落語「欲の熊鷹」の舞台を行く
   

 

 六代目笑福亭松鶴の噺、「欲の熊鷹」(よくのくまたか)より


 

 「楽しみは後ろに柱前に酒、左右におなご懐に金」こんな贅沢は有りませんなぁ~。欲望の夢を唄ったものでしょう。欲望は誰にもあります。

 二人の男が出会い頭に、下を見ると財布が落ちていた。「財布、拾いましょう」、「その前に決めておきましょう。見つけたのは同じですから、金額はどうあれ半分ずつにしましょう」、「早う拾いなされ。財布でしょう。中に入っていますか?」、「入っています」、「どんだけですか」、「(五本指出して)こんだけですな」、「500円」、「そんなに入っていません」、「5厘」、「間を飛ばしなさんな。5円です」、「6円なら直ぐに分けられますが、5円では・・・」、「ボヤキなさんな。5円札一枚です。これあげますからお釣りください」、「有りませんから、貴方がお釣りください」、「私も有りません。有るくらいなら、とっくに新町に行っています。好きな女御がいまして、たまには台の物を取って遊びたいのです。もっと有りませんか?」、「5円だけです」、「くずしてくれる知り合い居ませんか?」、「熊本にいます」、「そこまでは行けません」、「それは困りましたなぁ~」。

 「あのぉ~、先程から聞いとりますとえろぉ~、お困りのご様子ですけど、何でしたら私の方で両替さしていただきましょか?」、「二人共細かいのを持ち合わせていないので、届けなければいけないところ、よろしかったらお願いします」、「承知しました。こちらへお入りください」。

 「今のお方なかなか綺麗な人でんなぁ?」、「別嬪さんでんなぁ~。幾つぐらいでっしゃろうなぁ~」、「初めてなので分かりませんが、化粧してますので二十七、八ぐらいでしゃぁろうな」、「化粧落としたら幾つぐらいで・・・」、「わかりませんなぁ~」、「化粧落としたら三十二、三でしょうね。朝、顔を洗ったら四十五、六では・・・」、「しょ~むないこと言って」、「でも、別嬪ですな。私、新町行くのやめて、ここに泊まります」、「厚かましいこと言いなさんな」。
 「ほで、何ですかいなぁ、お妾さんなら、旦那っちゅうのはどんな人です?」、「偉い旦那ですね。だから鰻谷に囲ってまんね」、「その旦那は歳の頃は五十七、八。船場の旦那さんだ。月の内に一回から二回ぐらいしか来ない。お妾さん、若いのに月に一回から二回ぐらいだったら殺生や」、「そんな事言いなぁ~」、「旦那さんが来たら、一番に喜ぶのは誰だと思いなはる?」、「そら分かりまへんが、お手かけさんでっしゃろう」、「ここらの家やったらね、一番先に犬が出て来ますわ。不細工な犬でチンです。チンコロで、『タマ』という雄(おん)ですわ」、「初めて来た家で、そんな事分かるの?」、「それで女中さんが『お竹さん』ちゅうてね、チンと変わらない不細工で・・・。一番にチンで、次はお妾さん。『お竹や、お酒の用意しなはれ、ごっそう用意しなはれ』と言うが、旦那歳取っているので、チョッと熱が有るんだ。床を取ってくれ。旦さん横になると『おまえも横に入ったらどうや』。ここが問題や。旦那さんは上向いて寝てはる。お妾さんはどちら側に入ると思う?どや!」、「よう、そんなアホなこと言いなさるわ。しかし奥に入ってから長いなぁ~」、「あんた、あの5円持って裏から逃げたんですわ」、「よぉそんなアホなこと」。
 「ホレ見てご覧。チンが奥に出て来よった」、「おい。チン。タマ来い。チンよタマよ、チンタマよ」、「あんた、そんなアホなこと言いなさんな」、「ほ~れ、来ましたやろ。可愛いやつだ。おい、ワンと言ってみ。アッそうか、何かやらないと芸をしないんか。あんた何か持っていませんか」、「持ってしませんで」、「有った有った、袂糞(たもとくそ)がありました。これ食うてワンというてみ。これ食うてワンと鳴きな。ワンと言いな。ほら食べな」、「自分が袂糞食う人がおますかいな。しかし、えらい暇がいってまんなぁ~」。

 「えらい長いことお待たせいたしまして・・・」、「えらい、スイマセンでした」、「あのぉ~、家に有ると思ておりましたところが、あいにく無かったもんですから、おなご衆に替にやっとりまして、えらい遅なりました」、「おなご衆さんはお竹さんと言うんで御座いましょ」、「いえ、お梅でんの」、「いつから名前変えました」、「い~え、前からお梅なんです。今お金、替えてまいりました。あのぉ~、確か5円札一枚お預かりいたしましたなぁ?」、「そうでおます。5円札一枚です」、「1円札5枚に替えてきました」、「スイマセンね~」、「あんさんに2円お渡しいます。この二枚はあちらの方にお渡しします」、「は、はぁ、有り難うございます、お梅どんによろしく、おっしゃってください。後、1円残っておりますなぁ~」、「残っている1円に私の方から、も~1円足しますと、ちょ~ど2円になりますな~。これを私の方が、手数料にいただいときます」。

 



ことば

六代目笑福亭松鶴(しょうふくていしょかく);(1918年8月17日 - 1986年9月5日)。大阪府大阪市出身。生前は上方落語協会会長。本名は竹内 日出男(たけうち ひでお)。出囃子は「舟行き」。父は同じく落語家五代目笑福亭松鶴。母は落語家六代目林家正楽の養女。息子は同じく落語家五代目笑福亭枝鶴(後に廃業)。甥は笑福亭小つるを名乗って松鶴と共に若い頃修行していたこともある和多田勝。右写真:高座の松鶴。
 1933年 高等小学校を卒業し、漫談家・花月亭九里丸の紹介で心斎橋のお茶屋に丁稚奉公に出る。しかし仕事はそこそこに落語や歌舞伎の鑑賞に入れ込み、新町、松島、飛田でも遊ぶ。遊興費は父の着物を質に出したり父松鶴のサークル「楽語荘」の資金にまで手を出すほどであった。周囲は松鶴の御曹司ということとお世話になっていた噺家も多く叱責されなかった。 1938年 兵役検査を受けるが不合格。これを機にお茶屋を辞め、遊蕩の日々を過ごす。その傍ら、「楽語荘」や雑誌「上方はなし」編集の手伝い、落語に関わるようになる。1962年 3月1日、六代目笑福亭松鶴を襲名。道頓堀角座にて襲名披露興行。出囃子を「船行き」とする。 1966年 大阪府民奨励賞受賞。1968年 6月、上方落語協会第2代会長に就任。1977年まで務める。1981年 11月3日、紫綬褒章受章。上方落語家としては初。1986年9月5日、膵臓がんのため、大阪警察病院にて死去。68歳没。
 消滅寸前だった上方落語の復興を目指し、三代目桂米朝らと奔走。埋もれていた演目を掘り起こし、また多くの弟子を育て上げ、上方落語の復興を果たす。米朝、三代目桂小文枝(後の五代目桂文枝)、三代目桂春団治とで「上方落語界の四天王」と讃えられた。豪放な芸風と晩年の呂律が回らない語り口(1974年頃に脳溢血を患った後遺症による)が知られているが、若い頃はまさに立て板に水というところで、テンポよく迫力のある語り、酔態や子供の表現の上手さで人気を得た。特に酒を題材に取った噺(らくだなど)や芝居噺(蔵丁稚など)を得意としていた。松鶴襲名のころまではまさに他の四天王たちやほぼ同年代の噺家たちよりは頭ひとつ抜けた存在であったと評判であった。

 東京の落語家とも親交を持ち、東京でも「六代目」と呼ばれた。特に五代目柳家小さんと三笑亭夢楽とは同じ世代でもあり無二の親友であった。松鶴自身東京の若手をもよく可愛がり、七代目立川談志と三代目古今亭志ん朝は松鶴に心酔した。後年、談志は松鶴について、外見は豪放だったが実に繊細で面倒見がよく、毎晩のように御馳走になったり、普段の高座は「相撲場風景」などの軽いネタしかやらず「大したことないな」と思っていた矢先、「らくだ」をたっぷりと演じたのを聴いて体が震えるほど感動したなどと証言している。

欲の熊鷹(よくのくまたか);「欲の熊鷹股裂ける」欲が深過ぎる者は禍をこうむる。徳島県東祖谷山(ひがしいややま)村に伝わる民話「熊鷹(タカ科の大きな鳥)が二頭の猪を両足で掴み、猪が左右に駆け出したのを放さなかったので股が裂けて死んだ」より。「欲の熊鷹股から裂ける」とも。 (故事ことわざ事典)

チン;犬の一品種。狆(ちん)の体高と体長がほぼ同じ長さの小型愛玩犬です。耳は前方に垂れており、毛は長く、丸く大きな眼と短い口吻です。体高はオスでは25cm、メスはやや小さ目とされています。
 長らく上流家庭ばかりで飼われていた狆ですが、江戸時代になり庶民の生活が安定すると、一般庶民でも生活にゆとりがある層にまで狆の飼育が広がっていきました。
 狆は愛玩犬として大変歴史が長く、人のそばで暮らしてきたため、飼い主の様子をよく見て賢く振る舞います。人懐こく従順な性格ではありますが、プライドが高い面がありますので、服従型の訓練は入りにくいことがあります。開国後に各種の洋犬が入ってくるまでは、姿・形に関係なくいわゆる小型犬のことを狆と呼んでいた。庶民には「ちんころ」などと呼ばれていた。

袂糞(たもとくそ);和服のたもとの底に自然とたまる綿ぼこり。袂糞は血止めによく効くといわれる。

新町遊廓(しんまちゆうかく);大坂で唯一江戸幕府公認だった遊廓(花街)。現在の大阪市西区新町1 - 2丁目に存在した。
 豊臣秀吉の大坂城建築によって城下町となった大坂では、江戸時代の初期にかけて諸所に遊女屋が散在していた。1616年、木村又次郎という浪人が幕府に遊郭の設置を願い出、江戸の吉原遊廓開業後の1627年、それまで沼地だった下難波村に新しく町割りをして散在していた遊女屋を集約、遊廓が設置された。 新しく拓かれた地域の総称であった新町が遊廓の名称となり、城下の西に位置することからニシや西廓とも呼ばれた。 その後徐々に発展し17世紀後半には新京橋町・新堀町・瓢箪町・佐渡島町・吉原町の5曲輪(くるわ)を中心として構成されるようになり、五曲輪年寄が遊郭を支配下においた。 廓は溝渠で囲まれ、さらに外側は東に西横堀川、北に立売堀川、南に長堀川と堀川がめぐらされており、出入りができる場所は西大門と東大門に限定されていた。当初は西大門だけだったが、船場からの便宜をはかって、1657年に東大門ができ、1672年に新町橋が架橋された。他に非常門が5つ設置されたが普段は閉鎖されていた。江戸の吉原、京の島原と並んで三大遊郭のひとつとされ、元禄年間には夕霧太夫をはじめ800名を超える遊女(太夫など)がいたことが確認されている。

 

「大阪府新名所の内 新町鉄橋」二代目長谷川貞信画。  「大阪名所 新町廓 太夫の道中」。

台の物(だいのもの);遊廓で遊ぶときは、まず、酒と料理を頼んで部屋で芸者・太鼓持ちなどを揚げて楽しむ。酒はその見世で用意するが、料理は専門の料理屋や仕出し屋に頼む。その料理は大きな台の上に乗ってくるので台の物と言い、持って来のは台屋と言います。見てくればかりで美味しくなく、その上、飾り物が多く、食べられる量が少なかった。でも、たまには、この様な贅沢をして、女と遊びたかった。
 右浮世絵:「青楼二階之図」部分 国貞画 中央に台の物を担いでいる人物が台屋。

鰻谷(うなぎだに);「近世」江戸期~明治5年の町名。江戸期は大坂3郷南組のうち。1~2丁目がある。 慶長14年の三津村検地帳に「おなぎだに」の名が見え、元和元年間の町割荷よって大坂 三郷に編入され町名となった。鰻谷の名は地勢に由来する。空堀まちはその北部の谷筋に当たる所が西へかけて幾分かの高低を残し、この凹地が鰻と何らかの関係あり呼びならわされたという。(鰻谷中之町の今昔) 明暦元年の水帳で鰻谷1~3丁目が見えるが、元禄7年の水帳では1~2丁目となっている。(南区志)2、3丁目を合わせて2丁目となったのは延宝8年という。(鰻谷中之町の今昔) ただし明暦3年の新板大坂之図には、長堀川南2つめの通りが、東横堀川から西横堀川にかけて鰻谷1~11丁目とある。正式町名か俗称かは不詳、また高間町はもと鰻谷7丁目と称したという。(初発言上候帳面写/大阪市史5) 

5円札に1円札;金貨では江戸時代から小判だとか一分金、一朱金等がありましたが、明治に入って新政府は1両を1円と読み替えて使い、明治6年20円、10円、5円、2円、1円の新紙幣が発行されました。

旧国立銀行券として発行された5円札

図案は田植えと稲刈り

サイズ、80x190mm

 

旧国立銀行券として発行された1円札

図案は源頼朝と兵船

 

 

 

新国立銀行発行5円札

明治15年(1882)7月発行

図案は、神功皇后。イタリア人のデザインで外人風の美女です。

サイズ、83x146mm

新国立銀行発行1円札

明治14年(1881)2月発行

図案は、神功皇后。イタリア人のデザインで外人風の美女です。

サイズ、77x131mm 

  
この後に何種類かの5円、1円札が発行されますが、最後に発行されたのは、

日本銀行券5円

昭和21年(1946)3月発行

図案は彩紋

サイズ、68x132mm


日本銀行券1円

昭和21年(1946)3月発行

図案は二宮尊徳

サイズ、68x124mm 



                                                            2017年7月記

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