りました表打ちの神戸下駄を履いて、金縁の眼鏡をかけ立派な髭を生やして・・・、手には生まれて三、四か月の赤ちゃんを抱いておられますが、その着物の美しぃ~こと、目も醒めるばかりでございます。
 「ごく上等の清酒を一升、お分け願いたい。進物にしますので、角樽(つのだる)に入れてもらいたい。お見かけどおり児(やや)を抱いておりますので、遠いところではないが、わたしと一緒にこれを誰か届けてもらいたいのじゃが」、「かしこまりました。定吉、このお客さんにお供をしてな、これ届けといで。また角樽もらいに行かんならんから、お宅をよう覚えとくようにな」。

 「ほな、行て参じます」、「子どもさん、ご苦労じゃな」、「いいえ、どういたしまして。旦さん、ヤヤさんはボンボンでござりますか?」、「さよう、男の子じ」、「お店もあの通りよぉ繁盛いたしておりますしねぇ、あのお子さんがござりまへんのんで。親旦さんが『孫が欲しぃ、孫が欲しぃ』と、口癖のよぉにおっしゃっております。御寮人(ごりょん)さんも『どぉぞ子どもが授かりますよぉに』いって、氏神さんへ日参しておいでになりますけどねぇ~」。
 「あぁ子どもさん、向こぉの床屋の路地を入って二軒目の家に行きますのじゃが、相手が留守ではちと都合が悪い。様子を見てきたいので、この子を預かっていてもらいたいが」、「任しとくれやす。あたしねぇ、ヤヤさん抱くのがホン好きでおまんので。ルルルル、バァ~ッ、笑ろたはる、笑ろたはる」、「しかと預けましたぞ」。
 「一時間あまりになるのに遅いなぁホンマに、何したはんねやろなぁ~。ヤヤコが泣き出したんで、そら無理ないわ、お腹が空いてんねや、こっちゃかて腹減ってきた。ホンマにもぉ遅いなぁ、せや、あの路地入って二軒目の家や、いっぺん聞いてみたろ」、「どぉしたんや?いや、そんなん知らんで。そら捨て子しられたんと違うか?この路地は、抜け路地やで」、「え!、抜け路地、うえぇ~ッ」、「泣いたってしゃ~ないがな」。

 こちら万両のお店では、「定吉、あいつ何しとんねやなぁ」、「番頭どん、定吉をどこへ」、「あッ、戻ってまいりました。何じゃ、ヤヤコ抱いて角樽下げて、泣いてよるがな」、「どうした。なに?お前にその子を預けて、入っ た路地が抜け路地、なに?捨て子」、「何じゃ番頭どん、捨て子じゃて」、「手紙のよぉなものが挟まってる。こっちかしてみ。えッ『万両殿』裏に『松本某(なにがし)』、旦さん、こら私とこ宛ての手紙でございます」、「ちょっとこっちに『拝啓、述ぶればわたくし儀、元播州明石の藩士にて五百石取り松本某の長男に生まれたる者なれど、維新解役となり家禄を返還、商人にて身を立てんと志を立つれども、いわゆる武家の商法、することなすこと思いに任せず、加えて、妻がこの子を産みて間もなくこの世を去り、何をするにも足手まとい、貴殿を慈悲深き御方とお見込み仕り、心を鬼に捨て子いたし候』やっぱりこの子捨て子じゃがな。『何とぞ、親心ご賢察のうえ、この子の養育相頼み奉り候、拙者の形見として宗近の短刀ひと振り、引き出物として清酒一升呈上仕り候』。 お花、ちょっとこっちへ、家を見込んで捨て子しなはったんじゃ。こらもう神さんから授かったんじゃこれわ。立派に養育して、家の跡取にしょ~と思うのじゃが、お前さん異存はないかな?」、「お父さん、私は結構やと思いますけど、若旦那が何とおっしゃいますか」、「せがれ、作次郎、ちょっとこっちおいなはれ。喜び、お前の跡取ができたんじゃ。いやぁ~、めでたい、めでたい」、「お父さん、物好きもえぇ加減にしときなはれな。 どこの牛の骨やら馬の骨やら分からんものをば」、「れっきとしたお侍さんの子じゃがな。定吉、大急ぎでな手伝(てったい)の又兵衛とこ行て『今日中に乳母(おんば)ひとり世話せぇ、それがでけんよぉなことなら、これから一切出入りは差し止めや。今までに貸した金、耳を揃えてすぐに返せ』と、言ぅてきますのじゃ!」。

 「こんにちわ」、「定吉っとんか、乳母はんやろ?いや『今日中に乳母世話せぇ』やろ、『それがでけなんだらもぉ出入りは差し止めや、今まで貸した金、耳を揃えて返せ』やろ?」、「あッ、おっさん立ち聞きしてたんか?」、「立ち聞きせんけど、こっちゃではちゃ~んと乳母はん用意して待ってたんや。御寮人(ごりょん)さん、ちょっとこっち来とくなはれ」、「定吉っとん、ご機嫌さん」、「あんた鰻谷の御寮人さん」。
 「そぉや、今日からお前とこへ乳母はんに行きはんねや。お前だけに言うとく、絶対秘密やで。この御寮人さんはなぁ、もと北の新地の『梶川』からお文さんと言う名で出ていた一流の芸妓はんや。それを若旦那が引かして、鰻谷へ囲てはったんや。そのうちにお腹が大きなって、ちょ~ど三、四か月前にボンボンが生まれはったんや。若旦那は『ボンボンの顔見て暮らしたい』言いなはるしな、御寮人さんも『ボンボンや若旦那と同じ屋根の下で住みたい』とおっしゃるもんやから、で、わいがこれを芝居に書き下ろしたんや。最初、お前とこへボンボン捨て子にやらすわ、親旦那のこっちゃ『又兵衛、乳母世話せぇ』と言ぅてくるのに決まったる。待ってました、ちゅうやっちゃ。この御寮人さんを乳母はんに仕立ててお前とこへスッと送り込む。と、いう段取りになってんねや」。
 「オッサン、あかんわこら。そんなん乳母はんにこんな綺麗なんがあるかいな」、「定吉っとん『えぇ乳母はんがおまんので、じきに連れてまいります』言うて、お前ひと足先帰って。誰にも悟られるんやないで」、「へぇ、任しときッ!」。

 「又兵衛か、こっち来とおくれ。で、乳母わいな?」、「実はわたくしの家内の姪でございましてな。その~、亭主と申しますのがえろぉ極道もんでございまして、とぉとぉそれが夫婦別れをいたしましたのでござりまして」、「そんなこと聞ぃてんねやないがな。その乳母はんわ」、「それが乳母でございまして、別れましてから因果と、ちょ~ど四か月ほど前に子どもができましたんでござりますけど、幸か不幸か、その子が十日ほど前にコロッとあの世に旅立ちをいたしましたので」、「ほでお乳のほぉわいな?」、「十分に出ますもんでござります」、「さッ、こっち入ってもろとぉくれ」。
 「これは親旦さんでございますか、お初にお目にかかります。ふつつか者でございますが・・・」、「こんな綺麗な乳母はんに抱かれる子は幸せじゃがな。さぁさぁ、えろぉお腹空かしてますのじゃ、乳飲ましてやっとぉくれ、乳をば・・・。吸ぅてる吸ぅてる。泣く子に乳とはよぉ言ぅたぁるな~、まるでホンマの親子のよぉじゃがな」。本当の親子ですから。
 この乳母はん、元は北の新地で一流の芸妓やったといぅだけに、なにかによぉ気が付きます。ボンボンのお守りの傍ら、台所の手伝いもすればお店の手伝いもする。誰かれなしに気受けがよろしゅ~ございます。また『万両の美人乳母』といぅのが評判になりまして、乳母はんの顔が見たさにわざわざお酒を買いに来る人がある。というぐらいでございます。

 ある日のこと、若旦那が蔵の横で、「お前、時々あれのことを『お文さん、お文さん』ちゅうて呼ぶそうやなぁ。何ちゅうこと言うねん。はたのもんはみな『乳母はん、乳母はん』言てるのに、お前だけがそんなこと言ぅたら、それからバレてしまうやないか。これからどんなことがあったかて『お文』に『さん』付けたら、お前こっから追い出してしまうで」。

 さぁ、こんなカラクリで皆を騙しおぉせるはずがございません。この万両の台所を預かっております女中頭のお松といぅのがおりまして、これがまた “酢でもコンニャクでも、芋・蛸・南京、ドジョウ汁でもいかん”といぅ女衆(おなごし)で、棚の上を走ってるネズミでも、この女ごしがグッと睨んだら落としてしまうっちゅう、一名『猫いらず』ちゅう女ごしです。
 これが、初めから『どぉも怪しぃ』と目を付けております。「今日は乳母の正体を私が知らしてお上げ申します。そちらにあるお菓子の鉢をこっち貸しとぉくれやす。ここへ定吉っとん呼び付けて、御寮人さんの前でギュ~ッと締め上げてやりますねや。定吉っとん、そのお饅頭、御寮人さんからやねんわ。お礼を言ぅてここでいただきなはれ」、「えらい上等のお饅頭でおますなぁ」、「そのお饅頭の中には『熊野の牛王さん(ごぉさん)』といぅものが入ってて、ウソや隠し事してたら、そこへ血吐いて死ぬねやし」、「何じゃい『ホンマのこと、ホンマのこと』て?」、「乳母はんと若旦那のこと、言ぅてしまいなはれッ」、「わ、わたい知らん、知らん知らん知らん。御寮人さんに手ぇ合わされて頼まれたら、わてホン弱いねや」。と言うことで、洗いざらい全て喋ってしまった。
 「二人は、いったいどこで会ぉたはるねや?」、「外で会ぉたはりまんのん。そのあいだに、わたしがボンボンのお守りしてまんのん」。「何ぞ二人で話してたん、あんた聞ぃたことないか?」、「『自分が腹痛めて産んだ子ぉを『ボンボン、ボンボン』言ぅて暮らさんならんし、丁稚や女ごしから『乳母はん、乳母はん』て、呼ばれんならんし、もぉ日陰の身ほどはかないもんはない』言ぅて、泣きはったらね。若旦那が背中を優しゅう撫ぜて『辛抱し、辛抱し、あいつな、早よ放り出してしまいたいねんけども、あれは本家から来とぉるもんやさかい、落度を見付けてあれを放り出して、お前をあとに直して本妻にする』と、こない言ぅたはりました」、「ひどいことッ!ほんで若旦さん今、何したはんの?」、「裏の離れでね、文(ふみ)読んだはりまん」、「おんなし屋根の下に住んでてからに、文の遣り取りなんかしてんのんか?く、悔しぃ~ッ!」。

 平素は、たしなみのえぇお方でございますが、やはり女でございますな~。もぉ廊下を足音も荒くバタバタバタバタバタッ。この離れの襖をサッと開けようといたしましたが、そこは教養のあるお方でございます。襖の外で一歩踏みとどまって、部屋の様子に耳を澄ましておいでになります。
 この離れが仏間になってございまして、仏壇の前で若旦那、お経もご和讃(わさん)も済まして「それ、女人の身は、五障・三従とて、男に勝りてかかる深き罪のあるなり・・・」。
 「ビックリした。定吉っとん何を言ぅねやいな、あれは『白骨の御文章』『お文さん』やないか。それを『文を読んだはる』やなんて言うもんやさかい、わてカ~ッとしてしもて・・・。あのまま部屋へ飛び込んで行てみなはれな『はしたない女や』いぅて、それを落度に、わたいここから追い出されんならんやないか。お文さんなら、お文さんと言んかいな」、
「いぃえぇ滅相な『文』に『さん』付けたら、わてが追い出されまんねん」。 

 



ことば

三代目林家染丸(はやしや そめまる);(1906年3月25日 - 1968年6月15日)は、本名: 大橋駒次郎。あだ名は「おんびき」(ヒキガエルのこと)。出囃子は『たぬき』。吉本興業所属。12歳の時、父と死別し、親戚の帽子問屋の丁稚となる。13歳の時、三代目桂文三門下の桂次郎坊に桂駒坊の名をもらい、消防署員を勤める傍ら素人噺の会で素人落語を続ける。1932年、素人落語コンクールで二代目染丸の目に留まり、6月に正式に入門が許され染五郎に柳家金語楼にあやかり二代目染語楼を名乗る。この頃は正式に入門していたのにもかかわらず寄席に出ず、二代目染丸の「林染会」にて修業を積むが依然と消防署に勤めているなどセミプロ状態であった。1944年、日中戦争で出征し、1946年7月、復員後は、静岡の妻の実家で商売を営む。
 1952年、師が没し一門の衰退に危惧した弟弟子の二代目小染(のちの三代目染語楼)と二代目桂春團治夫人・河本寿栄の尽力により芸界に復帰し、翌年8月、三代目染丸を戎橋松竹で襲名した。1957年4月、上方落語協会の創設に伴い初代会長に就任。毎日放送「素人名人会」の審査員を務め、えびす顔で「林家染丸でございます。本名を長谷川一夫ともうします」と挨拶する愛嬌たっぷりの芸風でお茶の間の人気者ともなった。 実生活は謹厳そのもので、高座を降りると鬼のような形相となり、弟子たちは絶えず気を抜けなかった。一方人情味に溢れ、弟子の染二(現四代目染丸)が不注意からけがをした時「うちが預かったんやさかいうちの子や。大事にせんかい!」と夫人を叱りとばし、染二を感激させた。
 得意ネタは義太夫の素養を生かした「堀川」・「片袖」、幇間やその類の人物が活躍する「猿後家」・「太鼓腹」・「茶目八」・「河豚鍋」などが、良かった。一方、ぐっと締め込んで聴かせる「莨の火」・「淀五郎」なども上手く、腕前は確かに一流だった。 一方、笑い声や驚いた時の口調の描写が独特で、高座に上がる時の、「この世にこれ以上嬉しいことがあって良いのか」と言わんばかりの笑顔と相まって、臭いといって嫌う人もあれば、待ってましたと喜ぶ人もあった。ある意味では、癖の強い芸風だったが、上方落語を代表する大看板であった事は間違いない。
 最後の高座は1968年4月、サンケイホールでの「上方落語名人会」で演じた「猿後家」。すでに肝臓癌の末期で、入院中の病院から外出許可を取って演じた。ほどなく、その肝臓癌が元で死去。62歳没。

■お文さん
 浄土真宗の教義を平易に書いた蓮如上人の書簡を編集して、西本願寺派では「御文章」と言い、東本願寺派では「おふみ」と呼んでいる(後述)。落語「お文さん」は、これと女性の名前をかけた噺である。
 幇間やよく喋る女衆などの能弁な人物を描くのに定評があった染丸だが、こましゃくれた子どもも、愛嬌があって良かった。 泣いたり笑ったり大人ぶったり、「お文さん」でも丁稚が大活躍。まるでコツマナンキンやというのは、形は小さいがひねて昧が美味いとされた、勝間村(今の西成区)で作られていた南瓜のようだとのこと。染丸演じる子どもは、まさにコツマナンキンであった。
  神戸下駄や金縁の眼鏡、士族の商法での失敗など、明治の香りがいっぱいするネタである。ライブ録音が残っている明治生まれの上方落語家は数名しかいない。明治39年生まれの染丸から、落語華やかなりし明治の香りをわずかでも感じてほしい。
 ビクター三代目林家染丸「お文さん」CD解説より

中船場(なかせんば);船場は本町通を境に北組と南組に分かれていたことから北船場、南船場との呼び名が起こった。しかし、中船場は確たる地域特定がなされていない。船場の中程を指した地名なのでしょう。

万両の本家(まんりょうのほんけ);現在の大関株式会社。正徳元年(1711)、長部文治郎の始祖、初代大坂屋長兵衛が攝津・今津村で創業。1764年、清酒「万両」新発売。明治17年(1884)10月「万両」を「大関」と改名し商標登録。

結城(ゆうき);茨城県西部の市。鬼怒川中流西岸にある。もと水野氏1万8千石の城下町。古くからの絹・綿織物の産地。結城紬・結城木綿の縞織物の称。付近から産する絹織物。木藍で染めた細い紬糸で織り地質堅牢。絣または縞織。結城紬に擬して織った木綿縞織物。下野国(栃木県)足利に始まる。

大島紬(おおしま つむぎ);鹿児島県奄美大島並びに鹿児島市周辺から産出する紬。織締めによる細かい絣が特徴。地元産のティーチキと称する植物の煮出し液と泥中の鉄塩とで焦茶色に染めた泥染が伝統的技法。今は藍や多色の糸遣いをした藍大島・色大島もある。模造品に対して本場大島とも。

仙台平(せんだいひら);男子用の絹の袴地。極上質の精好織袴地の一種。元禄(1688~1704)前後頃、仙台藩主が西陣から織師を招いて織り始めたという。

表打ちの下駄(おもてうちの げた);表面に布・皮・畳表などの素材を貼り付けた下駄。

神戸下駄(こうべげた);前の部分が歯ではなく、フの字型に斜めになっている下駄。
右写真:神戸下駄。

角樽(つのだる);角のような一対の大きく高い柄をつけた、黒または朱塗りの祝儀用の樽。古くは長方形で、上の四すみに把手があった。あまのだる。にんぎょうだる。柳樽。
右写真:谷中・旧吉田屋酒店での角樽。

御寮人さん(ごりょんさん);(ゴリョウニンの訛) 他人の妻または娘の尊敬語。

抜け路地(ぬけろじ);裏路地(長屋の路地)で袋小路でなく、反対側の道に抜けられる路地。

宗近(むねちか);三条宗近は、平安時代の刀工。山城国京の三条に住んでいたことから、「三条宗近」の呼称がある。 『月耕随筆 稲葉山小鍛治』尾形月耕。三条宗近が稲葉明神の化身とともに作刀する謡曲「小鍛冶」を題材としたもの 古来、一条天皇の治世、永延頃(10世紀末頃)の刀工と伝える。観智院本銘尽には、「一条院御宇」の項に、「宗近 三条のこかちといふ、後とはのゐんの御つるきうきまるといふ太刀を作、少納言しんせいのこきつねおなし作也(三条の小鍛冶と言う。後鳥羽院の御剣うきまると云う太刀を作り、少納言信西の小狐同じ作なり)」とある。日本刀が直刀から反りのある湾刀に変化した時期の代表的名工として知られている。一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられているが、作刀にこのころの年紀のあるものは皆無であり、その他の確証もなく、ほとんど伝説的に扱われている。実年代については、資料によって「10 - 11世紀」、「12世紀」等と幅がある。

 三日月宗近(みかづきむねちか)は、平安時代に作られたとされる日本刀(太刀)の銘。天下五剣の一つ。国宝に指定されている。東京国立博物館所蔵。

乳母(おんば・うば);「おうば」の転訛したもの。母に代って子に乳をのませ、また養育する女。めのと。

鰻谷(うなぎだに);現・大阪市中央区心斎橋筋、西心斎橋1、心斎橋筋1、東心斎橋1、島之内1の北端辺り。長堀の南の筋が「鰻谷北通」その南が「鰻谷南通」。
 一風変わった名前は、地形が鰻の形に似ていたからだとも、かつて長堀川で鰻がとれたためだともいわれています。

北の新地;曽根崎新地、宝永年間(1704~1710)に蜆川北岸開発。1708年に町割りが行われ、蜆川北岸の曽根崎新地が北の新地の中心となった。曾根崎(そねざき)は、大阪府大阪市北区の町名および地域名。

北の新地の梶川;北新地(きたしんち)は、大阪府大阪市北区曾根崎新地・堂島に広がる歓楽街。大阪キタを代表する飲食店街で、東京の銀座と並んで日本を代表する高級飲食店街でもある。大阪駅前のダイヤモンド地区に南接して東西に細長く広がっている。ラウンジ、クラブ、料亭などを中心とした料飲店が集中している地域で、風俗店やパチンコ店は皆無である。過日は「北の遊里」として、その中に『梶川』も有って、お文さんはここから出ていた。

酢でもコンニャクでも、芋・蛸・南京、ドジョウ汁でもいかん;どうにも手に負えないことをいう。どうにもこうにも。まず「酢」は体を柔らかくするという意味から、懐柔。「芝居、コンニャク、芋、蛸、南瓜」は女性の好きな嗜好品。それらを使っても「うん」と言わない堅物であることを言っている。

女衆(おなごし);下女・はしため。雇われた順あるいは年齢順に、松竹梅からとってお松どん、お竹どん、お梅どんと呼んだ。長じるとお松っつぁん、お竹はん、お梅はんとなる。決して呼び捨てにはしなかった。

猫いらず;黄リン・亜ヒ酸などを用いた殺鼠剤の商標名。「石見銀山猫いらず」の石見銀山とは島根県中部、大田市、邇摩郡温泉津町、同仁摩町一帯の銀鉱採掘場。また、猛毒の砒素(ひそ)、砒素を用いた殺鼠薬の代名詞としても使う。
 石見銀山ねずみ捕り(いわみぎんざんねずみとり)は江戸時代、石見国笹ヶ谷鉱山で銅などと共に採掘された砒石すなわち硫砒鉄鉱(砒素などを含む)を焼成して作られた殺鼠剤(ねずみ捕り)である。主成分は亜ヒ酸。単に「石見銀山」や「猫いらず」とも呼ばれ、広く使われた。落語「心中時雨傘」で出て来ます。

熊野の牛王(ごお)さん;熊野三山で授与する特別の神札。牛黄(ごおう)を混ぜた墨で書かれているという。熊野誓紙。牛王誓紙。この誓紙の裏に誓約文を書き、守れなかったときは熊野のカラスが三羽死ぬと言われる。
 吉原の遊女が好きな男に年期が明けたら一緒になるという文面で、渡していた。それも複数。落語「三枚起請」に詳しい。また、戦国大名でも時の将軍に誓いを立てるときに誓紙の裏に書き渡した。

牛黄(ごおう);牛の腸・肝・胆に生ずる一種の結石。漢方に使用される生薬。牛黄の薬理作用の一つに末梢の赤血球数を著しく増加させる効果がある。

和讃(わさん);声明(しょうみょう)の曲種の一種。日本語(韻文)の歌詞による仏徳賛美の歌。梵讃(ぼんさん)・漢讃(かんさん)に準じて、平安時代以降盛んに作られた。良源・源信・親鸞・一遍などの作が有名。今様(いまよう)歌の源流でもある。
漢讃:梵語の仏教讃嘆の韻文を漢文に翻訳したもの。また、中国・朝鮮・日本などで漢文で作った仏教讃歌。
梵讃;声明のひとつ。梵語で、仏徳などを讃嘆(サンダン)した韻文。梵語讃。

五障;女人がもっている5種の障礙(シヨウゲ)、すなわち梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏身となり得ないこと。法華経提婆達多品に説く。いつつのさわり。五礙(ゴゲ)。五つの雲。

三従;[儀礼喪服伝]女性が従うべき三つの道。すなわち家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫の死後は子に従うこと。「五障三従」。

御文;蓮如(れんにょ・1415年-1499年)上人の書簡・法語集。お文さま。
 蓮如上人の頃は、本山は比叡山にあったが、天台宗の末寺のような状態であった。蓮如が町に出て琵琶湖周辺や北陸、東北に足を延ばし、信徒に平易に仏教の精神を同じ目線で伝え、また、手紙にてその言葉を後世に伝えた。その人柄が信徒にフアンを広げ、浄土真宗が独り立ちする切っ掛けを作った。そして大坂に石山本願寺を作り、信長が恐れるまでに成長した。その後、東西の本願寺に別れ、本願寺跡が秀吉の大阪城になって現在に至っています。2016年秋、浅草・東本願寺にて僧から聞いた。
 御文章:浄土真宗の本願寺八世蓮如がその門下に与えた法語や消息を、孫の円如が集めたもの。五帖八十通より成る。平易な文章で、宗義の拡大に貢献。本願寺派では御文章、大谷派では御文(おふみ)というが、当然内容は同じです。お文様(ふみさま)。五帖消息。
 御文章
 当流(トウリユウ)上人ノ御勧化(ゴカンゲ)ノ信心ノ一途(イチズ)ハ、ツミノ軽重ヲイハズ、マタ妄念妄執(モウネンモウジユウ)ノコヽロノヤマズナンドイフ機(キ)ノアツカヒヲサシヲキテ、タヾ在家止住(シジユウ)ノヤカラハ、一向ニモロノ雑行(ゾウギヨウ)雑修(ゾウシユ)ノワロキ執心(シユウシン)ヲステ、弥陀如来ノ悲願ニ帰シ、一心ニウタガヒナクタノムココロノ一念ヲコルトキ、スミヤカニ弥陀如来光明(コウミヨウ)ヲハナチテ、ソノヒトヲ摂取(シヨウジユ)シタマフナリ。コレスナハチ、仏ノカタヨリタスケマシマスコヽロナリ。マタコレ、信心ヲ如来ヨリアタヘタマフトイフモ、コノコヽロナリ。サレバコノウヘニハ、タトヒ名号(ミヨウゴウ)ヲトナフルトモ、仏タスケタマヘトハヲモフベカラズ、タヾ弥陀ヲタノムコヽロノ一念ノ信心ニヨリテ、ヤスク御(オン)タスケアルコトノカタジケナサノアマリ、弥陀如来ノ御タスケアリタル御恩(ゴオン)ヲ報ジタテマツル念仏ナリトコヽロウベキナリ。コレマコトノ専修(センジユ)専念(センネン)ノ行者ナリ。コレマタ、当流ニタツルトコロノ一念発起平生業成(ゴウジヨウ)トマフスモ、コノコヽロナリ。アナカシコ。
  寛正二年 

白骨の御文章;御文第五帖十六通、「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕べには白骨(はっこつ)となる 」。《和漢朗詠集・下の「朝に紅顔あって世路に誇れども、暮(ゆふべ)に白骨となって郊原に朽ちぬ」から》この世は無常で、人の生死は予測できないことをいう。

 親鸞聖人のみ教え(浄土真宗)を、正確に、全国津々浦々にまで弘められた蓮如上人(1415-1499)は、「浄土真宗中興の祖」と仰がれています。数多く書き残されたお手紙から、80通が編纂された『御文章』の中でも有名な「白骨の章」(五帖目十六通)は、上人75歳の時に書かれました。
 当時、山科本願寺の近くに青木民部(みんぶ)という下級武士がいました。17歳の娘と、身分の高い武家との間に縁談が調ったので、民部は、喜んで先祖伝来の武具を売り払い、嫁入り道具を揃えたのです。ところが、いよいよ挙式という日に、娘が急病で亡くなってしまいます。火葬の後、白骨を納めて帰った民部は、「これが、待ちに待った娘の嫁入り姿か」と悲嘆にくれ、51歳で急逝。度重なる無常に、民部の妻も翌日、37歳で愁い死にしてしまいました。
 その二日後、山科本願寺の聖地を財施した海老名五郎左衛門(えびなごろうざえもん)の17歳になる娘もまた、急病で亡くなりました。葬儀の後、山科本願寺へ参詣した五郎左衛門は、蓮如上人に、無常についてご勧化をお願いします。すでに青木家の悲劇を聞いておられた上人は、願いを聞き入れられ、「白骨の御文章」を著されたのです。

 蓮如上人の「白骨の御文章」 (原文を現代文に書き直したもの)
 それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚(はかな)きものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。 されば、いまだ萬歳の人身をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁しと言えり。
 されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬるときは、六親眷属あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。
 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、なかなか疎かなり。されば、人間の儚き事は、老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。

 


                                                            2016年12月記

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