落語「のびる」の舞台を行く
   

 

 神津 友好作
 柳家小三治の噺、「のびる」より


 

 芝の日影町から麻布十番にかけた道筋に刀屋があった。店先に立ったお武家様。
 「いらっしゃいませ。今日は早々にあと金二両の支払いに来ていただいたので?」、「さような事ではない。先日その方から買ったこの刀だが、伸びるな」、「へ~ぇ?」、「この刀は『伸びる』と申しておる」、「伸びる?」、「街中を歩いておると鯉口が切れて2寸ほど伸びておる」、「あッ、それは抜けます」、「その時に上から抑えて押し込もうとしても、先がつかえて入ってゆかんところを見ると、確かに伸びておる」、「見た処、大変具合よく鯉口なども収まっているように思われますが?どの様な時に・・・」、「往来で、決まって、女とすれ違った時だぁ」、「へぇッ、女!そんな馬鹿な」、「身共が偽りを申しておるというのか」、「あッ、御勘弁を。いや、しかし、女を見ると伸びるなどとはどうも? イヤー、女好きの刀などとは・・・、はぁーどうも弱りましたな~、これは・・・」、「その方が弱ると言っているが、身共の方こそ弱っておる。即刻取り替えてもらいたい」。
 「女を見るとね~」、「信じていないな。ここには女は居ないか」、「女房と女中が居ます」、「これは女か? やむを得ない、その女でも。鯉口が伸びているだろう・・・」、「伸びていないな~」、「これは不思議だ」、「これが普通です」。「可笑しいな。家から出てみよう」、「向から湯上がりの艶っぽい女性がやって来ました」。
 「刀屋ッ。伸び始めておる」、「あ~ぁ、本当に伸びました」、「判った。この刀は人を見るな。刀屋これで分かったであろう。即刻引き取れッ」、「はい分かりました。旦那様がイヤだと言ってもこんな珍品喜んで承ります。アリガトウございます」、「『アリガトウ』?この刀はそんなに珍しいものか?」、「私は初めてですが、これは村正を擦り上げて短くしたものと見受けられます。茎(なかご)に目釘穴が3個も空いているところを見ますと、擦り上げて今の寸法になったと思われます。良い刀になりますと、元の長さに戻ろうとするのでは、ないでしょうか」、「そうか」、「この様ないかさま物をお売りしたのは私の手落ち。即刻引き取らせていただきます」、「まて、その方の話を聞いたら、手放したくなくなった」、「そんなぁ~」、「残金の2両はここに置く」、「商売仲間に見せれば千両小判物なんですが・・・」、「では・・・」。

 刀屋を暮れ六に出て、芝の山内に掛かると、日も暮れて暗くなった。その頃辻斬りが横行していた。いつしか跡をつけてくる者が居た。角を曲がった瞬間斬りかかってきたが殺気を感じていたので、抜き打ちざま刀をぬいて応戦。
 将軍指南番柳生但馬守の剣の極意に『一眼二足三旦四力』が有ります。対峙すると業物で自分の刀より1寸長いのが分かった。宮本武蔵の極意にも相手の刀に合わせて間合いを取り、皮を切らせて肉を斬り、肉を切らせて骨を断つ。腕が同じなら長いものが有利。
 間合いを広げかけると曲者(くせもの)は斬り込んできた。一瞬の内に勝負は決まった。倒れた曲者は肩口から腹にかけて斬り裂かれて、自分は袂を斬られただけで助かった。「腕の立つ奴だった。確かに刀は自分のより1寸長いとみたが・・・。下がった折、相手の切っ先が、先に自分の身体に届いていたはず」。曲者の傷を確かめるため黒装束の胸元を開いてみると、真っ白な肌に二つの盛り上がった胸が・・・、「フン、このスキ者めがッ」。 

 



ことば

神津 友好(こうづ ともよし);大正14年8月長野県生まれ。昭和22年上智大学新聞学科卒業。昭和25年法政大学文学部英米文学科卒業。雑誌、業界紙記者を経て、昭和28年より演芸台本の専門作家となる。日本放送作家協会理事、文化庁芸術祭審査委員、芸術選奨選考委員、三越名人会企画委員などを歴任。NHK番組専属作家。花王名人劇場プロデューサー。著書に『笑伝・林家三平』『にっぽん芸人図鑑』『少年少女落語名作選』。平成13年文化庁長官表彰。 この落語「のびる」の作者。

日本刀(にほんとう);一般に日本刀と呼ばれる反りのついた太刀(たち)が作られるようになるのは10世紀末から11世紀初めで、そのもっとも古い刀工が京都の三条宗近(むねちか)と伯耆(ほうき=鳥取)の安綱(やすつな)です。平安時代後期には、これらのほか備前・備中(岡山)・大和(奈良)などに刀工が集団で居住して製作するようになり、鎌倉時代には、刀工はほぼ日本全国に分布して、日本刀全盛期を迎え、それぞれの地域独特の作風を示すようになった。京都の粟田口吉光(あわたぐち よしみつ)、鎌倉の正宗、備前福岡の一文字吉房(よしふさ)、助真(すけさね)、同じく長船(おさふね)の光忠(みつただ)、長光(ながみつ)などの名工が知られています。
 室町時代後期から刃を上にして袴の帯に指す刀が主流になりました。江戸時代の刀は、それまでの古刀に対し、新刀と呼ばれますが、これは当時の新作刀を「新刃(あらみ)」と呼んだことによります。江戸時代には、京都、大坂、をはじめ各地の城下に刀工が住み、反りが少なく、華やかな刀文を焼くなどの斬新な作風を展開しました。
 刀剣の柄(つか)や鞘(さや)などの外装に使われる刀装具には、鐔(つば)のほか、柄に付ける目貫(めぬき)、
鞘に撒し添える小柄や笄(こうがい)などがあります。金銀や銅の色を巧みに用いた、精緻な作品が生み出され、ほかの金工の作品にも大きな影響を与えました。
東京国立博物館の説明板より。右図も。

村正(むらまさ);伊勢国桑名(三重県桑名市)で活躍した刀工の名。または、その作になる日本刀の名。
 落語「大丸屋騒動」別名「村正」に写真入りでその詳細が見られます。

鯉口(こいぐち);(楕円形で鯉の口に似ているからいう) 刀の鞘(サヤ)口。
 鯉口を切る=すぐに刀の抜けるように、鯉口をゆるめておく。また、刀を抜きかける。

 

 

 太刀 長船兼光(名物 福島兼光) 重要文化財 この茎擦り上げたために目釘孔が三も開いています。

 

 太刀 綾小路定利 重要文化財 これも摺り下ろされて短く調整されています。
図、刀とも東京国立博物館所蔵。

(なかご);刀身の、柄(ツカ)に入った部分。作者の銘などをこの部分に切る。刀心。上図、写真。

刀銘(かたなめい);打刀に切ってある銘。また、その切り方。刀の刃が上向きになるように左腰にさした時、銘は表側になる。太刀銘。上図、写真。

業物(わざもの);名工が鍛えた、切れ味のよい刀剣。わざよし。

芝日影町(しばひかげちょう);江戸時代から昭和の初期にかけて日比谷神社が鎮座していた芝日陰町、いまでいう東新橋一帯、第一京浜国道を一本西側に入ったあたりですが、江戸の昔は古着屋や古物商などで賑わった場所だといわれています。
当然そのような場所ですから、インチキ商品を売って暴利をむさぼっていた悪徳商人もいたはずです。
五代目古今亭志ん生の怪談「江島騒動」も、そのような悪徳古着屋が因業により没落していく噺です。
右図:「江戸名所図会」、江戸時代の日比谷神社(鯖稲荷社)。

麻布十番(あざぶじゅうばん);古くは、麻布村に属する低湿地帯であった。江戸時代、仙台藩の江戸屋敷は今の韓国大使館から二の橋にかけての広大な土地を持っていたが、低地側の湿気の多さがどうにも出来ずに困り果て、高台側はそのまま藩邸として使い、低地側半分を幕府に返上したほどである。幕府はその土地には低給の役人に住まわせたが彼らも苦労が多かったようである。しかし河川改修などによって干拓、開拓が進み、明治時代には、神楽坂と並ぶ繁華街に発展した。地名は、早くから通称として定着していた。
 麻布十番付近には長らく鉄道の駅がなく、1km以上離れたところにある最寄り駅の六本木駅からも高低差があるために「陸の孤島」とも呼ばれていた。このように鉄道では極めて不便であったが、都道319号や麻布通りなどといった大きな道路に面しているためバスの便は良く、多くのバス路線がここを通っていた。現在でもその利便性は変わっていない。
 平成12年(2000)になると麻布十番駅が完成して地下鉄・南北線と大江戸線が相次いで開通、さらに平成15年(2003)には隣接する六本木6丁目に複合施設「六本木ヒルズ」が開業するなど、麻布十番を取り巻く環境は一変した。落語「小言幸兵衛」で歩いたところです。

2寸(2すん);長さの単位。1寸=3.03cm。2寸=6.06cm。

暮れ六(くれむつ);夕刻の日没時間。現在の午後約6時頃。

芝の山内(しばのさんない);現在の港区芝公園。芝増上寺の境内地内。当時は将軍家菩提所であり、深夜には漆黒の闇であった。芝日影町からここを抜けて麻布に抜けるには近道になったが、辻斬りや追い剥ぎが出て、物騒な場所であった。落語「首提灯」でも辻斬りに合い、大変なことになります。

辻斬り(つじぎり);辻斬りをする理由としては、刀の切れ味を実証するため(試し斬り)や、単なる憂さ晴らし、金品目的、自分の武芸の腕を試す為などがある。また、千人の人を斬る(千人斬り)と悪病も治ると言われる事もあった。千人斬りで有名なのが、久米平内で、落語「安産」で説明しています。
 『八十翁疇昔物語』によれば、番町方の長坂血鑓九郎、須田久右衛門の屋敷と、牛込方の小栗半右衛門、間宮七郎兵衛、都築又右衛門などの屋敷とのあいだは、道幅100余間もあり、草の生い茂った淋しい原であったので、毎夜辻斬りがあったという。
 『甲子夜話』第1巻には、「神祖駿府御在城の内、江戸にて御旗本等の若者、頻りに辻切して人民の歎きに及ぶよし聞ゆ。(省略)所々辻切の風聞専ら聞え候、それを召捕候ほどの者なきは、武辺薄く成り行き候事と思召候。いづれも心掛辻切の者召捕へと御諚のよし申伝へしかば、其のまま辻切止みけるとぞ」とある。
 幕末には薩摩藩士の間で、江戸辻斬が流行したが、歩行しながら居合斬りをするため、相手は対応できず、警護を2人つけた幕臣ですら殺害された上に、全く表情に動揺がないので気づかれなかったことが『西郷隆盛一代記』に記されており、その一人をこらしめ(辻斬をする薩摩藩士達に警告し)た達人として、50余歳になる斎藤弥九郎(飯田町に道場を開く)の話が記述されている(のちにその辻斬犯は弟子になっている)。
 幕府は武士であっても一般人を無用に殺害した時は”切り捨て御免”では無く、殺人として処罰した。

柳生但馬守(やぎゅう たじまのかみ);柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)(柳生但馬守宗矩 やぎゅう たじまのかみ むねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。著「兵法家伝書」。

右写真:奈良市・芳徳禅寺の座像。柳生家の菩提寺。

兵法家伝書より
・「一人の悪に依りて万人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。是等誠に、人をころす刀は、人を生かすつるぎなるべきにや」
・「刀二つにてつかふ兵法は、負くるも一人、勝つも一人のみ也。是はいとちいさき兵法也。勝負ともに、其得失僅か也。一人勝ちて天下かち、一人負けて天下まく、是大なる兵法也」
・「治まれる時乱を忘れざる、是兵法也」
・「兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと也。人をきるにはあらず、悪をころす也」
・「平常心をもって一切のことをなす人、是を名人と云ふ也」
・「無刀とて、必ずしも人の刀をとらずしてかなはぬと云ふ儀にあらず。又刀を取りて見せて、是を名誉にせんにてもなし。わが刀なき時、人にきられじとの無刀也」
・「人をころす刀、却而人をいかすつるぎ也とは、夫れ乱れたる世には、故なき者多く死する也。乱れたる世を治める為に、殺人刀を用ゐて、巳に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや」

宗矩と家光の逸話
・宗矩の死後、家光は「天下統御の道は宗矩に学びたり」と常々語ったという(『徳川実紀』)。
・家光は宗矩の死後何かあると「宗矩生きて世に在らば、此の事をば尋ね問ふべきものを」と言ったという(『藩翰譜』)。

一眼二足三旦四力;目が利くというのは間合いを取った時に、相手の刀の長さが分かり、足が俊敏に動き、肝が据わって、力=技が立てば、剣の達人だと言った将軍指南番柳生但馬守の極意です。 

宮本武蔵(みやもと むさし);(天正12年(1584年)? - 正保2年5月19日(1645年6月13日))は、江戸時代初期の剣術家、兵法家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。また、重要文化財指定の水墨画や工芸品を残している。
 京都の兵法家吉岡一門との戦いや佐々木小次郎と巌流島での決闘が後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。
 著書である『五輪書』は日本以外にも翻訳され出版されている。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。
 新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利、16歳で但馬国の秋山という強力の兵法者に勝利、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利した。
 武蔵の極意にも相手の刀に合わせて間合いを取り、皮を切らせて肉を斬り、肉を切らせて骨を断つ。腕が同じなら刀が長いものが有利。

右図;上、「武蔵像」自画像。下、「枯木鳴鵙図」(こぼくめいげきず)武蔵筆。どちらも重要文化財

 五輪書は、武道書。宮本武蔵著。地・水・火・風・空の五巻。厳しい剣法修業によって究め得た兵法の奥義を述べたもの。正保元年(1644)頃成る。以下、広辞苑より

五輪書 地之巻
  兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練の事、初而(ハジメテ)書物(カキモノ)に顕(アラ)はさんと思ひ、時に寛永二十年十月(カンナヅキ)上旬の比(コロ)、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼(ライ)し、仏前にむかひ、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもつて六十。  我、若年のむかしより兵法の道に心をかけ、十三歳にして初而勝負をす。
  右一流の兵法の道、朝な夕な勤めおこなふによつて、おのづから広き心になつて、多分一分(イチブン)の兵法として、世に伝ふる所、初而(ハジメテ)書顕(カキアラ)はす事、地水火風空、是(コノ)五巻也。我兵法を学ばんと思ふ人は、道をおこなふ法あり。
  第一に、よこしまになき事をおもふ所
  第二に、道の鍛練する所
  第三に、諸芸にさはる所
  第四に、諸職の道を知る事
  第五に、物毎(モノゴト)の損徳をわきまゆる事
  第六に、諸事目利を仕覚ゆる事
  第七に、目に見えぬ所をさとつてしる事
  第八に、わづかなる事にも気を付くる事
  第九に、役にたゝぬ事をせざる事
  大形(オオカタ)如此(カクノゴトキ)理を心にかけて、兵法の道鍛練すべき也。此道に限りて、直(スグ)なる所を広く見たてざれば、兵法の達者とは成りがたし。此法を学び得ては、一身にして二十三十の敵にもまくべき道にあらず。先づ気に兵法をたえさず、直なる道を勤めては、手にて打勝ち、目に見る事も人にかち、又鍛練をもつて惣躰(ソウタイ)自由(ヤワラカ)なれば、身にても人にかち、又此道に馴れたる心なれば、心をもつても人に勝ち、此所に至りては、いかにとして人にまくる道あらんや。又大きなる兵法にしては、善人(ヨキヒト)を持つ事にかち、人数(ニンズ)をつかふ事にかち、身をたゞしくおこなふ道にかち、国を治むる事にかち、民をやしなふ事にかち、世の例法をおこなひかち、いづれの道におゐても、人にまけざる所をしりて、身をたすけ、名をたすくる所、是(コレ)兵法の道也。
   正保二歳五月十二日 新免武蔵
 寺尾孫丞殿                                
〈岩波文庫〉広辞苑から 



                                                            2016年12月記

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