落語「狂歌家主」の舞台を行く
   

 

 三代目三遊亭金馬の噺、「狂歌家主」(きょうかいえぬし)より


 

 「元日や今年もあるぞ大晦日」、「味噌こしの底に溜まりし大晦日 越すに越されず越されずに越す」、大晦日は支払いが溜まってくると大変です。

 長屋の八公夫婦も大晦日が越されずに困っていた。借金取りが大勢掛け取りにやって来るが、女房は気が気では無い。お餅も搗けないので、たった三切れ餅屋から買ってきた。八公は悠然と構えているが、支払いの当ても無い。去年みたいに、早桶担ぎ込んで死んだ振りをして、大家さんを騙して家賃は棒引きで、香典まで呉れるというので「それは出来ません」と言ったら、お前さんは早桶の中から「貰っておけ」と言ったら、大家さん腰をぬかしてしまった。「今年はダメですよ」。
 「大家さんの奥さんが砂糖を持って来て、『これは貰い物だけれど腐らないし、何処でも使う物だから使って下さい』と置いて行った。我が家は家賃が溜まっているので、こちらから行って、大家さんの大好きな狂歌を言って、待って貰いなさい。他の言い訳は私がするから、お願いします」、「口上はどの様にしていけば良いんだぃ」、「いいかぃ、『私も狂歌に凝りまして、あっちの会こっちの会と首を突っ込みまして、 ついつい借金が重なりました。いずれ一夜明けまして、松でも取れたら目鼻の開くように致します。どうぞお待ち下さい』 と言うんだよ」。「狂歌と言うことばを忘れたら、千住の先の草加(そうか=きょうか)か、 金毘羅様の縁日(十日=とうか)で、狂歌を思い出すんだよ」、「それを忘れたら」、「長屋の掃き溜め、後架だよ」、「後架に狂歌似ているね」、「いってらっしゃい」。

 大家さんの家では正月の準備が済んで、部屋の中で煙草を吹かして悠然としている。「八公か、裏で隠れていないで入りな。大晦日だ、店賃持って来たか」、「どういたしまして」、女房から言われた口上を、大家さんに直されながら言ったが、「つまらないことに凝ったというのは何だ?」、「千住の先は何て言いましたかね」、「ほうき塚、竹の塚、西新井だ」、「にし・・・、違うようだな。金比羅さんの縁日は?」、「10日だ」、「あれっ、思い出せない」、「長屋の突き当たりの掃き溜めの隣は何て言いましたかね?」、「手水場だよ」、「ん? あれ? 他に言い方有りませんか?」、「有るよ。はばかり、おしも、お手洗い、手水場、雪隠、新しい言葉でトイレ、WCなどとも言うな」、「違うな。下世話で何と言います」、「後架だな」、「それだ。後架に・・・、狂歌に凝った」、「汚いな。ウソを付け」。「ホントです」、「長屋で狂歌に凝ったのはお前だけだ」、「店賃待ってくれますか?」、「バカを言うな」。
 「凝ったというなら、吐(は)いたのはなんだ」、「上野の駅で、苦しくて吐きました。飲み過ぎて・・・」、「汚いな。歌を詠んだことがあるか、と言うんだ」、「大家さんから聞かせて下さい」。

 「大家さんのこと『狂歌家主』と言うのはどうしてですか?」、「婚礼の晩、床の間に飾ってあった島台の足が1本取れた。仲人や親戚が顔色を変えてしまった。残りの足を皆取って狂歌を張って置いた。『アシと言うのを残らず取り捨てて 良きことばかり残る島台』。それから、上手いね、と言うことで狂歌家主と言われるようになった」。
 「大家さんの聞かせて下さい」、「道楽息子を勘当から直すのに、『悪いとてただ一筋に思うなよ 渋柿を見よ甘干しとなる』」、「上手いね~、まだ有りますか?」、「お前のを聞こう」、「寒い晩があったでしょ、『寒いとてただ一筋に思うなよ アンカを入れれば温かになる』」。
 「当たり前だ。玄米を搗き米屋に頼んだが、なかなか出来てこないので催促した、『二斗三斗(二度三度)人をやるのになぜ来ぬか(小糠) ウソを搗屋で腹を立臼』」、「上手いな~、まだ有りますか」、「お前のを聞こう」、「搗き米屋に頼んだが、なかなか出来てこないので、『二斗三斗人をやるのになぜ来ぬか ウソを搗屋で腹を立臼』」、「今、私がやったやつじゃないか」、「誰しも考えることは同じだなぁ~」、「誤魔化しちゃいけないよ」。
 「酒を掛で買いに行ったら、店の番頭が狂歌で、『貸し枡と返しませんで困り枡 現金ならば安く売り枡』」、「枡づくしで上手いな~」、「返歌しました、『借り枡と貰ったように思い枡 現金ならばよそで買い枡』」、「そんな薄情な~、他には有るかぃ」、「では、『貧乏の棒もしだいに長くなり 振り回される歳の暮れかな』」、「面白いな~。まだあるか?」、「『貧乏をすれば悔しきスソ綿の 下から出ても人に踏まれる』どうですか」、「それはいけない。風流の世界に愚痴が有ってはいけないよ」。
 「『貧乏のすれどもこの屋に風情あり 質の流れに借金の山』だ」、「『貧乏しても下谷の長者町 上野の鐘(金)の唸るのを聞く』、どうですか」、「貧乏を苦にしないのが良いな~」、「だから暮れになっても店賃持って来ない」。
 「私が上の句をやるから、お前は下の句をやる。題は・・・、ここに古暦が有る。最後だから丸めて、『右の手に巻き収めたる古暦』で、どうだ」、「『おやおやそうかいカボチャの胡麻汁』」、「デタラメ言っちゃ~いけないよ。『右の手に巻き収めたる古暦 歳の関所の手形にぞせん』、ぐらい言わなくちゃ~」、「それでイイです」。
 「それでは一夜明けて初春だ」、「暮れは苦しくてしょうが無いんだ」、「『初春や髪の飾りに袴着て』」、「『むべ山風を嵐というがごとし』」、「それはダメだよ。百人一首だよ。もっと新しいのだ」、「『餅の使いはカカァをやるなり』」、「上にも下にも付かないよ」、「搗かないから、三切れ買って来たんです」。

 



ことば

狂歌(きょうか);社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した諧謔形式の短歌(和歌)。
 狂歌の起こりは古代・中世に遡り、狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。落書(らくしょ)などもその系譜に含めて考えることができる。独自の分野として発達したのは江戸時代中期で、享保年間に上方で活躍した鯛屋貞柳などが知られる。
 特筆されるのは江戸の天明狂歌の時代で、狂歌がひとつの社会現象化した。そのきっかけとなったのが、明和4年(1767年)に当時19歳の大田南畝(蜀山人)が著した狂詩集『寝惚先生文集』で、そこには平賀源内が序文を寄せている。明和6年(1769)には唐衣橘洲(からころもきっしゅう)の屋敷で初の狂歌会が催されている。これ以後、狂歌の愛好者らは狂歌連を作って創作に励んだ。朱楽菅江(あけらかんこう)、宿屋飯盛(やどやのめしもり、石川雅望)らの名もよく知られている。
 狂歌には、『古今和歌集』などの名作を諧謔化した作品が多く見られる。これは短歌の本歌取りの手法を用いたものといえる。 現在でも愛好者の多い川柳と対照的に、狂歌は近代以降人気は衰えた。

 「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」
 寛政の改革の際に詠まれたもの。白河は松平定信の領地。定信の厳しい改革より、その前の田沼意次の多少裏のあった政治の方が良かったことを風刺している。大田南畝作という評判もあったが本人は否定した。当時のスポンサーや仲間内が投獄や断罪されたので、一時筆を置き幕臣として力を注ぐ。
 「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」
 黒船来航の際に詠まれたもの。上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが(カフェインの作用により)夜眠れなくなる」とう表向きの意味と、「わずか四杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している。

大田 南畝(おおた なんぽ);(寛延2年3月3日(1749年4月19日) - 文政6年4月6日(1823年5月16日))は、天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。 勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称された。
右図: 大田南畝肖像画 『近世名家肖像』より 
 隅田川に架かる永代橋が落橋し、その場に居合わせた蜀山人は、「永代のかけたる橋は落ちにけりきょうは祭礼あすは葬礼」という狂歌を詠んだ。落語永代橋」に詳しい。

暮れの支払い;町内での買い物は、一年にお盆と暮れの2回払いが普通であった。お盆の時は半金でも入れとけば、何とか過ごせますが、一年の最後、暮れはそうはいきません。どんな事があっても払って貰おう。どんな事があっても、逃げ延びようという両者の駆け引きが始まります。年が明けてしまったらその年に借金は持ち越しです。「来年は来年はと歳の暮れ」、来年は大丈夫だよと言っていても、やはり大晦日になると苦しくなるものです。決して楽には越せないようです。
箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大晦日」。暮れにはみんなまごついたものです。

 暮れのドタバタは落語の世界では常識です。そのドタバタを描いたのが「尻餅」、「にらみ返し」などです。

味噌こし(みそこし);味噌汁を作るとき、味噌を溶かし込むのに使う使う小さなザルまたは網状のこし器。

香典(こうでん);(香奠とも表記)とは、仏式等の葬儀で、死者の霊前等に供える金品をいう。香料ともいう。「香」の字が用いられるのは、香・線香の代わりに供えるという意味であり、「奠」とは霊前に供える金品の意味です。通例、香典は、香典袋(不祝儀袋)に入れて葬儀(通夜あるいは告別式)の際に遺族に対して手渡されます。

千住の先の草加;「ほうき塚、竹の塚、西新井だ」と大家さんは言いますが、日本全国何処を探してもほうき塚駅はありません。金馬の間違いでしょう。東武電車の千住(北千住)の先は、小菅、五反野、梅島、西新井、竹の塚、谷塚、草加、の順に止まりますが、太字は急行も止まります。草加は狂歌に繋がるといいますが、駅名で覚えたら日光・鬼怒川まで行ってしまいます。

金毘羅様(こんぴらさま)の縁日;十日(とうか)で狂歌に繋がるのには苦しいですね。八日は薬師様、五日は水天宮様、一日はお不動様と並べています。が、広辞苑では、毎月5日を水天宮、8日を薬師、18日を観音、25日を天満宮、28日を不動尊の縁日とする、と解説しています。お不動様の縁日が違っています。お不動様に伺いましたら28日だという返事です。

長屋の掃き溜め;ちりやごみなどのすてば。ごみため。通常、隣り合わせで長屋の共同トイレが有ります。トイレも色々な言い方があるが”後架”(こうか)は思い出すのに一番ピッタリとしています。
 長屋のトイレは屋外にあり、共同で各部屋には設置されていません。ここに溜まった糞尿は農家が肥料とするために買いに来ていました。その代償に暮れになると、大家のところに現金や農作物を置いていきました。その全ては大家のもので、店子(たなご=入居者)には、暮れの餅を配りました。

島台(しまだい);洲浜(スハマ)台の上に、松・竹・梅に尉(ジヨウ)・姥(ウバ)や鶴・亀などの形を配したもの。蓬莱山を模したものという。婚礼・饗応などに飾り物として用いる。古くは島形といい、肴などの食物を盛った。
 洲浜:洲浜の形にかたどった台。これに岩木・花鳥・瑞祥のものなど、種々の景物を設けたもの。もと、饗宴の飾り物としたが、のち正月の蓬莱・婚姻儀式の島台として肴を盛るのに用いた。
右図:島台と飾り付け。

搗き米屋(つきごめや);米屋さんには三種類の営業形態がありました。
一.精米されたお米を、五穀と一緒に販売するだけの店
二.店を構え臼をしつらえ、玄米を臼で挽いて、その精白した米を売る、お米屋さん。
三.注文のある家に臼を持ち込んで、そこで精米する搗米屋さん。
 落語「搗屋幸兵衛」より転記

 搗米屋。深川江戸資料館にて

下谷の長者町(したやの ちょうじゃまち);台東区長者町。現在、台東区上野3丁目1~12、19.20のJR線路の西側に南北に延びた細長い町。その北側にJR御徒町駅があります。
 天正年間(1573~1592)朝日長者という豪邸があったが、明暦の大火(振り袖火事)で屋敷は焼失した。この朝日長者から町名がおこったという。東上野5丁目の永昌寺は山号を朝日山といい、元禄元年(1558)この長者町に創建した。明治44年「下谷」の冠称を略す。上野三丁目になったのは昭和39年10月1日。
 南の秋葉原電気街に接しているので、電気関係の商店、事務所が多い。

上野の鐘(うえののかね);上野動物園の隣にあるフランス料理店「精養軒」となり。その入り口隣に、ちょっと小高くなった上に赤い鐘楼があります。この鐘は寛文6年に鋳造されたが、現在のは二代目で、谷中感応寺(現、天王寺)で鋳造されたもので、今でも朝夕6時と正午の3回昔ながらの音を響かせています。
 芭蕉の俳句、”花の雲 鐘は上野か 浅草か”は、あまりにも有名。
平成8年(1996)6月、環境庁の残したい「日本の音風景100選」に選ばれた名鐘。
右写真:上野寛永寺の時の鐘。

店賃(たなちん);家賃

むべ山風を嵐というがごとし;『吹くからに 秋の草木(くさき)の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ』
文屋康秀の歌のもじり。
 八公、とぼけていますが、以外と博識です。



                                                            2017年2月記

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