落語「蜀山人」の舞台を行く
   

 

 立川談志の噺、「蜀山人」(しょくさんじん)より


 

 蜀山人が紀州の殿様に呼ばれて、歌の中に五色読み込めと言われた。
『色白く羽織は黒く裏赤くご紋は葵(青)紀伊(黄)の殿様』、
『借りて着(黄)る羽織は黒し裏白しここは赤坂行は青山』とも詠った。
 義太夫の落語「寝床」でも使います、
『まだ青い素人義太夫黒がって赤い顔してきな声出す』等有ります。
 蜀山人先生お酒が好きで夜遅くまで酔って話し込むが、家来は大変です。ある夜履き物を履こうとすると、その上に短冊が置いてあった。『いつ来ても夜ふけてよもの(四方赤良をもじって)長話 あからさまには申されもせず』、粋ですね。ふらふらと本郷に差し掛かって来た。そこに加賀様と水戸様の家来が歩いて来た。『小石川本郷を指して鳩が二羽 ミトッポにカナッポ』。武士も蜀山人と分かって行き過ぎた。足がもつれて水溜まりに寝込んでしまった。家来が探して、屋敷に連れ戻したが、度重なると禁酒の願いを持ち出した。誓紙に『黒金の門よりカタキ我が禁酒 ならば手柄に破れ朝比奈(朝比奈三郎の門破りのもじり)』としたため神棚に上げた。
 そこに出入りの魚屋が来が、鰹だけ食べても美味くないから断った。「酒が飲めて人生だ」と言われ、また飲み始めた。『鎌倉の海より捕れし初鰹 みな武蔵野の腹に入れ』。家来が来て誓詞を書いたのに・・・。誓紙は読み直すと『我が禁酒破れ衣になりにけり やれツイでくれサシてくれ』、なかなか禁酒は出来ないものです。
 でも、先生の禁酒にも例外があって、雪月花の趣があれば飲む。友あらば飲む。良き肴有れば飲む。二日酔いの時は特に飲む。これでは、のべつ飲んでいる事になります。

 煙草も同じでやめられない。止めたときには夢に見ます。煙草の火玉が襲ってきて、目に入って目玉焼きになると困るから逃げる。逃げて逃げて火の災いから逃げてホッとしたら、ここで一服。
 博打も同じで、止めようとサイコロを橋の上から捨て、博打から縁が切れたと思ったが・・・、どんな目が出たのだろうと思ってしまう。
 旅に出ても同じで、松尾芭蕉が旅先で、山家の連中が満月の晩、句会を開いていた。芭蕉と知らず、爺さん何か詠んでみろと声を掛けられた。言い方が悪かったのだろう、ムッとした芭蕉が『三ヶ月の』と書いた。満月の晩に三ヶ月とは何だ・・・。その後をスラスラと『三ヶ月の頃より待つ今宵かな』と詠んだという有名な話が有ります。
 近江八景に来たときに蜀山人も、駕籠屋に近江八景を全部読み込んでくれたらタダ乗せようと言われた。『乗せたから先はあわづかタダの駕籠 ひら石山やはしらせてみゐ』と詠んだ。
 雑談していると、煙草が吞みたくなって火を借りると、キセルを引っ込め狂歌を詠んでくれたら・・・、
『入相(いりあい)の鐘の合図に撞きだせば いずくの里も日(火)はくるるなり』。
 京の三条大橋に来てみれば、さぞ立派だと思っていたのだろうが、穴が開いて継ぎ接ぎだらけ。
『来てみれば流石都は歌所 橋の上にも色紙短冊』。

 文政6年頃から身体が弱ってきた。先生辞世はと聞いたら、
『冥途から今にも使が来たりなば九十九迄は留守とことわれ』。ご冗談でなく・・・、
『留守といわばまたも迎えに来たならば いっそイヤじゃと言い切ってやれ』と、最後まで洒落ていた。
最期に小さい声で、『ホトトギス鳴きつるかたに初鰹 春と夏との入相の鐘』。

談志が好きだという句を、春に
『一国を千金ずつに締め上げて六万両の春の曙』。
夏のに、『いかほどに堪えてみてもホトトギス 鳴かねばならぬ村雨の空』。
秋のに、『もみじ咲く菊やススキの本舞台 まずは今日(こんにち)のこれ切りの秋』。
冬には、『雪降れば炬燵やぐらに閉じこもり 打って出べき勢いは無し』。
狂歌の話。蜀山人です。 

 



ことば

大田 南畝(おおた なんぽ);別号、蜀山人、(寛延2年3月3日(1749年4月19日) - 文政6年4月6日(1823年5月16日))は、天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。 勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称された。 名は覃(ふかし)。字は子耕、南畝は号である。通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別名、四方山人など。狂名、四方赤良。また狂詩には寝惚(ねぼけ)先生と称した。
右図:「大田南畝像」部分 鳥文斎栄之筆 文化11年(1814) 東京国立博物館蔵。六十六歳頃の像で酒器を離さず、鼻の頭が酒ヤケしている。

 江戸後期の文人、蜀山人は晩年の号。幕臣で、漢学者を志して松崎観海に学び、18歳のとき『明詩擢材(みんしてきざい)』の著があるが、戯れにつくった狂詩が平賀源内に認められて、翌明和4年(1767)に『寝惚(ねぼけ)先生文集』が出版され、たちまち狂詩の第一人者として名声を得、おりから江戸文芸勃興(ぼっこう)の機運にのって多方面の活動をすることになる。まず狂歌は内山賀邸同門の友人唐衣橘洲(からころもきっしゅう)に誘われて四方赤良の狂名をつけて参加し、天性の機知と諧謔(かいぎゃく)の才を発揮して江戸狂歌流行の素地をつくった。
 一方安永4年(1775)から洒落本(しゃれぼん)に筆をとって『甲駅新話』『深川新話』『変通軽井茶話(へんつうかるいざわ)』などの佳作数編を残し、天明元年(1781)からは黄表紙(きびょうし)の批評を試み、また作をもして、文壇に指導的な地位を占めた。とくに1783年その撰(せん)になる『万載(まんざい)狂歌集』の出版とともに狂歌の爆発的流行がおこり、いわゆる天明(てんめい)調の快活で機知的な歌風が赤良を中心に形成された。しかし政変が起こり文武奨励政治の始まったころ、それを風刺する落首をつくったと疑われたため狂歌を廃し、文芸界と絶縁した。そして幕府の小吏のかたわら漢学の塾を開いて数年過ごしたのち、学問吟味を受験して首席となり、寛政8年(1796)支配勘定に昇進し、能吏ぶりを発揮して大坂や長崎にも各1年勤務した。
 大坂在任中、事情を知らないで狂歌を請う人には、蜀山人という仮号で書き与えたが、文化元年(1804)ころには幕政の緊張も解けて、彼は文壇の圏外の権威者、また江戸の代表的文人とみられ、蜀山人の名が喧伝(けんでん)された。晩年には『蜀山百首』の狂歌、狂文、漢詩、随筆などが出版されて、江戸の文化に大きな影響を残した。
 「春がすみたちくたびれてむさし野のはら一ぱいにのばす日のあし」
 文政6年(1823)4月6日没。、登城の道での転倒が元で死去。75歳。辞世の歌は、
 「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」と伝わる。

 東京・上野公園の旧黒門跡(公園正面入口)脇に蜀山人の碑が建っています。
「一めんの花は碁盤の上野山 黒門前にかかるしら雲」 蜀山人
右写真:歌の文字は自筆だという。花=桜、

・四方赤良として
 「世の中は色と酒とが敵なり どふぞ敵にめぐりあいたい」
 「わが禁酒破れ衣となりにけり さしてもらおうついでもらおう」
 「ものゝふも臆病風やたちぬらん 大つごもりのかけとりの聲」
 「世の中はいつも月夜に米のめし さてまた申し金のほしさよ」
 「長生をすれば苦しき責を受く めでた過ぎたる御代の静けさ」
 「難や見物遊山は御法度で 銭金持たず死ぬる日を待つ」
 「今さらに何か惜しまむ神武より 二千年来暮れてゆく年」
 「をやまんとすれども雨の足しげく 又もふみこむ恋のぬかるみ」
 「ほととぎす鳴きつるあとにあきれたる 後徳大寺の有明の顔」
   『千載集』後徳大寺左大臣「郭公のなきつるかたをながむればただ有明の月ぞのこれる」が本歌
 「山吹のはながみばかり金いれに みのひとつだになきぞかなしき」
  『後拾遺集』兼明親王「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」が本歌
 「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」
  (存疑、本人は否定しており今日の南畝研究でも否定的な説が強い)
・蜀山人として、
 「鎌倉の海よりいでしはつ鰹 みなむさし野のはらにこそいれ」
 「雑巾も当て字で書けば蔵と金 あちらふくふくこちらふくふく」
 「冥途から今にも使が来たりなば 九十九迄は留守とこたへよ」
 「ひとつとりふたつとりては焼いてくふ 鶉(うづら)なくなる深草のさと」
  『千載集』藤原俊成「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」が本歌
 「駒とめて袖うちはらふ世話もなし 坊主合羽の雪の夕ぐれ」
  『新古今集』藤原定家「駒とめて袖うちはらふかげもなしさののわたりの雪の夕暮」が本歌
 「世の中にたえて女のなかりせば をとこの心はのどけからまし」
  『古今集』在原業平「世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし」が本歌

近江八景(おうみはっけい);日本の近江国(現・滋賀県)にみられる優れた風景から「八景」の様式に則って八つを選んだ風景評価(作品の場合は題目)の一つ。
 石山秋月 [いしやま の しゅうげつ] = 石山寺(大津市)
 勢多(瀬田)夕照 [せた の せきしょう] = 瀬田の唐橋(大津市)
 粟津晴嵐 [あわづ の せいらん] = 粟津原(大津市)
 矢橋帰帆 [やばせ の きはん] = 矢橋(草津市)
 三井晩鐘 [みい の ばんしょう] = 三井寺(園城寺)(大津市)
 唐崎夜雨 [からさき の やう] = 唐崎神社(大津市)
 堅田落雁 [かたた の らくがん] = 浮御堂(大津市)
 比良暮雪 [ひら の ぼせつ] = 比良山系

 蜀山人が近江八景で八つの風景を読み込んだら、タダで駕籠に乗せると言われて、詠んだのが、
『乗せたから先はあわづかタダの駕籠 ひら石山やはしらせてみゐ』
『乗せた(瀬田)から先(唐崎)はあわづ(粟津)かタダ(堅田)の駕籠 ひら(比良)石山(石山)やはし(矢橋)らせてみゐ(三井)』

 江戸後期の浮世絵師・歌川広重によって描かれた錦絵による名所絵(浮世絵風景画)揃物『近江八景』は、彼の代表作の一つであり、かつ、近江八景の代表作である。名所絵揃物の大作である『保永堂版 東海道五十三次』が成功を収めた後を受けて、天保5年(1834)頃、版元・保永堂によって刊行された。全8図。

石山秋月
勢多夕照
粟津晴嵐
矢橋帰帆
三井晩鐘
唐崎夜雨
堅田落雁
比良暮雪(下絵)

紀州の殿様(きしゅうのとのさま);五十五万石紀伊和歌山藩の殿様。現在の千代田区紀尾井町に上屋敷があって、赤坂見附を渡った先の、現在の港区迎賓館と赤坂御所がある地に中屋敷が有った。
 『借りて着(黄)る羽織は黒し裏白しここは赤坂行は青山』と、詠んだ赤坂は今のTBSが有るところ、その北側に青山中屋敷があった。

落語「寝床」(らくご・ねどこ);落語「寝床」をご覧になれば、旦那が義太夫を語りたいと言いだして、大騒動になるが、当人達は笑えない話です。そこにも狂歌が使われています。

加賀様と水戸様(かがさまとみとさま);加賀様は、百二万石加賀金沢藩で、屋敷は現在の本郷・東京大学の敷地が上屋敷でした。赤門があるので有名です。
水戸様は、三十五万石常陸水戸藩、屋敷は今のJR水道橋北側の後楽園が有る所。天下の副将軍ですから大変屋敷回りは厳しく警護されていた。落語「孝行糖」でもその様子が伝わってきます。
 普通でしたら、「鳩が二羽 ミトッポにカナッポ」なんて聞こえるように言ったら大変です。蜀山人ですから、笑って通り過ぎてくれたから良かったが。

朝比奈三郎の門破り(あさひなさぶろう もんやぶり);朝比奈義秀(1176~)、和田義盛の子。母は巴御前。三郎と称。大力無双。1213年(建保1)父義盛が北条氏を攻めて敗れた時、安房に走り、のち不詳。種々の伝説があり、小説・演劇・舞踊に取材される。
 自ら朝比奈三郎と称し、長ずるに及び鎌倉に出で父と共に将軍源実朝に仕えた。 当時北条義時は幼君源 実朝を擁し、独り権勢を弄び、総ての政令を掌握し、専横の振舞い日々に募りゆくを見て、主家のため彼を除かんと一族を集めて討たんとした。 義時大いに恐れ、実朝の名を以って諸将を招集したが、時すでに遅く義盛の兵は幕府に迫り、自ら進みて南大門を一気に打ち破るべく馳せ来たりしが、北条義時は恐れて城門を硬く閉ざして出でず。
 怪力無双の義秀は、城門の敷石を双手に差し上げ、城門目がけて投げつければ、さしもの城門もメリメリと破られ(上図)、得たりとばかりに乱入し、六角の大金棒を水車の如く打ち振り回し、当たるを幸いと薙ぎ倒し、鬼神の如き振舞いに討たるるもの数知れず、目指す敵将北条義時及び足利義氏を散々追いまくり傷を負わせた。
 だが、幕府軍は大軍で新手を次々繰り出し、和田勢は疲弊し、次第に数を減らし、ついに弟の義直が討たれ、愛息の死を嘆き悲しみ大泣きした義盛も討ち取られた。一族の者たちが次々と討ち死にする中、剛勇の義秀のみは死なず船6艘に残余500騎を乗せて所領の安房国へ脱出した。 その後の消息は不明。『和田系図』では高麗へ逃れたとしている。

ホトトギス;(鳴き声による名か。スは鳥を表す接尾語)
 カッコウ目カッコウ科の鳥。カッコウに似るが小形。山地の樹林にすみ、自らは巣を作らず、ウグイスなどの巣に産卵し、抱卵・育雛を委ねる。鳴き声は極めて顕著で「てっぺんかけたか」「ほっちょんかけたか」などと聞え、昼夜ともに鳴く。夏鳥。古来、日本の文学、特に和歌に現れ、あやなしどり・くつてどり・うづきどり・しでのたおさ・たまむかえどり・夕影鳥・夜直鳥(ヨタダドリ)などの名がある。
 右図:ホトトギス(広辞苑)
 芝居などでは初夏の風景として初鰹と対になって季節を表しています。


                                                            2017年8月記

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