落語「芝居風呂」の舞台を行く
   

 

 林家正蔵(彦六)の噺、「芝居風呂」(しばいぶろ)より


 

 お湯屋の又さんが芝居に凝って、湯屋を芝居小屋のように変えてしまった。当時は歌舞伎の好きな人が街に充ち満ちていました。

 町内の歌舞伎好きが新装なった芝居風呂に行ってみた。外壁はナマコ壁に幟が立っている。「【市川三助さん江】良いねぇ~」、「【中村番台さん江】、なんて考えたねぇ、【嵐ぬか袋さん江】、面白いね~。入ろうか」。
 木戸をくぐると、番台に座った番頭さんが、「御見物ですか?」、「『御見物』とは良いね~。どっか、イイ穴が有るかぃ」、「二側(かわ)目の三は如何ですか」、「源さん、見なよ。着物を脱ぐ柝がある」、枡(ます)が平場になって、番台が高場だね。花道が付いていて、上がり湯を汲むところが黒御簾(みす)が付いた囃子部屋か」。「本日は立て込んでいますので、お二人さんお割り込みで御座います」、「源さん、二人で同じ枡に着物を脱げと言うんだ。早く裸になりなよ」、「越中褌のヒモが細結びになっちゃった。『歯で・・・』と言われたって、フンドシだからね。お前が歯で・・・」、「それは出来ねぇ」。
 「準備は出来たが・・・」、「では、花道からお出ましを・・・」、「揚げ幕からかぃ。えぃこらチャリン~」、(浮き立つような鳴り物が入ります)。「この湯は熱いね。火傷するよ」、「羽目板を叩いても水は出ないので、ここに有る柝頭(きがしら)をチョ~ン、チョンと二丁入れると出ますよ」、(楽屋で柝(き)が入る)、口太鼓や口三味線で水を入れる擬音を出して「良い湯だな」、皆、キチガイです。

 流しの小桶に腰を下ろしているのが、二十五・六になるイイ男ですが、可哀相に身体一面のオデキです。その隣に居る人は五・六歳年上の人、「大層出来ましたなぁ~」、「一通りお聞きになすって、おくんなせ~まし」、しっとりと鳴り物が入って、「(芝居口調で)悪い友達に誘われて、六阿弥陀詣り。五阿弥陀切りで引っけえし、根岸に回った罰当たり。ほど吉原の伏見町、桜楼に明け方までいて、通い詰めたが、勘当になって、身に付くはこのデキモノ。ご推察ください」、「そのデキモノはしつこいもの。出来て三年、また三年、治って三年、あと三年、かりそめにも十二年、さぞ御難儀でしょう。これは家伝の膏薬、着けてみる気は有りませんか」。丁重に断り、一風呂浴びて、温まろうという。
 オデキの男が湯船に入ろうとすると、三助が止めに入って大立ち回り。二人は逃げ出した。「口ほどにもない弱い奴だ。イタ、飛んで湯に入る・・・夏の虫ぃ~」。

 



 

 「河原崎座」 広重画

 

 「中村座」 江戸東京博物館実物大展示物。 湯屋の前面にも櫓を乗せて二階部分の外装にはナマコ壁を用いています。

 

ことば

ナマコ壁;土蔵などの壁塗りの様式の一つで、壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地(継ぎ目)に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る工法。その目地がナマコに似ていることから呼ばれた。 防火、防水などの目的を持つ。
 なまこ壁は、1、保湿、防湿、防虫  2、火災、盗難予防の目的で造られたもので、多額の経費と多くの労力を要しています。

口太鼓や口三味線;実際の太鼓や三味線ではなく、口でその音の物まねをすること。落語「豊竹屋」でもこの口三味線で遊んでいます。

(のぼり);「昇り旗」の略。 丈が長く幅の狭い布の横に、多くの乳(チ)をつけ竿に通し、立てて標識とするもの。戦陣・祭典・儀式・興行などに用いる。
右写真:両国・国技館の幟。

六阿弥陀(6あみだ);豊島左衛門尉に嫁いだ足立姫が、嫁ぎ先と折り合いが合わずとうとう入水してしまった。それを悲しんだ父が、熊野で霊木を得て、行基菩薩に刻んでもらったのが六体の阿弥陀仏。残った木で彫り上げたのが、木余りの阿弥陀。足立姫の墓とともに性翁寺(足立区扇)にあります。
 その六体の阿弥陀仏を収める6つの寺を巡拝する習慣が六阿弥陀詣り。春秋のお彼岸のうららかな日に、遊山がてら連れだって回った。

 1番から6番と付録の阿弥陀を紹介しましょう。
1番西福寺、2番恵明寺(旧延命院)、3番無量寺、4番与楽寺、5番常楽院、6番常光寺、木余性翁寺。

 六阿弥陀の第一番から番号順に行きます。西福寺(北区豊島2-14)はJR王子駅から都バス西新井行きで2停留所目、豊島三丁目下車、近いですから歩いてもイイでしょう。門柱にも六阿弥陀の文字が彫られています。
 第二番は、延命院という寺だったが、廃寺となり、今は恵明寺と合併して、恵明寺(右写真、足立区江北2-4)の看板が上がっています。二番目へは豊島三丁目から西新井駅行きの先程の都バスに乗る。荒川に架かった江北橋を渡った荒川土手で降りると、道を挟んだ向かい側だが、裏路地の中にあるので分かりにくい。
 ここから第三番に行くつもりでしたが、近くに木余で出来た阿弥陀がある性翁寺(右写真、足立区扇2-19)に寄り道をします。江北橋の北側に恵明寺、南側に性翁寺が有ります。どちらも曲がりくねった中にありますので迷子にならないように。
 三番目無量寺(北区西ヶ原1-34)へは、いったん王子駅に戻って、本郷通りの下を通る、地下鉄・南北線で、次の
西ヶ原で下車後、都立旧古河庭園の北側に有る無量寺に行きます。帰りは、京浜東北線の上中里駅まで歩くといい。本郷通りから平塚神社の長い参道を通ってローカル駅風のJR上中里駅に出ると便利。
  第四番の与楽寺北区田端1-25)は田端駅から徒歩。道案内は出来ないほど道が入り組んでいます。本堂の脇に阿弥陀堂があります。
  次の第五番、常楽院は上野駅の南、上野広小路・三橋=アブアブが有る所で、中央通りに面してあった。お寺は調布(現在地:調布市西つつじヶ丘4-9)に移転してしまった。小さな御堂が不忍池ほとりにある東天紅の一角に残っています。
右写真:「五番目は同じ作でも江戸産まれ」の碑が建っています。
 第六番の常光寺(江東区亀戸4-48)は、亀戸駅から徒歩15分ほど。亀戸七福神の一つでもあります。落語ではここには寄らず、吉原に向かったのでしょうが、やむを得ないでしょう。第五番と第六番は離れすぎています。 で、私が代わりに行って来ました。
 左写真:定光寺境内にある道標碑。右側に「自是(これより)右六阿弥陀道」、正面に「南無阿弥陀佛」と彫られています。

 最後の常光寺を抜かして、どのお寺さんも、昔からの細いあぜ道を舗装してそこに街が出来て、お寺さんはその中に埋没してしまいました。明治頃までは周りには何も無かったので、道を尋ねなくても行けたのが、今では道を尋ねても、解らなくなってしまいました。

根岸(ねぎし)から、吉原の伏見町(ふしみちょう);六阿弥陀の第六番常光寺(江東区亀戸4-48)だけが離れているので、ここをパスして陽が傾かないうちに、5番目上野・常楽寺から北に戻って、根岸から吉原の北側を回って大門から入ると、直ぐ左に入る路地があり、この路地に面した両側が伏見町です。吉原でも一番大衆的な街です。ここでならお土産(オデキ)付きで遊べたのでしょう。

イイ穴;相撲場や劇場などの観客席の形式。角材で枡形に仕切ったおのおのの区画に数人ずつ収容する。仕切り枡。升席。現在、枡形式の客席を持っているのは相撲ぐらいでしょう。

花道からお出まし;舞台が洗い場という想定なのでしょう。脱着室から出るのに、暖簾をくぐって入るのではなく、花道からと凝っています。花道から本舞台に出る時は、花道の暖簾がカーテンのように開きます。その時、吊り金具がチャリ~ンと音を出しますので、それを合図に出となります。

(き)が入る; 芝居や相撲で、開幕・閉幕などの合図に拍子木が打たれる。

家伝の膏薬(かでん こうやく);膏薬は、膏(アブラ)で練った外用薬剤。紙片または布片にぬって身体の患部に貼る。軟膏・硬膏の総称。その膏薬は門外不出の秘伝薬ですから、広告を兼ねて、湯屋でオデキが出来た人を捕まえて売り込みをしていたのでしょう。

 

「浮世風呂 一口文句」。 「浮世風呂」挿絵 式亭三馬。
湯屋については、落語「浮世風呂」もご覧下さい。

三助(さんすけ);三助の語源は、銭湯で「釜焚き」「湯加減の調整」「番台業務」の「三」つの役を「助」けた(兼務した)ことからこう呼ばれた。このほか、浴場内で垢すりや髪すき等のサービスを提供する場合もあり、この役割が強調され「三助」=「浴場内での客へのサービス」というイメージが一般化された。また異説として奈良時代の聖武天皇の后、光明皇后は、天然痘が猛威を振るったとき(ハンセン病)、浴室(現在のサウナに近い)を建設し、自ら患者の治療に献身した。このとき三人の典侍が皇后を助けた。彼らは「三典(サンスケ)」と呼ばれ、これが後の「三助」の語の由来になったともいう。また江戸時代において広く下男・小者などの奉公人のことを三助と形容することもあった。他に三はもともと爨(さん=かしぐ/かまど/飯をたく)で、「釜を炊く者」の意味であり、「おさんどん」の"さん"も同源だとする説もある。

オデキで湯船に入る; 現在でも公衆浴場法で伝染病や出来物がある皮膚病の人は入れません。 

 


 
                                                            2017年2月記

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