落語「地獄八景亡者戯」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「地獄八景亡者戯」(じごくばっけい もうじゃのたわむれ)より


 

 サバに当たって死んだ男がボヤッとしたところを歩いていると、伊勢屋の旦那に会った。「まあまあ、ご機嫌よろしゅう」、「まぁ~、こんな所で会うなんて、ご機嫌が良い訳ない」、「挨拶も難しい」。「わて、旦那の葬儀に出てましたんです」、「そうやな~、分かっている。棺桶のスミから覗いていたのじゃ」、「立派な葬儀でしたなぁ~」、「香典の中から千円誤魔化したやろ」、「帳簿預かってたのが、『どうしても千円多くなって合わない』、と言うので、誤魔化したら『丁度合った』と感謝された・・・」、「何すんね。どうしてわしの葬儀に来てくれたのにここにいるん?」、「大きなサバを貰って、半身を刺身にして一杯飲んでいたら、ここに来てしまった。これから何処に行くんですか」、「そうやな~、閻魔様の所に行くんだろうな~」、「旦那はどうしてまだここにいるんですか」、「リウマチがひどくて早く歩け無いんだ。良かったら先に行ってもイイよ」、「いいえ、一緒にゆっくり行きます」。

 その後から来ましたのが陽気な一団。遊び尽くして、『あの世ツアー』で芸者・太鼓持ち・舞子・おかみさん連中が参加して若旦那とやって来た。フグを食べてふぐに死んでしまった。三途の川を渡る算段していると、太鼓持ちが「婆さんを金で『うん』と言わせるのは簡単だ。若旦那が他の芸子に手を出して、おばんが怒ってきた時に、500万円の金を400万円に値切ったのがわたいです」、「おかしいな、500万円出したぜ」、「アッ、こんな所でバレるなんて」、「100万円はやるよ。でも良かったよ。閻魔の前でバレたら地獄行きだ。みんなは極楽に行くのに・・・」、「エッ、まだ有るんですが・・・」。
 太鼓持ちが先に行って、三途の川の渡しの話を、茶屋に聞きに行った。「川の前に柳が有って、三途河の婆(しょうづか)・奪衣婆というお婆さんがいると言いますが・・・」、「着物を剥ぐような風習が廃止になって随分経ちます。代々続いていた権利で着物を剥ぐことで生計を立てていたが、脱衣婆は失業、閻魔大王に相談に行くうちにお互いに情が移って、婆さんは大王の二号に。奪衣婆というのは役職名で、実はあだな年増です。そこで大王に都合してもろうて『バー・ババア』を開いたんですが、アルバイトに来ていた赤鬼と浮気をし、それが閻魔にばれて、地獄を追放になった。赤鬼は罰の力仕事で身体を壊し、婆さんは医者代、薬代に困ってついにコールガールになって体を売るが、娑婆から来た亡者に悪い病気をうつされて六道の辻で『のたれ生き』。娑婆で四国八十八箇所をめぐって冥土に戻り、『我が半生を語る』を『週間地獄』に連載して、本がベストセラーになって、今は映画にもなって、講演などで活躍中やという。で、船頭の鬼がいるだけで渡れます」。

 三途の川を鬼の渡しで渡りますと、六道の辻で、一番広い通りがメインストリートの『冥土筋』。ビルまで建っていて地獄文化会館には講演会のポスターが有る。「有島武郎、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成、テーマが『自殺について』、すごいな~」、「なんだって有るよ。バーやクラブ、茶屋、料理屋、『地獄トルコ』、『グランドキャバレー・火の玉』、本日のショー『幽霊のラインダンス』」、「どないして、足上げるんでしょうね」、「『骸骨のストリップ』も有るよ」、「何を観るのだろう」。
 「あちらは芝居町」、「こちらにも芝居が有るんですか?」、「そんな事言ってたら、笑われるよ。名優はみなこっちに来ているんだからな。初代から十一代までの團十郎がそろって忠臣蔵をやったんだす」。「寄席も有りますか?」、「こっちの観たら娑婆のは観られんよ。三遊亭圓朝が続き話で『牡丹灯籠』、初代と二代目春団治の『親子会』、松鶴、文左、文枝、文團治、米團治、圓都、それに米朝」、「米朝はまだ生きているのと違いますか」、「米朝は肩のところに近日来演と書いてある」。
 「こっちは?」、「念仏町で、罪が軽うなるようにと、銘々懐に合わせて念仏を買います。これを買うと閻魔の前で罪が軽くなる。弁護士を買ったのと同じだす」、地獄も金次第、懐に合わせて念仏を買い求め、閻魔庁の正面に・・・。

 亡者の連中が開いた門からゾロゾロと中に入ります。「本日は閻魔の一千回忌であるから、極楽に通すぞ。次に呼ぶものだけはここに残れ」、「医者の山井養仙(やまいようせん)、山伏の螺尾福海(ほらおふっかい)、歯抜き師の松井泉水(まついせんすい)、軽業師の和屋竹の野良一(わやたけののらいち)が残されて、あとの者は極楽へと送られます」、「なんで、みんな極楽にいけるの」、「それは、閻魔の選挙が近いからで、人気取りでしょう」。
 「なんで、わたいらだけ残されたん」、「一杯飲みに連れて行ってくれるんじゃないの」、「閻魔が戻ってきたので頭を下げろ」、「医者の山井養仙は助かる病人も未熟で直す事が出来なかった。山伏の螺尾福海は加持祈祷をすると言って、怪しき祈祷を行い金銀をむさぼった。歯抜き師の松井泉水は居合抜きをしたり独楽を回して人を集め、チッとも効かない歯痛の薬を売り、丈夫な歯まで抜いた。軽業師の和屋竹の野良一は観る者の頭の上でハラハラさせて寿命を縮めた。それぞれ地獄送りじゃ」。
 四人はまず、熱湯の釜へ。煮えたぎる釜の中に入れと言うところに山伏の螺尾福海が『水の印』で日向(ひなた)水の温度にした。みなは喜んで、風呂のつもりで入っていた。怒った閻魔は針の山に追い立てた。「こんなとこに登ったら、針が突き刺さって動けんようになってしまう」、そこに軽業師の和屋竹の野良一が出て来て、「わしの足裏は稽古で板のようになっている。三人を負ぶって登ってやる」、踊りながらてっぺんまで登ると針を折りながら向こう側に滑り降りて行った。閻魔は四人を人呑鬼(じんどんき)に飲ませることにした。「スゴイ歯をしているな。あんなんで噛まれたらひとたまりも無いな」、「よしゃ。わしが歯を抜いてやる」。
 「虫歯を抜いてやる」と、騙して、全部の歯を抜いてしまった。丸呑みにされた四人、腹の中で噛まれなかったことを喜んだ。「このままここに居たんでは溶けてしまう。医者のわしが胃を切り開いて腹の中に逃げ出そう。ここが鬼の腹(原)だ。面白い事しよう、そこの紐を引っ張りなさい」、「ヘックション」、「鬼がクシャミをした」、「そこにテコのような物があるだろう。それを持ち上げてごらん」、「アッ、イタタタ」、「鬼が腹痛を起こしている」、「ここに有る丸い物を動かすと・・・」、「アッ、ははは」、「笑いよるやろ」、「その袋押してみ」、「なんですか?」、「屁袋で、押すと屁が出る」、「ブー」、「出たッ」。「これいっぺんにやったら、どうなるだろうな。やってこませ」、「ヘックション、アッ、イタタタ、アッははは、ブー。ヘックション、アッ、イタタタ、アッははは、ブー。たまらん。便所に行って四人出したろ・・・」、「出されたらいかん。いつまでも苦しめなくては・・・」、「下に行けば安全だ。肛門に四人で井桁になれ。出されないように掴まっていろ」、「出て来たら、苦しめてやるゾ。う~ん、このクソッタレ。こいつらどうしても出よらんが。大王様、あんたを飲むより仕方が無い」、「どうして?」、「大黄を飲んで下してしまうんだ」。

  



ことば

■この噺は、約180年前の天保時代(1830年~1844年)に刊行された小話が原点。旅ネタの代表作のひとつで、三味線や笛などの鳴り物が終始入る上方落語屈指の大ネタ。
 滅びかけていたのを三代目桂米朝師匠が復活させたもので、米朝一門を中心に、今は結構な数の噺家がやるようになりました。構成は、閻魔の庁に行き着くまでと、その後との二つに大きく分けられ、前半は時事ネタを取り込んで比較的自由に、後半は型を守って演じられるのが特徴です。長い噺なので、前半で切ることもよくありますが、その場合、噺家によっては全く別の噺と言う程違うことも少なくありません。

サバで中毒;「サバに当たる」という言葉が普段使われますが、細菌が原因で起こる食中毒です。
 ヒスタミン食中毒とは、ヒスタミンを大量に含む魚介類を食べることにより、摂食後、数分から2、3時間という短い間に悪心、嘔吐、下痢、腹痛、頭痛、舌や顔面の腫れ、じんま疹、めまい感の症状を起こす食中毒です。このように多くの症状がありますが、実際にはこのうちの2、3の症状しか示さず、長くても1日程度で自然に治ります。どの症状が現れるかは、摂取したヒスタミンの量や患者の個人差によりますが、心臓や呼吸器に基礎疾患のある人が発症した場合、重症となる可能性があります。一般的には、魚肉中に500μg/g以上のヒスタミンが蓄積されると食中毒が起こるとされていますが、感受性の高い人ならば50μg/gで発生する場合もあります。 
 魚肉中でヒスタミンが増えるのは、原因となる食品はいわゆる赤身魚で、赤身魚は筋肉中にアミノ酸の一種であるヒスチジンを多く含んでいます。魚を室温で放置していると、ヒスチジンをヒスタミンに変える酵素を持っている細菌(ヒスタミン生成菌)が増殖し、それに伴いヒスタミンも増えるのです。また、魚の腐敗の指標となるアンモニアなどの生成量がまだ少ないにもかかわらず、ヒスタミンは大量に産生されることがあり、気づかずに食べてしまうと食中毒になるのです。現在ヒスタミン食中毒を引き起こすとされている菌は、もともと人や動物の腸内にいる菌であるため、細菌の汚染は魚が水揚げされてから以降に起こります。冷蔵して菌の発生を抑えれば良いのです。
 どちらにしても抗ヒスタミン剤を使えば簡単に治りますし、普通は症状が軽いことから病院に行くことは少ないようです。(説明:食品細菌課 神吉 政史、食品化学課 吉田 綾子)

閻魔大王(えんまだいおう);インドから中国に伝わると、冥界の王であるとされ、閻羅王として地獄の主とされるようになった。 やがて、晩唐代に撰述された偽経である『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』(略して『預修十王生七経』)により十王信仰と結び付けられ、地獄の裁判官の一人であり、その中心的存在として、泰山王とともに、「人が死ぬと裁く」という役割を担い、信仰の対象となった。現在よく知られる唐の官人風の衣(道服)を纏った姿は、ここで成立した。 また、中国的な発想では、冥界の主宰者である閻魔王や、十王であっても、常住の存在とは考えられていない。それらの尊格も、生者が選ばれて任命され、任期が過ぎれば、新たな閻魔と交替するのが当然と考えられていた。 よって、唐代や明代に流布した説話にも、冥界に召喚されて、閻魔となった人間の話が見られる。清廉潔白で国家を支えた優秀な官吏が、死後閻魔になったという説話も出来、北宋の政治家・包拯は閻魔大王になったと信じられていた。
 落語の中でも、四人を除く全員を極楽に送るということは、優しすぎると言うが、「選挙が近いから」と言う台詞があります。右写真:深川閻魔堂(法乗院)(ふかがわ えんまどう) の閻魔。

 

 上図 「地獄絵図」 閻魔王の法廷には、『浄玻璃鏡』(じょうはりのかがみ)という特殊な鏡が装備されている。この魔鏡はすべての亡者の生前の行為をのこらず記録し、裁きの場でスクリーンに上映する機能を持つ。そのため、裁かれる亡者が閻魔王の尋問に嘘をついても、たちまち見破られるという。司録と司命(しみょう)という地獄の書記官が左右に控え、閻魔王の業務を補佐している。図の右側に『針の山』、左には『火の車』、その下方には『熱湯の釜』が有ります。

 落語「御血脈」 でも閻魔大王が活躍しています。また「道具屋」でも登場しています。

リウマチ;関節や関節の周囲の骨、腱、筋肉などに痛みが起きる病気をまとめてリウマチ性疾患とか単にリウマチと呼びます。一般的にリウマチといえば「関節リウマチ」のことを指しています。「関節リウマチ」はリウマチの中でも患者数が多く、70万人とも100万人ともいわれています。

三途の川(さんずのかわ);此岸(しがん=現世)と彼岸(ひがん=あの世)を分ける境目にあるとされる川。三途は餓鬼道・畜生道・地獄道を意味する。三途は仏典に由来するが、彼岸への渡川・渡航はオリエント起源の神話宗教から見られるもので、その伝承には民間信仰が多分に混じっている。

しょうずか の ばば【三途河の婆・葬頭河の婆】;(シャウヅカはサンヅカからソウヅカと転じたもの)奪衣婆に同じ。
 三途川には十王の配下に位置づけられる懸衣翁・奪衣婆という老夫婦の鬼がおり、六文銭を持たない死者が来た場合に渡し賃のかわりに衣類を剥ぎ取ることになっていた。この2人の鬼のうち奪衣婆は江戸時代末期に民衆信仰の対象となり、盛んに信仰された。

奪衣婆(だつえば);三途の川のほとりにいて、亡者の着物を奪い取り、衣領樹(エリヨウジユ)の上にいる懸衣翁(ケンエオウ)に渡すという鬼婆。十王経に見える。葬頭河(シヨウズカ)の婆。奪衣鬼。
右写真:新宿・大宗寺の奪衣婆。新宿区指定有形民俗文化財

六道の辻(ろくどうのつじ);昔京都六道の辻辺りから 東(清水寺方面)は、死人が運び込まれる地『野辺送り』の場所で、東山の五条坂から今熊野まで広がっていたといわれます。今でこそ死人は火葬し遺骨を瓶につめ土に埋めますが大昔は死人を野晒しにする風葬が主流だった。野晒しになった死人はカラスの餌となります。これを鳥葬ともいいその様子からこの一帯はいつしか『鳥辺野』といわれるようになったといいます。死人が沢山ある場所すなわち魂が飛び交う、まさしく『あの世』のようなイメージだったのでしょう。
 六道の辻という名は『人間のすむ世界』と、『死者がすむ世界』との結界だったのでしょう。

 仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の苦しみに満ちた世界のこと。 天道(てんどう、天上道、天界道とも) 人間道(にんげんどう) 修羅道(しゅらどう) 畜生道(ちくしょうどう) 餓鬼道(がきどう) 地獄道(じごくどう) 仏教では、輪廻を空間的事象、あるいは死後に趣(おもむ)く世界ではなく、心の状態として捉える。たとえば、天道界に趣けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈される。

あだな年増(徒名としま);色好みのうわさ。浮気の評判。浮き名。好色に見える娘盛りをすぎて、やや年をとった女性。江戸時代には20歳過ぎの女性。同じ年増でも、「中年増」=25・6から28・9までの女性。「大年増」=30を越えた女性。広辞苑。あくまでも江戸時代の話ですよ。

四国八十八箇所(しこく88かしょ);四国にある空海(弘法大師)ゆかりの88か所の寺院の総称で、四国霊場の最も代表的な札所である。単に八十八箇所ともいい、あるいはお四国さん、あるいは本四国ともいわれている。
 88の霊場寺院を結ぶ道を遍路道という。阿波国の霊場(23か寺)は「発心の道場」、土佐国の霊場(16か寺)は「修行の道場」、伊予国の霊場(26か寺)は「菩提の道場」、讃岐国の霊場(23か寺)は「涅槃の道場」と呼ばれる。 他の巡礼地と異なり、四国八十八箇所を巡ることを特に遍路といい、地元の人々は巡礼者をお遍路さんと呼ぶ。また、霊場に参詣することを「打つ」と表現する。八十八箇所を通し打ちで巡礼した場合の全長は1100~1400km程である。距離に幅があるのは遍路道は一種類のみではないからです。

有島武郎(ありしま たけお);(1878年(明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日)、小説家。 学習院中等科卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。1903年(明治36年)渡米。ハバフォード大学大学院、その後、ハーバード大学で歴史・経済学を学ぶ。ハーバード大学は1年足らずで退学する。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加する。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中した。 代表作に『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜みなく愛は奪ふ』がある。享年45。

芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ);(1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日)、小説家。本名同じ、号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼。 その作品の多くは短編である。また、「芋粥」「藪の中」「地獄変」など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」といった児童向けの作品も書いている。
 1927年(昭和2年)、芥川の秘書を勤めていた平松麻素子(父は平松福三郎・大本信者)と帝国ホテルで心中未遂事件を起こしている。 7月24日未明、「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。服用した薬には異説があり、例えば、山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺説を主張している。享年35。

太宰治(だざい おさむ);(1909年(明治42年)6月19日 - 1948年(昭和23年)6月13日)、小説家。本名、津島修治(つしま しゅうじ)。自殺未遂や薬物中毒を克服し戦前から戦後にかけて多くの作品を発表。没落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称された。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。
 1948年(昭和23年)6月13日に玉川上水で、愛人山崎富栄と入水自殺した。2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により「桜桃忌」と名付けられた。38歳没。

■三島由紀夫(みしま ゆきお);(本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)、小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者。戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたTV番組に初めて出演した日本人でもある。 満年齢と昭和の年号が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。 代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。 晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。バルコニーでクーデターを促す演説をした後、割腹自殺を遂げた。45歳没。

川端康成(かわばた やすなり);(1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年)4月16日)、小説家、文芸評論家。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。 大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った。その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立させ、人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も知り尽くした上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた。日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人の死生観や美意識を世界に紹介した。 代表作は、『伊豆の踊子』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。
 1972年(昭和47年)4月16日夜、72歳でガス自殺した(なお、遺書はなかった)。

團十郎(だんじゅうろう);市川 團十郞(いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎)は歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。役者文様は鎌輪ぬ(かまわぬ)。
 市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある。その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。
 なお團十郎の名跡はその圧倒的な存在感とは裏腹に、代々のうち半数が何らかの形で非業の最期を遂げていることでも知られている。すなわち、初代は舞台上で共演の役者によって刺殺され(満44歳)、三代目は公演先の大坂で病を得て江戸には戻ったものの2か月後に死去(満21歳)、六代目は風邪をこじらせて急死(満21歳)、八代目は公演先の大坂で謎の自殺を遂げ(満31歳)、十一代目は團十郎襲名後わずか3年半で病死(満56歳)、十二代目は白血病を患い、9年間におよぶ闘病の末死去した(満66歳)。現在、團十郎の名跡は空席で、息子海老蔵が継承すると思われます。
 あの世では、初代から十一代までの團十郎がそろって忠臣蔵をやった。

三遊亭圓朝(さんゆうてい えんちょう);(天保10年4月1日(1839年5月13日) - 明治33年(1900年)8月11日)、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)。
 三遊派の総帥、宗家。三遊派のみならず落語中興の祖として有名。敬意を込めて『大圓朝』という人もいる。二葉亭四迷が『浮雲』を書く際に圓朝の落語口演筆記を参考にしたとされ、明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼした、現代の日本語の祖でもある。
右図:
「三遊亭圓朝像」鏑木清方画(重要文化財)
東京国立近代美術館蔵

 圓朝による新作落語は極めつきの名作ぞろいで、現代まで継承されています。圓朝によって、落語の内容が格段に上がった。圓朝が活躍したのは明治で、古典落語の代表とされる「芝浜」と「文七元結」、「お若伊之助」「札所の霊験」「心眼」「福禄寿」「元犬」「黄金餅」「親子酒」「大仏餅」「鰍沢」、怪談では「怪談牡丹燈籠」、「真景累ヶ淵」「怪談乳房榎」、また「双蝶々」「江島屋騒動」「心中時雨傘」「塩原多助一代記」「安中草三」「操競女学校」などを創作した。また海外文学作品の翻案は「死神」「名人長二」があります。
 私のホームページにも多くの圓朝作品が有るのが分かります。
 大看板となった圓朝は、朝野の名士の知遇を得、禅を通じて山岡鉄舟に師事した。茶道、建築、築庭、歌道、和歌、俳句、書画、骨董(目利き)等に才能を発揮し、幽霊画の収集(台東区・全生庵で収蔵)でも名をはせた。
圓朝、本所での住まいは、第48話「お若伊之助」にあります。
新宿での住まいは、第8話「文違い」にあります。
 墓は全生庵(ぜんしょうあん、台東区谷中5-4-7)にあります。第48話「お若伊之助」に写真があります。
 二代目がいますが、襲名前に亡くなってしまったので、実質圓朝と言えば、出淵の圓朝だけを指します。

牡丹灯籠(ぼたんどうろう);落語「怪談牡丹灯籠」を参照。

初代と二代目春団治の『親子会』;桂 春團治(かつら はるだんじ)は、上方落語の名跡。初代・二代目を顕彰する碑が池田市受楽寺に三代目によって建立されている。
 初代 桂 春團治(かつら はるだんじ、1878年8月4日 - 1934年10月6日)は、天才的な巧みな話術で、戦前の上方落語界のスーパースター的存在であった。従来の古典落語にナンセンスなギャグを取り入れた大胆な改作で爆笑王として人気を集め、当時の先端技術でもあったレコードに落語を吹き込んだ。 本名は皮田 藤吉。最後の妻・岩井志うとの結婚では春団治が婿入りという形をとったため、以後、本名は岩井 藤吉と変わった。
 二代目 桂 春團治(2だいめ かつら はるだんじ、1894年8月5日 - 1953年2月25日)は、落語家(上方噺家)。本名: 河合 浅治郎。出囃子は「野崎」。
 師匠・初代桂春團治ゆずりの爆笑型の本格的な滑稽噺を演じ、初代をしのぐ人気を誇った。人物描写を細部にわたって施した独特の話芸は、「初代よりも上手い」と評する専門家が多い。東京の八代目桂文楽は「関西の名人」と称え、六代目笑福亭松鶴は青年時代に陶酔し、いくつかの演目を受け継いだ。
 『親子会』 は、師匠と弟子の二人で落語会をやること。

注意;これ以降の落語家さんについては、この噺の音源が昭和57年(1982)8月22日放送・国立劇場演芸場での独演会の収録音ですから最近亡くなった落語家さん達とは違います。

松鶴(しょかく);五代目笑福亭 松鶴(しょうふくてい しょかく、1884年9月5日 - 1950年7月22日)、上方噺家。大阪市出身。本名は竹内梅之助(たけうち うめのすけ)。妻は六代目林家正楽の娘。次男は六代目笑福亭松鶴。
 神戸にいたころ前座の噺家にネタで邪魔されたため(当日やるネタを前座が先に演じた)六代目林家正楽に「高津の富」を出稽古で教わることになる、その時に正楽の娘と駆け落ちし、長女が誕生する。その2年後に次男(後の六代目松鶴)が誕生する。 帰阪後は新桂派を経て三友派に復帰。1918年11月、二代目枝鶴を襲名。

文左(ぶんざ);桂文左衛門。(かつら ぶんざえもん、 1844年 - 1916年5月16日)、紀州粉河(現在の和歌山県紀の川市)生まれの上方噺家。本名: 渡辺儀助。享年72。
 明治5年9月に初代桂文枝門下で初代桂文三、1881年12月に二代目桂文枝を経て、1904年に桂文左衛門を名乗る。同門の二代目桂文都(後の二代目月亭文都)、初代桂文之助、初代桂文團治と共に、当時の「四天王」と呼ばれた。

文枝(ぶんし);四代目 桂文枝(1891年1月29日 - 1958年3月16日)、本名: 瀬崎米三郎。満67歳没。
 大阪坂町の生まれ。生家は寄席だったという。4歳から歌舞伎の六代目嵐三五郎門下になり、子役として活躍するが、病弱のため廃業。1905年に15歳の時、三代目文枝門下となり、初代桂阿や免(あやめ)を名乗る。1910年に二代目桂枝三郎となるが、舞踏家として活躍。
 戦後は落語家に復帰し、橋本文司を再び名乗っていたが、1946年秋、四代目文枝を襲名。舞踊は本格派で、噺を手早く切り上げて踊りを見せるのが常であった。妻が女義太夫の豊竹東昇(豊竹呂昇門下)であったため、落語と義太夫を合わせた「浄瑠璃落語」を作り上げ、披露していた。舞踊の名人七代目三津五郎にしこまれたこともあって、高度な技量の舞踊などをも得意としていた。
 ずぼらな点もあって、入れ歯の具合が悪くなり言語が不明瞭となっても全く意に介さなかった。五代目文枝は「入歯にのりつけるのがじゃまくさいんですな。・・・衣装なんかはきっちりしてるけど、かんじんのしゃべることについてはずぼらでしたな」、と証言している。得意ネタには『小倉舟』『愛宕山』『蛸芝居』等をよく演じていた。戦後は戎橋松竹にも出演。また「宝塚落語会」の指導者として、後進の指導にも当たった。門下には五代目桂文枝、三代目桂枝之助(後の俳優山本稔)らがいる。

文團治(ぶんだんじ);四代目 桂文團治(1878年8月6日 - 1962年12月14日)、本名: 水野音吉。満84歳没。
 京都生まれ、水芸一座の後見役、新派の俳優、曾我廼家一座の頭取などを経て噺家になった。1894年5月、二代目桂米團治(後の三代目文團治)に入門して麦團治を名乗る。次に上方初代三笑亭芝楽の門下で二代目小芝。三升家紋彌(後の三升家紋右衛門)の門下で紋兵衛。1921年以降、旅興業などで講談を手がける際は杉山文山を、落語家としては再び桂麦團治を名乗る。 1949年ごろ、四代目文團治を襲名。戦後は半ば引退した形であったが、上方落語界の人材が払底する中、橘ノ圓都らと共に長老として再び高座に上がることとなった。 なお上方落語協会が発足すると顧問を務めた。
 得意演目は『島巡り』『三十石』『鬼あざみ』『帯久』『らくだ』など、膨大な持ちネタを誇った。若い頃は艶噺もやっていたという。また長い演目をコンパクトに纏めて演じるのが得意であった。歴代の桂春團治に『鋳掛屋』を伝え、三代目米團治には『高尾』も稽古付けた。東京の五代目柳家小さんには『帯久』と『らくだ』を稽古付けている。講談をやっていた頃は特定の師匠はいなかったが自身が古本屋で速記本を買ってきてはそれで覚えて演じていた、落語の要素を入れたりくすぐりを入れたりして工夫して演じていた。 また、巨躯から「ゴジラ」の愛称で親しまれた。喘息持ちで、死因も喘息による心臓発作であった。主な弟子には、二代目桂麦團治、四代目桂文紅、実子の桂一二三(後の曾我廼家勢蝶)、桂綾之助らがいた。

米團治(よねだんじ);四代目 桂 米團治(4だいめ かつら よねだんじ、1896年9月3日 - 1951年10月23日)、落語家(上方噺家)。本名は中濱 賢三(なかはま けんぞう)。出囃子は『羯鼓』。満55歳没。
 1912年、16歳で三代目桂米團治に入門。二代目米之助を名乗り、堀江の賑江亭で初高座。以降主流の寄席には出演する機会がもらえず中国の巡業、神戸の寄席などに出演、1918年、中座(江戸落語における二つ目)に昇進。若手時代は伯父がやっていた鏡屋に勤め、夜は落語修業に精を出した。1922年、所属していた三友派が吉本興業に吸収合併されるが、翌年春には吉本を脱退し、その後は暫く芸界を離れる。1930年、初代桂小春團治らと共に「桃源座」を組織するも、吉本側の妨害などもあり活動は振るわず、半年ほどで再び芸界を退く。
 その一方、糊口をしのぐため、1938年に代書人として大阪市東成区役所近隣の自宅にて「中濱代書事務所」を開き、その経験から新作落語『代書』を創作した。
 得意演目の十八番は自作の『代書』や、『猫の忠信』『質屋蔵』『親子茶屋』『仔猫』『足あがり』など。その芸風は、選び抜いたネタを練り直し、熟考を繰り返しつつ磨きを掛けていくという、完璧主義の、知性的な、どちらかというと玄人受けするものであった。落語をひたすら愛し抜いて真剣に突き詰めていく態度であった。
 門下には、三代目桂米之助、三代目桂米朝、桂米治郎、子供の二代目桂べかこらがいる。「米團治」の名は2008年に孫弟子の桂米朝実子・三代目桂小米朝が襲名した。

圓都(えんと);橘ノ 圓都(たちばなの えんと、1883年3月3日 - 1972年8月20日)、神戸出身の落語家。本名:池田豊次郎。出囃子は『薮入り』。享年89。
 21歳で素人落語の座長となったため、生家を勘当される。1905年、初代桂春團治の世話で二代目桂文團治(後の七代目桂文治)に入門、桂團壽(団寿)を名乗り同年夏に初舞台を踏んだが、前座修行の厳しさに耐え切れず、堺の天神席でヘタリをしたり、旅廻りになったりする。1912年、神戸に戻り、兄弟子の橘ノ圓三郎(橘家圓三郎)(元の桂團三郎)の世話で初代橘ノ圓に再入門し、橘家圓歌を名乗る。 1917年、東京に来演の折、初代三遊亭圓歌とまぎらわしいので、二代目談洲楼燕枝の勧めにより、橘ノ圓都を名乗った。もともと「橘」の亭号は三遊亭(三遊派)の傍流であり、本人の話によると三遊亭圓都が六代目まで存在したことにより、当初は七代目圓都として神戸で襲名披露した。
 晩年、三代目桂米朝には『宿屋仇』『軒付け』『胴乱の幸助』『けんげしゃ茶屋』『掛取』『三枚起請』『ふたなり』など、二代目桂枝雀には『日和違い』『夏の医者』『あくびの稽古』など、桂三枝(現在の六代目桂文枝)に『羽織』『大安売り』、二代目桂歌之助には『寝床』、笑福亭仁鶴には『戒名書き』のネタを伝え、他にも三代目林家染丸、三代目桂文我や、あるいは二代目桂小南、六代目三遊亭圓生らの東京の落語家にも多くの稽古を付けた。数え90歳まで高座に上がった。今日でも多くの録音が残されている。最後の舞台は1972年6月2日に京都府立文化芸術会館で行なわれた「橘ノ圓都・桂米朝二人会」。
 持ちネタの数は膨大であったが、『寝床』『軒付け』『浄瑠璃息子』『猫の忠信』『鰻谷』『鬼門風呂』など、音曲、それも浄瑠璃関係の噺が得意であった。『加賀の千代』『鬼門風呂』などの自作や、『けつね』などの新作も手掛けた。

亡者(もうじゃ);死んだ人。成仏(ジヨウブツ)しない死者の魂魄が冥途に迷っているもの。

一千回忌(いっせんかいき);一千年目の回忌。実際はそんな一千年目の法要などはありませんが、地獄の長さから言うとあるのでしょうね。
回忌 (かいき=年回忌の略); 人の死後、年ごとにめぐって来る当月当日(祥月)の忌日。その満1年目を一周忌または一回忌、満2年目を三回忌または三周忌という。以下七回忌(満6年目)・十三回忌・十七回忌・二十三回忌・二十七回忌・三十三回忌・五十回忌・百回忌などがあり、仏事供養を行う。年忌。年回。

松井泉水(まついせんすい);モデルは曲独楽師、松井源水。玄水とも書く。大道芸人、香具師(やし)。昭和期までに17代を数える。松井家の元祖玄長は、越中礪波(となみ)の出身で、霊薬反魂丹(はんごんたん)を創製し、二代目道三のときに富山袋町に移住して、武田信玄から売薬御免の朱印を受けた。延宝・天和(1673‐84)のころに、四代目玄水が江戸へ出て反魂丹や歯磨き粉売り・抜歯を商いとしを売りはじめたが、その宣伝、販売のために、箱枕をいろいろと扱う曲芸〈枕返し〉や居合抜きなどを演じた。享保(1716‐36)ごろには、居合抜きのほか曲独楽(きよくごま)や輪鼓(りゅうご=鼓(ツヅミ)の胴のように中のくびれた形のコマのくびれた部分に緒を巻きつけ、回転しながら投げ上げたり受けたりする芸)を演ずるようになり、将軍家重の浅草寺参詣のおりには上覧に供して御成(おなり)御用の符を拝領した。右図:松井源水居合抜き。

和屋竹の野良一(わやたけののらいち);モデルは幕末期の軽業師、早竹虎吉。1843年(天保14年)、大坂へ下って興行し、10年以上に渡って活躍した。 1857年(安政4年)正月、江戸に下って両国で興行を始めるや否や、たちまち人気を博すようになった。歌舞伎仕立ての衣装を身にまとい、独楽や手品の手法を取り入れた豪快な舞台を披露。およそ2カ月の間に錦絵30数点が出版され、たちまちのうちに売れたという。曲差し(きょくざし)(竿から手を離して肩だけで支え、三味線を曲弾きするという非常に高度な芸)や石橋(しゃっきょう)(足で長い竿を支え、竿に人や動物を載せる芸)と呼ばれる、長い竿を足や肩で支える曲芸を得意とした。 慶応3年7月25日(1867年8月24日)、約30名の一座を率いて、アメリカに渡航した。翌月にサンフランシスコに上陸。サンフランシスコのメトロポリタン劇場を振り出しに、サクラメントやニューヨーク等アメリカ各地を興行した。慶応4年1月15日(1868年2月8日)に心臓病で客死した。
右図: 大坂下り 早竹虎吉(石橋の曲) 「此所 所作事 早替り」 歌川芳晴 1857年2月。

人呑鬼(じんどんき);人を飲んでしまうと言う、地獄に住む大きな鬼。

井桁(いげた);井戸の上部の縁を木で「井」の字の形に四角に組んだもの。ものを組むとき、「井」の字の形にする、その形。

大黄(ダイオウ);タデ科の多年草。中国、華北の原産。高さ約2m。葉は大きく、基部は心臓形。初夏、黄緑色の小花を多数つける。黄色い根茎の外皮を除き乾燥したものが生薬の「大黄」で、健胃剤・瀉下剤とする。類縁種に唐大黄・朝鮮大黄がある。本草和名「大黄、和名於保之」。
 右写真:大黄。根っこは写っていませんが・・・。



                                                            2017年4月記

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