落語「地獄八景亡者戯」の舞台を行く 桂米朝の噺、「地獄八景亡者戯」(じごくばっけい もうじゃのたわむれ)より
■この噺は、約180年前の天保時代(1830年~1844年)に刊行された小話が原点。旅ネタの代表作のひとつで、三味線や笛などの鳴り物が終始入る上方落語屈指の大ネタ。
■サバで中毒;「サバに当たる」という言葉が普段使われますが、細菌が原因で起こる食中毒です。
■閻魔大王(えんまだいおう);インドから中国に伝わると、冥界の王であるとされ、閻羅王として地獄の主とされるようになった。
やがて、晩唐代に撰述された偽経である『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』(略して『預修十王生七経』)により十王信仰と結び付けられ、地獄の裁判官の一人であり、その中心的存在として、泰山王とともに、「人が死ぬと裁く」という役割を担い、信仰の対象となった。現在よく知られる唐の官人風の衣(道服)を纏った姿は、ここで成立した。
また、中国的な発想では、冥界の主宰者である閻魔王や、十王であっても、常住の存在とは考えられていない。それらの尊格も、生者が選ばれて任命され、任期が過ぎれば、新たな閻魔と交替するのが当然と考えられていた。
よって、唐代や明代に流布した説話にも、冥界に召喚されて、閻魔となった人間の話が見られる。清廉潔白で国家を支えた優秀な官吏が、死後閻魔になったという説話も出来、北宋の政治家・包拯は閻魔大王になったと信じられていた。
上図 「地獄絵図」 閻魔王の法廷には、『浄玻璃鏡』(じょうはりのかがみ)という特殊な鏡が装備されている。この魔鏡はすべての亡者の生前の行為をのこらず記録し、裁きの場でスクリーンに上映する機能を持つ。そのため、裁かれる亡者が閻魔王の尋問に嘘をついても、たちまち見破られるという。司録と司命(しみょう)という地獄の書記官が左右に控え、閻魔王の業務を補佐している。図の右側に『針の山』、左には『火の車』、その下方には『熱湯の釜』が有ります。
■リウマチ;関節や関節の周囲の骨、腱、筋肉などに痛みが起きる病気をまとめてリウマチ性疾患とか単にリウマチと呼びます。一般的にリウマチといえば「関節リウマチ」のことを指しています。「関節リウマチ」はリウマチの中でも患者数が多く、70万人とも100万人ともいわれています。
■三途の川(さんずのかわ);此岸(しがん=現世)と彼岸(ひがん=あの世)を分ける境目にあるとされる川。三途は餓鬼道・畜生道・地獄道を意味する。三途は仏典に由来するが、彼岸への渡川・渡航はオリエント起源の神話宗教から見られるもので、その伝承には民間信仰が多分に混じっている。
■しょうずか の ばば【三途河の婆・葬頭河の婆】;(シャウヅカはサンヅカからソウヅカと転じたもの)奪衣婆に同じ。
■奪衣婆(だつえば);三途の川のほとりにいて、亡者の着物を奪い取り、衣領樹(エリヨウジユ)の上にいる懸衣翁(ケンエオウ)に渡すという鬼婆。十王経に見える。葬頭河(シヨウズカ)の婆。奪衣鬼。
■六道の辻(ろくどうのつじ);昔京都六道の辻辺りから
東(清水寺方面)は、死人が運び込まれる地『野辺送り』の場所で、東山の五条坂から今熊野まで広がっていたといわれます。今でこそ死人は火葬し遺骨を瓶につめ土に埋めますが大昔は死人を野晒しにする風葬が主流だった。野晒しになった死人はカラスの餌となります。これを鳥葬ともいいその様子からこの一帯はいつしか『鳥辺野』といわれるようになったといいます。死人が沢山ある場所すなわち魂が飛び交う、まさしく『あの世』のようなイメージだったのでしょう。
仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の苦しみに満ちた世界のこと。
天道(てんどう、天上道、天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)
仏教では、輪廻を空間的事象、あるいは死後に趣(おもむ)く世界ではなく、心の状態として捉える。たとえば、天道界に趣けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈される。
■あだな年増(徒名としま);色好みのうわさ。浮気の評判。浮き名。好色に見える娘盛りをすぎて、やや年をとった女性。江戸時代には20歳過ぎの女性。同じ年増でも、「中年増」=25・6から28・9までの女性。「大年増」=30を越えた女性。広辞苑。あくまでも江戸時代の話ですよ。
■四国八十八箇所(しこく88かしょ);四国にある空海(弘法大師)ゆかりの88か所の寺院の総称で、四国霊場の最も代表的な札所である。単に八十八箇所ともいい、あるいはお四国さん、あるいは本四国ともいわれている。
■有島武郎(ありしま たけお);(1878年(明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日)、小説家。
学習院中等科卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。1903年(明治36年)渡米。ハバフォード大学大学院、その後、ハーバード大学で歴史・経済学を学ぶ。ハーバード大学は1年足らずで退学する。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加する。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中した。
代表作に『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜みなく愛は奪ふ』がある。享年45。
■芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ);(1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日)、小説家。本名同じ、号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼。
その作品の多くは短編である。また、「芋粥」「藪の中」「地獄変」など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」といった児童向けの作品も書いている。
■太宰治(だざい おさむ);(1909年(明治42年)6月19日 - 1948年(昭和23年)6月13日)、小説家。本名、津島修治(つしま しゅうじ)。自殺未遂や薬物中毒を克服し戦前から戦後にかけて多くの作品を発表。没落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称された。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。
■三島由紀夫(みしま ゆきお);(本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)、小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者。戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたTV番組に初めて出演した日本人でもある。
満年齢と昭和の年号が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。
代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。
晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。バルコニーでクーデターを促す演説をした後、割腹自殺を遂げた。45歳没。
■川端康成(かわばた やすなり);(1899年(明治32年)6月14日 -
1972年(昭和47年)4月16日)、小説家、文芸評論家。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。
大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った。その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立させ、人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も知り尽くした上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた。日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人の死生観や美意識を世界に紹介した。
代表作は、『伊豆の踊子』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。
■團十郎(だんじゅうろう);市川 團十郞(いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎)は歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。役者文様は鎌輪ぬ(かまわぬ)。
■三遊亭圓朝(さんゆうてい えんちょう);(天保10年4月1日(1839年5月13日) - 明治33年(1900年)8月11日)、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)。
圓朝による新作落語は極めつきの名作ぞろいで、現代まで継承されています。圓朝によって、落語の内容が格段に上がった。圓朝が活躍したのは明治で、古典落語の代表とされる「芝浜」と「文七元結」、「お若伊之助」「札所の霊験」「心眼」「福禄寿」「元犬」「黄金餅」「親子酒」「大仏餅」「鰍沢」、怪談では「怪談牡丹燈籠」、「真景累ヶ淵」「怪談乳房榎」、また「双蝶々」「江島屋騒動」「心中時雨傘」「塩原多助一代記」「安中草三」「操競女学校」などを創作した。また海外文学作品の翻案は「死神」「名人長二」があります。
■牡丹灯籠(ぼたんどうろう);落語「怪談牡丹灯籠」を参照。
■初代と二代目春団治の『親子会』;桂 春團治(かつら はるだんじ)は、上方落語の名跡。初代・二代目を顕彰する碑が池田市受楽寺に三代目によって建立されている。
*注意;これ以降の落語家さんについては、この噺の音源が昭和57年(1982)8月22日放送・国立劇場演芸場での独演会の収録音ですから最近亡くなった落語家さん達とは違います。
■松鶴(しょかく);五代目笑福亭 松鶴(しょうふくてい しょかく、1884年9月5日 - 1950年7月22日)、上方噺家。大阪市出身。本名は竹内梅之助(たけうち うめのすけ)。妻は六代目林家正楽の娘。次男は六代目笑福亭松鶴。
■文左(ぶんざ);桂文左衛門。(かつら ぶんざえもん、 1844年 - 1916年5月16日)、紀州粉河(現在の和歌山県紀の川市)生まれの上方噺家。本名: 渡辺儀助。享年72。
■文枝(ぶんし);四代目 桂文枝(1891年1月29日 - 1958年3月16日)、本名: 瀬崎米三郎。満67歳没。
■文團治(ぶんだんじ);四代目 桂文團治(1878年8月6日 - 1962年12月14日)、本名: 水野音吉。満84歳没。
■米團治(よねだんじ);四代目 桂 米團治(4だいめ かつら よねだんじ、1896年9月3日 - 1951年10月23日)、落語家(上方噺家)。本名は中濱 賢三(なかはま けんぞう)。出囃子は『羯鼓』。満55歳没。
■圓都(えんと);橘ノ 圓都(たちばなの えんと、1883年3月3日 - 1972年8月20日)、神戸出身の落語家。本名:池田豊次郎。出囃子は『薮入り』。享年89。
■亡者(もうじゃ);死んだ人。成仏(ジヨウブツ)しない死者の魂魄が冥途に迷っているもの。
■一千回忌(いっせんかいき);一千年目の回忌。実際はそんな一千年目の法要などはありませんが、地獄の長さから言うとあるのでしょうね。
■松井泉水(まついせんすい);モデルは曲独楽師、松井源水。玄水とも書く。大道芸人、香具師(やし)。昭和期までに17代を数える。松井家の元祖玄長は、越中礪波(となみ)の出身で、霊薬反魂丹(はんごんたん)を創製し、二代目道三のときに富山袋町に移住して、武田信玄から売薬御免の朱印を受けた。延宝・天和(1673‐84)のころに、四代目玄水が江戸へ出て反魂丹や歯磨き粉売り・抜歯を商いとしを売りはじめたが、その宣伝、販売のために、箱枕をいろいろと扱う曲芸〈枕返し〉や居合抜きなどを演じた。享保(1716‐36)ごろには、居合抜きのほか曲独楽(きよくごま)や輪鼓(りゅうご=鼓(ツヅミ)の胴のように中のくびれた形のコマのくびれた部分に緒を巻きつけ、回転しながら投げ上げたり受けたりする芸)を演ずるようになり、将軍家重の浅草寺参詣のおりには上覧に供して御成(おなり)御用の符を拝領した。右図:松井源水居合抜き。
■和屋竹の野良一(わやたけののらいち);モデルは幕末期の軽業師、早竹虎吉。1843年(天保14年)、大坂へ下って興行し、10年以上に渡って活躍した。
1857年(安政4年)正月、江戸に下って両国で興行を始めるや否や、たちまち人気を博すようになった。歌舞伎仕立ての衣装を身にまとい、独楽や手品の手法を取り入れた豪快な舞台を披露。およそ2カ月の間に錦絵30数点が出版され、たちまちのうちに売れたという。曲差し(きょくざし)(竿から手を離して肩だけで支え、三味線を曲弾きするという非常に高度な芸)や石橋(しゃっきょう)(足で長い竿を支え、竿に人や動物を載せる芸)と呼ばれる、長い竿を足や肩で支える曲芸を得意とした。
慶応3年7月25日(1867年8月24日)、約30名の一座を率いて、アメリカに渡航した。翌月にサンフランシスコに上陸。サンフランシスコのメトロポリタン劇場を振り出しに、サクラメントやニューヨーク等アメリカ各地を興行した。慶応4年1月15日(1868年2月8日)に心臓病で客死した。
■人呑鬼(じんどんき);人を飲んでしまうと言う、地獄に住む大きな鬼。
■井桁(いげた);井戸の上部の縁を木で「井」の字の形に四角に組んだもの。ものを組むとき、「井」の字の形にする、その形。
■大黄(ダイオウ);タデ科の多年草。中国、華北の原産。高さ約2m。葉は大きく、基部は心臓形。初夏、黄緑色の小花を多数つける。黄色い根茎の外皮を除き乾燥したものが生薬の「大黄」で、健胃剤・瀉下剤とする。類縁種に唐大黄・朝鮮大黄がある。本草和名「大黄、和名於保之」。
2017年4月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ
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