■麻布十番(あざぶじゅうばん);古くは、麻布村に属する低湿地帯であった。江戸時代、仙台藩の江戸屋敷は今の韓国大使館から二の橋にかけての広大な土地を持っていたが、低地側の湿気の多さがどうにも出来ずに困り果て、高台側はそのまま藩邸として使い、低地側半分を幕府に返上したほどである。幕府はその土地には低給の役人に住まわせたが彼らも苦労が多かったようである。しかし河川改修などによって干拓、開拓が進み、明治時代には、神楽坂と並ぶ繁華街に発展した。地名は、早くから通称として定着していた。
麻布十番付近には長らく鉄道の駅がなく、1km以上離れたところにある最寄り駅の六本木駅からも高低差があるために「陸の孤島」とも呼ばれていた。このように鉄道では極めて不便であったが、都道319号や麻布通りなどといった大きな道路に面しているためバスの便は良く、多くのバス路線がここを通っていた。現在でもその利便性は変わっていない。
平成12年(2000)になると麻布十番駅が完成して地下鉄・南北線と大江戸線が相次いで開通、さらに平成15年(2003)には隣接する六本木6丁目に複合施設「六本木ヒルズ」が開業するなど、麻布十番を取り巻く環境は一変した。落語「小言幸兵衛」で歩いたところです。
■2寸(2すん);長さの単位。1寸=3.03cm。2寸=6.06cm。
■暮れ六(くれむつ);夕刻の日没時間。現在の午後約6時頃。
■芝の山内(しばのさんない);現在の港区芝公園。芝増上寺の境内地内。当時は将軍家菩提所であり、深夜には漆黒の闇であった。芝日影町からここを抜けて麻布に抜けるには近道になったが、辻斬りや追い剥ぎが出て、物騒な場所であった。落語「首提灯」でも辻斬りに合い、大変なことになります。
■辻斬り(つじぎり);辻斬りをする理由としては、刀の切れ味を実証するため(試し斬り)や、単なる憂さ晴らし、金品目的、自分の武芸の腕を試す為などがある。また、千人の人を斬る(千人斬り)と悪病も治ると言われる事もあった。千人斬りで有名なのが、久米平内で、落語「安産」で説明しています。
『八十翁疇昔物語』によれば、番町方の長坂血鑓九郎、須田久右衛門の屋敷と、牛込方の小栗半右衛門、間宮七郎兵衛、都築又右衛門などの屋敷とのあいだは、道幅100余間もあり、草の生い茂った淋しい原であったので、毎夜辻斬りがあったという。
『甲子夜話』第1巻には、「神祖駿府御在城の内、江戸にて御旗本等の若者、頻りに辻切して人民の歎きに及ぶよし聞ゆ。(省略)所々辻切の風聞専ら聞え候、それを召捕候ほどの者なきは、武辺薄く成り行き候事と思召候。いづれも心掛辻切の者召捕へと御諚のよし申伝へしかば、其のまま辻切止みけるとぞ」とある。
幕末には薩摩藩士の間で、江戸辻斬が流行したが、歩行しながら居合斬りをするため、相手は対応できず、警護を2人つけた幕臣ですら殺害された上に、全く表情に動揺がないので気づかれなかったことが『西郷隆盛一代記』に記されており、その一人をこらしめ(辻斬をする薩摩藩士達に警告し)た達人として、50余歳になる斎藤弥九郎(飯田町に道場を開く)の話が記述されている(のちにその辻斬犯は弟子になっている)。
幕府は武士であっても一般人を無用に殺害した時は”切り捨て御免”では無く、殺人として処罰した。
■柳生但馬守(やぎゅう たじまのかみ);柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)(柳生但馬守宗矩 やぎゅう たじまのかみ むねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。著「兵法家伝書」。
右写真:奈良市・芳徳禅寺の座像。柳生家の菩提寺。
兵法家伝書より
・「一人の悪に依りて万人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。是等誠に、人をころす刀は、人を生かすつるぎなるべきにや」
・「刀二つにてつかふ兵法は、負くるも一人、勝つも一人のみ也。是はいとちいさき兵法也。勝負ともに、其得失僅か也。一人勝ちて天下かち、一人負けて天下まく、是大なる兵法也」
・「治まれる時乱を忘れざる、是兵法也」
・「兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと也。人をきるにはあらず、悪をころす也」
・「平常心をもって一切のことをなす人、是を名人と云ふ也」
・「無刀とて、必ずしも人の刀をとらずしてかなはぬと云ふ儀にあらず。又刀を取りて見せて、是を名誉にせんにてもなし。わが刀なき時、人にきられじとの無刀也」
・「人をころす刀、却而人をいかすつるぎ也とは、夫れ乱れたる世には、故なき者多く死する也。乱れたる世を治める為に、殺人刀を用ゐて、巳に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや」
宗矩と家光の逸話
・宗矩の死後、家光は「天下統御の道は宗矩に学びたり」と常々語ったという(『徳川実紀』)。
・家光は宗矩の死後何かあると「宗矩生きて世に在らば、此の事をば尋ね問ふべきものを」と言ったという(『藩翰譜』)。
■一眼二足三旦四力;目が利くというのは間合いを取った時に、相手の刀の長さが分かり、足が俊敏に動き、肝が据わって、力=技が立てば、剣の達人だと言った将軍指南番柳生但馬守の極意です。
■宮本武蔵(みやもと むさし);(天正12年(1584年)? - 正保2年5月19日(1645年6月13日))は、江戸時代初期の剣術家、兵法家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。また、重要文化財指定の水墨画や工芸品を残している。
京都の兵法家吉岡一門との戦いや佐々木小次郎と巌流島での決闘が後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。
著書である『五輪書』は日本以外にも翻訳され出版されている。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。
新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利、16歳で但馬国の秋山という強力の兵法者に勝利、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利した。
武蔵の極意にも相手の刀に合わせて間合いを取り、皮を切らせて肉を斬り、肉を切らせて骨を断つ。腕が同じなら刀が長いものが有利。
右図;上、「武蔵像」自画像。下、「枯木鳴鵙図」(こぼくめいげきず)武蔵筆。どちらも重要文化財
五輪書は、武道書。宮本武蔵著。地・水・火・風・空の五巻。厳しい剣法修業によって究め得た兵法の奥義を述べたもの。正保元年(1644)頃成る。以下、広辞苑より
五輪書
地之巻
兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練の事、初而(ハジメテ)書物(カキモノ)に顕(アラ)はさんと思ひ、時に寛永二十年十月(カンナヅキ)上旬の比(コロ)、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼(ライ)し、仏前にむかひ、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもつて六十。
我、若年のむかしより兵法の道に心をかけ、十三歳にして初而勝負をす。
右一流の兵法の道、朝な夕な勤めおこなふによつて、おのづから広き心になつて、多分一分(イチブン)の兵法として、世に伝ふる所、初而(ハジメテ)書顕(カキアラ)はす事、地水火風空、是(コノ)五巻也。我兵法を学ばんと思ふ人は、道をおこなふ法あり。
第一に、よこしまになき事をおもふ所
第二に、道の鍛練する所
第三に、諸芸にさはる所
第四に、諸職の道を知る事
第五に、物毎(モノゴト)の損徳をわきまゆる事
第六に、諸事目利を仕覚ゆる事
第七に、目に見えぬ所をさとつてしる事
第八に、わづかなる事にも気を付くる事
第九に、役にたゝぬ事をせざる事
大形(オオカタ)如此(カクノゴトキ)理を心にかけて、兵法の道鍛練すべき也。此道に限りて、直(スグ)なる所を広く見たてざれば、兵法の達者とは成りがたし。此法を学び得ては、一身にして二十三十の敵にもまくべき道にあらず。先づ気に兵法をたえさず、直なる道を勤めては、手にて打勝ち、目に見る事も人にかち、又鍛練をもつて惣躰(ソウタイ)自由(ヤワラカ)なれば、身にても人にかち、又此道に馴れたる心なれば、心をもつても人に勝ち、此所に至りては、いかにとして人にまくる道あらんや。又大きなる兵法にしては、善人(ヨキヒト)を持つ事にかち、人数(ニンズ)をつかふ事にかち、身をたゞしくおこなふ道にかち、国を治むる事にかち、民をやしなふ事にかち、世の例法をおこなひかち、いづれの道におゐても、人にまけざる所をしりて、身をたすけ、名をたすくる所、是(コレ)兵法の道也。
正保二歳五月十二日 新免武蔵
寺尾孫丞殿
〈岩波文庫〉広辞苑から
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