落語「芝居風呂」の舞台を行く 林家正蔵(彦六)の噺、「芝居風呂」(しばいぶろ)より
「河原崎座」 広重画
「中村座」 江戸東京博物館実物大展示物。 湯屋の前面にも櫓を乗せて二階部分の外装にはナマコ壁を用いています。
ことば
■ナマコ壁;土蔵などの壁塗りの様式の一つで、壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地(継ぎ目)に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る工法。その目地がナマコに似ていることから呼ばれた。
防火、防水などの目的を持つ。
■口太鼓や口三味線;実際の太鼓や三味線ではなく、口でその音の物まねをすること。落語「豊竹屋」でもこの口三味線で遊んでいます。
■幟(のぼり);「昇り旗」の略。
丈が長く幅の狭い布の横に、多くの乳(チ)をつけ竿に通し、立てて標識とするもの。戦陣・祭典・儀式・興行などに用いる。
■六阿弥陀(6あみだ);豊島左衛門尉に嫁いだ足立姫が、嫁ぎ先と折り合いが合わずとうとう入水してしまった。それを悲しんだ父が、熊野で霊木を得て、行基菩薩に刻んでもらったのが六体の阿弥陀仏。残った木で彫り上げたのが、木余りの阿弥陀。足立姫の墓とともに性翁寺(足立区扇)にあります。
最後の常光寺を抜かして、どのお寺さんも、昔からの細いあぜ道を舗装してそこに街が出来て、お寺さんはその中に埋没してしまいました。明治頃までは周りには何も無かったので、道を尋ねなくても行けたのが、今では道を尋ねても、解らなくなってしまいました。
■根岸(ねぎし)から、吉原の伏見町(ふしみちょう);六阿弥陀の第六番常光寺(江東区亀戸4-48)だけが離れているので、ここをパスして陽が傾かないうちに、5番目上野・常楽寺から北に戻って、根岸から吉原の北側を回って大門から入ると、直ぐ左に入る路地があり、この路地に面した両側が伏見町です。吉原でも一番大衆的な街です。ここでならお土産(オデキ)付きで遊べたのでしょう。
■イイ穴;相撲場や劇場などの観客席の形式。角材で枡形に仕切ったおのおのの区画に数人ずつ収容する。仕切り枡。升席。現在、枡形式の客席を持っているのは相撲ぐらいでしょう。
■花道からお出まし;舞台が洗い場という想定なのでしょう。脱着室から出るのに、暖簾をくぐって入るのではなく、花道からと凝っています。花道から本舞台に出る時は、花道の暖簾がカーテンのように開きます。その時、吊り金具がチャリ~ンと音を出しますので、それを合図に出となります。
■柝(き)が入る; 芝居や相撲で、開幕・閉幕などの合図に拍子木が打たれる。
■家伝の膏薬(かでん こうやく);膏薬は、膏(アブラ)で練った外用薬剤。紙片または布片にぬって身体の患部に貼る。軟膏・硬膏の総称。その膏薬は門外不出の秘伝薬ですから、広告を兼ねて、湯屋でオデキが出来た人を捕まえて売り込みをしていたのでしょう。
「浮世風呂 一口文句」。 「浮世風呂」挿絵 式亭三馬。
■三助(さんすけ);三助の語源は、銭湯で「釜焚き」「湯加減の調整」「番台業務」の「三」つの役を「助」けた(兼務した)ことからこう呼ばれた。このほか、浴場内で垢すりや髪すき等のサービスを提供する場合もあり、この役割が強調され「三助」=「浴場内での客へのサービス」というイメージが一般化された。また異説として奈良時代の聖武天皇の后、光明皇后は、天然痘が猛威を振るったとき(ハンセン病)、浴室(現在のサウナに近い)を建設し、自ら患者の治療に献身した。このとき三人の典侍が皇后を助けた。彼らは「三典(サンスケ)」と呼ばれ、これが後の「三助」の語の由来になったともいう。また江戸時代において広く下男・小者などの奉公人のことを三助と形容することもあった。他に三はもともと爨(爨=さん=かしぐ/かまど/飯をたく)で、「釜を炊く者」の意味であり、「おさんどん」の"さん"も同源だとする説もある。
■オデキで湯船に入る; 現在でも公衆浴場法で伝染病や出来物がある皮膚病の人は入れません。
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