落語「峠の茶屋」の舞台を行く
   

 

 五代目古今亭今輔の噺、「峠の茶屋」(とうげのちゃや)より


 

 若い二人がハイキングをしてしていますが、一人は、足にマメが出来て歩け無いとこぼしています。

 「豆が出来たらこの次はお米が穫れるよ」、「あの山を越えてきたんだ」、「山は地面が腫れているだけだ」、「地震は?」、「風邪引いて身震いしているんだ」。「あすこに荷馬車が来たから乗せて貰おう」、「助かるよ」。
 「スイマセン。街まで乗せてくれませんか」、「ダメだよ。肥(こえ)を運んでいるだから。街だったら、あの峠を越えたところだよ」、「東京にいると、自動車ばかり乗っていますから・・・」、「トラックの運転手かい?」、「社長です」、「会社も不景気なんだね。ボロ靴履いて、ボロのシャツ着て歩いているなんて。車はそんなに速いかね」、「松並木を走ったら松が塀のように見えた」、「そんなに早いかね。この馬も昔は競走馬で早かった。あすこに豚が見えるだろう、手前が薩摩芋畑で、こっちが人参畑だ。あまり速く走ったので、一緒くたに見えて『さつま汁』に見えたよ。ハハハ」。
 「さつま汁だってよ」、「君があまりにもヨタ話をするからだよ。どう見ても社長には見えないよ」、「あすこに掛け茶屋が有るから休んでいこう」。

 「こんにちは」、「おいでなさいまし。お茶入れますからお待ち下さい。なにか視察に来ましたか」、「僕らは重役ですよ」、「はぁ~、重箱の材料を探しに来たのかい」、「いえ重役、思い役です」、「石ころを運ぶ役かね」、「いえ、ずっと上の役なんですよ」、「そうかい、2階か3階で雑巾掛けしてるのかい」。
 「困ったな。東京行ったことありますか」、「娘ッ子らは行ったことがあって、『東京駅降りたら西洋館が並んでいて、丸ビルは大きかったよ』という話を聞いただけで、驚いたよ~」。
 「東京の丸ビルで驚いてはいけません。ニューヨークの丸ビルに行ったときは驚きましたな~。東京の丸ビルの何千倍は有りますからな~。下に行くと上の窓が見えないんです」、「驚いたね~」、「下で雪が降って震えていると、上では太陽に近いですから、裸になって扇風機をかけて『暑い暑い』と言っています」、「驚いたね~」、「ビルの中では自動車や電車が走り、交通整理が出ています」、「驚いたね~」、「ビルの中の方では太陽を見たことが無いと言いますよ」、「驚いたね~」、「地面も見たことが無い」、「驚いたね~。驚いたよ~」。
 「お婆さん、何をそんなに驚いているんですか?」、「あんまりウソばかり言うもんで、驚いているね~。東京の丸の内にあるから丸ビルだょ。ニューヨークにある大きな建築物はエンパイアステートビルと言って、81階あるそうだ。高さは381mあって、丸ビルの12倍も有るとさ。エレベーターが57で、間借り人が2万5千人いるそうだ。毎日出入りする人は6万人あると言うそうだ」、「お婆さんよく知っていますね」、「おらの息子はユーヨークから帰って来て、学校の社会科の先生しているだよ」、「お婆さん、驚いたね~」。

 



ことば

五代目古今亭 今輔(ここんてい いますけ);、明治31年(1898)6月12日 - 昭和51年(1976)12月10日)は、群馬県佐波郡境町(現:伊勢崎市)出身の落語家。本名は、鈴木 五郎(すずき ごろう)。生前は日本芸術協会(現:落語芸術協会)所属。出囃子は『野毛山』。俗にいう「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれた。

 1913年 - 上野松坂屋に勤務するが、上司と喧嘩し、僅か20日で退社した。以後、11の店を転々とする。
 1914年5月 - 初代三遊亭圓右に入門し、初代三遊亭右京を名乗る。
 1941年4月 - 五代目古今亭今輔を襲名。
 1964年 - 日本放送作家協会大衆芸能賞受賞。
 1967年11月28日 - 師匠小文治の死去にともない、師匠小文治の後任で日本芸術協会副会長に就任。
 1970年1月 - 1月中席(10日~20日)限りで閉場する寄席人形町末廣で最後の主任(いわゆるトリ)を務める。
 1973年 - 3月、昭和47年度第24回NHK放送文化賞受賞。
4月29日、勲四等瑞宝章受章。
 1974年3月1日 -六代目春風亭柳橋の後任で日本芸術協会二代目会長に就任。
 1976年12月10日 - 胃潰瘍で死去。享年78。叙・従五位。墓所は新宿区顕性寺。今輔の死後、芸術協会三代目会長には総領弟子の四代目桂米丸が就任した。

右写真;「お婆さん落語」を演じる五代目古今亭今輔。
落語「お婆さん三題姿」より転記。

この噺「峠の茶屋」は今輔に名前を変えた頃、売れに売れた噺です。お婆さん落語のはしりで、十八番にしていた。自作で昭和26年(1951)の時代を反映した噺です。一番弟子の米丸談。

(こえ);こやし。肥料。特に肥料にする糞尿。しもごえ。終戦間もなくの頃までは人糞を肥料として大切に扱われていた。

さつま汁;豚肉・鶏肉などに大根・ゴボウ・ニンジン・サツマイモなどをまぜ、みそ仕立てにした汁物。元来は骨つき鶏肉のぶつ切りを用いた。鹿児島汁。鹿児島煮。
 江戸時代の日本では基本的に肉食の習慣がなかったが、例外的に鹿児島地方だけは肉食をしており、豚、鳥、兎などを味噌で煮た汁料理があった。闘鶏に負けた軍鶏をぶつ切りして野菜と煮たのが始まりともいう。明治時代になると政府は肉食を奨励し、肉の味噌汁は「薩摩汁」の名称で軍隊の公式メニューとなり、全国の兵士が食するようになって、明治の末には一般家庭にも普及した。 肉と具の野菜を油で炒め、出汁と味噌を加える。具は大根やごぼう、さといも、およびねぎやこんにゃくが入れられることが多い。サツマイモは、必須の具材ではない。

ヨタ話(与太話);たわいのないでたらめな話。ばかげた話。

掛け茶屋;(「かけ」は「さしかけ」の意) 路傍に葦簀(ヨシズ)などをさしかけて通行人を相手に営む、簡単な造りの茶屋。腰掛茶屋。

丸ビル;丸の内ビルディング(まるのうちビルディング)は、東京駅前の東京都千代田区丸の内二丁目に所在する、三菱地所保有のオフィスビル。通称丸ビル
 大正12年(1923)、桜井小太郎の設計で東京駅前に「丸ノ内ビルヂング」が建てられた(写真で見ると8階建て。地下1階地上9階)。昭和戦前期で最大のビルであり、「東洋一のビル」といわれた。オフィスビルの低層階を一般客に開放し、ショッピングモールなどを展開する形態も、丸ビルが日本においては先駆的に導入したものであり、近代的なイメージから昭和4年(1929)に発売された歌謡曲『東京行進曲』など多くの歌や、小説の舞台にもなった。当時を代表する巨大な建築物であったことから、建造物の大きさの比較単位として「丸ビル何杯分」などと引用されることもあった(のちの、霞が関ビルや東京ドーム何杯分といったところである)。
 平成14年(2002)9月6日、地上180m、37階建てビルとなって、オープンする。下層階には先代丸ビルの面影を残した超高層ビルになった。名称も「丸ノ内ビルヂング」から「丸の内ビルディング」に改称した。
 右写真:左側が丸ビル、右側が新丸ビル。どちらも低層階に初代の外壁を残している。2013年5月撮影。

エンパイアステートビル;アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区にある超高層ビル。 「エンパイア・ステート(帝国州)」はニューヨーク州の異名。右写真。
 工事はクライスラー・ビルディングから「世界一の高さのビル」の称号を奪うために急ピッチで行われ、1931年に竣工したが、世界恐慌の影響でオフィス部分は1940年代まで多くが空室のままであった。そのため、「エンプティー(空っぽの)・ステート・ビルディング("Empty State Building")」と揶揄(やゆ)されることもあったが、戦後は多くの人々が訪れる観光名所となり、1972年にワールドトレードセンターのノースタワーが竣工するまでの42年間、世界一の高さを誇るビルとなっていた。完成して55年が経った1986年には、アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されるなど、ニューヨークのシンボルの一つとして認知されていった。
 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件において、ワールドトレードセンターが複数の旅客機を用いた体当たり攻撃を受け、内部に居た多数の利用者も巻き込みながら崩壊してしまった。この時、ノースタワーを電波塔にしていた各局が放送不能となるが、WCBS-TVはエンパイア・ステート・ビルの電波塔を活用し、放送を続けた。事件後、WCBS-TVは被害を受けた各局に電波送信スペースの貸し出しを行った後、2005年より地上波テレビ各局の電波塔がこのビルに集約されることになった。
 その後、テロ事件でのワールドトレードセンターの崩壊によるビルの消滅という悲劇的な理由によるものではあるが、このビルが再び「ニューヨークで最も高いビル」となった。
 2012年4月30日、建設中のワールドトレードセンターのフロアの高さがエンパイアステートビルのフロアの高さを上回った。2013年5月10日には、アンテナを含めた最長部の高さもワールドトレードセンターがエンパイアステートビルを上回り、ニューヨークで最も高いビルは再び入れ替わった。

  竣工 1931年4月11日。 用途 オフィス、展望台、放送用送信所(電波塔)。 建設費 4,094万8,900米ドル。 地上高、 最頂部 443.2m (1,454ft)。 屋上 381.0m (1,250ft)。 最上階 373.2m (1,224ft)。  階数 102階、 延床面積257,221m² (2,768,591 sqft)、  エレベーター数73基
ウイキペディアより

 このエンパイアステートビルには『キングコング』がよじ登って、大暴れしたのは有名です。しかし、キングコングは映画の中での話ですが、実際に起こった大きな災難としては、B-25の衝突事故があります。

 1945年7月28日9時49分、濃い霧の中を空港に着陸しようとしたアメリカ陸軍の中型爆撃機 B-25(右写真)が、79階の北側に衝突して機体がビル内に突入するという事故が起こった。79・80階で火災が発生した。 乗員3名を含む死者14名を出したものの、比較的小型の機体であった上に着陸直前で燃料残量が少なかったことから建物自体への損害は比較的少なく、事故後2日で営業を再開している。なお、この事故でエレベーター1基のケーブルが切断され、エレベーターガールを乗せたまま約300m落下した。エレベーターガールは全治8か月の重傷を負ったが一命を取りとめた。

 


                                                            2017年2月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

inserted by FC2 system