落語「軒付け」の舞台を行く
   

 

 三代目桂米朝の噺、「軒付け」(のきづけ)より


 

 当時、子供達もさわりの部分は知っていたという、関西は浄瑠璃の本場でした。

 浄瑠璃のお稽古会が進んでくると、発表会になります。「だいたい、まだまだそ~いうナニじゃないんだけども、というと『番数があんまり少なすぎてもナニやさかい、ま~お稽古と思て』と、こ~、お師匠さんがおっしゃったんで、枯れ木も山の何とかでですね、出してもろたようなもんです」、「あ~、なるほどな~、そ~いう事情があったんやな・・・。それでどや、当たったか?」、「当てられたです」、「『当てられた』?」、「わたし、だいたいノッケですから御簾内(みすうち)です。無我夢中ですから、アガッてしまい、無茶苦茶になってしまいました。客席の前から『止めとけ。こんなケッタイな浄瑠璃聴いたことないわい、こんな浄瑠璃語るやつの顔が見たいわい』言うさかいね、そない見たいねんやったら見せたろ思て、御簾を開けて、こんな顔や~。言うた途端に、ミカンの皮やら芋のヘタがバァ~ッと飛んで来て・・・、はははぁ、えらい当てられた」、「当てられるわ、そら。もっと時間かけて稽古せなどんならん・・・」。

 「この町内にはな、お好きなお方がたくさんにあって、この頃『軒づけ』に出ていなさるそ~な、よかったら一緒に連れて行ってもろたらどや?」、「やめときまひょ、そんな乞食みたいな・・・」、「好きな人の家へ当たることもあってな、こないだも『そんな結構なお浄瑠璃、そんなとこで語ってもろてはもったいない、ど~ぞこっち』言って、奥の座敷に通されて、皆が好きな所を十分に語らしてもろたあとで『ウナギの茶漬け』をよばれて帰ってきたんや」、「ウナギの茶漬け・・・、たまらんな~、行きまひょか」、「行く気があんねやったら言うたげる。付いといなはれ。向こうの辻に集まって・・・、あ~、居たはる居たはる」。

 「今晩わ」、「お~、こんばんわ」、「実は、この男ですねん、好きでんねん。仲間に入れて一緒に連れて行てやってもらうわけにいきまへんやろか?」、「あ~結構です、こっちも仲間が多い方が心丈夫でございます」、「あんさんですか、ど~ぞこっちへ、お好きやそ~ですな?」、「好きですねん。ウナギの茶漬け」、「いや、あんなこと滅多にないこってっせ」。
 「まぁ、ボチボチ行きましょかな」、「待っとくれやす。三味線まだでんねん」、「来れないから、替わりに紙屑屋のテンさんでんねんけどね・・・」、「来てくれました、呼びまひょか・・・、テンさん、こっちこっち、こっちでっせ」、「ど~も遅なりまして。ちょっとお師匠さんとこ行てましたもんで・・・」、「何しに?」、「三味線の調子合わしてもらいに・・・」、「あんさん、ご自分では合いまへんのんか?」、「まだ、そこまでは、いてしませんのです」、「途中でずれたりしまっしゃろ?」、「そ~です、カスガイで止めてあります」、「うわ~。冗談言うてまんのか?」、「三つ上げてもろてますので、ま~何とか・・・」、「三つも上がるっちゅうことは?」、「え~、『テンツ・テンテン』、ちゅうのが一つです」、「三段じゃなく三つと言ってるで。他はなんなんで?」、「『トテチン・トテチン』ちゅうのとね、『チリ・ トテチン』と、この三つ、しっかりと上げてもろてますので・・・」、「どないしよう、この三味線。代わりの人がおるわけやおまへんねやろ?」、「わたしも、よそからひと口ございますので・・・」、「お頼みいたします。こら居直られるとは思いまへなんだな~。さぁさ~、早いとこ行きまひょ」、「この角からいきまひょうか」、「テンさん、えらい済んまへんけどひとつよろしゅお頼み申します」。
 「どなたぞ、ちょっと手の空いた方ございませんかいなぁ?」、「何です?」、「立って弾いたことございませんので、この胴がぐらつきますので、ちょっと胴を押さえといてもらえませんか?」、「ちょっと胴を押さえてやんなはれ」、「もう一人、竿がぐらつきますので、どなたぞ、天神と竿ちょっと押さえといてもらえますか?」、「手数の掛かる三味線だ」、「後ろに倒れるといけないから、背中も押さえてもらえませんか?」、「行てやんなはれ、今さらやめるわけにいけしまへんがな」、「先程と音が違うでしょ? これやないといかんのです。テ~ン、テ~ンツ・テンテ~ン、テ~ン」。

 「では、私から・・・。ははッ、はぁうッ、うッ、えへんッ」、「子供出てみなされ。誰か表でヘドついているさかい」、「けったいなセキしなさるな」、「テ~ンツ・テンテ~ン」、「弾きなさんな」、「ウナギのお茶漬け出ないな」、「次行こう」。
 「ちょっと断っといた方が・・・、テ~ンツ・テンテ~ン♪ちょっとお門を、拝借いたします」、「どちらさん?」、「♪素人が慰みに、浄瑠璃を語らしてもらいます」、「お断りします」、「♪決して、お金は頂きません」、「うち、病人が居てまんね~」、「♪どなたが、お悪うございます?」、「母じゃが熱で困ってまんね」、「それは大変ですな~。♪ずいぶん~、大事に~」、「浄瑠璃でお見舞いするなんて・・・」、「テ~ンツ・テンテ~ン」、「ウナギの茶漬けはまだですかいナ?」、「黙って付いといなはれ。次、隣り行きまひょ」。
 「あんたらねぇ、断ったりするからあきまへんねがな。『バ~ン』とぶつけまんねや、そーすると、はじめ向こうは『おッ?』と、こう思いますわい。『おッ、こら浄瑠璃と違うかいな?』ちゅなもんです。そこを『グッグッグッ』と節をニエ込ましますというと『どおぞこっち、ウナギの茶漬け』と、こ~物事を持って行きよる」、「では、『菅原伝授手習鑑』松王の出のとこね。テンさんお願いします」、「テ~ン、テ~ンツ・テンテ~ン」、「『♪かかるところへ~~、春藤玄蕃(しゅんどうげんば)~』、聞いてる聞いてる。シ~ンとしてまっしゃろ、 『♪かかるところへ春藤玄蕃ぁ~、首見る役は松王丸ッ』」、「聞いてる聞いてる」、「『♪病苦を助くる駕籠乗り物、門口にッ、かぁ~・しぃ~・やぁ~ か~、ご用の方は東へ三軒、近藤まで』、ど~ですか、ここ間取りだけなと見ましょか」、「何を言うてまんねん。空家なんかいな」、「テンツ・テンテ~ン」、「弾きなはんな。空家の前で」、「空家からウナギの茶漬けは?」、「出~へんっちゅうねん、あきまへん、次行きまひょ」。
 「わしは、景気よく『バ~ン』とな。景気よく弾いてくれ。『鎌倉三代記』の三浦之助の帰(かい)って来るとこ、あそこやりますわ」、「テンツ・テンテ~ン、テンツ・テンテ~ン」、「(大声で)『♪義村参上ぉ~、つかまつるぅ~ッ』」 、「じゃがましわいッ!」、「これはけしからん。こら~ッ『じゃがましぃ』とは何や、浄瑠璃語ってんねんぞ」、「浄瑠璃かいな? わしまた、ダダケモンが暴れ込んで来たんかと思て・・・」、「こらッ、こっちはなぁ、暗がりで無本で語ってんねんぞ。暗いとこでこれだけの浄瑠璃、語れるもんなら語ってみぃ」、「はぁ、明い(あかい)とこで聴けるもんなら聴ぃてみぃ」、「な~るほど」、「テンツ・テンテ~ン」、「弾かんでもいいねん」、「ウナギの茶漬け出ませんな~」、「お帰りッ」。
 「では、私が、気を取り直して・・・」、「何を御語り・・・」、「テンツ・テンテ~ン入れて三つ、だけなのに・・・」、「世話物と時代物では、腹が違いますから」、「それでは『妹背山(いもせやま)』の御殿、橘姫の出の部分を・・・」、「テンツ・テンテ~ン、テンツ・テンテ~ン」、「『♪され~ばぁ~、恋する~、みぞ~ォつらや~』」、「♪あ~、よさこい、よさこい」、「わては、よさこいの三味線は、分かりません」。
 「どうにもならんな。我々が語って我々が聴くと、こ~いうことにしまひょ、お宅行きまひょ」、「そんなあっさり言いなさんな」、「お前さんのところが一番広い」、「広くてもダメ。こないだ、みんなで浄瑠璃語っただろう、翌朝、女房が子供抱いて里にいん出てしまった。こないだ帰って来たところだ。皆で行ってみろ、生涯帰ってこないだろう。そんな事言うんだったらあんたの所行こうか」、「家もダメなんですわ。語り出すと、ヌカ味噌のフタを直したり、皮肉なことをしよるんです。どっか語るところは?」、「あの、糊屋のお婆んとこの奥の部屋、借りまひょか?」、「大丈夫。あのお婆さん、耳が遠い」。

 「チョッと聞いてみて・・・」、「お婆ん、こんばんわ。あぁ、お婆んなんや飯食てますわ」、「あらら、町内の若い衆が皆で寄って、何やな?」、「時分どきに済まんなぁ」、「えぇ、何じゃい? これかい? 今日は御前が中途半端になって、ちょっと小腹が空いたので、お茶漬けを金山寺味噌出してきて、食てるとこじゃ。直ぐ終わる。え?『浄瑠璃語る?』、面白かろ~、やんなされ。わたしもあとで聴かしてもらいますで・・・」。
 「さ~、上げてもらいまひょ、これで何とか落ち着きましたな~」、「三味線の介添えは要りません」、「当たり前や」、「今度は? あんさんでっか?」、「わたしがやらしてもらいます。『朝顔日記』大井川の段」、「テ~ンツ・テンテ~ン、テ~ンツ・テン テ~ン」、「ケッタイな三味線や。他におましたなぁ?」、「ちょっと変えてみまひょか。トテチン・トテチン、トテチン・トテチン」、「どうも出にくいな~」、「チリ・ トテチン、チリ・トテチン」、「やっぱり『テンツ・テンテン』でやってもらいまひょ」、「わたしも、あれが十八番になってまんのんで。テ~ンツ・テンテ~ン、テ~ンツ・テンテ~ン」、「『♪追ぉて行くぅ~ぅ~』」、「テ~ンツ・テンテ~ン」、「『♪名に高き街道一の大井川』」、「テ~ンツ・テンテ~ン」、「『♪篠を乱して降る雨にィ~」、「テ~ンツ・テンテ~ン」、「『♪打ち交りたる、霹靂神(はたたがみ)』」、「テ~ンツ・テンテ~ン」、「『♪みなぎり落つる水音は~物凄くも~また~』」、「トテチ~ン!」、「うわぁ~」、「『♪す~さ~ま~じ~き~』」、「チリ・トテチン、チリ・トテチン」、「やってられんわ。何ぼわたいの浄瑠璃でも、あの三味線では・・・」。
 「あんさん方、なかなか浄瑠璃が上手じゃなぁ~」、「お婆ん、なぶんなさんな。耳の遠いお婆んがそんな遠いとこで聴ぃてて、浄瑠璃が上手か下手か分かるんのかい?」、「最前から食べてる味噌の味が、ちょっとも変わらん」。

 



ことば

■この噺、「軒付け」は、桂米朝の説明では「大道芸人の門づけとはまたちがって、浄瑠璃の軒づけをやって修行する」(『米朝落語全集・第四巻』より)とあり、アマチュアが技芸の鍛錬のために行うもので、1890年代(明治10-20年頃)まで京阪地方で行われていたとされている。噺の冒頭部でも軒付けに行けと勧められた男が「・・・そんな、乞食みたいなことできまっかいな。」と答えて、「そら、何言うねん。乞食とちゃうで、金とらんと浄瑠璃聴かすんやで・・・」と、たしなめられる件がある。だが、実際にはそれを口実に金銭を乞う行為も行われており、1842(天保13)年6月27日の大坂町奉行からの触書には「けた軒附杯と唱、物貰ニハ無之、素人ニて夜分町家軒先等へ行、唄、三味線、或ハ浄瑠璃杯をかたり候者右之由、風儀不宣候間、自今堅可相止候」とあり、翌年の触書にも「寒声寒弾」(「寒げいこ」の意)の名目で女性まで加わるのは風紀上好ましくないとあり、官憲の再三の取り締まりにもかかわらず大阪市民が盛んに行っていたことがうかがわれる。

軒づけ;この噺の中で米朝が言うには、「人さんの軒先、門口に立ってこれを語らしてもらうんや。こらな~、暗がりで語らんなんさかい無本で語る、これが何よりの勉強になるしな、会へ来てくれるお客やなんかと違うがな。せやろ、その人の家やさかい気に入らなんだら『どぉぞ お通り』と、そんなもん邪険に言われる。そこをかいくぐって、何とか聴いてもらおう、という工夫からホンマのナニが生まれる。というのは、この旦那衆なんかでも、修業のために皆この「軒づけ」に出ていなさんねや」。

浄瑠璃(じょうるり);三味線伴奏の語り物音楽のひとつ。室町末期に始まり、初めは無伴奏(時に琵琶や扇拍子)で語られた「浄瑠璃姫物語」が広まり、他の物語を同じ様式で語るものをも浄瑠璃と呼ぶに至る。江戸時代の直前、三味線が伴奏楽器として定着し、同じころに人形芝居と、後には歌舞伎とも結合して、江戸初期以降、上方でも江戸でも庶民的娯楽として大いに流行する。多くの浄瑠璃太夫が輩出し、発声・曲節・三味線が多様化し、初期には金平節・播磨節・嘉太夫節などの古浄瑠璃が盛行、義太夫節・半太夫節・河東節・大薩摩節・一中節・豊後節・宮薗節・常磐津節・富本節・清元節・新内節など、江戸後期までに数十種の流派が次々に派生した。なかでも元禄時代、竹本義太夫・近松門左衛門らによる人形浄瑠璃の義太夫節が代表的存在となり、浄瑠璃の称は義太夫節の異名ともなっている。
三味線方の伴奏で浄瑠璃を語る人。浄瑠璃太夫。浄瑠璃語り。

浄瑠璃の三味線;日本の弦楽器のひとつ。棹(サオ)は長さ3尺2寸(約97cm)前後のものが標準的で、花梨(カリン)・樫・紅木(コウキ)・紫檀などを用いる。胴は少し膨らみのある四角形、桑・鉄刀木(タガヤサン)・花梨で作り、両面に猫(または犬)の皮を張る。棹の下端部は胴を貫き、先端の中子先に根緒をかける。上部は乳袋(チブクラ)を経て上駒(カミゴマ)に至り、その頭部に海老尾(エビオ=俗称で天神)を設ける。三弦で、一の糸は太くて調低く、三の糸は細くて調高く、二の糸はその中間。胴皮と糸との間に駒を挿み、左手指先で棹上の勘所(カンドコロ)で弦を押さえて音高を決め、右手に持った撥(バチ)でならす。棹の太さによって太棹・中棹・細棹の別がいわれるが差異は大きく、駒や撥の種類によって音色や音量にかなりの相違が生ずる。
 本調子・二上り・三下りなどの調弦法があり、音調が異なる。三弦。さみせん。太棹は細棹・中棹に比して、棹が太く胴も大きい三味線。また、その棹。義太夫節のほか津軽三味線などに用いる。ふと。

枯れ木も山の何とか;「枯れ木も山の賑わい」。何もない殺風景なはげ山よりも、たとえ枯れ木でもあれば山の趣を添えてくれ、風情を賑わしてくれるということから。
自分のことを謙遜して言う言葉で、老人が若者に混じって何かをする際などに多く用いる。 つまらないものでも、無いよりはましであるということ。また、役に立たない者でも、いないよりはいたほうがましだということのたとえ。

菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅ てならいかがみ)、松王の出;♪かかるところへ春藤玄蕃(しゅんどうげんば)ぁ~、首見る役は松王丸ッ。病苦を助くる駕籠乗り物、門口にッ。
 浄瑠璃のひとつ。並木宗輔ほか合作の時代物。1746年(延享3)初演。菅原道真の筑紫への配流、旧臣武部源蔵と白太夫の三つ子の兄弟梅王・松王・桜丸夫妻が菅公の世継(ヨツギ)菅秀才を擁護する苦衷を脚色。
「車曳の段」「寺子屋の段」が名高い。後に歌舞伎化。
 右図:「寺子屋」 二代目中村仲蔵の松王丸(左)と、二代目中村のしほの千代。寛政8年(1796年)7月、江戸都座。初代歌川豊国画。
 概略:菅原伝授手習鑑(寺子屋の段)
 源蔵は小太郎の顔を見て、これを菅秀才の身替りにしようと考えたのである。今日寺入りしたばかりの子を、いかに菅秀才の身替りとはいえ命を奪わなければならぬとは…戸浪はもとより源蔵も「せまじきものは宮仕え」とともに涙に暮れるのであった。 やがて菅秀才の首を受け取りに、春藤玄蕃と松王丸が来た。松王丸は病がちながら、菅秀才の顔を知っているので首実検のためについてきている。村の子供たちをすべて帰したあと、いよいよ菅秀才の首を討つ段となり、源蔵は首桶を渡された。源蔵は奥で小太郎の首を討ち、それを首桶に入れて出てきて松王丸の前に差し出す。張り詰めた空気の中、松王丸は首を実検した。ためつすがめつ、首を見る松王丸。 「ムウコリャ菅秀才の首討ったわ。紛いなし相違なし。」 松王丸は玄蕃にそう告げた。玄蕃はそれに満足して首を収め、時平公のところへ届けようと手下ともども立ち去る。松王丸は病を理由に、玄蕃とは別れて帰ってゆく。あとに残った源蔵と戸浪はひとまず安堵した。
 だが今度は小太郎の母親が、小太郎を迎えにやってきたのである。 致し方ないと源蔵は、隙を見て母親に斬りかかった。しかし源蔵は思いもよらぬ言葉を聞く。源蔵の刀をかわした母親は涙ながらに言った、「菅秀才のお身代り、お役に立ってくださったか」と。そこに松王丸も現われる。小太郎とはじつは松王の実子、その母親とは松王の女房千代だったのである。松王丸はじつは菅丞相に心を寄せ、牛飼いとして仕えながらもそれに仇なす時平とは縁を切りたいと思っていた。そして菅秀才の身替りとするため、あらかじめ小太郎をこの寺子屋に遣わしていたのだった。松王丸はなおも嘆く千代を叱るが、源蔵夫婦と菅秀才は小太郎のことに涙する。松王丸が駕籠を招き寄せると、中から菅丞相の御台所が現われ菅秀才と再会する。以前北嵯峨で御台を助け連れ去った山伏とは、松王丸であった。 (概略:ウイキペディア)

■『鎌倉三代記』(かまくらさんだいき)の三浦之助の帰り;♪義村参上ぉ~、つかまつるぅ~ッ。
 5段。紀海音作。1716年(享保1)大坂豊竹座初演。源頼家の外舅比企能員(ヨシカズ)の謀叛を中心に脚色する。
 10段。双木千竹ほか増補。1781年(天明1)江戸肥前座初演。大坂夏の陣を鎌倉時代に移して脚色する。「近江源氏先陣館」の後編にあたる。後に歌舞伎化。
 概略:頃は建仁冬の空。雪の山。刃(ヤイバ)を交(マジ)ゆる戦場の。名にし近江の。八(ヤ)つの景(ケイ)。百万余騎(ギ)に埋もれていつ果(ハツ)べきとも見へざりしに。両家(リヨウケ)の確執(カクシツ)和順(ワジユン)なりしと触流(フレナガ)せば。両陣忽(タチマチ)螺鐘(カイカネ)納め一度にさっと引かへて。早(ハヤ)太平の春霞。万歳(バンゼイ)とこそ祝(シユク)しけれ。鎌倉の老臣古郡新左衛門俊宗。土肥(ドヒ)の弥五郎兼近。陣装束に小手腹巻従ふ兵卒三十余人。坂本城への使者の役馬場(バンバ)間近く出来(イデク)れば。御門(ゴモン)の内より京都の近従(キンシン)三浦之助義村。浅上下(アサガミシモ)さはやかに。供人僅(ワズカ)一両輩(ハイ)。黙礼もなく行過(ユキスグ)るを。新左衛門声をかけ。三浦殿には頼家公より。石山の御陣へ御使(ツカイ)候な。我々は時政(トキマサ)公より坂本への御使者。お互に御苦労ぞふと。挨拶すれば三浦の助。仰(オオセ)のごとく主人の使(ツカイ)。役(ヤク)中なれば無礼(ブレイ)は御免。罷(マカリ)通ると行(ユカ)んとす。弥五郎引(ヒキ)とめ先(マズ)待(マタ)れよ。無忽(ブコツ)に存(ゾンズ)る三浦殿。武士の礼義に式代(シキダイ)もせ
ず。扨(サテ)は使の延引故(ユエ)。遽(アワタダシ)き躰(テイ)と見へた。具足も附(ツケ)ず近比(チカゴロ)麁抹(ソマツ)なお使者がら。不審(イブカシユウ)存(ゾンス)ると。嘲(アザケ)る詞に宗尓(ニツコ)と笑ひ。(広辞苑)

■『妹背山(いもせやま)』の御殿、橘姫;♪され~ばぁ~、恋する~、みぞ~ォつらや~。
 正式には、「妹背山婦女庭訓」(いもせやま‐おんなていきん)。浄瑠璃のひとつ。近松半二ほか合作の時代物。1771年(明和8)初演。藤原鎌足が蘇我入鹿を滅ぼすことを主題にし、雛鳥・久我之助の悲恋を描いた三段目後半の「山の段」は特に名高い。後に歌舞伎化。
 概略:妹背山婦女庭訓
 古(イニシ)への。神代(カミヨ)の昔山跡(ヤマアト)の。国は都の始めにて。妹背の始め山々の。中を流るゝ吉野川。塵も芥(アクタ)も花の山。実(ゲニ)世に遊ぶ歌人(ウタビト)の。言の葉草(コトノハグサ)の捨所(ステドコロ)。妹山(イモヤマ)は太宰の小弍(シヨウニ)国人(クニンド)の領地にて。川へ見越(ミコシ)の下館(シモヤカタ)。背山の方(カタ)は大判事(ダイハンジ)清澄(キヨズミ)の領内。子息(シソク)清船(キヨフネ)日外(イツゾヤ)より爰(ココ)に勘気の山住居(ズマイ)。伴ふ物は巣立鳥(スダチドリ)谺(コダマ)とわれとたゞ二つ。経読鳥(キヨウヨムトリ)の音(ネ)も澄(スミ)て。心ぼそくも哀なり。
 比(コロ)は弥生の初(ハジメ)つかた。こなたの亭(チン)には雛鳥の。気を慰めの雛祭り桃の節句の備へ物。萩のこは飯(イイ)腰元の。小菊(コギク)桔梗(キキヨウ)が配膳の。腰もすふはり春風(ハルカゼ)に。柳の楊枝はし近く。「ノウ小菊。いつものお雛は御殿でお祭りなさるれど。姫様のおしつらひで。此(コノ)山岸(ヤマギシ)の仮座敷(カリザシキ)。谷川を見はらし桜の見飽(ミアキ)。雛様も一入(ヒトシオ)お気が晴てよからふのふ。こちらも追付(オツツケ)よい殿御(トノゴ)持(モツ)たら。常住(ジヨウジユ)あの様に引(ヒツ)ついて居たら嬉しかろ。」「ノウ桔梗の何云(イ)やるやら。何(ナン)ぼ女夫(ミヨウト)ならんで居ても。あのやうに行義に畏(カシコマ)つて斗(バカリ)居て。手を握る事さへならぬ。窮屈な契りはいや。肝心の寝る時は放ればなれの箱の中(ウチ)。思ひの絶(タユ)る間は有(アル)まい」と。仇(アダ)口々も雛鳥の。胸にあたりの人目せく。 (広辞苑)

■『朝顔日記』(あさがおにっき)大井川の段;♪追ぉて行くぅ~ぅ~、名に高き街道一の大井川、篠を乱して降る雨にィ~、打ち交りたる、霹靂神(はたたがみ)、みなぎり落つる水音は~物凄くも~また~、す~さ~ま~じ~き~。
 「生写朝顔話(シヨウウツシ アサガオバナシ」の別称。浄瑠璃のひとつ。近松徳叟(ちかまつとくそう)作、翠松園(すいしょうえん)補の時代物。1832年(天保3)稲荷座初演。司馬芝叟(しばしそう)の長話「蕣(アサガオ)」を原拠とし、秋月弓之助の娘深雪と駒沢次郎左衛門との情話を脚色。四段目「宿屋」「大井川」が有名。後に歌舞伎化。
 大井川の段、概略:「深雪」(みゆき=後に朝顔)が嵐を衝き、やっと大井川に辿り着いたとき、駒沢たちは既に川を渡ったあとでした。 川を渡って追いかけたいものの大井川はにわかの大水で「川留」となっていました。またもや、すれ違いです。絶望した深雪はここを三途の川と定め、身を投げようとします。奴の関助、宿の「徳右衛門」が追いついて深雪を抱き止めます。関助はやっと深雪に巡り合うことができ、乳母の浅香の行方を訊ねます。浅香が亡くなったことを伝えていると傍で聞いていた徳右衛門がいきなり自害しました。なんと徳右衛門は浅香の父親で、昔は秋月家に奉公していたのでした。深雪は恩ある主人の娘なので甲子歳生まれの自分の血で深雪の目を治そうとしたのです。深雪の目は開き、再びこの世を見ることができたのでした。

霹靂神(はたたがみ);激しい雷のこと。雷神。

カスガイ;建材の合せ目をつなぎとめるために打ち込む両端の曲った大釘。落語「子別れ・下(子は鎹)」に写真が有ります。

ニエ込ますめりこむ。はまりこむ。にえいる。
 
時代物と世話物
時代物」:文学・演劇・映画などで、江戸時代およびそれ以前の、特に武将の軍記などに取材したものの総称。多くは江戸時代の武士を中心とした世相を古い時代に仮託して、悪人の陰謀に対する忠臣の苦衷・辛苦などを描く。
世話物」:
浄瑠璃・歌舞伎・小説・講談などで、当代の世態・風俗・人情を背景とし、当代の出来事に取材したもの。特に江戸時代の町人社会に取材したもの。

貸家家賃を取って貸す家。かしいえ。
 
貸家札;貸家であることを表示する札。斜めに貼る風習がある。
右図:悪餓鬼が貸家札を剥がすので、手代に相談したら、厚板に書き付けて柱に釘で打ち付けた。主人に「これなら14~5年は持つだろう」。(軽口恵方の若水より「手代の一作」)

ダダケモン;駄々をこねる。無理を言う。子供が甘えて他人の言に従わないこと。その人。(大阪ことば事典)

糊屋(のりや);糊は、米・正麩(シヨウフ)などの澱粉質から製した、粘り気のあるもの。広義には接着剤をいう。布地の形を整えこわばらしたり、物を貼りつけたりするのに用いる。通常、洗濯糊を作る婆さん。長屋の婆さんの定職は、糊屋でこれは糊口(ここう)から来ています。糊口とは(口を糊する、粥をすする意) 暮しを立てること。くちすぎ。よすぎ。生計。

時分どき(じぶんどき);ころあいの時。特に食事の時刻についていう。

金山寺味噌(きんざんじみそ);なめ味噌の一種。大豆を炒って粗く砕き大麦と混ぜて蒸したのちに麹とし、塩を加えナス・ウリなどを入れたもの。甘みを加えることもある。和歌山県湯浅地方の名産。中国の径山寺(きんざんじ)での製法が伝えられたものという。右写真。
 その由来については、宋での修行から帰国した鎌倉時代の僧、心地覚心(法燈国師)が1254年に帰朝し、請われて紀州由良(現:和歌山県日高郡由良町)の鷲峰山興国寺の開山となったため、その近傍の湯浅(現:和歌山県有田郡湯浅町)に伝えた「径山寺(きんざんじ)味噌」が起源とする説が有力だが、空海(弘法大師)が唐の金山寺(中国語版)から持ち帰ったとする説もある。 江戸に広まったのは、紀州徳川家から徳川吉宗が八代将軍となり、幕府に献上させたからだと考えられている。 2008年3月20日、和歌山県岩出市の根来寺旧境内から、約430年前の金山寺みそが見つかった。
○「下手な歌で味噌が腐る」という言葉は一般的ですが、上方には昔、「下手な浄瑠璃 味噌腐る」という囃し唄のような言葉がありました。この言葉が、オチに繋がります。

ヌカ味噌;ヌカに塩水などを加えてねったもの。桶やかめに貯え置いて、野菜などを漬けるのに用いる。
○糠味噌が腐る
歌い声の悪いのや調子はずれなのをあざけっていう語。「味噌が腐る」とも。



                                                            2017年5月記

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