落語「赤貝猫」の舞台を行く
   

 

 露乃五郎(露の五郎兵衛)の艶笑噺、「赤貝猫」(あかがいねこ)より


 

 【お断り】今回は典型的な、もろ艶笑落語です。紹介する落語も数が増してくると、どうしてもこの様な噺をとりあげるようになります。『R18』ですから、未成年者や眉をひそめる方はご遠慮ください。

 女性のあそこを例えるのに色々な言い方があります。船に例えると、横からでは分かりませんが真上から見ますと良く分かります。似てますな~。都々逸にも「♪この船は~ 貴方の乗る船~ 貴方の竿は私がイクとき 借りる~竿」。
 また、豆に例えます。「わてらのカミさんはお多福豆だが、子供はエンドウ豆だな」、「三保の松原に降りた天女はどんな豆やったろうな」、「う~ん、ソラ豆やろうな」。
 鬼も節分の時、豆をぶつけられ逃げ回りますが、あの寒い時期、裸ですから「寒かろう、服はどうした」、「フクはウチです」。
 鬼がここなら大丈夫だろうと湯屋に飛び込んだ。飛び込んだ先が女湯、「あっ、豆だらけだ」。

 もう一つは貝に例えますなぁ~。『蛤は初手赤貝は夜中なり』、婚礼の晩を詠んだ川柳で、お吸い物で蛤、夜床に入って赤貝を食べますな~。子供が「おっ母さん、僕どこから生まれたんや」、ショガありませんから、前をまくって、「ここからよ」、「わぁ~、ひとつ間違ったらウンコやな」。
 小さいのは蜆(しじみ)位で、大きくなって蛤(はまぐり)、古を経てくると赤貝になるんですな~。昔、潮干狩りに行きますと下着を着けなかったので、着物の前をめくって貝を掘っていると、どうしても取れない。良く見ると写っていた。
 三人兄弟で上下女の子、真ん中が男の子、この子が耳が聞こえない。お父さんが赤貝のぬたが大好きで毎回でも良いという。お母さんは手が離せないので、娘に頼んだら男の子に行かせ、無事赤貝を買って来た。お母さん喜んだ。翌日も買いに行かせたが、チャンと買って来た。お母さんどうやって男の子に伝えているのか台所の隅で見ていると、姉が「これ買ってくるのよ」、と前をめくって指差していた。この日は娘二人共居なかったので、母親が前をめくって見せると、買いに出掛けた男の子、帰って来たら、毛皮のがま口買ってきた。こ~ゆう噺大好きなんです。よ~け知っています。明日の朝まで喋っていられます。ハハハ。

 赤貝も砂を吐かせるために水に入れます。砂だけではなく赤いベロも出て来ますな。男というもの、ピッピッっと指でイタズラしたくなりますね。この家の旦那さんも朝起きてきたら、同じようにピッピッっと指で突いたら、貝が口をパクッと閉じて指を挟まれた。「カカ、チョッと来てくれ、貝に挟まれた」、「ま~まぁ、しょうも無いこと考えるからよ。男ってこれだから・・・」、キセルの頭で貝をポンポンポンと叩くと口をパクッと開けた。「ホンマニ、気ぃ~付けなされ。でも・・・、指で良かった」。洒落た噺で、わたしも好きなんです。

 黒板塀に見越しの松に住まわせているのはたいがいお妾はんですな。そこの家(うち)には可愛(かい)らしぃ猫が飼(こ)~てございま して、婆やがやはり赤貝の砂出しをしています。そこに猫がやって来て赤貝にちょっかいを出した。赤貝もビックリして殻を閉じたら、猫の前足を挟んだ。猫がどんなに騒いでも、取れるわけでも無く、お妾さんの所に泣きついて行った。カッタンペッタン、カッタンペッタンと。奥で湯上がりの肌に直に鳴海の浴衣を着て、博多の伊達締めをクルクルと巻いて、端を帯にキュッと挟んで結びませんな。「誰です。カッタンペッタン、カッタンペッタンと片足だけ下駄を履いて・・・。あら、ミ~コやあらへんか。行儀が悪い」、キセルで貝を叩いて足からは外してやった。「今度から手を出したらアカンのよ。『ふぅー』っと吹いてやり。ここに入ってねんねし」、懐にポンと入れて、お化粧をしようと、手ぬぐいを取ろうと中腰になると、伊達締めが挟んだだけですからスルスルと解けて、猫は下にスコーンと落ちた。何を発見したのか、「ふぅー」。

 



ことば

二代目 露の五郎兵衛(2だいめ つゆの ごろべえ);(1932年3月5日 - 2009年3月30日)は、落語家、大阪仁輪加の仁輪加師。 本名: 明田川 一郎(あけたがわ いちろう)。上方落語協会会長、日本演芸家連合副会長、番傘川柳本社同人、日本脳卒中協会会員などを歴任した。生前の所属事務所はMC企画、五郎兵衛事務所。
 祖父母が京都市下賀茂の映画撮影所の裏で芝居や舞踊の稽古場を営んでいた縁で、1938年12月、7歳のときに羅門光三郎主演の映画『暴れだした孫悟空』に小さくなった孫悟空役で出演し、子役俳優となる。その後も、端役などで映画に出演。その後、一家で中国・汕頭市に渡り、汕頭日本東国民学校高等科卒業。中国にて終戦を迎える。 1946年に家族で京都に引き揚げた。同年、生活の糧を得るため、芦乃家雁玉の主宰する「コロッケ劇団」に所属し、芦の家 春一を名乗る。同劇団は軽演劇を標榜していたが、その実は仁輪加を売り物にしていた。地方巡業や、京都の富貴にて前座修行する。1947年11月、戎橋松竹の楽屋で二代目桂春団治に「落語家にならへんか」とスカウトされ、雁玉や林田十郎のすすめもあり、正式に入門して桂 春坊を名乗った(彼は入門まで落語を聞いたことがなかった)。落語家としての初舞台は京都座だという。以降、二代目春団治の側近として修業を重ねた。晩年の三遊亭志ん蔵にかわいがられ、志ん蔵が怪談噺を演じる際に、客席に乱入する幽霊役を演じたという。 1953年、上方若手落語家が戎橋松竹派と宝塚落語会派に分裂した際に、宝塚へ行く。しかし、そのまま軽演劇の宝塚新芸座に入団し、俳優として活動。しかし1958年に舞台から転落する事故に遭って大怪我を負い、休業。1959年、上方落語協会に入会し、落語界に復帰(三代目桂春団治の襲名に乗じて、三代目門下に入り協会末席の香盤という条件で、一一(かずのはじめ、のちの三代目林家染語楼)と共に入会を許される)。松竹芸能に所属。道頓堀角座等に出演した。1960年10月、二代目桂小春団治を襲名。 1963年、日本ドリーム観光へ移籍。千日劇場で公開収録された関西テレビ『お笑いとんち袋』(三代目桂米朝司会)の回答者として活躍。1967年4月、吉本興業に移籍。1968年4月に吉本側から改名を促され、前述の初代露の五郎兵衛の流れを汲む二代目露乃五郎を襲名した。本業の落語のかたわら、俳優としてテレビドラマに多く出演した。 1980年、吉本興業を離れてフリーとなった。1987年に亭号の表記を「露の五郎」に改める。1994年、上方落語協会会長に就任し、2003年まで務めた(後任は桂三枝(現:六代目桂文枝))。2005年10月、前名「五郎」の由来である大名跡「二代目露の 五郎兵衛」を襲名。同年には歌舞伎の四代目坂田藤十郎の襲名披露もあり、両界そろって数百年ぶりの名跡復活が話題となった。 晩年は病に苦しみ、2002年9月に脳内出血、同年11月には奇病の原発性マクログロブリン血症を患った。2009年3月30日、多臓器不全のため77歳で死去。

■このような艶笑話は通り越さなくては出来ない。師匠の春團治が言うには、現在自分が興味を持っていることは絶対話してはいけない。通り過ぎて、卒業したらしゃべれ。卒業していないと、生々しくて聞いていられない。自分が興味を失ったことだけを喋れば、それが芸になる。それから興味を失うまで勉強するのが大変だった。(五郎兵衛談)

八代目桂文楽の赤貝の小噺
○ 夜、赤貝が料理屋の飯台の中で口をパクリと開けていた。隣にいた海老が何を思ったか赤貝の口にチョイと触った、「何しているのよ。いい年をして」。
○ 町内の若い衆が質屋に来て、「番頭さん。これで五両借りたいのですが」、「ははは、張形ですな。こ~いうものはお預かりしたことが御座いませんので・・・」、「直に出すから・・・」、「でも、この様なものは・・・」。「番頭さん、ご町内の方でしょ、貸してお上げなさい」、「おかみさんが言われるなら・・・」、「有り難うございます」。番頭つくずく眺めて、「旦那さんが生きていたら、百(文)も貸さない」。

赤貝の小噺
○ 潮干狩りで熊手が壊れ、仕方がないので棒だけで掘っている。赤貝が見て、「まあ、なんぼなんでも・・・」。
○ 潮干狩りで蛤(はまぐり)が砂の中に隠れていたが、若い女性が前をまくって貝を掘っているのを見上げて、「あっ、赤貝はうまいところに隠れやがった」。

赤貝の川柳
○ 赤貝にだんだん化ける小蛤(こはまぐり)
 女の子が女になって行くのです。
○ 赤貝が血で男湯へ蜆来る
 蜆(しじみ)も女の子(小蛤より小さい)。母親が月のもので、女の子が男湯に入るのです。
○ 赤貝の味わい蛸の味がする
 吸盤のように男の物に吸い付いてくるのを「タコ」と言う。「名器三品」と呼ばれるもののひとつ。
○ 門院は赤貝となる壇の浦
 伝説では壇ノ浦で滅びた平家の一族は蟹(カニ・平家蟹)に変身したという。建礼門院(徳子)は救われて命を永らえたが、もし亡くなっていたなら赤貝になったのだろうという。

■この噺の猫には前段があって、
 蛸が橋の下の岸へ上がって昼寝をしていると、猫が忍び寄って八本ある足を七本まで食ってしまった。目を覚ました蛸が怒って、残った一本の手でじゃらして猫を川へ引き込んでやろうとすると、猫が、「その手は食わん」。(笑いの初り)
 この猫が家に帰ると、すり鉢の中で口を開けている赤貝に手を出して、前足をはさまれてしまった。

赤貝の産地;明治から昭和のはじめまでは千葉県検見川、東京都羽田、神奈川県子安の順でランクが決まっていた。東京湾では沢山捕れて安かったが現在では採れなくなって、宮城県名取市閖上(ユリアゲ)産が有名。

 

赤貝の料理
 刺身:関東をはじめアカガイの刺身を食べない地域は少ないくらい。高級なものは、主に料理店で食べられている。身だけではなくヒモも実に味がいい。宮城県名取市閖上(ユリアゲ)のものが有名。確かに味は素晴らしいが西日本のものと比べてなどの違い等はあるが好み次第。
 和え物:関東ではアカガイのぬたは定番料理ともいえそう。寒い時期はねぎとのぬた、夏はきゅうりと合わせた酢のものがいい。酢味噌和えと、辛子を加えた辛子酢味噌和えを【ぬた(饅)】と呼びます。 辛子酢味噌のことを「ぬた味噌」といいます。 この料理は涼しげであり、どちらかといえば春から夏にかけて食卓に出るのが相応しい感じです。アジとかマグロなども使いますが、タイやスズキ、昆布でしめたサヨリやキスという白身がよく使われます。 そして圧倒的に多いのが、春に旬を迎える「貝類」です。 それら魚貝にあわせる野菜はネギ、ニラ、ウド、浜防風、キュウリなど。
右写真:「ぬた」
 煮つけ:小振りのもの、内臓などは煮つけにするのが東京湾内房などのやり方。強く煮つけて佃煮にしてもうまい

有松・鳴海絞り(ありまつ・なるみしぼり);愛知県名古屋市緑区の有松・鳴海地域を中心に生産される絞り染めの名称。江戸時代以降日本国内における絞り製品の大半を生産しており、国の伝統工芸品にも指定されている。「有松絞り」、「鳴海絞り」と個別に呼ばれる場合もある。 木綿布を藍で染めたものが代表的で、模様については他の生産地に類を見ない多数の技法を有する。絞り地なので、浴衣にしたとき直接肌に触れず、サラリとして着心地は良い。
右写真:「鳴海絞り」 部分。

博多の伊達締め;元は伊達締めという商品があったわけではなく、「細い帯」だったようです。 「細い帯」が扱いやすいように改良されて、帯とは違う製品ができたという流れのようです。博多織りの伊達締め中心110cmほどが厚く織られていて、体にフィットしやすくなっています。二重に巻きます。幅約10cm全長約220cm。 伊達締めは着物の崩れを防ぐために、帯の下に締めるもので、表からは見えません。湯上がりの浴衣には簡易的に伊達締めで、帯替わりに使います。
右写真:博多の伊達締め。



                                                            2017年7月記

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