落語「蜀山人」の舞台を行く 立川談志の噺、「蜀山人」(しょくさんじん)より
江戸後期の文人、蜀山人は晩年の号。幕臣で、漢学者を志して松崎観海に学び、18歳のとき『明詩擢材(みんしてきざい)』の著があるが、戯れにつくった狂詩が平賀源内に認められて、翌明和4年(1767)に『寝惚(ねぼけ)先生文集』が出版され、たちまち狂詩の第一人者として名声を得、おりから江戸文芸勃興(ぼっこう)の機運にのって多方面の活動をすることになる。まず狂歌は内山賀邸同門の友人唐衣橘洲(からころもきっしゅう)に誘われて四方赤良の狂名をつけて参加し、天性の機知と諧謔(かいぎゃく)の才を発揮して江戸狂歌流行の素地をつくった。
東京・上野公園の旧黒門跡(公園正面入口)脇に蜀山人の碑が建っています。
・四方赤良として
■近江八景(おうみはっけい);日本の近江国(現・滋賀県)にみられる優れた風景から「八景」の様式に則って八つを選んだ風景評価(作品の場合は題目)の一つ。
蜀山人が近江八景で八つの風景を読み込んだら、タダで駕籠に乗せると言われて、詠んだのが、
■紀州の殿様(きしゅうのとのさま);五十五万石紀伊和歌山藩の殿様。現在の千代田区紀尾井町に上屋敷があって、赤坂見附を渡った先の、現在の港区迎賓館と赤坂御所がある地に中屋敷が有った。
■落語「寝床」(らくご・ねどこ);落語「寝床」をご覧になれば、旦那が義太夫を語りたいと言いだして、大騒動になるが、当人達は笑えない話です。そこにも狂歌が使われています。
■加賀様と水戸様(かがさまとみとさま);加賀様は、百二万石加賀金沢藩で、屋敷は現在の本郷・東京大学の敷地が上屋敷でした。赤門があるので有名です。
■ホトトギス;(鳴き声による名か。スは鳥を表す接尾語)
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