落語「黄金の大黒」の舞台を行く
   

 

 立川談志の噺、「黄金の大黒」(きんのだいこく)より


 

 長屋連中集まって来てくれと大家から呼出が来た。暮れに呼出が来れば店賃(たなちん=家賃)の催促に決まっている。「大家だってこの暮れにお金が欲しいよ」、「俺が思うに、滞っている奴が居るんじゃ無いかと思うんだ」。
 「留めさんはどうだ」、「面目ねぇ~。一つしか入れてねぇ~。盆暮れや、一年前ならこんな事言わねぇ~」、「二年前か?」、「二年や三年前なら大家からお礼が来る。引っ越して来たときの一つだ」。
 「とっつあん、長屋の草分けだ。長いがどうだ」、「一つ入れてある。親父の代にだ」、「与太は?」、「店賃て何だ? 未だ貰ったことは無い」。「みんなで行ってあやまちゃお~。無い袖は振れないよ。おォ梅さんが来たじゃないか」。

 「店賃のことではないよ。番頭に聞いたら『家主が家を建てる普請場で子供達が遊んでいたら金無垢の大黒さんが出て来た。自分の所から出たので、家宝にする。こんな目出度いことがあるので、長屋の皆さんにお祝いの料理を出すから、羽織でも着て口上の一つでも言って席について欲しい』と言ったよ」。「口上は言えるけれど、羽織は持っていないよな~」。
 「先程から、羽織、羽織と言ってますが、羽織って何ですか」、「着物の上に着るやつだ」、「前を紐で結んで半袖で・・・」、「それは、チャンチャンコだ」。「家には有りますよ」、「持って来て欲しいね。みんなで変わるがわる着て、口上言えば良いんだ。紋は?」、「一つ紋で、背中に大きく丸九と書いてある」、「それは印半纏だ」、「嘘でしょ。羽織だと思って弟の結婚式に着て行っちゃった」。
 「家には一つだけ・・・」、「それでイイよ。持って来て。品物は?」、「絽(ろ)で、寒いから袷(あわせ)になっています。紋は左右で違います。火事場で拾った物や古着屋で片袖だけ買ったりしましたので・・・」、「それでもイイから持って来て。口上を言えるのは居るかい。いないようだから、羽織が来たから、口上もやって来るから良く覚えてくださいよ」。

 「ごめんください」、「誰か来たよ。彦兵衛さんかぃ」、「お天気も良く、この度はおめでとう御座います。承りますれば、お宅のお坊ちゃんと、長屋の子供衆が遊んでると、地べたの中から黄金の大黒さんが出て来たと言う。普段、情け深い大家さんだからこんな事があるだろうと・・・。今回はお招きいただき有り難うございます。ご馳走が出るそうで、長屋の連中も大喜びです。長屋の連中は未だ来てない。年かさの者が先に来て坐っていると様になりません。長屋を回りまして皆を呼び集めて参ります。では、ご免。さようなら」、「巧いね。亀の甲より年の功とは良く言ったね」、「熊さん、羽織を着せるから、行ってきな」。
 「こんちわ。ちわ~」、「誰か来たよ」、「今日は良い天気で、明日も良い天気でしょう。明後日は天気でしょうか?」、「それは分からないね」、「受け多摩川で、長屋のお坊ちゃんと、お宅のガキが遊んでいると」、「逆じゃないのかぃ」、「地べたを掘っていると黄金の大黒さんが出た。なんて間が良いんでしょ~。持って帰って宝にしようと企んだだろう。長屋の子が掘り出したんだろうから、張り倒して持って来ちゃえば良いと、ここだけの話言っています。長屋の連中に料理を食わせると有り難いと、未だ来ていないようだから・・・。皆を呼んできます」、「まあまあ、あがんなさい。彦兵衛さんが回っているから二重になると手間が掛かるから・・・」、「でも、私が行かないと皆が困っちゃう。ハバカリから直ぐ来てくれと速達が来た。サヨウナラ」。「江戸っ子だろう。グズグズ言ってないで直ぐ帰って来いよ」。
 「おはようぞさいます。サヨウナラ」、「早いね~」。
 「あすこで羽織を引っ張り合っているよ。番頭さんが言ったのかい。そんな事は良いんだ。こっちおいで、上がっておくれ。気にする私じゃないよ」。

 「真ん中で寝そべっているのが鯛だ。お前の方が大きいな。席変わってくれないか」、「お前の方が厚味があるよ」、「それなら良いんだ」。「焼き物より刺身が良いな」、「だったら、お袋が好きだからくれよ」、「いくら出す?安くしておくよ。お袋が間男した記念日だ、安くするから持って行きな」、「誰だ、セリを始めたのは・・・」。「お寿司が来たね。トロが良い? 取ってあげよう。あッ、落としちゃった。失礼だから私が食べましょう。では、鉄火巻は・・・、落としたから私が。では、穴子は・・・、これも落としたから、私が・・・」、「ダメだよ皆落としたら・・・」、「帰って、寝ながら食べようと思って」。
 「酒が来たよ。ドンドンやろう。普段呑めないから旦那にも酔わせ、そのスキに黄金の大黒持って逃げよう」。ドンチャン騒ぎになって、飲めや歌えの無礼講。最後は裸踊りになった。あまり騒々しいので床の間にいた大黒さんが俵を担いでトコトコと廊下の方に行くから、「もう少し静かにおしよ。大黒さんが行ってしまうよ。大黒さん、あまりウルサいので他に行ってしまうのですか?」、「イエイエ、違います。あまり面白いので恵比寿も連れてくるよ」。

 



ことば

大黒天(だいこくてん);密教では自在天の化身で、仏教の守護神。戦闘神あるいは忿怒神、後に厨房神とされた。七福神の一柱。頭巾をかぶり、左肩に大きな袋を負い、右手に打出の小槌を持ち、米俵を踏まえる。わが国の大国主命と習合して民間信仰に浸透、「えびす」とともに台所などに祀られるに至る。

 ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラは、インド密教に取り入れられた。“マハー”とは大(もしくは偉大なる)、“カーラ”とは時あるいは黒(暗黒)を意味するので大黒天と名づく。あるいは大暗黒天とも漢訳される。その名の通り、青黒い身体に憤怒相をした護法善神である。 密教の伝来とともに、日本にも伝わった。憤怒相は鎌倉期の頃までで、これ以降、大国主神と習合して現在のような福徳相で作られるようになるが、日本で大黒天といえば一般的には神田明神の大黒天(大国天)像に代表されるように神道の大国主と神仏習合した日本独自の神をさすことが多い。
 日本においては、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰される。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される。 袋を背負っているのは、大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたためです。また、大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話から、鼠が大黒天の使いであるとされる。 春日大社には平安時代に出雲大社から勧請した、夫が大国主大神で妻が須勢理毘売命(すせりひめのみこと)である夫婦大黒天像を祀った日本唯一の夫婦大國社があり、かつて伊豆山神社(伊豆山権現)の神宮寺であった走湯山般若院にも、像容が異なる鎌倉期に制作された夫婦大黒天像が祀られていた。

  

 写真左、(千葉県市川市大野町 本光寺)の金大黒天。 右、神田明神の大黒天像。烏帽子・袴姿で右手の拳を腰に当てて、左手で大きな袋を左肩に背負う厨房神・財神として描かれている。この袋の中身は七宝が入っているとされる。  

えびす;夷、戎、胡、蛭子、蝦夷、恵比須、恵比寿、恵美須などとも表記。日本の神。七福神の一柱。狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的。古くから漁業の神でもあり、平安時代末期にはえびすを市場の神(市神)として祀った記録が残っており、鎌倉時代にも鶴岡八幡宮境内で市神としてえびすを祀ったという。このため、中世に商業が発展するにつれ商売繁盛の神としての性格も現れたとされる。同時に福神としても信仰されるようになり、やがて七福神の1柱とされる。福神としてのえびすは、ふくよかな笑顔(えびす顔)で描写されている。
 民間信仰として知られるのが「えびす講」で、えびすを神として祭り、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全を願う。
右写真;JR恵比寿駅に飾られた恵比寿像。

恵比寿・大黒;どちらも商売繁盛の神様です。落語「三井の大黒」でも出て来た、恵比須大黒ですが伊勢屋さんでも欲しがった対の二柱。

大家(おおや);大屋とも書き、家守(やもり=屋守)・家主とも呼ぶ。地主・家持ちの代理として町屋敷を管理する差配人。一般に城下町では、城下に居住する町人に土地が与えられた。その土地に建てられた表通りの店舗や裏長屋を管理するのが大家で、家作を持っている者では無く、その家作を管理している者を差す。管理人であったが、その力は大きくて、町役人を兼務して、店子(借家人・借間人)の選択から追い出すことも出来た。店子の住所を表示するときも、例えば「南伝馬町二丁目忠左衛門店小間物売り又兵衛」のように、大家の名前が先にきて、その下に本人の名前が記された。大家は、メインの長屋の管理から修繕、家賃の徴収をし、役所の仕事もこなした。大家は長屋の糞尿の売り上げを懐に出来たし、仕事としては利益が上がったので、江戸後期になって株組織になって株の所持がないと大家になれなかった。大家の収入は、平均年・三両二分あまりで、糞尿の売り上げの方が大きかった。で、暮れにはその金で長屋に餅を配った。寛政3年(1791)で大家の数が16727人、その給料五万両にも達していた。
 長屋の経営は大部分が赤字になっていたと言います。ですから、店子が店賃を入れなくても、そんなには驚きません。地主にしてみたら、空き地を持っていると言うことは長屋を持たないと言うことで、治安や仲間内の評判が落ちます。赤字覚悟で長屋を建てるのは、これだけの甲斐性があると回りに見せる見栄そのものでした。店子から見れば店賃が問題ですが、大家から見れば大したことは無く、本業で儲ければ良いことなのです。中にはごうつくで人情無しな大家もいて店子を泣かせる事も有りました。例えば落語「大工調べ」や、「お化け長屋」等がそうです。でも普段は『大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然』と言われるぐらいの親密感がありました。

 談志は終始長屋のオーナーのことを家主(大家)と表現しています。家主が家を建てるわけがなく、番頭さんがいるので大家ではありません。また長屋連中に料理を振る舞うだけの資金も持ち合わせていません。ま、間違いは間違いとして聞き流すことにしましょう。

羽織(はおり);丈の短い着物の一種で、防寒・礼装などの目的から、長着・小袖の上にはおって着る。室町時代後期頃から用いられたが、現在のような形が一般的になったのは近世に入ってからです。
 前身頃(まえみごろ)
を完全にうち合わすことが構造的に不可能であり、前を紐で結ぶ点も特徴である。この紐は羽織の生地と共布で縫い付けてある場合もあるが、通常は「乳(ち)」と呼ばれる小さな環状の布地もしくは金具に、専用の組み紐(羽織紐)を装着して使用する。装着方法は古くは直接結び付けていたが、現在ではS字状の金具を介して引っかけて使うことが多い。この紐をTPOや流行に応じて交換するのがおしゃれとされる。家紋も正式には五つ紋として染め抜かれる。
 現在一般人が一級の正装だと言っても、裃(かみしも)を着用することは祭やコスプレでもない限り滅多になくなったが、紋付羽織袴が男性の正装という習慣は現代でも続いている。 また、ちょっとした外出着、社交着として(紋付でない羽織)、着物の上にはおったり、着物とお揃いの羽織(いわゆる「お対」)を着用したりする。落語家さんは前座を除いて羽織を着用して、高座でマクラが終わって本題に入るときには脱ぎ捨てる。
 右写真:落語家さんの楽屋風景。羽織の似合うこと。

チャンチャンコ;(子供用の)袖なし羽織。多く綿入れで防寒用。そでなし。
 袖無羽織で,〈ちゃんちゃん〉〈でんち〉〈さるこ〉などともいう。名は江戸時代,鉦を叩き飴を売り歩いた清国人の服装に由来するという。ちりめん,綸子(りんず),紬,木綿などで綿入れや袷(あわせ)仕立てにした防寒着で,裾までの襟と襠(まち),共紐をつける。袖がないため着脱に便利で動きやすく,寒い地方では労働用の防寒着として,はんてんふうの折り返らない襟に仕立てる。幼児用には丸い襟ぐりで被布襟をつけたものもある。
世界大百科事典 第2版より

印半纏(しるしばんてん);襟・背・腰回りなどに屋号・氏名などの標識を染め抜いた半纏。主に木綿製。職人の間で用い、また、雇主が使用人や出入りの者に支給して着用させる。法被(ハツピ)。
 鳶職(とびしょく)、大工、左官、植木屋などの職人たちが着る仕事着で、広袖(ひろそで)または筒袖、丈は腰くらいまでの半纏。仕着(しき)せ半纏、お店(たな)半纏ともいう。単(ひとえ)と袷(あわせ)がある。紺木綿に家紋、名字、屋号、記号などを背中に大きく、また衿(えり)にも白抜きにしてあるので、この名がある。紺のほかに茶木綿も用いられた。大店(おおだな)では盆、暮れに、出入り職人たちに仕着せとして与え、また職人の親方が弟子や小僧に支給した。江戸後期になると、盲縞(めくらじま)の腹掛けにももひきと半纏を一組みにした着方が職人の制服として定着し、この風習は明治、大正、昭和の初めころまで引き継がれた。第二次世界大戦以降は廃れ、現在は消防の出初式や、古風を重んじる職人の一部に残るのみとなった。帯を締めずに着流しにし、麻裏草履(ぞうり)をはくが、そろばん玉の柄(がら)の三尺帯を締めることもある。
 右浮世絵:錦絵にみる仕事着
印半纏、ももひき姿の大工。歌川国輝(
くにてる)(二世)画 『衣食住之内家職幼絵解之図(かしょくおさなえときのず)』 1870年代 国立国会図書館所蔵。

(ろ);搦(カラミ)織物の一種。紗と平織とを組み合せた組織の織物。緯(ヨコ)3越・5越おきに透目(スキメ)を作った絹織物。紋絽・竪絽・絽縮緬などがある。夏季の着尺(キジヤク)地用。
 絽は盛夏に着るもので、肌着が透けて見えるほどの織り方で、見る者が涼しさを感じる織物です。当然単衣(ひとえ)ですが、暮れの話で
寒い時期ですから袷(あわせ=裏地付き)にしてある。と言いますが、絽は袷にはしませんが、これ一つで間に合わせているので、無いよりはマシなのでしょう。

亀の甲より年の功(かめのこうより としのこう);長年の経験の貴ぶべきことのたとえ。
 亀は万年生きると言われており、それに比べれば人生の八十年程度は短く感じるとしても、年長者の経験から身につけた知恵や技術は貴ぶべきだという意味。 本来は、「亀の甲より年の劫」と書く。 「劫」は、きわめて長い時間。「甲」は、甲羅のことで、「甲」と「劫」の同音をかけてできたことわざ。

大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然;家主と借家人とは実の親子と同然の間柄である。 江戸時代、借家人には公的な権利・義務がなく、家主がその保証・責任を負ったところからいう。

具体的に言うと、
 江戸時代は、士農工商の身分制度がありましたが。 その身分制度に含まれる人は、年貢や運上金・冥加金等 今で言う税を負担していた者たちを指していました。 で 江戸の町の長屋の住人たちはどうだったかというと、 直接そういったものは負担していませんでしたので (家賃という形で間接的には負担していましたが) この身分制度から除外された存在でした。 町人とは、地主・家持階級にあたる人たちで、公役銀や町入用などの、税的負担の義務があり、裁判などの訴訟権を持った人たちをいいました。 ということは、長屋の住人たちには行政上の権利がないわけで、 当然、民事・刑事の訴訟権もないわけです。 当時の町奉行所は、警察兼裁判所という風にとらえられがちですが、福祉も含めた行政監視機関でもあったのです。 実際には、町年寄が町奉行所より委託され、幕府の政策の伝達と実行を担っていました。 町年寄は法令の伝達、町奉行所からの調査依頼、市中の土地の分割、地代・運上銀の徴収と上納、各町の名主の任免、株仲間の統制、資金の貸付、水道などの都市施設の維持管理までもする いわば今の都庁のような役割をしていました。 そして、町年寄と各町の間にあって、町の自治活動を実行するのが、名主でした。 この名主の配下に家主がいて、五人組を結成して、月番に実務を処理していたのです。 この五人組は、農民の五人組が相互監視の役割をしていたのとは違い、自治管理組織という面で異なります。 さて、そうなると地借・店借・長屋の住人たちは生活に何の保証もなかったかというと、そうではありません。
 大家は、家賃の取立て・長屋の維持管理だけでなく、店子の身元引受人として 店子の揉め事の仲裁・相談・旅行の際の手形申請・訴訟関係の申請から仲人などなど店子の面倒をみていました。 その分、店子に関する権限は強いものがあり、大家なくして長屋の住人は江戸には住めなかったのです。

普請場(ふしんば):禅寺で、あまねく大衆に請うて堂塔の建築などの労役に従事してもらうこと。 転じて一般に、建築・土木の工事。それをする場所。

金無垢(きんむく):まぜ物のない純粋の金。純金。上部だけメッキを施した物で無く、内部まで全て金で出来た物。



                                                            2017年10月記

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